評者:佐藤晋(二松学舎大学国際政治経済学部教授)
本書の構成
本書は、吉川弘文館から出版されつつある戦後日本政治の通史のうちの一冊である。池田慎太郎氏による第2巻は、日本がサンフランシスコ講和によって「独立」を達成した日から1960年の安保改定までの時期を扱っている。各章の章立ては、次の通りである。
プロローグ 「独立記念日」のない国
第1章 独立日本の出発(吉田内閣期)
第2章 政権交代の試練(鳩山内閣期)
第3章 「親米」と「自主独立」のはざま(石橋・岸内閣期)
第4章 安保改定と反対闘争(岸内閣期)
エピローグ 未完の「独立完成」
各章のタイトルから分かるように、本書の視点は、外国軍隊が駐留する状態での「独立」を「形式的な独立」と位置付け、この期間の日本の政治外交を、その状態を独立国として当然あるべき状態にもっていくことで「独立完成」を達成しようという苦闘の歩みとして描くことにある。このように、吉田茂主導で実現した「独立」を不完全なものとして批判する考えは、保守勢力内の「反吉田派」及び革新勢力によって持たれていた。したがって、こうした視点に立つ本書は、当時の政治的対立を復元した形の政治史という色彩を帯びている。
とはいえ、本書には当時の政治勢力がほとんど意識していなかった重要な視点が付加されている。それは沖縄住民の視点である。沖縄にとっての独立とは、文字通りの沖縄独立論も見られたものの、やはり本土への復帰を意味していた。これは、本土の政治家にとっても同じであったはずだが、実際には安保改定の際に条約適用地域から外されるといった事態となり、本土復帰は遠い夢となったのである。さらに革新勢力の動向にも十分な目配りがされている。その中でも社会党左派が中心に主張した「自主独立」は、安保廃棄、非武装・中立を目指すものであり、当時の自民党政権の政策と激しく対立した。
「名目上の独立」と「現実の独立」との間
現在の政局で、自民・民主ともに消費税引き上げに賛成しているものの、マニフェストが誤りであったことを一言認めてから上げるべきだとか、上げる前に解散してから結局上げるとか、政策論的には空虚とも思える論争が繰り広げられている。これと同様に、本書によって、どうすれば日本が独立・自主であると言えるのかをめぐって、吉田派・反吉田派・革新勢力が延々と論争を繰り広げたことが理解できる。確かに、こうした論点が政治的に重要で選挙結果を動かしたことは否定できない。しかし、このような「名目上の独立」が政治的争点であった一方で、「現実の独立」が日米安保と在日米軍によって守られてきたことも事実である。この事実が、高度経済成長の実現とあいまって、「吉田路線」の再評価へとつながったわけであるが、いったい当時の政治家は、この「名目上の独立」と「現実の独立」をどう調和させようとしていたのであろうか。
ここで著者は、1955年の重光提案に着目する。この重光提案は、米軍の全面撤退、双務的同盟への条約改定によって、アメリカと対等の地位を得ようというものであった。しかし、この提案は、ダレスによって「相互依存時代には完全な独立国は存在しえない」として退けられてしまう。そもそも保守勢力内部の「反吉田派」にとっての「真の独立」とは、憲法改正、軍隊創設の上で、双務的な日米安保を目指すというものであった。したがって、憲法の改正も自衛力の増強も実現できない時点では、重光の提案が拙速であり時期尚早であったことは否めない。また、昭和天皇も懸念したように、これが実現したとして本当に「現実の独立」は大丈夫だと、重光は考えていたのであろうか。そこにどのような安全保障戦略があったのか知りたいところである。
それでは、岸内閣の最大事業であった日米安全保障条約の改定は、時宜を得た、日米対等を実現する内容を備えたものであったのであろうか。近年、この改定交渉過程に関する資料が、「密約」解明作業の結果として大量に公開された。これら資料に基づいて安保改定交渉、さらには安保条約の本質についての解明が進んでいる。この外務省の資料を一瞥すると、一つの事実に気づかされる。それは、当時、地上軍を先駆けとして米軍の撤退が進んでおり、外務省事務当局は、自衛隊の能力を考えた場合、実際の日本の防衛に強い不安を感じていた点である。したがって、アメリカによる日本防衛義務を条約文中に明記することは、「片務性」の解消以上に、切実な安全保障上の要請であったわけである。となると、吉田茂が達成したものは常時外国軍隊が駐留するという「形式的な独立」にすぎなかったが、むしろ、それでも駐留米軍に守ってもらうことを確保できていない点に問題があったということになる。いいかえると、より対米依存的な関係の明文化が必要であったわけで、それが実現したものが岸の安保改定であったということも言えよう。「名目上の独立」はないがしろにされていた上に、「現実の独立」確保についても不安が払しょくされていなかったのである。
「独立完成への苦闘」の末
もっとも安保改定には様々な側面がある。その中から、ここでは日本本土基地の域外作戦使用の際の事前協議制の導入を取上げる。それは、この問題が主権を有する日本が、何も知らされないうちにアメリカの始めた戦争に巻き込まれるという事態を回避するための制度と位置付けられていたためである。
この時期、ちょうど中国軍が、沿岸諸島への砲撃を開始して第2次台湾海峡危機が生じていた。そのさなかの8月18日にマッカーサー大使は、金門、馬租島の防衛のためにアメリカが中国との戦闘に入った場合には、日本政府は公式に基地使用禁止を要請してくるであろうとの見込みを本国あてに報告した。すなわち、中国の軍事行動が直接に日本に及ばない場合は、日本政府は在日米軍の域外作戦行動を認めないものと判断していたのである。
一方、藤山愛一郎は8月29日にマッカーサーに面会し、アメリカ軍の日本本土からの台湾海峡への出動について、以下の二点の要求を行なった。この時、海兵隊が台湾に移動したことがマスコミの注目を集め、「最近における空軍部隊の台湾への移動の事例のごとく基地使用に対する批判と日本の防衛力を弱めるとの不安の二つの問題」が生じていたのである。その要求とは、まず、米軍の域外移動の情報を事前に日本政府に与えること、次に域外移動をアメリカ側で公表しないことであった。藤山は、米軍の移動が世間に知られることが社会党に有利な攻撃材料を与えるとして、米軍の移動は内密のうちに行なうように要求したのである。結果的に、米軍移動の非公表と日本への事前の情報提供が実現することになった。
この結果、マッカーサーは、藤山の要求は政府が国内的に苦境に陥ることを懸念して行われたにすぎないものと判断し、部隊移動に関するアメリカの権利自体には拒否権や意義申し立てがないことが明白になったと評価した。部隊移動が自由であれば、実際のところ直接の作戦使用との区別は不可能であったので、安保改定の際の一連の諒解もアメリカ軍の基地使用にはほとんど影響を与えなかった。
以上を、本書の1960年の安保闘争におけるクライマックスが反安保ではなく反岸であったとの指摘と重ね合わせると、1950年代の政治外交は、結局内向きな論点をめぐって繰り広げられたものとの印象を受ける。筆者が指摘するように、この改定では沖縄返還はむしろ遠ざかったわけであるし、アメリカ軍の極東での作戦にもほとんど変化は与えず、日米安保の「人とモノ」の交換という構造も変わらなかった。
展望
確かに、この間行われた日ソ国交正常化が、東欧諸国との国交、国連加盟に道を開き、日本の外交的地平は大きく拡大した。さらに、安保理で日本は国連中心主義外交を展開させもした。しかし、それだけでは日本の独立が完成したわけではないとすると、いつの時点を以て「独立完成」達成と言えば良いのであろうか。本書の文脈では沖縄返還ということになろうか。また、現在も多くの米軍が沖縄を中心に駐留していることからすると、未だ「独立完成」ならずということになろうか。おそらく著者にはその答えはあると思われるが、本書を通読した私の感想は「名目上の独立」が本土においては政治的争点から徐々に姿を消していく一方、沖縄においては「真の独立」が死活的に重要となっていき、両者の「独立」をめぐる意識のギャップが拡大していった、というものである。その後、本土では高度成長の実現とともに実質的な争点が優位となり、吉田ドクトリンが正当化されていく。沖縄返還は、「名目上の独立」達成の観点からは理解されなかった。一方、こうした「吉田路線」は沖縄の米軍基地の存在の上に成立していた。したがって、沖縄においては基地・安保の争点化がいよいよ強まっていった。本土で消滅した政治的争点は、先鋭化された形で沖縄に集約されているのである。このように本書は、本土の視点のみで語られがちな戦後史に沖縄の視点を投影してみることで、新しい側面に読者の目を向けさせてくれる。