「人体の不思議展」フランスで初めて開催
2008年5月28日、皮を剥いで臓器や血管や神経などが見える状態で特殊保存した人の死体を展示する、「人体の不思議展」がフランスで初めて開催された(当地での呼び名は、「私たちのボディ、開かれた肉体」)。同種の展覧会はすでに日本で十年ほど前から行われているので、ご覧になった方もいるかもしれない。
ルモンド紙5月29日付記事によると、リヨンで行われているこの展覧会の主催者は医学や教育の関係者ではなく音楽プロデューサーで、最近ニューヨークで行われた同展を見て、興行として有望だと判断し開催に踏み切ったとのことである。パリの人類学博物館や科学センターのような公的機関は、倫理面を配慮して開催に応じなかった。とくにその商業主義的色彩への加担を避けたかったようである。ちなみに入場料は、子ども11.5ユーロ、大人15.5ユーロ(約1900円、2500円)だという。
このフランスで初めての人体展では、よその国では展示品に含まれている、人の生命の発達段階を示す胎児標本がカットされたそうである。フランスでは生命倫理というと常に、人の死よりも生命の始まりに関わる問題に関心が集中し、激しい議論の的になってきた。今回の人体展を巡っても、そのフランス的特徴が色濃く出ていて、興味深い。
フランス生命倫理法における人体の尊重は、人の死後も続く
人の遺骸をこのような展覧に供していいかどうかについては、当然議論がある。人の体の成り立ちを誰もが見ることができる教育的意義を認める一方で、人の亡骸の扱いとして敬意や品位を欠くという批判もある。
フランスでは最近、1994年に生命倫理法によって民法典に導入された人体に関する規定に、死後の人体の扱いについての条項を追加する動きがあった。
臓器移植や遺伝子治療、体外受精などの先端医療の許される範囲を確定するために民法に設けられた「人体の尊重について」という節は、人体の尊厳への侵害を禁じ、人の尊重を保障するとしている。そのうえで、人体とその要素・産物は、本人の同意と無償の原則に則って用いられなければならないと定めている。だが身体の尊厳の保障が人の死後も続くのかどうかについて、明文の規定はなかった。
そこで2008年12月に公布された法律によって、「人体の尊重は死によっても終わらない。・・亡くなった人の遺骸は、敬意と尊厳と品位をもって扱われなければならない」という条文が民法の人体尊重の節に新設された。これに合わせ、裁判官が人体への不法な侵害を防ぎ差し止めることができる権限は、人の死後にも及ぶとする規定も新たに追加された。
ただこの法律は、死体の展覧会の是非に対応するためにつくられたものではない。フランスで近年増加してきた火葬の管理のための立法なのである。
フランスはカトリック国で、いまなお土葬が主流である。そのため火葬した後のお骨(遺灰)をどう扱えばいいかについて慣習が定まっておらず、とまどいが広がっている。墓に埋葬するのは丸ごとの遺体だとの固定観念があり、お骨は墓に安置するものとは思えないようで、どうしてよいかわからず、壷に入れたまま庭先に放置したり、地下鉄の駅に置き捨てたり、骨董屋に売ったりする例が相次いで、政府や国会が対応を考えなければならなくなった。先の法律の規定は、そうした公序良俗に反する遺骨の扱いを防ぐために設けられたもので、尊厳をもって扱わなければいけない「遺骸」には、「火葬にふされた人の遺灰も含む」と特記されている。
このように当初の趣旨はまったく別の問題ではあったが、立法が実現した以上、この民法の新しい規定が、死体の展覧会の是非を判断する根拠にされることはありうる。目に余る見せ物が横行するようなら、裁判官が人体の尊厳の保護の名の下に、差し止めを命じることも可能になったのである。人の尊厳が死後に踏みにじられかねない事態が生まれる現代の状況に対して、社会が倫理に基づき判断を下すのに使える仕組みが、フランスにはあるということである。
そして2009年4月、この法的仕組みが実際に発動されることになった。人体の不思議展はその後、2008年12月にマルセイユで、2009年2月からはパリで開催された。これに対し2009年3月、人権団体「死刑反対団」および「中国連帯」が同展の禁止を求める訴えをパリ大審裁判所に出し、4月21日、同裁判所は急速審理*により、同展の中止を命じる決定を下した。「遺体の尊重への明らかな侵害」であり、「品位を欠く」というのがその理由である。これはまさに前述の民法典の新条文がそのまま適用されたものだ。
敗訴した主催者側は、展覧会を一時閉鎖したうえで直ちに控訴した。だがこれも迅速に4月30日に出された控訴審判決は、一審の中止命令を支持した。判決理由では、展覧会主催者側が、遺体の出所が正当であることを証明できなかったという判断が示された。中国の死刑囚などの遺体が、本人や遺族の意に反して加工保存され展覧されているという人権団体の訴えが考慮されたようである。ふたたび敗訴した主催者側は、破毀院に上告するとしている。[以上は、リベラシオン紙2009年4月21日電子版、ルモンド紙4月23日・5月3-4日付記事、およびRecueil Dalloz, no.19, 2009, p1278-79による]
人体の不思議展は遺体の尊重に反するとしたこの司法判断が、フランス一国にとどまるのか、それともヨーロッパなどのほかの国での開催にも影響するのか、予断を許さないところである。
*「急速審理」:違法な侵害をやめさせるための措置を命じるよう迅速に裁判所に求めることができる手続き[三省堂『フランス法律用語辞典』参照]。
日本ではどうか
では日本ではこの問題はどう扱われているだろうか。
先のルモンドの記事は、人体展の成功は日本で始まったとしている。日本で「人体の不思議展」が初めて開催されたのは1996年で、1998年にいったん終了した後、2002年頃から主催団体を変えて、全国各地で断続的に開催されるようになり、今に至っている(ウィキペディア「プラスティネーション」より)。同展の公式ホームページによると、2008年5月末から青森で開催中、7月末からは盛岡で行われる予定になっている。入場料は大人1400円、中・高校生700円、小学生400円で、フランスよりもかなり安い。
2002年以降の展示は、中国からの死体標本を利用しているという。フランスでの展示も香港の業者が標本を提供している。
日本でも、人体の不思議展に対し、死体を興味本位の見せ物にして金儲けの道具にし、死者の尊厳を冒涜しているとの批判があり、「人体の不思議展に疑問を持つ会」などの反対運動もある。だが、各開催地では地元の自治体、教育委員会、医師会やマスコミなどが後援し、多くの入場者を集めているようで、催し物として受容され成功していることは間違いないようだ。
遺体の利用の是非:外国人の展示は法規制の対象外
遺体をこのように利用することはいいことなのか、わるいことなのか。倫理的問題もさることながら、法的には、日本人の遺体を展覧会に供することは認められない公算が大である。死体解剖保存法によって、死体の全部または一部を標本として保存することができるのは、「医学の教育または研究のためとくに必要があるとき」に、解剖の資格を認められた医師や医大教授、特定機能病院の長などに限られている。それ以外の場合は、知事などの許可が必要になる。死体の取り扱いにあたっては、礼意を失しないように注意しなければならないとの規定もある。
だがこの法規は、外国で提供され保存された遺体には及ばない。先に述べたように、人体の不思議展で保存され展示されているのは外国由来の遺体だから、資格外の業者による実施に対しても、法的には問題にならないということなのだろう。少なくとも、死体解剖保存法を所管する厚生労働省は、同展の開催に対し公的なアクションをとったことはないようである。
遺体の利用の是非:日本人の手術研修はだめ?
一方、厚生労働省は、先端外科手術の研修に遺体を用いる事業を認めないでいる。
内視鏡などの特殊な器具を使って、通常よりもはるかに小さな切開口だけで手術を行う技術の開発が近年盛んになっている。患者の負担が少なく、入院日数が短くなり医療費を軽減できる利点があるが、器具の操作には相当の熟練を要する。そのため生きたブタを用いた研修が行われるが、人体の構造や感触とは違いがあり、動物愛護の観点からの限界もあるため、諸外国では、特殊保存した遺体の一部を用いた研修も行われている。だが国内では公認されていないため、熱心な医師は米国などに渡航して研修を受けるしかない状況である。
そこで民間の整形外科医らがNPO法人を設立し、2007年に、遺体を用いた手術研修事業を国内で公認するよう特区申請した。これに対し厚生労働省は、死体解剖保存法の解釈を盾に、この事業申請を認めなかった。外科医の研修は、同法が遺体の利用を認めている「教育研究」目的に入らないというのである。加えて、医学界全体からの要請がないことも却下の理由に挙げている。
こうした全否定の姿勢に国会で疑問が出されたのに対し、厚生労働大臣は前向きに検討すると答弁、それを受け厚生労働省は、遺体を用いた手術研修の必要性を把握するため、関連外科学会の幹部で構成する研究班を設けたところである。
解剖実習を受け入れた日本人は、手術研修も受け入れるのでは
人の死体を、「教育目的」で不特定多数の一般人相手に業者が展示するのは黙認されているのに、外科医が修練を積むための練習台にするのは認められない--それが日本の現状である。はたしてこれでいいのだろうか。遺体の扱いの適正さについて、一貫した判断の下に対応が行われているとは思えないのだが、いかがであろうか。
厚生労働省は、遺体を手術の研修に用いることを、国民は受け入れていないという。しかし、札幌医大が、特区申請したNPO法人MERI Japanなどと共催した2008年2月の公開市民集会では、遺体を用いて手術の研修をさせてほしいという医師からの提案に対し、アンケートに答えた参加者の7割が、そのための献体に賛同するとした。
この背景には、1983年に「医学及び歯学の教育のための献体に関する法律」が成立して以降、死後に遺体を医学教育の解剖実習用に提供する行為(献体)が普及したことがあると思われる。自分が、あるいは家族が死んだ後、遺体が腑分けされることを受け入れるのは、ためらいと苦痛を伴う決断である。だが現在、日本の医系大学の解剖実習のほとんどは、そうした自発的な献体でまかなわれており、多くの大学では必要以上の献体をいただいて余るまでになっている。
まだ素人同然の医学生が全身を切り刻むことを受け入れる人がそれだけいるのだから、すでに経験を積んだ外科医が、さらに高度の技術の習得を目指して遺体の一部を使わせてほしいとの申し出が、受け入れられないはずはないのである。
人の尊厳に基づく適正な遺体の扱いとは
「人の尊厳」は、生命や身体への介入の何をどこまで認めてよいかを考える生命倫理の議論において、最も基本的な根拠概念である。臓器売買が罪とされたり、脳死者からの臓器摘出が制限されるのは、身体の一部といえども粗略に扱われれば人の尊厳を損なうと考えられているからである。
人の尊厳は生きている間だけのことで、死後にはなくなるとは考えられていない。生命倫理が問題になる前から、刑法では、死体損壊と墳墓発掘を罪としてきた。遺骨や遺髪も死体損壊罪の対象とされている。
人の尊厳は、公の秩序に属する事柄で、個々人の意思を超えて保護されなければならない公益である。本人が同意したからといって、すべてが正当化されるわけではない。遺体を利用するには、正当な目的と意義が認められなければならない。本人同意は必要条件ではあるが、十分条件ではない。
業者による未成年者への死体の展示を「教育」として受け入れながら、医師の研鑽のための死体の利用は「教育研究」ではないから認めないという理屈は成り立つはずがない。
また、外国人の遺体だから展示しても問題にならない、外国で死体利用の研修を受けるのも然り、だが日本人の遺体で国内でやるのは認められない、というのなら、死後の人の尊厳は、国籍ないし属地を条件として限定されると考えていることになる。異なる文化や国民性を議論に持ち込むのはありうるとしても、十分な検討なしに単純に国の内と外で判断を分けるダブルスタンダードは、認められないだろう。
「人体基本法」の提案
ではどうすればよいか。死体解剖保存法は、太平洋戦争敗戦後の、死因も明らかでないまま多くの国民が亡くなる劣悪な公衆衛生環境を改善する目的でつくられた法律である。しかし今や、死後に医療や研究目的で臓器や細胞の提供を求められる時代になった。展覧会や手術研修に遺体を供することの是非まで問われるようになった。そうした現代の状況に対応するために、この際、死体解剖保存法を献体法と合わせて根本的に見直し、新たに「人体基本法」のような立法を構想するべきだと考える。
そこで、教育・研究目的での遺体の利用について、認められる目的や実施主体の資格などについて基準を示すとともに、本人同意や無償の原則を法定化すればよい。対象には国内での譲渡だけでなく輸出入も含める。違反には行政または司法による差止などの措置をとれるようにし、悪質な場合には刑事罰を科すことも考える必要がある。臓器移植法の統合も視野に入れるべきだろう。
こうした立法の先例としては、フランスの生命倫理法のほかに、イギリスで2004年に制定された人体組織法などがある。当プロジェクトでは、そうした外国の事例も参考にしながら、日本での「人体基本法」の実現可能性について、研究を進めてみたい。
ぬで島次郎 プロジェクトリーダー