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【書評】『大平正芳―「戦後保守」とは何か』福永文夫著

February 20, 2009

評者:佐藤晋(二松学舎大学国際政治経済学部准教授)


大平象と本著の特徴
本書は、大平正芳の政治的生涯を通じて「戦後保守」の内実を解明しようとするものである。大平は、一般に「吉田茂―池田勇人」の系譜を引く「保守本流」の「嫡子」とされているが、著者によると、大平は「戦後」の価値観を内面化した政治家であって、さらに「吉田流」の国家運営では対応しきれない1970年代という大転換の時代を生きた人物であることから、この点が他の保守政治家との違いを示すことになったという。大平は吉田と近い「商人国家」観の持ち主であったが、大平をはじめとする池田側近グループが吉田と異なっていた点は、戦後民主主義と平和感覚を尊重した点にあった。つまり、池田・大平の思想は、戦後民主主義の受容の上の保守主義であったのであり、これを著者は「新保守主義」と呼んでいる。さらに大平と池田の違いは、大平が経済成長至上主義の立場を批判して、そこに人間の内面や文化を対置する考えを持っていた点にあった。

また、大平が使った「戦後の総決算」とは、中曽根康弘が用いた「戦後政治の総決算」が占領政策の是正という復古的なものを含んでいたのに対して、経済復興のみに専念して他を省みないという戦後日本の基調であった吉田型の国家運営を乗り越える意思を示すものであった。このように、大平は、占領改革の是正を考えていないという点で、「岸信介―福田赳夫」のラインとは区別される。さらに著者によれば、大平の盟友であった田中角栄もこの「岸―福田」ラインに属するものとされる。要するに大平の国家観は、岸・福田らに共通する国家主義的な政治思想とは大きく対照をなす、きわめて権力の行使に抑制的なものであった。

以上が、著者の描き出す大平像であるが、本著の特徴は、大平の政治に幼少期からの思想的形成のあり方と宗教的影響を読み込もうとする点と、大平側近が残した資料に基づいて、政局の動きを生き生きと描き出している点にあろう。とりわけ後者の点について、二つほど興味深い点を挙げておこう。まず、大平は池田側近として知られるが、実は池田政権末期には、大平が独断で日韓交渉の鍵であった「大平・金メモ」を結んだこと、池田の三選に反対したことから、両者の関係は非常に冷たいものとなっていたことである。また、ポスト池田をめぐっても、佐藤栄作を推す大平と藤山愛一郎を推す前尾繁三郎の間で宏池会は分裂の様相を示していたとされる。このとき大平は、佐藤派の田中角栄と協働するが、その後の佐藤政権では佐藤は大平を優遇することはなかった。これは佐藤が、田中と結びついた大平が中心となって宏池会の勢力を盛り返すことを嫌ったためとされる。

次に、いわゆる「椎名裁定」に関して、大平は公選による勝利に見込みを持ってこれに反対であったが、三木、福田、中曽根らとともに事前にこの「裁定」の中身を知り、盟友の田中にこれを覆すべく相談に行ったが、田中のつれない返事にあって「裁定」を受け入れざるを得なくなったことである。椎名悦三郎が日中国交正常化にあたって台湾に特使として派遣されたときの扱いで大平に恨みを持っていたとの指摘も興味深いが、このときの田中は、三木武夫を「組みしやすい」と見ていたようである。さらに「三木おろし」から「福田・大平の密約」などの一連の政界の動きも生き生きと描写されており興味深い。

1970年代研究の手がかり
また本書から、大平正芳という政治家が、戦後日本の岐路となった重大事件にいかに関係していたかを知ることができる。とりわけ1970年代は、外相、蔵相、幹事長を経て首相の責を担い、日中国交正常化、金大中事件、第一次石油ショック、第一回サミット、第二次石油ショック、東京サミット、ソ連のアフガン侵攻への対応、対中円借款供与などの重要な意思決定を行ったのである。この大平が国政の重責を担った1970年代は、その初頭におけるブレトンウッズ体制の崩壊から始まった通貨制度の混乱と資源価格の高騰といった不安定要素に満ちた世界であった。その様な認識の上に立つと、本書によって提示された見取り図は、以下に挙げるような点で1970年代研究の手がかりを与えてくれるものとなっている。

第一に、これまで「サッチャー・レーガンから中曽根へ」と理解されてきた「小さい政府」論、または「財政再建」重視の思想の源流についてである。この思想は、著者によれば、大平が少壮のころから抱いていた思想であり、それは1970年代半ばの大量の国債発行による人為的な景気浮揚の後に首相となった大平が、「一般消費税」の導入に政治的命運をかけて財政再建路線を推進するという形になって現れたのである。つまり1970年代の世界的な先進民主主義国に共通して見られたガバナビリティの低下現象への解は、大平の年来の主張の中に胚胎していたと言えるのである。

二は、経済問題の多くを市場原理にゆだねる考え、または「民間活力」利用についてである。これは、蔵相を務めていた三木内閣時の公共料金改定問題において市場価格へのさや寄せを主張したことにも示されているが、第二次石油危機時の対応に典型的に現れていると言える。カーター大統領も、エネルギー価格の規制緩和による市場メカニズムの導入をめぐって苦闘していたが、このとき大平は、政府介入による価格統制を行ったことで、かえって石油製品の供給が滞った第一次石油危機時の反省から、市場原理による解決を選ぼうとしたのである。半面、この思想が、輸入量規制を政府間で合意しようとした東京サミットにおいては後手を取るもとになったのだが。ただし、このサミットで合意された規制枠はその後の市場の動きから見ればまったく無意味なものとなり、大平の対応策の正しさが示されたといえよう。

第三に、これまで国際協調重視と捉えられていた大平外交の再検討が必要である。大平は、ロンドン・ボンの両サミットでいわゆる「機関車論」を受け入れて約7%の成長を公約した福田前内閣の方針にはこだわらないと述べた。これは、主に赤字公債の発行に依存した成長を否定したものであったが、半面で国際公約をないがしろにしたものとの批判も成り立つものであろう。

以上のような論点を通じて、本書では福田との対比が利用されており、これは各政局場面(政策内容)における自民党内部の対立を通して、大平の思想・政策を浮き彫りにするという本書の特徴を生んでいる。たとえば福田は、国家・政府の役割を重視し、本来の主張とは異なるものの、政府を率いてからは、市場への介入、赤字財政による減税、機関車論の受け入れによる高成長率維持といった政策をとったが、これらに対して大平は批判的であった。

今後のテーマ
最後に、本書通読後に評者がより深めていくべきと感じた今後のテーマを指摘しておきたい。本書でも触れられているが、第一に、なぜ大平は田中との緊密な提携関係を築き維持し続けたのであろうか? 一見、性格的には大きく異なり、経済運営においても対極にあるかのような両者の関係の深奥には何があったのであろうか?

第二に、大平の安全保障観はどのようなものであったのか? 日中国交正常化に際して台湾を切り捨てることに躊躇がなかったかのような大平であるが、当時の主流の考えは日本の防衛にとって台湾が西側に帰属していることを不可欠とするものであったことから、大平の決断の背後にあった情勢判断、より広く大平の防衛問題への考えについて知りたいところである。

第三に、大平を当時の他国の指導者と比較した場合の類似点、相違点はどのようなところに見出されるであろうか? 本書を踏まえれば、1970年代の金融混乱、資源問題、財政危機、スタグフレーション、さらには「新冷戦」といった課題は、先進国共通の問題であり、かつ一国のみの対応を超えたグローバルなテーマであった。それゆえサミットが開催される理由もあったのである。日本はもはやアメリカに追随するだけで済むような状況ではなくなっていた。むしろ西側第二位の経済大国として世界をリードする必要があった。

大平の政治活動は、著者の言葉を借りれば、池田内閣において「護憲と日米安保を共存」させた保守本流路線を、より国民的基盤に根ざしたものへと変容させることから出発した。そして、転換期の1970年代の日本を運営するべく首相の任に就き、外では日本を「西側の一員」として多元化する国際関係の中で位置づけた。しかし、著者は、1980年代に中曽根内閣以降強まっていった、競争原理を重視して経済効率のみを追求する「臨調路線」とは、大平の思想は異なると主張する。「小さな政府」、「規制緩和」、「民営化」と語られる言葉は同じであっても、そこには、人間の内面を重視し「文化の時代」を唱える大平独自の思想、言い換えると「人間性の回復」と「社会統合の回復」を願った暖かな発想が見られないのである。

    • 政治外交検証研究会メンバー/二松学舎大学国際政治経済学部教授
    • 佐藤 晋
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