東京財団政策研究所 Review No.5

公益財団法人東京財団政策研究所のリーフレットです。非営利・独立の民間シンクタンクとして、外交・安全保障、経済・社会保障、環境・社会分野の政策提言・普及活動と、国内外で実施する各種人材育成プログラムを行っています。


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0440年前の中国情勢を振り返れば、約30年間の鎖国政策と度重なる権力闘争によって、中国経済は破綻状態に陥っていた。それに関するマスコミの報道や先行研究は枚挙にいとまがない。ここで明らかにしておきたいのは、中国社会と中国経済を窮地に追いやった毛沢東の統治と、これに対する鄧小平およびその同世代の指導者たちの反省、そして自由化に踏み切った決断の考察である。社会の正当性は法ではなく常識と慣習によって決まる中国近現代史を振り返れば、1949年、中国共産党が政権を樹立してから、政治、行政、社会、経済、法律などに関する制度構築がまともに行われなかったことは明らかである。常識的に、いかなる政権でも権力基盤を固めるためには、統治に有利な制度構築を行う必要がある。共産党が積極的に制度構築を行わなかった唯一の解釈として、制度は指導者の権限を制約する枠組みであるととらえ、共産党は制度構築を嫌ったということが挙げられる。国家運営は制度よりも指導者の権力と権威に大きく依存している。その結果、行政部門の権限執行は常に恣意的になりがちである。また、指導者同士の権力闘争も頻発していた。法の秩序が確立されていない社会では、権力闘争の当事者のほとんどは被害者であると同時に、加害者でもある。政治指導者の互いの迫害は連続的に行われたため、国家と国民の利益が犠牲になってきた。加えて、中国政府と共産党は、人民、とりわけ知識人からの批判を封じ込め、指導部の権力闘争に関する歴史検証すら許さず、多くの史料を廃棄処分したといわれている。処分を免れた現存する史料を検証すると、その問題の一端をうかがうことができる。1950年代、劉少奇国家主席(当時)はいったん毛沢東の後継者に指名されたが、1960年代には毛沢東によって粛清され、最後は殺された。劉が迫害された際、中華人民共和国憲法を手に取り、紅衛兵たちに向かって「私は国家主席であり、私の権利は憲法によって保障されている」と反論したといわれている。しかし紅衛兵たちは、すでに人民の敵となった劉の言葉に耳を傾けることはなかった。つまり中国には、憲法にあるべき権威はなかったのだ。こうしてみると、劉少奇は被害者のようではあるが、実は、自身が粛清される前にはほかの幹部らを迫害していたことが、最近の多くの研究で明らかになっている。劉もまた加害者のひとりだったというわけである。「改革・開放」の総設計師と呼ばれる鄧小平も劉とほぼ同じ運命をった。劉より良かったのは、鄧は殺されなかったことだけである。鄧は江西省の小さな国有工場に下放されたが、このような迫害でも何の手続きも経てはいなかった。1976年に毛沢東が死去したあと、江青夫人をはじ中国の正当性は、社会の「常識と慣習」で決められる。本論/習近平はなぜ経済成長を阻害する政策を選ぶのか正念場を迎えた中国経済の原動力を奪い取る「強い中国」の危うさを解明ChinaWatch4


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