評者:光田 剛(成蹊大学法学部教授)
本書は帯に「「蒋介石日記」を本格的に使った初の研究成果」とうたわれている。序章3節で紹介されているとおり、2006年にスタンフォード大学フーヴァー研究所で蒋介石日記の公開が始まった。蒋介石の日記の存在は早くから知られていたが、大多数の研究者は「孫引き」の形でしか目にすることができなかった。本書で詳述されているとおり、今回の公開も完全な公開とは言いがたい面があるが、ようやく現物を使った研究が可能になったのである。これに、台湾の国史館での史料整理・公開で新たに見られるようになった史料もあわせ用いて行われた研究がこの家近亮子『蒋介石の外交戦略と日中戦争』である。
本書は、序章・終章を含めて7つの章から成る。序章が本書の研究の目的とその視角、先行研究、史料についてまとめた章で、第一章が蒋介石の「外交戦略」に関する総論、つづいて第二章から第五章までで、日本の太平洋戦争開戦にいたるまでの時期を中心に、時期を分けて蒋介石の外交戦略を分析している。タイトルからもわかるとおり、分析の中心は対日外交におかれている。終章は、第二次大戦中の連合国に対する外交について述べ、戦後の日本に対する「以徳報怨」政策に及んでいる。
第一章では蒋介石の外交戦略を「外交は無形の戦争」・「持久戦」・「政治・軍事・外交三位一体」の3つの特徴に分けて整理する。ここでは、蒋介石がチベット・モンゴルなどを含む清朝の領域を継承する「冊封体制」的な領土観を持っていたことが指摘される。また、蒋介石は、外交を政治・軍事と一体のものとして捉え、外交は最高指導者の下に独裁的に行われるべきだという外交観を持っていたことが強調される。しかし、著者によれば、1935年までの蒋介石は独裁権力からはほど遠い位置に置かれており(『蒋介石と南京国民政府』慶應義塾大学出版会、2002年)、蒋介石自身がその条件を満たしていなかった。1935年、軍事委員会委員長のまま行政院長に就任することで、蒋介石はともかくも政治・軍事・外交を統一的に指導することができる立場に立ったのである。なお、毛沢東だけではなく、蒋介石も対日抗戦の戦略として「持久戦」の構想を持っていたことが強調される(なおこのことは『太平洋戦争への道』2~3巻で宇野重昭が夙に指摘していた)。
第二章では、1935年の蒋介石の対日政策について、対日親善と四川省での抗戦体制建設の両面から論じられる。1935年、蒋介石は、別人名義で「(日本は)敵か友か?」を発表し、「日華親善」ムードを盛り上げようとする。これは日本の世論にも受け入れられ、ある程度の成果があった。蒋介石は、また、対日戦争になったばあいの「持久戦」の基地として、四川省を自らの手で掌握し、「模範省」としての建設を開始する。蒋介石は日本の武官とも接触し、対日妥協の難しさも認識する。しかし、蒋介石は、1931年の満洲事変勃発後に「外交は無形の戦争」と論じたときから持っていた「戦争責任二分論」、つまり、日本軍と日本人民を分けて論じ、戦争の責任は軍にのみあるのであって、日本人民はむしろその被害者であるという認識を持ちつづけたとする。
第三章では、1937年の全面的な日中戦争の開戦から南京陥落までの蒋介石の外交を論じる。蒋介石は、イギリスとソ連(およびその前身のロシア)に対しても、その「冊封体制」的な領土観から警戒感を持ちつづけていた。しかし、日本との戦争での蒋介石の「持久戦」構想は「以夷制夷」であり、ソ連を利用して日本との戦争を有利に進めようとするものだったので、蒋介石は、国際的にはソ連、国内的にはコミンテルン支部である中国共産党と関係を改善しようとする。だが、それは、蒋介石が共産党の政策に応じざるを得ない状況ももたらした。他方で「以夷制夷」構想は、アメリカ合衆国が中国支援に消極的だったこともあって蒋介石の期待したとおりの展開にはならず、蒋介石は南京防衛を国際的枠組に落としこむことができずに南京から撤退するしかなかった。なお、この章では、中国空軍の戦果や南京撤退時の被害などについての重要な情報が蒋介石まで達していなかったことが、日記と他の史料との比較によって明らかにされている。
第四章では、1938年を蒋介石にとっての日中戦争のポイント・オブ・ノー・リターンであったことを論じた上で、国内の抗戦体制の整備と、5月に日本本土に対して行った「人道飛行」の分析が行われる。蒋介石は、共産党の攻勢に対抗するために「抗戦建国綱領」を制定し、共産党を含む「民意機関」として国民参政会を設置するとともに、国民党に総裁制度を導入(それまで最高指導職「総理」を孫文のままとして、それ以外の最高指導者の職をおいていなかった)、三民主義青年団を組織して国民党組織への統制を強めた。続いて、九州地方に対して行った爆撃機の渡洋飛行による反戦ビラ散布「人道飛行」について、徐州会戦の影響、日本軍の進撃を遅らせるために決行した黄河堤防決壊作戦との関連など、多方面から分析を行う。爆撃機は九州の人口の少ない地帯を飛行したのみだったが、蒋介石は、国内に対しては大阪・東京を含む大都市へのビラ散布に成功したと宣伝し、国際社会には、爆撃ができたにもかかわらずビラ散布を行った中国の人道性をアピールした。また、この「人道飛行」には蒋介石の変わらぬ「戦争責任二分論」が現れていることも著者は指摘している。一方で、蒋介石は、日本の和平の働きかけについて、それが蒋介石の下野を前提にしているかぎり受け入れない姿勢であったことも日記を参照しつつ論じている。
第五章では汪精衛の重慶脱出から主として太平洋戦争開戦までが論じられる。著者は、日本・傀儡政権支配下での反蒋介石世論の高まりは、日本の誘導・宣伝があったにせよ、それだけにはとどまらないものだったと論じる。それは、黄河堤防決壊に見られるような、中国人の生命・財産を犠牲にする「焦土作戦」の実行によるところも大きかった。1938年末に重慶を脱出した汪精衛が日本側の近衛声明に応じる動きを示した理由の一つもその点にあったと著者は分析する。共産党との関係は悪化し、他方、日本からの蒋介石の下野を前提にしない和平の働きかけにはある程度の柔軟な姿勢を示したが、最終的には不調に終わる。さらに、独ソ不可侵条約をうけて蒋介石のソ連への不信感は再び高まり、駐米大使胡適からの否定的な報告にもかかわらず「日英再同盟」を警戒する。孤立感を深めた蒋介石はローズヴェルト個人への働きかけを強める。アメリカ政府全体ではなくローズヴェルト個人にターゲットをおいている点、「外交は独裁的になされるものだ」という蒋介石の信念に応じていて興味深い。やがて1941年に日本がイギリス・アメリカとの戦争を始め、蒋介石はようやく「以夷制夷」の外交戦略が結実し、中国の勝利を確信することができた。
終章では、連合国の一員としての戦争の過程で、「冊封体制」的な領土観念から蒋介石はイギリス・ソ連との関係を悪化させて行くことが論じられる。加えて、アメリカともスティルウェル事件やローズヴェルトの死去などによって関係が順調に進まなくなる(その結果が戦後国共内戦のあまりに脆い敗退ということだろう)。一方で敗戦後の日本に対しては「以徳報怨」政策をとり、「戦争責任二分論」を持ちつづけていたことが示される。
本書の研究の意義は、やはり、蒋介石の日記や新たに整理・公開された蒋介石関係の史料を批判的に活用していることにある。とくに、蒋介石の意に反する否定的な情報が、重要なものであっても蒋介石のもとに届いていなかったこと(一般に蒋介石よりも志操堅固でないと見られている馮玉祥の日記により正確な事実が記載されているという指摘が興味深かった)、蒋介石が日本の和平工作について「蒋介石の下野を前提とする」点に強い反発を示していたこと、蒋介石の個人独裁的な外交観とローズヴェルトの指導力への思い入れなど、蒋介石の個性と「外交戦略」の指摘は興味深い点である。また、蒋介石が自らの道徳的感化力を過信していたという指摘は、たとえば『新編原典中国近代思想史』(岩波書店)5~6巻に収録されているこの時期の蒋介石の演説・文書類を読む上で重要な指針となると思う。同時代の日本の、主として民間の蒋介石研究を参照するという方法も、本書では結果的に補助的な位置づけとなっているが、蒋介石研究に示唆するところが大きいと思われる。
一方で、蒋介石研究の上で「日記」をはじめとする新公開史料をどのように用いていくかはまだこれからの課題であるということも強く感じた次第である。蒋介石は大量の演説・文書を発表しているし、持久戦観などこれまでの研究で知られていた事実もある。加えて、著者が詳細に検討しているように、現在見られる「日記」には遺族による削除などがあり、それがどのようなバイアスをもたらすかも考えに入れなければならない。さらに、国民政府期の中華民国史については、1980年代以後、国内外で多くの分野で厖大な研究が蓄積されており、これらと、新史料を用いて新たに理解された蒋介石像をどのように統一的に理解していくかも今後の課題である。その意味では、本書は、蒋介石をめぐる史料状況が大きく変わった下での蒋介石研究の大きな第一歩であると位置づけることができるだろう。
本書は帯に「「蒋介石日記」を本格的に使った初の研究成果」とうたわれている。序章3節で紹介されているとおり、2006年にスタンフォード大学フーヴァー研究所で蒋介石日記の公開が始まった。蒋介石の日記の存在は早くから知られていたが、大多数の研究者は「孫引き」の形でしか目にすることができなかった。本書で詳述されているとおり、今回の公開も完全な公開とは言いがたい面があるが、ようやく現物を使った研究が可能になったのである。これに、台湾の国史館での史料整理・公開で新たに見られるようになった史料もあわせ用いて行われた研究がこの家近亮子『蒋介石の外交戦略と日中戦争』である。
本書は、序章・終章を含めて7つの章から成る。序章が本書の研究の目的とその視角、先行研究、史料についてまとめた章で、第一章が蒋介石の「外交戦略」に関する総論、つづいて第二章から第五章までで、日本の太平洋戦争開戦にいたるまでの時期を中心に、時期を分けて蒋介石の外交戦略を分析している。タイトルからもわかるとおり、分析の中心は対日外交におかれている。終章は、第二次大戦中の連合国に対する外交について述べ、戦後の日本に対する「以徳報怨」政策に及んでいる。
第一章では蒋介石の外交戦略を「外交は無形の戦争」・「持久戦」・「政治・軍事・外交三位一体」の3つの特徴に分けて整理する。ここでは、蒋介石がチベット・モンゴルなどを含む清朝の領域を継承する「冊封体制」的な領土観を持っていたことが指摘される。また、蒋介石は、外交を政治・軍事と一体のものとして捉え、外交は最高指導者の下に独裁的に行われるべきだという外交観を持っていたことが強調される。しかし、著者によれば、1935年までの蒋介石は独裁権力からはほど遠い位置に置かれており(『蒋介石と南京国民政府』慶應義塾大学出版会、2002年)、蒋介石自身がその条件を満たしていなかった。1935年、軍事委員会委員長のまま行政院長に就任することで、蒋介石はともかくも政治・軍事・外交を統一的に指導することができる立場に立ったのである。なお、毛沢東だけではなく、蒋介石も対日抗戦の戦略として「持久戦」の構想を持っていたことが強調される(なおこのことは『太平洋戦争への道』2~3巻で宇野重昭が夙に指摘していた)。
第二章では、1935年の蒋介石の対日政策について、対日親善と四川省での抗戦体制建設の両面から論じられる。1935年、蒋介石は、別人名義で「(日本は)敵か友か?」を発表し、「日華親善」ムードを盛り上げようとする。これは日本の世論にも受け入れられ、ある程度の成果があった。蒋介石は、また、対日戦争になったばあいの「持久戦」の基地として、四川省を自らの手で掌握し、「模範省」としての建設を開始する。蒋介石は日本の武官とも接触し、対日妥協の難しさも認識する。しかし、蒋介石は、1931年の満洲事変勃発後に「外交は無形の戦争」と論じたときから持っていた「戦争責任二分論」、つまり、日本軍と日本人民を分けて論じ、戦争の責任は軍にのみあるのであって、日本人民はむしろその被害者であるという認識を持ちつづけたとする。
第三章では、1937年の全面的な日中戦争の開戦から南京陥落までの蒋介石の外交を論じる。蒋介石は、イギリスとソ連(およびその前身のロシア)に対しても、その「冊封体制」的な領土観から警戒感を持ちつづけていた。しかし、日本との戦争での蒋介石の「持久戦」構想は「以夷制夷」であり、ソ連を利用して日本との戦争を有利に進めようとするものだったので、蒋介石は、国際的にはソ連、国内的にはコミンテルン支部である中国共産党と関係を改善しようとする。だが、それは、蒋介石が共産党の政策に応じざるを得ない状況ももたらした。他方で「以夷制夷」構想は、アメリカ合衆国が中国支援に消極的だったこともあって蒋介石の期待したとおりの展開にはならず、蒋介石は南京防衛を国際的枠組に落としこむことができずに南京から撤退するしかなかった。なお、この章では、中国空軍の戦果や南京撤退時の被害などについての重要な情報が蒋介石まで達していなかったことが、日記と他の史料との比較によって明らかにされている。
第四章では、1938年を蒋介石にとっての日中戦争のポイント・オブ・ノー・リターンであったことを論じた上で、国内の抗戦体制の整備と、5月に日本本土に対して行った「人道飛行」の分析が行われる。蒋介石は、共産党の攻勢に対抗するために「抗戦建国綱領」を制定し、共産党を含む「民意機関」として国民参政会を設置するとともに、国民党に総裁制度を導入(それまで最高指導職「総理」を孫文のままとして、それ以外の最高指導者の職をおいていなかった)、三民主義青年団を組織して国民党組織への統制を強めた。続いて、九州地方に対して行った爆撃機の渡洋飛行による反戦ビラ散布「人道飛行」について、徐州会戦の影響、日本軍の進撃を遅らせるために決行した黄河堤防決壊作戦との関連など、多方面から分析を行う。爆撃機は九州の人口の少ない地帯を飛行したのみだったが、蒋介石は、国内に対しては大阪・東京を含む大都市へのビラ散布に成功したと宣伝し、国際社会には、爆撃ができたにもかかわらずビラ散布を行った中国の人道性をアピールした。また、この「人道飛行」には蒋介石の変わらぬ「戦争責任二分論」が現れていることも著者は指摘している。一方で、蒋介石は、日本の和平の働きかけについて、それが蒋介石の下野を前提にしているかぎり受け入れない姿勢であったことも日記を参照しつつ論じている。
第五章では汪精衛の重慶脱出から主として太平洋戦争開戦までが論じられる。著者は、日本・傀儡政権支配下での反蒋介石世論の高まりは、日本の誘導・宣伝があったにせよ、それだけにはとどまらないものだったと論じる。それは、黄河堤防決壊に見られるような、中国人の生命・財産を犠牲にする「焦土作戦」の実行によるところも大きかった。1938年末に重慶を脱出した汪精衛が日本側の近衛声明に応じる動きを示した理由の一つもその点にあったと著者は分析する。共産党との関係は悪化し、他方、日本からの蒋介石の下野を前提にしない和平の働きかけにはある程度の柔軟な姿勢を示したが、最終的には不調に終わる。さらに、独ソ不可侵条約をうけて蒋介石のソ連への不信感は再び高まり、駐米大使胡適からの否定的な報告にもかかわらず「日英再同盟」を警戒する。孤立感を深めた蒋介石はローズヴェルト個人への働きかけを強める。アメリカ政府全体ではなくローズヴェルト個人にターゲットをおいている点、「外交は独裁的になされるものだ」という蒋介石の信念に応じていて興味深い。やがて1941年に日本がイギリス・アメリカとの戦争を始め、蒋介石はようやく「以夷制夷」の外交戦略が結実し、中国の勝利を確信することができた。
終章では、連合国の一員としての戦争の過程で、「冊封体制」的な領土観念から蒋介石はイギリス・ソ連との関係を悪化させて行くことが論じられる。加えて、アメリカともスティルウェル事件やローズヴェルトの死去などによって関係が順調に進まなくなる(その結果が戦後国共内戦のあまりに脆い敗退ということだろう)。一方で敗戦後の日本に対しては「以徳報怨」政策をとり、「戦争責任二分論」を持ちつづけていたことが示される。
本書の研究の意義は、やはり、蒋介石の日記や新たに整理・公開された蒋介石関係の史料を批判的に活用していることにある。とくに、蒋介石の意に反する否定的な情報が、重要なものであっても蒋介石のもとに届いていなかったこと(一般に蒋介石よりも志操堅固でないと見られている馮玉祥の日記により正確な事実が記載されているという指摘が興味深かった)、蒋介石が日本の和平工作について「蒋介石の下野を前提とする」点に強い反発を示していたこと、蒋介石の個人独裁的な外交観とローズヴェルトの指導力への思い入れなど、蒋介石の個性と「外交戦略」の指摘は興味深い点である。また、蒋介石が自らの道徳的感化力を過信していたという指摘は、たとえば『新編原典中国近代思想史』(岩波書店)5~6巻に収録されているこの時期の蒋介石の演説・文書類を読む上で重要な指針となると思う。同時代の日本の、主として民間の蒋介石研究を参照するという方法も、本書では結果的に補助的な位置づけとなっているが、蒋介石研究に示唆するところが大きいと思われる。
一方で、蒋介石研究の上で「日記」をはじめとする新公開史料をどのように用いていくかはまだこれからの課題であるということも強く感じた次第である。蒋介石は大量の演説・文書を発表しているし、持久戦観などこれまでの研究で知られていた事実もある。加えて、著者が詳細に検討しているように、現在見られる「日記」には遺族による削除などがあり、それがどのようなバイアスをもたらすかも考えに入れなければならない。さらに、国民政府期の中華民国史については、1980年代以後、国内外で多くの分野で厖大な研究が蓄積されており、これらと、新史料を用いて新たに理解された蒋介石像をどのように統一的に理解していくかも今後の課題である。その意味では、本書は、蒋介石をめぐる史料状況が大きく変わった下での蒋介石研究の大きな第一歩であると位置づけることができるだろう。
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