評者:村井哲也(明治大学法学部兼任講師)
1.本書の問題関心と3つの「総合」をめぐって
「はじめに」(i~XV頁)
近年における新興国の経済発展による資源高騰、これに伴う持続可能性と環境問題のいっそうの深刻化、2011年3月の東日本大震災による原発事故とエネルギー問題の発生は、改めて我々に様々な問い直しを迫っている。それらは、「原料」の確保といった単純な危機意識だけに止まるものではない。戦後日本の政治社会、そのものに対する問い直しを迫っているのである。
東日本大震災の直後に出版となった本書は、決して単純でない資源概念の問い直しの歴史を丹念に辿っている。歴史は、直接は役に立たない。だが、過去に試みられながら忘れ去られた様々な可能性には、新たな政策やアイディアの水脈がある。この目的意識の下、同時代に日本人が求めた国の方向性や国土の姿のみならず、それを下支えした「知のあり方」が浮き彫りにされていく。
本書は、資源を「原料」でなく自然の一部分とみなし、「資源論」を社会生活の長期向上利用を議論する場と位置づける。日本の「資源論」は、内発的な問題意識からの実践志向の知であり、地理学のみならず政治学にも広がる学際領域のはしりであり、それにもかかわらず専門分野として忘れ去られた。「持たざる国」のラベルづけで資源を「原料」というモノに還元し、その不足の海外確保の優先が、常に日本の「主流」だったからである。
しかし現在、東北被災地での「森は海の恋人」運動や「コモンズ論」のように、資源を可能性と捉えることで現場での有機的な連関を回復し、生活者の視点からつなぎ直す学際的な試みが始まっている。この視点からの「資源論」は、いまや世界的な広がりを見せつつある。
ただし、こうした「草の根(ローカル)」の視点に偏ると、政府の政策という側面が見落とされる。ゆえに本書は、これをあえて脇に置き、政府内部の「上からの視点」を再検討する。これには、著者による問題関心の転換が影響している。もともとタイ農村における開発と環境の専門家である著者は、現地のフィールドワークを重ねるうち、一括りな政府批判だけでは解決にならないことを認識した。政府内部にも様々な立場があり、「上からの視点」=「悪」ではない。国家の統治や権力にも目配りしなければ、有機的な「資源論」を展開できない。
日本の近現代史に目を転じた著者は、むしろ「主流」に建設的な批判を投げかけたのは、政府と近い関係にあった「資源論」の担い手たちであったことを発見する。確かに有機的な「資源論」は、1970年代以降に「原料」確保へ矮小化された。だが、それ以前の批判者に注目して「主流」を逆照射することで、「資源論」は1つの思想であり、社会変革の構想であり、様々な問い直しへの水脈であることを、本書は明らかにしようとしている。
日本政治史からの問い直し
以上の問題関心から本書は、序章で「資源論」の意味づけと概念設定を行い、第1章は資源概念の起源を辿り、第2-4章は戦時体制・戦後民主化・高度成長における「資源論」の変遷を描き、第5章は「資源論」の担い手たちの証言からその衰退を探り、終章は「資源論」の総括から将来への具体的な提案を行っている。
本題に入る前に、本書評のスタンスを明確にしたい。本書は、メディアや学界から大きな評価・反応を得ている。その吸引力の源泉は、互いに連関する3つの「総合」への問い直しにある。すなわち、単純な「原料」確保でない有機的な「資源の総合」を論じ、それを批判的な言説に止まらぬ「権力の総合」にまで射程を広げ、それらを下支えした「知の総合」の模索を描きつつ具体的な提案を行っている。刺激的でない訳がない。
ただし、こうした本書の意図が完全に理解されているとも言い難い。メディアの評価は、市場効率や消費社会へのアンチテーゼを投げかける啓蒙書としてのものに偏る。学界の反応は、地理学や環境諸学といった専門分野内に偏る。それらは概ね、本書が論じた「資源の総合」への評価・反応である。残念ながら、過去の「知の総合」の模索を通じた学際的な問い直しに、政治社会のあり方やその変遷を問い直す政治学や歴史学からの反応は目立っていない。従って、本書が射程とした「権力の総合」をめぐる議論も広がりを見せていない。
本書にも問題がない訳ではない。歴史資料からひも解かれる新しい水脈に耽溺する余り、これらを「欲張りな思い」(あとがき、247頁)で盛り込み過ぎたことにある。確かに「資源論」は、定義するには「収まりの悪さ」(23頁)を持つ厄介な代物である。だが、語り口はソフトで分りやすくとも、全体としては論点の反復や概念の拡散が著しい。そのことは、特に専門分野外の書評において、字数の制限もあろうが、要約のしづらさが文面から滲み出ていることに表れる。その結果、「資源論」の矮小化を避けて知の回復を促すメリットがある反面、印象的な捉え方が多くなるデメリットもある。啓蒙書として取り扱う以外に、専門分野外の反応を得にくいのである。
とはいえ、この問題だけをもって、本書の刺激的な示唆や提案に無反応で良い理由にはならない。それこそ、「知の総合」に反する学問のセクショナリズム化である。本書評は、政治社会のあり方やその変遷を問い直す政治学や歴史学を中心に、本書の持つ3つの「総合」に反応する責務を負う日本政治史の観点から、本書を捉え直していく。以下、本書の概要を記した上で、「資源の総合」が注目された歴史的な背景を改めてひも解き、「権力の総合」をめぐる政治的な焦点を検討することで、本書が提示する「知の総合」の意義を再確認してみたい。
近年における新興国の経済発展による資源高騰、これに伴う持続可能性と環境問題のいっそうの深刻化、2011年3月の東日本大震災による原発事故とエネルギー問題の発生は、改めて我々に様々な問い直しを迫っている。それらは、「原料」の確保といった単純な危機意識だけに止まるものではない。戦後日本の政治社会、そのものに対する問い直しを迫っているのである。
東日本大震災の直後に出版となった本書は、決して単純でない資源概念の問い直しの歴史を丹念に辿っている。歴史は、直接は役に立たない。だが、過去に試みられながら忘れ去られた様々な可能性には、新たな政策やアイディアの水脈がある。この目的意識の下、同時代に日本人が求めた国の方向性や国土の姿のみならず、それを下支えした「知のあり方」が浮き彫りにされていく。
本書は、資源を「原料」でなく自然の一部分とみなし、「資源論」を社会生活の長期向上利用を議論する場と位置づける。日本の「資源論」は、内発的な問題意識からの実践志向の知であり、地理学のみならず政治学にも広がる学際領域のはしりであり、それにもかかわらず専門分野として忘れ去られた。「持たざる国」のラベルづけで資源を「原料」というモノに還元し、その不足の海外確保の優先が、常に日本の「主流」だったからである。
しかし現在、東北被災地での「森は海の恋人」運動や「コモンズ論」のように、資源を可能性と捉えることで現場での有機的な連関を回復し、生活者の視点からつなぎ直す学際的な試みが始まっている。この視点からの「資源論」は、いまや世界的な広がりを見せつつある。
ただし、こうした「草の根(ローカル)」の視点に偏ると、政府の政策という側面が見落とされる。ゆえに本書は、これをあえて脇に置き、政府内部の「上からの視点」を再検討する。これには、著者による問題関心の転換が影響している。もともとタイ農村における開発と環境の専門家である著者は、現地のフィールドワークを重ねるうち、一括りな政府批判だけでは解決にならないことを認識した。政府内部にも様々な立場があり、「上からの視点」=「悪」ではない。国家の統治や権力にも目配りしなければ、有機的な「資源論」を展開できない。
日本の近現代史に目を転じた著者は、むしろ「主流」に建設的な批判を投げかけたのは、政府と近い関係にあった「資源論」の担い手たちであったことを発見する。確かに有機的な「資源論」は、1970年代以降に「原料」確保へ矮小化された。だが、それ以前の批判者に注目して「主流」を逆照射することで、「資源論」は1つの思想であり、社会変革の構想であり、様々な問い直しへの水脈であることを、本書は明らかにしようとしている。
日本政治史からの問い直し
以上の問題関心から本書は、序章で「資源論」の意味づけと概念設定を行い、第1章は資源概念の起源を辿り、第2-4章は戦時体制・戦後民主化・高度成長における「資源論」の変遷を描き、第5章は「資源論」の担い手たちの証言からその衰退を探り、終章は「資源論」の総括から将来への具体的な提案を行っている。
本題に入る前に、本書評のスタンスを明確にしたい。本書は、メディアや学界から大きな評価・反応を得ている。その吸引力の源泉は、互いに連関する3つの「総合」への問い直しにある。すなわち、単純な「原料」確保でない有機的な「資源の総合」を論じ、それを批判的な言説に止まらぬ「権力の総合」にまで射程を広げ、それらを下支えした「知の総合」の模索を描きつつ具体的な提案を行っている。刺激的でない訳がない。
ただし、こうした本書の意図が完全に理解されているとも言い難い。メディアの評価は、市場効率や消費社会へのアンチテーゼを投げかける啓蒙書としてのものに偏る。学界の反応は、地理学や環境諸学といった専門分野内に偏る。それらは概ね、本書が論じた「資源の総合」への評価・反応である。残念ながら、過去の「知の総合」の模索を通じた学際的な問い直しに、政治社会のあり方やその変遷を問い直す政治学や歴史学からの反応は目立っていない。従って、本書が射程とした「権力の総合」をめぐる議論も広がりを見せていない。
本書にも問題がない訳ではない。歴史資料からひも解かれる新しい水脈に耽溺する余り、これらを「欲張りな思い」(あとがき、247頁)で盛り込み過ぎたことにある。確かに「資源論」は、定義するには「収まりの悪さ」(23頁)を持つ厄介な代物である。だが、語り口はソフトで分りやすくとも、全体としては論点の反復や概念の拡散が著しい。そのことは、特に専門分野外の書評において、字数の制限もあろうが、要約のしづらさが文面から滲み出ていることに表れる。その結果、「資源論」の矮小化を避けて知の回復を促すメリットがある反面、印象的な捉え方が多くなるデメリットもある。啓蒙書として取り扱う以外に、専門分野外の反応を得にくいのである。
とはいえ、この問題だけをもって、本書の刺激的な示唆や提案に無反応で良い理由にはならない。それこそ、「知の総合」に反する学問のセクショナリズム化である。本書評は、政治社会のあり方やその変遷を問い直す政治学や歴史学を中心に、本書の持つ3つの「総合」に反応する責務を負う日本政治史の観点から、本書を捉え直していく。以下、本書の概要を記した上で、「資源の総合」が注目された歴史的な背景を改めてひも解き、「権力の総合」をめぐる政治的な焦点を検討することで、本書が提示する「知の総合」の意義を再確認してみたい。
2.本書の概要
序章 資源問題とは何か(1頁~)
貧しい時代の日本には、それゆえ資源問題の原点を豊かに捉える取り組みがあった。 産業革命時代の石炭不足の背後に森林の急激な減少があったように、有機的な一体性と寿命という資源の「生きた」側面は無視できない。だが、かつて身近に感じられた資源問題は近代化で分断され、人口爆発や資源枯渇といった持続可能性の問題に直面した。市場効率や技術解決といった楽観論も、別の次元で問題を引き起こす限界がある。
分断化の所業は、「専門分野」の発達である。過度に分業化された学問体系や行政機構は、セクショナリズムを招来して生態系全体を見るバランスを欠いていった。天然資源は人為的な境界と無関係であるがゆえ、逆に社会の対応力は低下したのである。こうした長期的・総合的な問題には、現場の知識を拾い上げる政府の公共介入が必要となる。その際に何を「総合」の対象とすべきかは、その時代の人間社会が見出し働きかけた要請に応じ変化してきた。日本の場合、戦前では富国強兵から国家総動員、戦後では資源への多面的な着目や自然災害の多発であった。
ここから筆者が導き出す「資源」の定義は、「働きかけの対象となる可能性の束」である。もちろん資源は無限でないが、モノとして捉える考えから脱却すれば、人間の創意工夫による可能性は広がる。天然物的な面と人的知的な面の合体という観点からすれば、「日本は資源に乏しいとは言い切れない」(都留重人)。
人間社会は、どうしても天然資源から人工的な「財(原料)」への転換を必要とする。だが、資源は互いに連関し合い、社会構成から働きかけがなされ、時に災害や環境の問題を引き起こす。すなわち、問い直すべきは、現場の統一性やバランスに配慮した資源利用を人間社会ができるか否かにある。市場効率では解決できない。そして、「資源論」は、今とは異なる選択肢が存在した過去の歴史のなかから、大きな可能性を見出せるのである。
第一章 資源と富源 ―その始まりと日本近代(27頁~)
資源概念の源流は、明治末期から大正初期に登場した「富源」である。当時の未開拓地における鉱山・森林・漁業を扱ったロマン的な出版物に多く、今日で言う天然資源の意味合いが強かった。若き日の柳田国男は、様々な発達により「国内における富の源泉」をめぐる争いが激化することで、その利害を調整する国家が重要となると指摘している。先見性ある逸話として興味深い。次いで、大正期には「富源」から取り出される「原料」が用いられた。第一次世界大戦で普及した国家総動員の思想は、特に政府や軍関係者の間で「原料」入手の議論を活性化させた。一般では普及しなかったものの、資源概念が生産やモノに向かう傾向が既に看取される。
これらの用語を経て、「資源」が普及し始める。後に戦時首相となる陸軍少佐の小磯国昭は、1917年に『帝国国防資源論』を著している。ドイツの戦時自給経済の原書を入手したことが契機であったが、翌年の軍需工業動員法の審議でも「資源」が頻繁に用いられている。それは、国家総動員の対象が一般国民という人間まで拡張され、天然資源的な「富源」やモノに限定した「原料」では、概念が不十分になったからである。
もっとも「資源」という言葉は、国家総動員の文脈だけから生まれた訳ではない。1909年にアメリカで開催された第二回資源保全会議には、日本政府がシカゴ領事を派遣している。この動きは、19世紀末からの急激な西部開発による森林破壊と土壌荒廃が発端であったが、天然資源は「合衆国民共有に属する」との基本原理が確認された。アメリカの「資源保全」は、節約を通じた資源の有効利用の動きであって保存自体が主目的でなかったが、日本にとって目新しいものであった。それは、国家総動員の対象でなく人間中心の概念を登場させたからである。
こうして、モノとしての資源観に加え、人間社会の働きかけの対象としての資源観が海外経由で受容され、前者は戦時の国家総動員、後者は戦後の民主化へと継がれていった。
貧しい時代の日本には、それゆえ資源問題の原点を豊かに捉える取り組みがあった。 産業革命時代の石炭不足の背後に森林の急激な減少があったように、有機的な一体性と寿命という資源の「生きた」側面は無視できない。だが、かつて身近に感じられた資源問題は近代化で分断され、人口爆発や資源枯渇といった持続可能性の問題に直面した。市場効率や技術解決といった楽観論も、別の次元で問題を引き起こす限界がある。
分断化の所業は、「専門分野」の発達である。過度に分業化された学問体系や行政機構は、セクショナリズムを招来して生態系全体を見るバランスを欠いていった。天然資源は人為的な境界と無関係であるがゆえ、逆に社会の対応力は低下したのである。こうした長期的・総合的な問題には、現場の知識を拾い上げる政府の公共介入が必要となる。その際に何を「総合」の対象とすべきかは、その時代の人間社会が見出し働きかけた要請に応じ変化してきた。日本の場合、戦前では富国強兵から国家総動員、戦後では資源への多面的な着目や自然災害の多発であった。
ここから筆者が導き出す「資源」の定義は、「働きかけの対象となる可能性の束」である。もちろん資源は無限でないが、モノとして捉える考えから脱却すれば、人間の創意工夫による可能性は広がる。天然物的な面と人的知的な面の合体という観点からすれば、「日本は資源に乏しいとは言い切れない」(都留重人)。
人間社会は、どうしても天然資源から人工的な「財(原料)」への転換を必要とする。だが、資源は互いに連関し合い、社会構成から働きかけがなされ、時に災害や環境の問題を引き起こす。すなわち、問い直すべきは、現場の統一性やバランスに配慮した資源利用を人間社会ができるか否かにある。市場効率では解決できない。そして、「資源論」は、今とは異なる選択肢が存在した過去の歴史のなかから、大きな可能性を見出せるのである。
第一章 資源と富源 ―その始まりと日本近代(27頁~)
資源概念の源流は、明治末期から大正初期に登場した「富源」である。当時の未開拓地における鉱山・森林・漁業を扱ったロマン的な出版物に多く、今日で言う天然資源の意味合いが強かった。若き日の柳田国男は、様々な発達により「国内における富の源泉」をめぐる争いが激化することで、その利害を調整する国家が重要となると指摘している。先見性ある逸話として興味深い。次いで、大正期には「富源」から取り出される「原料」が用いられた。第一次世界大戦で普及した国家総動員の思想は、特に政府や軍関係者の間で「原料」入手の議論を活性化させた。一般では普及しなかったものの、資源概念が生産やモノに向かう傾向が既に看取される。
これらの用語を経て、「資源」が普及し始める。後に戦時首相となる陸軍少佐の小磯国昭は、1917年に『帝国国防資源論』を著している。ドイツの戦時自給経済の原書を入手したことが契機であったが、翌年の軍需工業動員法の審議でも「資源」が頻繁に用いられている。それは、国家総動員の対象が一般国民という人間まで拡張され、天然資源的な「富源」やモノに限定した「原料」では、概念が不十分になったからである。
もっとも「資源」という言葉は、国家総動員の文脈だけから生まれた訳ではない。1909年にアメリカで開催された第二回資源保全会議には、日本政府がシカゴ領事を派遣している。この動きは、19世紀末からの急激な西部開発による森林破壊と土壌荒廃が発端であったが、天然資源は「合衆国民共有に属する」との基本原理が確認された。アメリカの「資源保全」は、節約を通じた資源の有効利用の動きであって保存自体が主目的でなかったが、日本にとって目新しいものであった。それは、国家総動員の対象でなく人間中心の概念を登場させたからである。
こうして、モノとしての資源観に加え、人間社会の働きかけの対象としての資源観が海外経由で受容され、前者は戦時の国家総動員、後者は戦後の民主化へと継がれていった。
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