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【書評】『アジア地域主義とアメリカ-ベトナム戦争期のアジア太平洋国際関係』曺良鉉著

November 16, 2009

評者:高橋和宏(外務省外交史料館)


はじめに

戦後アジア太平洋地域において、「地域主義」が主要な外交テーマとなった時期がこれまでに3度ある。最初が1960年代半ばの時期で、ASEANやアジア開発銀行という現在の国際政治経済に重要な地位を占めるに至ったものから、10年足らずでその役割を終えることとなる東南アジア開発閣僚会議やASPACなどの地域機構が次々に誕生した。次の時期が冷戦終結と重なる1990年前後であり、日豪のイニシアティブによりAPECという広域地域協力が成立する一方で、マレーシアのマハティール首相が提唱したEAEG構想が、米国の強硬な反対により挫折するというドラマティックな展開をみせたことは、なお記憶に新しい。もっとも近年ではアジア通貨危機(1997年)により「東アジアの奇跡」が終焉して以降のアジア通貨基金構想や、危機を背景にASEAN+3(1999年)などの地域協力が進んだことが挙げられる。

さて現在、東アジア共同体構想が熱意をもって語られているが、これはアジア太平洋地域における「地域主義」の第4の機会の入口なのだろうか。そうしたことを考える上で、歴史の知見をふんだんに提供してくれるのが本書である。

本書の構成と概要

本書は、アジア太平洋地域において「地域主義」が主要議題となった第1の機会、すなわち1960年代半ばのアジア地域主義の展開を米国外交との関連に注目しながら実証的に描き出した労作である。本書の構成と概要は以下のとおりである。

序 章 アジア地域主義とアメリカ
第1章 ジョンソン政権のアジア地域主義政策
第2章 ジョンソン構想の展開
第3章 アジア開発銀行
第4章 東南アジア開発閣僚会議
第5章 アジア太平洋協議会
第6章 東南アジア諸国連合
終 章 結論と展望

序章において著者はまず、1960年代半ばのアジア地域主義に関する先行研究は、当該期における政府間協力機構の設立を域外要因(米国の対アジア政策)ないし域内要因(アジア諸国のイニシアティブ)のいずれかの帰結として単線的に把握していると指摘する。そのうえで、その不十分さを補うために、米国とアジアの認識と行動が相互作用するなかで諸地域機構の性格が規定されていくという視角を提示し、当該期にアジアに成立した諸地域機構の多様性の根源を解き明かすことを研究課題として明示する。

第1章は、アジア地域主義の「産みの親」とされる、ジョンソン米大統領によるジョンズ・ホプキンズ演説(1965年4月7日)の立案プロセスを実証している。同演説は、ベトナム政策における方針転換を大統領自らが米国民に説明するという政策意図が発端にあり、東南アジア開発問題は、演説案作成過程でW.リップマンからの示唆を受けて含まれたものであった。その後、東南アジア開発計画(ジョンソン構想)の検討過程において、米国政府部内では経済・社会開発を目的とする地域機構(「東南アジア開発連合」)設立が考案されたが、そうした地域主義的アプローチは軍事・安全保障面には適用されず、従来の同盟体制が継続された。著者によれば、非軍事的手段による中長期的な西側陣営強化を模索した一連の「開発外交」は、ジョンソン政権のアジア政策の不可欠な要素の一つであった。

第2章では、ジョンソン構想実現のために米国政府が提起したアジア版CIAP構想が挫折するまでの経緯を明らかにしている。米国政府は当初、南米に設置した「進歩のための同盟米州委員会(CIAP)」型の多国間地域機構をアジアにも設立することを目指した。その方針は、国連との協議により、国連の傘下にあるメコン委員会を拡大して活用するというラインに軌道修正して各国に提案されたが、カンボジアなど東南アジア諸国の賛同を得られずに頓挫した。結局、米国が選択しえたのは、教育や運輸といった分野ごとの地域枠組みを並列的に育成することであった。

第3章では、アジア開発銀行(以下、ADB)の設立(1966年12月)過程を検証している。ADBをめぐって、アジア側では1950年代半ばからその設立の可能性が検討されていた。米国は当初、こうした動きに慎重な姿勢をみせていたが、ジョンソン構想発表後はADBの潜在力に対する期待から、その設立を積極的に支持にすることとなり、出資はもちろん、他の西側諸国へもさまざまな働きかけを行った。こうした分析をふまえ、著者は、ADBはアジア側の自主的な構想として生まれたが、その実現には米国の支持と参加が必要であったと指摘する。

第4章は、東南アジア開発閣僚会議(以下、開発閣僚会議)に帰結するジョンソン構想発表後の日米間交渉を主に分析している。ジョンソン構想後、米国からの働きかけを受けた日本外務省は同構想に対応する地域機構案を検討するものの、財政面の困難やベトナム戦争との関連性への懸念から、政府部内の支持を得られなかった。そうしたなかで、東南アジア開発の「ムード作り」として浮上したのが開発閣僚会議構想であり、日本政府による被招請国の参加獲得に向けた外交努力の結果、1966年4月に第1回会議が開催された。他方、米国政府は開発閣僚会議を推進する日本に対し直接的な関与を控えていくものの、会議自体はそのアジア政策にかなう有用なものと位置づけていた。以上のプロセスを緻密に検証したうえで、著者は、開発閣僚会議は拡大する経済力を背景に対アジア政策の積極化を目論む日本が、ジョンソン構想をきっかけとして独自の援助組織を作り上げようとした試みであったとして評価している。

第5章は、韓国のイニシアティブにより提唱されたアジア太平洋協議会(以下、ASPAC)を取り上げている。韓国政府は会議提唱にあたって、当初はアジア反共体制の構築や日韓国交正常化交渉への国内外からの支持獲得を目指し、後には東アジアにおける日本の影響力拡大牽制などを目論むなど多様な外交目標を考慮していた。被招請国の態度は当初懐疑的であったが、韓国政府が会議の反共色を薄めたり、各国が要望した日本の参加獲得に力を注ぐなどの外交努力を重ねた結果、会議開催が実現した(1966年6月)。この間、米国は東アジアにおける共産主義勢力拡大への懸念や韓国の国際的な孤立感緩和などを理由として韓国提案を前向きに評価しており、会議開催に向けた韓国政府の外交活動を側面支援したが、ASPACを反共同盟組織として誘導する意図は有していなかった。

第6章では東南アジア諸国連合(以下、ASEAN)設立に向けた東南アジア諸国間の外交交渉と、それに対する米国の対応を軸に議論を展開している。インドネシアでのスカルノからスハルトへの権力移譲後、東南アジア諸国ではインドネシアを含めた新たな地域機構設立構想が浮上した。各国は錯綜する利害対立を抱えながらも会議開催に向けた交渉が進められ、1967年8月には第1回ASEAN外相会議が実現し、政治・安全保障面での地域機構としてASEANが設立した。こうした動きに対し、米国は各国の自主性を見守る「低姿勢」外交に徹していたが、その背後には、ASEANを公式に同盟化するよりも、同盟ではないが米国の国益に沿う地域機構にしておくほうが望ましいという現実的な政策判断があった。

以上の議論をふまえ、終章ではまず、1960年代半ばのアジア地域主義を提唱と交渉という視点から、1.米国が設立を提唱し、アジア側に働きかけたケース(アジア版CIAP構想)、2.米国に触発されて提唱されたが、設立過程ではアジア側が主導したケース(開発閣僚会議)、3.アジア側より提唱されたが、その設立には米国の支持を必要としたケース(ADB、ASPAC)、4.提唱と交渉過程のいずれもアジア側が主導したケース(ASEAN)、という4つに類型化する。そのうえで、地域機構設立における米国とアジアの影響力はいずれも限定的であり、両者の多様な利害関係が影響しあう相互作用のなかで、両者の認識と行動が相対化されていくメカニズムこそ当時のアジア地域主義の特徴であったと結論付けている。

本書の評価

本書の最大の貢献は、ジョンソン構想の立案過程と諸地域機構設立をめぐる国際関係を、米国・日本・韓国の外交文書を丹念に紐解きながら、緻密に描き出した点にあるだろう。90頁にも及ぶ「注」は、一次史料に対する著者の真摯な姿勢を示すものであり、その膂力に敬意を表したい。

米国とアジアの相互作用という視点にもブレがなく、議論は明快で説得的である。本書が取り上げた地域機構の設立に関しては、近年いくつかの論考が示されているが、本書によって論点はほぼ整理されたといってよいだろう。

また、米国が経済的安全保障としての地域主義の役割には注目しつつも軍事・安全保障分野では既存の同盟構造の変化を望んでいなかったこと、ジョンソン政権にとっての「開発外交」の位置づけ、開発閣僚会議に帰結する日本の対東南アジア政策積極化の意図、ASPAC設立過程における韓国政府内での開催目的の変化など、1960年代の外交史研究や国際関係史研究にとって重要な指摘を、実証に基づいて提起していることも本書の価値を高めている。

そうした評価を前提としたうえで、本書の課題、ないし当該研究テーマの発展の可能性について、評者の関心にひきつけながら考えてみたい。

第一に、「比較事例分析」をふまえて、そこからどう「時代性」を描き出すかという問題である。本書が分析の対象としているのは、個々の地域機構が設立されるまでのプロセスであり、地域機構設立後の国際関係は検証の射程外に置かれている。もとより、これは「ないものねだり」だが、設立した諸地域機構の展開過程を捨象した結果、アジア太平洋国際関係をより長い時間軸でみたときに当該期のアジア地域主義がどのような位置づけにあるのかといった、俯瞰的な視座からの議論が薄れてしまったのは否めないだろう。たとえば、当該期のアジア地域主義はその後の東南アジアの経済発展にどのようなインパクトを及ぼしたのだろうか。ベトナム戦争終結と連動してアジア地域主義が停滞したのはなぜなのか。「東南アジア」という地域概念が形成されていくうえでアジア地域主義はどのような意味を有したのだろうか。あるいは、南北問題の高まりや西ヨーロッパ経済統合の進展といった国際経済システムの変動はアジア地域主義の展開にどのように関係していたのだろうか。本書を通じて鮮鋭な議論を展開した著者が、こうしたマクロな設問に対してどのような見解を示すのかを知りたいと思うのは評者だけではないだろう。

次に、米国とアジアの相互作用という視角を、多国間関係のなかの相互作用という視角に発展させる可能性である。著者は当時のアジア地域主義の特徴が「アメリカ側とアジア側の利害関係が影響し合う相互作用の中で両者の認識と行動が相対化されていくメカニズム」にあったとしている。だが、こうした特徴は必ずしも当時のアジア地域主義に特有のものではなく、たとえば、ヨーロッパ統合の事例などにも当てはまる国際関係の見方だろう。他方、本書でも、ASPAC開催にいたるまでの日本と韓国との交渉や、ASEAN成立までの東南アジア諸国間でのせめぎ合いを詳述しているように、アジアの中での相互作用もまた、アジア地域主義を語る上で欠かせない要因であった。つまり、当該期のアジア地域主義をめぐる国際関係は、米国とアジアという二項構造とみるよりは、マルチな枠組みの中の多重的な相互作用としてとらえるほうが実相に近いように思われる。そしてこの視角は、本書の副題にも掲げられている「アジア太平洋国際関係」を多角的な国際関係史として描く、「アジア太平洋国際関係史」という新たな研究分野を開拓することにもつながるのではないだろうか。

さて、評者は本書をもっぱら国際関係史の優れた実証研究として読んだが、「あとがき」で著者自らが述べているように、本書は歴史家のみならず幅広い読者に多くの示唆を提供するだろう。とりわけ、東アジア共同体構想が注目されている現在、著者が浩瀚な史料から紡ぎだした史実は、アジア地域主義の将来を考えるうえで格好の知的素材である。

    • 政治外交検証研究会メンバー/防衛大学校人間文化学科准教授
    • 高橋 和宏
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