評者:吉田真吾(日本学術振興会特別研究員)
1.はじめに
1945年から1954年にかけて行われた日本の再軍備の起源と展開を叙述する本書は、序章・終章と本論10章の全12章からなり、二段組みで750頁以上に及ぶ、非常に重厚な研究である。これだけの厚みを生んでいるのは、本書が対象とするアクターの多様さである。従来、日本再軍備は、日本政府(特に吉田首相や外務省)の政策過程、米国政府の政策過程、そして両国間の外交交渉を中心に描かれてきた。こうした二国間外交史に対し、本書は、より多くのアクターを設定することで、「西側防衛・治安体制」(761頁)の一環としての日本再軍備に関する包括的分析を試みる。それを可能にしているのは、著者の飽くなきまでの史料への情熱であろう。本書では、近年主流となっているマルチ・アーカイブの手法に基づき、日米英の史料をふんだんに用いている。日本と英国の史料も充実しているが、本書の真骨頂は、JCS(およびその内部機構)、陸軍、極東軍などの米軍の史料の質と量であろう。これほどまでに米軍部の史料を徹底的に使用した日本再軍備に関する研究は、管見の限り皆無である。このことだけでも迫力が垣間見えてくるが、本書は内容的にも日本再軍備に関する第一級の歴史研究である。以下では、本書の目的と内容をまとめた後に、その新発見と新解釈を紹介し、最後に評者なりの論点を将来的な研究課題として提示してみたい。
2.本書の目的
本書には四つの目的があり、それらは同時に本書の中で活躍するアクターに対応している。第一の目的は、「アメリカが如何なる戦略的、軍事的理由に基づいて、日本再軍備を必要とするに至ったのか、そしてこの再軍備はどのような戦略的、軍事的体制に組み込まれ、どんな役割を果たしたのか」という問題の解明であり、この目的に沿ったアクターはワシントンの米軍部と、マッカーサーと後にリッジウェーが率いる極東軍である。第二の目的は、「英連邦とりわけ英国が日本再軍備を決定する過程に与えた影響を明らかにし、その背景にあった英国の意図と戦略を解明する」ことであり、英国政府がその中核に位置する。第三の目的は、「日本再軍備の『国内冷戦』的起源を探ろうとする」ことであり、在京のGHQ(および極東軍)の活動が克明に記される。最後の目的は、「占領期における旧日本軍将校の思想と行動、特に日本再軍備に関する彼らの諸構想と政治活動内容を叙述・分析する」ことであり、ここでは服部卓四郎グループと宇垣一成グループなどの旧陸軍勢力が主軸をなすが、随所に野村吉三郎や山本善雄、第二復員省グループなどの旧海軍勢力も登場する。なお、本書では、以上の4つのアクターに加えて、従来の研究で主役となってきた日本政府や国務省・NSCの動向も記述されている。
3.本書の概要
序章では、上述の4つの目的が提示され、それぞれが先行研究で十分には検討されてこなかったことが示される。本論は、朝鮮戦争以前を扱う第I部と朝鮮戦争以後を扱う第II部からなり、終章において4つのアクターの観点に沿った形で、叙述がまとめ直されている。本書が多様なアクターを扱うとともに緻密な叙述的スタイルをとっていることもあり、以下では、文字数制限が緩やかというインターネット媒体の強みを活用する形で、本論に関する長めの要約を行いたい。
第I部 米英日による日本再軍備構想―敗戦から朝鮮戦争勃発まで
第1章 日本防衛をめぐるアメリカ軍内部での戦略論争―1945-49年
本章では、太平洋戦争終結から朝鮮戦争の勃発までの時期における、日本再軍備をめぐる米国政府内部の政策論争が叙述されている。その概要は表1-1(65頁)の通りだが、この図のうち著者の分析の主眼は以下の三点にある。第一に、ワシントンの軍部の構想である。軍部は、45年8月から11月まで戦略核爆撃重視の対ソ戦略を有しており、この戦略では日本の再軍備はおろか、前方展開基地としての日本も不要であった。しかし、核爆撃によるソ連軍の破壊が困難なことが明らかになるにつれて、軍部では総力戦モデルが復活し、その中で日本の再軍備が論じられ始めた。49年6月には、極東兵力を欧州戦線に送り込むという意図から、日本の潜在的軍事力を「全世界の西側陣営対ソ連側の枠組み」(62頁)の中に取り込んだ軍部の文書(NSC 49)が回覧された。ただし、軍部は、日本の政治経済的状況や極東委員会の方針に鑑み、当面は治安部隊(constabulary)の創設にとどめ、講和後にそれを再軍備の足掛かりにすることを構想していた。
第二に、マッカーサーの構想である。総力戦を標榜するワシントンの軍部とは異なり、マッカーサーは沖縄とフィリピンからの原爆攻撃でソ連軍の対日侵攻に対処すべきだと考えていたため、日本の再軍備は必要ないと考えていた。この戦略は軍事的には非現実的であったが、そもそもマッカーサーはソ連が日本に侵攻してくるとは想定していなかったため、そのことには目を瞑っていた。加えて、マッカーサーが再軍備不要論に固執する背景には、非軍事化をベースとする日本占領を橋頭堡にしてアジアにアメリカの生活様式を植え付けるという「イデオロギー十字軍的使命感」(45頁)とともに、それを達成して52年の大統領選に出馬するという野心があった。
第三に、ケナン国務省政策企画室長の構想である。国務省内部では、対戦中の対日封じ込めアプローチに基づく日本非武装論が主流となっていたが、47年初頭から政策企画室の「中立地帯」としての日本という構想が主流となり始める。この構想は、日独を米国の勢力圏に入れるのではなく、中立地帯とすることでソ連軍の駐留を解消し、そのイデオロギー的影響力を排除することを目的としていた。日本の親米的中立を標榜するケナンは、日本の再軍備や講和後の米軍基地の維持には反対したが、共産主義者が跋扈することを忌避し、治安部隊の創設を主張した。
第5章で詳しく見るように、三者の日本再軍備観の相違は、49年に「ワシントンの米軍部による、日本再軍備を西側軍事体制に組み込むという構想が、マッカーサーの構想とケナンのそれに勝利するという形で決着」をみる(63、65頁)。
第2章 日本の国内冷戦と治安部隊創設問題―1946-48年
本章では、日本再軍備の「もうひとつの起源」である治安部隊創設問題が検討されている。ワシントンの軍部からすれば、治安部隊創設は将来の日本陸軍創設の布石に過ぎなかったが、占領軍首脳であるアイケルバーガー第八軍司令官や国務省の中核にあったケナン、GHQのウィロビーG-2部長は、日本の国内冷戦への対応という観点からこの問題をとらえていた。本章は、「彼らが日本共産党と左翼在日朝鮮人勢力を中心とする国内的『脅威』をどのように認識し、その対応策のひとつとして、治安部隊創設を導き出したのか」(66頁)を分析している。本章の叙述を簡略にまとめれば以下のようになる。
48年初頭には、ケナン、アイケルバーガー、ワシントンの軍部、ウィロビーは、講和によって占領軍が撤退した後に、ソ連指導下の共産主義運動から日本を防衛する手段として、治安部隊を創設することに合意していた。これに対し、マッカーサーとGHQ民政局は、占領軍が駐留していれば共産党の武力革命路線は抑止されるという戦略的理由や占領改革に逆行するという思想上の理由から治安部隊の設置に反対し続ける。第5章で詳述されるように、治安部隊創設はマッカーサーの反対姿勢が変化する49年以降に実現する。治安部隊創設を唱える勢力の行動の前提にあったのは、日本国内で孤立を深めた反動から武力闘争路線を標榜していた日本共産党に対する強い脅威認識であった。特に、著者が発掘したG-2資料からは、GHQが反マーシャル・プラン闘争の一環としてだけでなく、「極東共産主義ブロック」確立の一環として日本共産党の政治闘争を警戒していたことが明らかとなる。
第3章 旧日本軍将校の再軍備構想と日本政府の安全保障構想
本章では、45年から49年までの間、旧日本軍将校(具体的には、第一復員省、服部卓四郎グループ、宇垣一成元陸相)の再軍備構想と、外務省による中心とする日本政府の安全保障に関する検討内容が紹介されている。再軍備を構想するに際しての旧陸軍将校の手本は、戦間期のドイツ秘密再軍備であった。特に、大統領に就任して独軍の正統性を確保した「ヒンデンブルクたり得る」と自他ともに認めていたのが、「平和将軍」の異名を有する宇垣である。宇垣は公職追放を受けたが、自身の政治への熱意や周囲の期待を受けて、政界復帰を目指して行動した。また、旧陸軍将校は、米ソ対立に乗じて再軍備のきっかけをつかもうとしていた。その手段の一つが、ソ連情報の提供や共産勢力の支配地域からの帰還者への尋問業務への協力であり、47年までに、諸機関からなる「隠れ参謀本部」(121頁)が出来上がった。旧陸軍将校の再軍備構想の背後にあったのは、失職から脱却したいという欲求と戦前の帝国主義――「機会主義的復古主義」(111頁)――であり、米ソ冷戦への対応というわけではなかった。結局、戦前勢力の復帰によって吉田茂などの戦後勢力が一掃されることをマッカーサーが懸念したことが最大の理由となり、彼らの再軍備構想が実現することはなかった。
47年前半まで、外務省は、主権回復や国民感情を理由に、講和後における軍政と非軍事化の事実上の継続を警戒し、それらを如何に最小限にとどめるかの検討を行っていた。しかし、冷戦が激化し始める47年半ば以降、外務省の安全保障構想は、ソ連の脅威に対抗するために米軍の本土駐留を継続させるものへと収斂していった。そのあらわれが、アイケルバーガーに手交された芦田書簡だった。また、国内の共産主義勢力を警戒する外務省は、治安部隊の設置は許されると考え、それをアイケルバーガーなどに提案していた。しかしながら、アイケルバーガーがワシントンに熱心に働きかけなかったこともあり、この時点では講和後の米軍基地と治安部隊の必要性を感じていなかったマッカーサーによって、これらの構想は却下される。
第4章 英国にとっての日本再軍備と日米防衛条約
本章では、英国にとって、「日米防衛条約」と日本再軍備が如何なる意味を持っていたのかかが明らかにされている。結論を言えば、基本的に両者はアメリカを日本防衛に関与させるための手段だった。英国が米国の対日防衛への関与を重視したのは、米軍を日本に駐留させて日本自体を共産陣営から防衛するという冷戦の論理だけではなく、自国の極東権益を守るという論理に基づいていた。英国は、米国という「盾」を利用することで、ソ連や中国、そして潜在的には日本という脅威から、英連邦諸国や東南アジア、香港における自国の権益を安上がりに防衛しようとしていたのである。英国の極東政策の基本線は、日本と中ソに対する「二重の封じ込め」にあった。
終戦直後は国連による日本の安全保障という構想を有していた英国であったが、48年6月以降、外務省が早期講和と「日米防衛条約」を提唱し始めた。英国が恐れたのは、占領が長引けば日本人の反発を招き、日本国内で共産勢力が優位に立ち、ひいては日本に対するソ連の影響力が高まって米軍の駐留が困難となることにあった。そのため英国は、早期講和によって日本の反感を和らげることでソ連の影響力拡大を防ぐと同時に、米軍の駐留を維持するために「日米防衛条約」による基地の継続使用を米国側に提案した。
日本再軍備がアメリカを日本防衛に関与させるというのは一見するとパラドキシカルに見えるが、英国は49年以降、日本に再軍備を行わせることで、対日防衛にかかる費用を軽減し、米国が日本から撤退してしまうという事態を防ぐことを企図していた。また、極東における米陸軍の負担を軽減することで、欧州における米陸軍の増強が可能になるという考えもあった。ただし、英国は、自国の権益に悪影響を与えうる日本の海軍力には一貫して警戒的であり、陸軍力についても米国による編成と装備という方針を維持し、日本が独自の軍隊組織を有することを防止しようとしていた。
第5章 日本再軍備と日米防衛条約に関する了解の確立―1949年6月~1950年6月
本章では、第1-4章の各アクターの構想に関する個別の検討を踏まえ、49年後半から朝鮮戦争勃発直前の時期を対象として、米国、英国、日本のそれぞれが、早期講和と「日米防衛条約」の締結、日本再軍備という政策パッケージへと収斂していく様子が叙述されている。日本の軍事化への合意を促したのは、NATO成立によって欧州における米国の陸上兵力の必要性が高まる中で起こった、アジアにおける冷戦の軍事化(共産中国の誕生、インドシナにおけるフランスの軍事的苦境、朝鮮半島における南北新政権間の小規模武力衝突など)であった。
本章の叙述の大部分を占める米国の政策転換の過程において重要だったのは、「防衛条約」と再軍備に反対し続けてきたマッカーサーとケナンの方針変更であった。冷戦の軍事化によって、両者の再軍備反対論は説得力を失っていったのである。ケナンの「中立日本」構想は6月に開始された極東政策(NSC 48)の検討過程で捨て去られ、12月に裁可されたNSC 48/2では日本を西側陣営に組み込むことが規定された。マッカーサーも徐々に立場を後退させ、治安部隊の創設や米軍の駐留継続という考えを示し始め、朝鮮戦争勃発直前には、ダレス特使が提示した方針に従った。マッカーサーの変更理由は明らかではないが、その戦略構想が破たんをきたしていたことはそこに影響を与えていた。共産中国とともに中ソ同盟が成立し、台湾が中ソの前進基地となる可能性が出てきたことによって、沖縄とフィリピンの連結が寸断され、それらに駐留する米軍によって日本を防衛するという戦略が不可能になったのである。
こうして、朝鮮戦争勃発以前に、米国政府内で、日本の西側陣営への組み込み、日本再軍備に関する合意が形成されたのである。マッカーサーのお膝元である極東軍やG-2も、50年1月以降日本共産党がスターリンの指令を受けて反占領軍闘争を始めたことを受け、対ソ戦の実施計画に狂いが生じるという懸念から日本国内における共産勢力の活動を危険視し、治安部隊の創設を強く求めていた。日本の外務省内と英連邦内でも、同様の合意が形成されていた。
第II部 再軍備の実現と日米「軍事治安体制」の成立―朝鮮戦争勃発から防衛庁発足まで
第6章 朝鮮戦争の性格変化にともなう日本再軍備の変容
本章では、50年6月の朝鮮戦争勃発とその後の展開が、米英にとっての日本再軍備の戦略的性格にいかなる影響を与えたのか、GHQが日本の国内騒乱の可能性にどのように対処したのかが叙述されている。順番は前後するが、GHQについては、朝鮮戦争に伴い日本共産党に加えて左翼朝鮮人組織の国内冷戦上の脅威が浮き彫りになる中で、彼らにとって武力革命に必要な武器・弾薬を獲得する唯一の手段だった警察予備隊への浸透を回避しようとし、情報と諜報を駆使してそれに成功したことが記される。
本章の中核を占め、本書全体の中でも白眉の叙述と位置づけられるのは、朝鮮戦争と日本再軍備の戦略的意味の連動である。朝鮮戦争勃発当初、在日米軍兵力の即時投入に迫られた米軍は、これが日本における軍事的真空と国内騒乱の土壌が生まれることを懸念し、警察予備隊創設とともに48年に発足していた海上保安庁の増強を行った。11月の中国介入によって戦況が悪化すると、軍部とマッカーサーは、中国との全面戦争による戦況打開という策を考慮し、警察予備隊の正規軍化による日本防衛強化策を提示したが、この時点では米国政府内に異論があり、それが実施されることはなかった。翌51年に入ると戦況が好転し、米軍は中国戦線への拡大による朝鮮戦線の打開という方針を捨てた。代わりに、窮地に陥ったソ連が日本を攻撃する可能性を懸念し始め、対ソ全面戦争を覚悟するようになる。そうした状況で軍部は、欧州戦線での西欧防衛は不可能と判断し、対ソ全面戦開始当初の政治的・軍事的ダメージを最小化するために極東戦線での敗北を防ぐという戦略的観点から、警察予備隊の重武装化と講和後の正規軍化を進め、5月には大統領裁可を得た(JCS 1380/106; NSC 48/5)。
英国は、米国が英国や西欧の安全を脅かしかねない対ソ全面戦争を引き起こすのを予防するという観点から、極東戦線の局地化を重視していた。だが結局は、米国の圧力に屈する形で、ソ連の対日侵攻が起こった場合には西側陣営全体が参加する全面戦争の計画を是認せざるを得なかった。そのため英国からすると、警察予備隊の創設は、西側の分裂を招きかねないソ連の対日侵攻を抑止するという重要性を帯びることになった。米国政府も、上述の防衛の観点に加え、こうした抑止の観点からも、警察予備隊の戦略的意義を見出していた。ソ連の対日侵攻が起こった際、対ソ全面戦争を実施するかどうか、NATO諸国がそこに参戦するかどうかで西側陣営の分裂が生じる可能性を危惧していたからである。
第7章 日米安保体制確立に向けての日米交渉
本章では、朝鮮戦争勃発後における日本再軍備の軍事的理由を考察した第6章の対として、その政治的、外交的プロセスを叙述している。その際の中心的なアクターは、ダレスを中心とする「講和条約チーム」と、吉田首相およびその周辺の旧軍出身のアドバイザーである。講和条約チームが早期講和を推進するのは、朝鮮戦争の戦況悪化によって共産陣営の影響力が高まることは危険であり、それ以前に早期講和によって日本を西側陣営に組み込んで日本を共産化させないという動機に基づいていた。彼らにとっての最大の障害は、朝鮮戦争の最中に講和を行うことに強く反発していた軍部だった。講和後の米軍基地の使用は軍部にとって自明のものだったため、講和条約チームは、軍部に早期講和を飲ませるためのカードとして日本再軍備を提案し、その同意を取り付けることに成功した。このことが、対日交渉でダレスに日本再軍備に関する強硬姿勢をとらせていたのである。
吉田は、日本の軍事機構を当面は国内治安の手段として位置づけていたが、将来的には国土防衛を主眼とした小規模かつ文民統制の効いた米英型の軍隊を育成すると固く決意していた。吉田は、辰巳など文民統制に従順な姿勢を示した旧軍出身者を助言者とする一方、文民統制に従わない服部グループや宇垣グループなどを排除した。吉田のアドバイザーになれたかどうかを問わず、旧軍出身者は、朝鮮戦争に伴う直接・間接侵略への危機感や旧軍復活の欲求に基づき、自らの大規模軍隊の構想を再軍備の議論に投影しようと必死だったが、ソ連による対日侵攻に楽観的だったこともあり、吉田はそれらを積極的には取り上げなかった。この方針が51年1-2月にダレスの容れるところとなったことで、旧軍的な参謀本部復活の可能性がなくなる。そして、上述のように吉田が英米型の再軍備を覚悟していたことに鑑み、著者は、吉田・ダレス会談には交渉を決裂させるような争点は実質的に存在しておらず、再軍備に対する吉田の抵抗は「再軍備のレベルとタイミングを日本側のペースで行うためのバーゲニング・チップであった」(408頁)という解釈を打ち出す。
第8章 日米「軍事治安同盟」の体制づくりと行政協定
本章では、米軍駐留や日米軍事協力の詳細を規定する日米行政協定(52年調印)の交渉過程が検討されている。その際の焦点は、米国政府内の競合する基本アプローチがどのようなものだったのかという問題と、それに対して日本政府がいかに対応したのかという問題である。米軍の地位と日米統合司令部の設置という行政協定の二つの争点をめぐり、米国政府内には三つの見解が存在した。極東軍は占領中の権限を最大限に維持しようとしていた。この立場に近い国防総省とJCSは、日本に対する不信感から、米軍などに対する刑事裁判権を認めず、自らが望むときに日本の軍事力を米軍の指揮下に置ける協定を構想していた。他方で国務省は、共産陣営の宣伝に用いられるという懸念からこうした不平等な規定に反対し、NATOと同程度の協定を模索した。結局、米国政府では、日本に米軍に対する刑事裁判権を認める一方で、有事における統合司令部設置の条項を盛り込んだ協定草案が作成される。なお、この過程での一致点は、日本に米国の防衛公約を与えないことだった。
行政協定交渉に際して、日本政府は、実質的な占領継続に反対するという基本方針を有しており、これに基づき米軍に対する刑事裁判権や在日米軍基地の態様をNATO並みにすることを要求し続けた。他方で、同じくNATO並みに資する統合司令部設立については、日本政府は頑強に抵抗して米国側の妥協を引き出し、52年7月に吉田と極東軍司令官の間での口頭の約束が行われるにとどめた。この抵抗理由として、主権が制限されることへの反発と、米国の戦争に自動的に巻き込まれることへの懸念が挙げられる。
本章では、占領後の「日米間の共同治安・諜報体制」の活動内容も記述されている。その内容を端的に言えば、52年初頭に日本共産党が武装闘争路線に転換しうるという危機感から、緊密かつ共同性の高い協力関係が確立していたということになる。加えて、極東軍は占領終結後、日本政府が自らの手で国内治安を確保できない場合には、在日米軍が日本の治安部隊と協力してこれに臨むマニュアルを作成していた。このように治安・情報面での協力が緊密な一方で、軍事面では有事の司令部の統合や米国の対日公約が公式には存在しないことに鑑み、著者は「NATO同盟国並みに相当しない『日米軍事(治安)体制』」(466頁)が成立したという意義付けを行う。
第9章 大統領による日本再軍備決定と日本陸上兵力に関する編成論争
本章では、以下の4点に関する叙述が行われている。第一に、いかなる政策決定過程を経て、米国政府が警察予備隊を陸軍化することに決めたかという問題である。ここでは、52年8月に大統領裁可を得た対日政策文書(NSC 125/2)の策定過程が叙述され、これが防衛的な性格と通常兵器装備への限定を付した上で陸軍化とともに海空軍の創設も決定したことが示される。第二に、米軍内部における将来の日本部隊の編成と装備に関する論争である。ここでは、日本側の抵抗によって米国側が日本の陸上兵力の30万人構想をあきらめさせたとされる53年10月の池田・ロバートソン会談以前から、ワシントンの軍部が米国の予算上の制約や装備提供の困難性から同構想を実現不可能な理想案として割り切っており、リッジウェー率いる極東軍だけがこれを主張していたに過ぎず、極東軍もワシントンの18万人構想を受け入れていたことが明らかになる。第三に、米国が日本に如何なる任務を期待していたかという問題である。米国は、日本政府が恐れていたような朝鮮半島への兵力派遣ではなく、グローバルな対ソ戦略・西側防衛体制の中でより重視されていた北海道防衛を担うことを期待していた。
最後に、旧陸軍将校グループの再軍備論と彼らの動向である。ここで強調されているのは、服部グループが吉田主導の文民統制が効いた英米型軍隊の育成に抵抗し続けるとともに、第三次世界大戦を利用して大陸アジアに再進出することを構想し、さらには吉田暗殺を含むクーデターまで考えるようになったことである。だが結局、服部グループは、後ろ盾であったウィロビーの解任などに伴って政治的影響力を失うことになる。他方、グループの内部分裂によって求心力を失った宇垣は積極的な再軍備を主張する政治勢力の芦田均に接近することで、吉田の再軍備構想を妨害する政治的存在としての命脈をどうにか保った。
第10章 米英と海上自衛隊創設への道―1951~54年
本章では、51年の吉田・ダレス会談から海上自衛隊創設に至る過程が叙述されている。主要な焦点は以下の点にある。第一に、日本の海上防衛力の制度的・組織的位置づけの変化である。具体的には、日本の海上防衛力は、海上保安庁、その一部としての海上警備隊、警備隊・海上自衛隊へと組織変更されたが、この変更が米軍の基準にいう海上警察、沿岸警備隊(準軍事組織)、海軍への変更に対応していることが明らかになる。最終的に海軍化が決定されるのは、52年8月のNSC 125/2においてである。
第二に、海上自衛隊創設の過程の詳細である。そこでの具体的なアクターは米英の行政府と軍部、日本政府、野村・二複派であり、本章で強調されているのは野村・二複派と米英政府の構想である。前者については、彼らが大海軍再建を目指し、米国政府を動かすことで日本政府と国民に自らの案を受け入れさせようとしていたことが明らかにされている。後者については、米英が日本の海軍力の再建にあたって、大洋海軍を日本に許せば太平洋戦争の二の舞になるという懸念を有していたため、正規空母などの攻撃力を持たない日本周辺海域の防衛を中心とした防衛的海軍力を育成させることで、日本の海軍力にたがをはめたことが明らかにされている。
第三に、吉田がどのような海軍力育成方針を採用し、どのような性格を持つ旧海軍将校を重視したかという問題である。吉田は大海軍の創設に一貫して反対し、米海軍と協力しながら、かつ国民世論を考慮しながら、政治的・財政的に可能な範囲で、海軍力を整備していく方途を選んだ。そして、吉田は、野村・二複グループの中でも、文民である吉田の方針に服従する姿勢を崩さなかった山本善雄を重用した。
4.本書による新発見と新解釈
以上のように、極めて濃密な記述を行う本書には、多くの新発見と新解釈が含まれている。新発見については、新領域の開拓としても捉えられる以下の3点を挙げたい。第一に、日本の国内冷戦に対する米軍の対応の記述である。従来の占領史研究では、共産党をはじめとする左翼勢力の動向の記述に主眼が置かれてきたように思われる。対照的に本書では、近年公開された極東軍の史料を駆使して、米国側が日本の国内冷戦にどのように対応したのかが克明に記されている。第二に、日本再軍備や日米安全保障条約に関する英国の観点の記述である。従来の英国外交史、より具体的には英国の対極東・対日政策では、対日講和における役割や多国間防衛条約である「太平洋条約」の構想といった、政治外交分野での英国政府の動向が分析の対象となってきた。これに対し本書では、日本再軍備や日米二国間条約に基づく米軍の駐留といったより軍事的な分野における英国政府の構想と動向が、政権内部の政策決定過程や英連邦諸国とのやりとりに踏み込む形で明らかにされている。特に、日本と中ソ陣営の「二重の封じ込め」の方針に基づき、英国政府が自らの極東権益に対する米国による「盾」を得るための手段として、それらを位置づけていたという指摘は興味深い。第三に、日本再軍備の米英の対ソ戦争計画における位置付けである。第6章で見たように、朝鮮戦争の展開過程に連動する形で、米英は、対ソ全面戦争の抑止とそれが起こった際の重要な防衛手段として、日本の軍事力の「西側軍事戦略体制への組み込み」(573、574頁)を行った。こうした軍事戦略的な意義付けこそ、著者が戒めるところの、従来型の日米二国間外交史の観点からは出てこないものであろう。
他方、新解釈については、大きなものとして少なくとも以下の4点が挙げられる。それぞれの点における代表的な日本再軍備に関連する研究と対比をしながら見てみよう。第一に、再軍備起源論である。多くの研究で、米国政府内で日本再軍備が本気で構想されるようになったのは、米ソ冷戦が既に明確になった48年、とりわけ1月のロイヤル陸軍長官のサンフランシスコ演説以降のことだとされてきた(植村、1995)。これに対し、第1、5章の考察から、著者は、米国の日本再軍備政策の転換は、米軍内部の対ソ軍事戦略が、原爆を用いたものから総力戦を念頭に置いたものへと変化した影響で日本再軍備が考慮され始めた46年だという指摘を行っている。
第二に、吉田・ダレス会談の再考である。従来、吉田がダレスの再軍備要求に徹底的に抵抗したことで、この会談は対立基調のものだったとされてきた。また通説的解釈によれば、この会談では、吉田が軽軍備をダレスに認めさせつつも米軍の駐留に同意したことで、日本が基地提供などによって間接的に西側陣営に貢献する構図――「物(基地)と人(米軍)との協力」という日米同盟の基本構図――が出来上がった(楠、2009;坂元、2000)。これに対して本書は、吉田が将来的には国土防衛を主眼とした小規模かつ文民統制の効いた米英型の軍隊を育成すると決意していたこと、および米国側がグローバルな対ソ戦略の一環として日本再軍備を位置づけていたことに鑑み、吉田・ダレス会談には交渉を決裂されるような争点は実質的に存在しておらず、ここでは実質的に日本が「西側陣営の一員として包括的な軍事貢献をする」(365頁)ことが合意されたという解釈を提示する。
第三に、池田・ロバートソン会談の「再再考」である。MSA協定締結の前段階として53年に行われた池田・ロバートソン会談は、これに出席した宮沢喜一により、日本側が30万人の陸上兵力を求める米国側の要求をかわし、18万人を認めさせた「成功物語」として描かれてきた。その後、米国側の一次史料を駆使した研究によって、米国政府はこの会談よりもむしろその後の東京での交渉を重視しており、30万人構想を断念していなかったことが明らかになった(植村、1995;坂元、2000)。この見解に対し、本書は、そもそも53年より以前から米軍部は30万人構想を捨て去っていたと主張する。これを一歩進めれば、同会談における日本側の主張(18万人構想)は、既に米軍内部で30万人構想が「破綻していたがゆえに、有力な対案となりえた」(484頁)という評価につながる。
最後に、「マッカーサー修正主義」である。マッカーサーは「よき敗者」である日本に対し寛大に振る舞い、「東洋のスイス」発言に示されるように、裕福で「非武装中立」の平和な日本という像を提示したことで、日本国民に英雄視されてきた。このマッカーサー像が学術研究において共有されているわけではないが、本書はこの一般的イメージを大きく修正する。つまり、マッカーサーの再軍備不要論は対ソ戦における原爆至上主義の基盤の上に立つものであり、そこでは、もしソ連の対日侵攻があれば即時に大量の原爆が投下され、日本はソ連軍もろとも破壊されることになっていた。さらに、日本の中立化や経済復興は、それを成功させることによって米国内での名声を高め、大統領職を得るという自身の政治的野望を達成するための手段の一環だったことが示される。
なお、このように多くの新解釈を打ち出す本書であるが、もっと補強してもよかったと思われた点を二つ挙げておきたい。ひとつは、再軍備起源論に関するいくつかの点である。まず、本書の議論をより精緻にするためにも、連合国側の勝利が明らかになり始めた太平洋戦争末期からの、米国政府内の対ソ観および日本再軍備構想に関する叙述があってもよいかと思われた。それがあれば、46年の米軍部の転換がより一層際立ったであろう。また、米軍部が自己利益のために、46年の時点からソ連の脅威を強調していた可能性を検証、棄却する作業があるとよかった。一般的に言って、軍部は自らの組織的・国内的利益を得るために、実際以上に外部の脅威を誇張したり、それを作り上げることが少なくない。論理的には、第二次世界大戦後、自らの存在意義が弱まった軍部が保身のためにソ連の脅威を過剰に誇張し、その一環として日本再軍備を唱え始めたとも考えられる。日本再軍備が米軍部の直接的な利益になるということは考えにくいが、こうした論への対処がなされていれば、46年頃から対ソ戦に備えるために日本の再軍備が論じられ始めたという本書の議論の説得性が一層高まっていたと思われる。
もうひとつは、53年の池田・ロバートソン会談以前から米軍は日本の陸上兵力30万人構想を捨て去っていたという議論を展開するにあたっては、著者が分析した52年の編成論争以降も米軍がその構想を有していなかったことを示しておけば、その説得性が高まっていたと思われる。例えば、軍部が30万人構想を池田・ロバートソン会談でも持ち出したのは未だその構想が捨て去られたわけではなかったことを示しているのではないのかという単純な疑問が思い浮かんだ。また、陸上兵力30万人という具体的な編成問題とは次元が異なるが、60年代後半まで米国政府内にアジア地域における日本の軍事的役割への期待が存在していたこと(中島、2006)との兼ね合いも気になるところである。
5.論点と将来的な課題
最後に、日本再軍備研究に残された将来的な課題として、評者なりの論点を二つ提示してみたい。ひとつは、米国政府の政策決定過程についてである。本書では、対ソ戦のために再軍備を推進する軍部 vs. それに消極的な国務省とマッカーサーという構図が、軍部の勝利に終わったことで再軍備が行われたという視点が前面に押し出されている。だが一つの疑問が浮かぶ。それは、米国政府による日本再軍備は、軍部だけの勝利ではなく、三者(特に軍部と国務省)の妥協によって進められていったのではなかなろうかというものである。例えば、日本の軍事力を対ソ戦に利用するという軍部の観点が投影されたNSC 49(第1章)には、国務省による大幅修正を受けた続編(NSC 49/1)が存在する。これは、ソ連の脅威は軍事的なものというよりも政治的なものという前提を有しており、軍部の軍事重視の観点とは必ずしも一致しない要素を含んでいた。また、米国政府が日本再軍備を正式に決めた52年8月のNSC 125/2(第9章)は、対ソ(中)を目的に軍事的に独立した日本への期待(軍部など)と同時に、軍事的に独立した日本が米国の利益に反する行動をとることへの懸念(国務省など)を含有していた。いわば、日本と共産陣営に対する「二重の封じ込め」の観点である。
このように見てくると、本書が綿密に明らかにした軍部の軍事的考慮に加え、それと国務省などの政治外交的考慮の対立・妥協過程、およびそれがNSC文書などの決定につながる過程のより詳細な分析が、今後の研究の焦点として挙げられよう。その際の中心的なアクターには、軍部と国務省に加え、「国防総省の中の国務省」と言われ、両者の調整にあたる国防総省国際安全保障局(53年以前は対外軍事問題・軍事援助局)を加えることが有益だと思われる(ただし、国防総省文書(RG 330)の大部分は未だ公文書館での公開がなされていないようであり、これはあくまで将来的な課題である)。
もうひとつの論点は、日本再軍備をめぐる米英関係についてである。再軍備を行う主体である日本政府や占領軍の中核としてそれに絶対的な影響を与える米国政府と異なり、占領軍の数が圧倒的に少なく、第一義的には欧州の問題を考えざるを得ない英国政府は、あくまで米国政府を通じてのみ日本再軍備に影響を与える存在であり、必ずしもそこに直接的な影響を与える存在ではなかったように思われる。そこで思い浮かぶのが、英国政府は日本再軍備に関して、どれほど、そしてどのように米国政府に影響を与えていたのかという疑問である。評者が見落としている可能性もあるが、米国が英国からの申し入れを考慮して日本再軍備を行ったという実証的な叙述は必ずしも多くなかった印象を受けた。むしろ、英国が米国を動かしたというよりも、英国は自らの考えを米国に申し入れるがそれは無視され、逆に米国の構想に従わざるを得なかったと見受けられる叙述が多かった。例えば、48年6月の日米二国間条約の起源についても、米国側は英国の構想を相手にしなかったことが明らかにされている。同様に、本書の山場である第6章では、日本再軍備を組み込んだ米国のグローバルな対ソ戦争計画に英国がいやいや巻き込まれていったことが記述されている。他方、英国政府が米国政府の構想に与えた具体的内容については、本書では、英連邦の対日不信に配慮した英国が日本再軍備を限定的なものにすることを構想し、米国がそれを受け入れたという方向で描かれているように思われる。だが、本書の随所にあらわれているように、そもそも国務省だけではなく米軍の中にさえ「軍事大国」としての日本への不安に基づく日ソ「二重の封じ込め」の論理が内在していたことに鑑みれば(例えば、245-246頁)、英国の申し入れの有無に関わらず、日本の再軍備は限定的になっていたのではなかろうか。
このように見てくると、本書が綿密に明らかにした英国政府の構想そのものに加え、今一度、日本再軍備(および日米安保条約)に関する米国政府内の政策決定過程の検証に立ち返り、英国政府の提案がそこに与えた影響をより詳細に検証することが今後の研究の焦点となろう。その際には、対英関係を主管する国務省がどのように英国政府の構想をくみ取り、いかにしてそれを米国政府内の政策決定過程に反映させたのかが主たる分析対象となると思われる。
以上、日本再軍備という政治過程を直接的に研究したことのない門外漢が浅薄な知識に基づき、好き勝手な注文や今後の課題を書いてきたが、これらは本書の価値をいささかも損なうものではない。冷戦史、日本軍事(外交)史、米国軍事(外交)史、英国軍事(外交)史、占領史、そして旧軍人の思想史など、多岐にわたる分野に貢献する本書が、長きにわたってそれぞれの分野で参照される研究となることは疑う余地がない。上記の分野に関心を有する研究者、学生、実務家にとっての必読書である。
【付記】 本書評の執筆に際しては、東京財団の研究会に加え、戦後・占領史研究会でも報告させていただき、有益なご指摘を賜るとともに多くの示唆を得た。代表である雨宮昭一先生をはじめ関係者の諸先生方に記して感謝申し上げる。
引用文献
植村秀樹(1995)『再軍備と55年体制』(木鐸社)
楠綾子(2009)『吉田茂と安全保障政策の形成―日米の構想とその相互作用、1943-1952年』(ミネルヴァ書房)
坂元一哉(2000)『日米同盟の絆―安保条約と相互性の模索』(有斐閣)
中島信吾(2006)『戦後日本の防衛政策―「吉田路線」をめぐる政治・外交・軍事』(慶應義塾大学出版会)