中山俊宏 慶応義塾大学総合政策学部教授
今年の選挙でとにかくよく耳にする言葉が「アンチ・エスタブリッシュメント」だ。統計的なデータは手元にないので、はっきりとはいえないが、2008年の大統領選挙の際も、2012年の際も、この表現をこんなにも頻繁に耳にした記憶はない。
試しにニューヨークタイムズ紙のデータベースでこの表現を検索してみると、2008年は合計20件、2012年は合計94件、2016年はまだ二ヶ月強しか経っていないが、すでに69件もヒットする(3月11日検索)。しかも、2008年はよく見ると、選挙と直接関わるものは20件中6件しかない。しかし、2012年になると、大統領選挙に出馬したギングリッチ候補との関わりでしばしば言及されている。当時、ギングリッチ候補は、アンチ・エリート、アンチ・エスタブリッシュメント候補と評され、具体的には果敢なメインストリーム・メディア批判を行った。
しかし、「アンチ・エスタブリッシュメント」が2012年の決定的な雰囲気だったかといえば、そうではないだろう。なんといっても民主党は現職が再選を目指し、共和党の方は予備選挙では紆余曲折があったものの、最終的には党内穏健派、あえていえば「共和党エスタブリッシュメント」が推したロムニー候補で選挙に臨んだからだ。
しかし、今年はどうも「アンチ・エスタブリッシュメント」という表現が、選挙の背景で渦巻く不満を最も的確に反映しているように思われる。では、ここで退けられている「エスタブリッシュメント」とはなんなのか。実際に「エスタブリッシュメント」と呼ばれる人たちのことを「ここにいる」と指差して特定できるのだろうか。
この言葉の最大公約数的な定義は、「権力者(ものごとを決定する人たち)」というような意だろう。ただし、いまの雰囲気からいえば、この定義は穏当すぎ、語感としては「ワシントンに生息し、調子のいいことをペラペラ口にする奴ら!」というような感じだろう。日本語だと「エスタブリッシュメント」は「主流派」、これにアンチをつけると「反主流派」ということになるが、これだと「アンチ・エスタブリッシュメント」という表現が現在持つ感情喚起的な機能がいまいち十分に伝わってこない。
この関連で、もっとも印象的な場面のひとつは、すでに撤退を表明したジェブ・ブッシュ候補が一月下旬のディベートで、自分がエスタブリッシュメントの一員だと渋々と認めた場面だった。「わかった、私はエスタブリッシュメントの一員だ、認めるよ(I’m part of the establishment … Fine. I’ll take it)」、こう述べざるをえなかったブッシュ候補は、もともと今回の選挙では勝ち目がなかったとさえいえるかもしれない。彼は「ザ・エスタブリッシュメント」の匂いをプンプンさせていた。それはもう退けようがなかった。
実際にエスタブリッシュメントの一員かどうかは別にして、今回の選挙ではエスタブリッシュメントの一員とラベルを貼られた時点で、かなり強い逆風にさらされる。ルビオ候補もまさにこの問題に直面した。どんなにルビオ候補支持の声が「エスタブリッシュメント・ウィング」から聞こえてきても、それが支持につながらないどころか、ますます悪い方向に作用してしまった。
共和党は過去数回の予備選挙では、誰が一番「真性」の保守かを競い合ってきた。この行き過ぎが数々の茶番を生んだことは記憶に新しい(2012年のハーマン・ケイン候補がその最たる例だろうか)。しかし、今年は右に急旋回するよりも、誰が一番「アンチ・エスタブリッシュメント」かを競い合っている。それはワシントンの否定であり、プロセスの否定であり、妥協の否定であり、突き詰めていけば「政治」そのものの否定に帰結する。それはエスタブリッシュメントになるための要件を徹底的に退け、嘲笑することでもある。トランプの「品性を欠く」振る舞いは、まさに彼の「アンチ・エスタブリッシュメント性」を真性なものにするという意味において、彼の人気の本質的一部分を構成しているとさえいえるのではないか。
「エスタブリッシュメント」という表現は、漠然と権力を握っている集団がどこかにいて、その集団が一般国民の問題関心とはかけ離れた方向にアメリカを導こうとしているというような印象を喚起する。そこには、ある種の陰謀論的ロジックが内在している。「陰謀を告発し、糾弾せよ」。こうしたロジックに起因する急進性と危うさが、トランプ現象の周りには漂っている。もはや、エスタブリッシュメントを取り除くにはトランプのようなアウトサイダー以外にはいない、いっそのこと全て壊してしまえ。こうした開き直りにも近いような攻撃的な衝動が今回のトランプ運動の中にははっきりとうかがえる。