評者:黒澤 良(学習院大学法学部兼任講師)
― 目次 ―
第1章 久光体制の確立と上京政略
第2章 錯綜するイデオロギー
第3章 率兵上京と中央政局
第4章 寺田屋事件の深層
第5章 久光vs.京都所司代――朝廷での政争
第6章 朔平門外の変――薩摩藩最大の危機
第7章 八月十八日政変――首謀者は誰か?
第8章 元治・慶応期の久光・薩摩藩
幕末維新期にあっては、坂本龍馬や西郷隆盛、桂小五郎など「綺羅星」のような立役者たちに注目し、彼らが声望と実力を兼ね備える以前にあっても、その動向を過大に評価する歴史叙述を目にすることがある。これに対して、本書の著者である町田氏は、本質的に歴史を回天させていた「梃子」的な人物として注目すべき人物に、朝廷にあっては孝明天皇と中川宮、武家にあっては島津久光の名を挙げる。いずれもが今日では必ずしも名を知られていない顔ぶれだが、幕末政治史を探求する著者の目には、彼らが「紛れもなく超一流であり、魅力的であり、間違いなく綺羅星」に映ずるという。なかでも、絶大な影響力をもち、回天の梃子を演じた人物が本書の主役、島津久光であり、「久光あっての幕末史であり、また久光なくして幕末は語ることができない」と高く評価する。徳川慶喜は久光が幕府に登用を強要しなければ、将軍に就いたとしても歴史にどれほどの名を刻めたかは心もとなく、松平容保も久光が率兵上京しなければ、会津の地にとどまり、歴史の表舞台にたつことはなかった可能性が高い。薩摩藩を代表する人材である大久保利通と西郷隆盛にしても、久光がいなければ維新の三傑に名を連ねるどころではなかったかもしれない。
島津久光は文化14(1817)年に十代藩主斉興の五男として生まれている。母は嘉永朋党事件(お由羅騒動)で知られる由羅、出生は長男斉彬に遅れること八年であった。安政5(1858)年に名君の誉れ高かった斉彬が死去すると、遺言により久光の実子茂久が第十二代藩主に就任し、ほどなく藩主の実父、薩摩藩国父として藩政の中枢に就いた。だが、久光が単なる藩主の実父に過ぎなかったことから、久光父子は藩内外で自らの存在の軽さに悩まされることとなった。久光は、まず島津一門による門閥体制打破のために、小松帯刀・大久保一蔵(のちの利通)ら久光四天王を登用し藩内基盤の強化につとめる。本書ではとりわけ小松帯刀の功績を強調する。また、藩外すなわち武家社会での発言力を確保するためには、京都と朝廷をその影響下において後ろ盾とすることが必要であった。そこで、本書の目的は、久光を中心に置きながら、その周辺の人物・出来事を通して、政治の中心が江戸から京都に移行した画期にして激動期であった文久期を、特に重要な「中央政局」(政治的策謀の舞台となった京都を中心とする政局)を中心に描くことにおかれる。
もちろん薩摩藩に関する興味深い記述にも富んでいる。久光が政治家であったとともに、儒学・漢詩・和歌・書道に秀で、国学にも通じる類稀なる文化人・文学者であり、斉彬がその学才を認め、自分はとても敵わないと絶賛していたこと、また斉彬と久光との関係が後継争いを繰り広げた当事者間のそれではなく、久光にのみ諮問した政治的課題があるなど、斉彬の久光に対する信頼と期待が深厚であったことが指摘される。それとともに、久光、そして薩摩藩が幕末期にあれほどの活躍をできた理由の一つとしては、徳川将軍家との濃密な姻戚関係、摂関家筆頭の近衛家との長期にわたる関わりに言及する。三代・家光以降の徳川将軍家は、御台所を基本的に皇族ないし摂関家から迎えており、大名からの輿入れは外様大名である薩摩藩・島津家からの二例、すなわち八代・家斉と茂姫、十三代・家定と篤姫しかなかった。また、近衛家との関係は島津家の祖・忠久までさかのぼることができ(忠久は近衛家の家司)、茂姫と篤姫は近衛家の養女となったことで将軍家へ輿入れがかなった。薩摩藩が朝廷に近衛家という絶対的な利益代表を有し、さらに将軍家と姻戚関係にあったからこそ、久光は幕末期の主役に躍り出ることが可能となったのである。
本書は、「開国派」「尊王攘夷派」「公武合体派」といったレッテル貼りを離れて、率兵上京、寺田屋事件、朔平門外の変、八月十八日政変などに関して丹念に中央政局を読み解くことに努めている。特に文久3(1863)年の朔平門外の変、国事参政であった姉小路公知の暗殺事件が薩摩藩にとっての最大の危機として注目されている。以上のように、本書は、久光の政治人生におけるクライマックスを文久期におき、中央政局に主たる視点を定めて分析を展開している。本書を読み終えて、次には文久期以後、例えば参預会議や王政復古政変に臨んだ久光の言動、また薩摩藩の藩内状況の詳細などについても知りたくなる。筆者にはその後の久光についての作品を期待する。幕末維新史研究の好著である本書をひもといて歴史の新発見を体験していただきたい。