【出席者】
・五百旗頭 薫(政治外交検証研究会幹事役/東京大学大学院法学政治学研究科教授)
・小宮 一夫(政治外交検証研究会幹事役/駒澤大学文学部非常勤講師)
・宮城 大蔵(政治外交検証研究会幹事役/上智大学総合グローバル学部教授)
・細谷 雄一(東京財団上席研究員/政治外交検証研究会幹事役/慶應義塾大学法学部教授) *モデレーター
(順不同、肩書は当時)
※本稿は2018年1月30日に開催した政治外交検証研究会の議論、出席者による論考をもとに東京財団政策研究所が構成・編集したものです。
第1回:歴史の教訓を現代につなぐ
「明治150年」と「平成30年」と
細谷 今年は明治元年(1868年)から150年、平成30年の節目にあたります。そこで、本日の研究会では「明治150年を展望する――近代の始まりから平成まで」をテーマに議論したいと思います。
まず、この企画の趣旨を五百旗頭さんからお願いします。
五百旗頭 「明治150年」は重要な節目として、国レベルでも、内閣官房に「明治150年」関連施策推進室を設置し、各省と協議しながらさまざまな記念行事を行うことになっています。
ここでの議論は、明治150年といっても、明治維新や明治時代を記念することに限定しません。今日に至る150年をひとくくりにしてどう把握するのがよいのかを、思い切って議論してみたい。
たとえば、150年を、30年ずつが5回繰り返されたと考えることもできます。それぞれどういう30年だったか。一つめは1868~1898年、つまり日清戦争(1894~95年)の頃までの国民国家を形成し、自立していく時代。二つめは1928年までの戦前の政党内閣制が確立し、民主化がひとつの頂点に達する時代。三つめは1958年までの戦後体制が確立する時代、四つめは1988年、冷戦終結までの時代。そして五つめが冷戦後かつ平成の時代です。
この五つの30年間のなかで、五つめの30年間が一番とらえがたい。それは現在に近いからかもしれないし、平成の時代がとらえがたいものなのかもしれない。この研究会では150年をひとくくりにして考えるとともに、直近の30年をどうとらえるかも議論していきたいと考えています。
サイクルやパターンを見出すことで
細谷 では、まず、今日までの150年はどのような歴史ととらえることができるか。ひきつづき、五百旗頭さんから問題提起をお願いします。
五百旗頭 この150年について議論をするのは難しいことです。
第一に、始まりがあいまいである。ほんとうに150年前の明治維新からでいいのか。近代史を説き起こす際、近世との連続性を強く意識するようになっています。ちなみに、私の近代史の講義では、室町時代後半から現代までを話すようにしています。
第二に、時期区分があいまいになっている。太平洋戦争(1941~45年)は重大な画期であるはずですが、戦前と戦後の連続性についての知見も蓄積され、150年をどこで時期区分していいのか迷いやすくなっている。
さらにいえば、「明治100年」と比べると、「明治150年」のいま、それほど研究や記念ムードが盛り上がっていないのではないか。「明治100年」は、日本の来し方行く末を肯定的に説明するために、当時の政権がさまざまな研究を奨励した経緯があります。これと比べ、「明治150年」が盛り上がらないのは、戦後国家の成熟、もしくは勢いの喪失という事情が背景にあるのかもしれません。
そうはいっても、私は「明治150年」は記念したほうがいいと思います。戦前と戦後が、日米開戦(1941年)まで73年、敗戦(1945年)からも73年と等分されることは明治150年にあたる今年の重大な特徴です。戦前を大胆に総括したうえで、戦後のわれわれにとってもつ意味を考える、という議論をやり直す機会として明治150年をとらえるのが王道なのではないか。
戦前は暗黒だったから戦後はちゃんとしろとか、戦前はよかったから戦後を反省せよ、といった議論も可能ですが、こういう議論はすぐに政治的なインプリケーションをもってしまう。これとは違った見方をしてもよいのではないか。
戦前の歴史に一定のサイクルやパターンを見出せば、戦後日本をうまく運転するための参考になるでしょう。このサイクルやパターンも政治的なインプリケーションをもってしまうかもしれないけれども、かなり遠い過去になったのだから、まずはそういうものの発見に純粋に取り組んで、その政治的含意は後で考えることにしてはどうかと思うわけです。
◆続きはこちら→ 「第2回:基本条約と憲法から150年を語る」
◆英語版はこちら→ Japan since the Meiji Restoration (1): Lessons from Diplomatic and Constitutional History