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【書評】池田亮『植民地独立の起源 ― フランスのチュニジア・モロッコ政策』(法政大学出版局、2013年)

May 27, 2013

評者:川嶋周一(明治大学政治経済学部准教授)

本書の問題意識

本書は、1956年にチュニジアおよびモロッコがフランスから独立を勝ち取るプロセスを極めて詳細かつ丹念に辿った研究である。フランスはかつてイギリスに次ぐ世界大の植民地帝国を築いた。正確に言えば、世界の複数の地域に植民地を持った「世界帝国」はイギリスとフランスだけである。それ以外のヨーロッパ列強は、オランダであれ、イタリアであれ、ベルギーであれ、きわめて限られた領土しか植民地として持ちえなかった。我々が今日19世紀から20世紀中盤にかけてヨーロッパ諸国が築いた植民地帝国という姿は、端的には英仏が構築した仕組みと経緯を投影したものである。そのような植民地化から脱し、現地の人々の手からなる国家を構築するという脱植民地化は、第二次大戦後の世界における巨大な国際政治変動であることは、筆者の言を俟たない。しかるに、実のところ脱植民地化のプロセスは、第二次大戦直後の例外的な独立以外は、全て1960年以降に起こるが、唯一1950年代に起こった独立がフランスからのチュニジア・モロッコの1956年の独立なのである。このチュニジア・モロッコの独立は、何故起こったのか。そしてその独立はどのような歴史的な意味があるのか。池田氏は、フランスのみならず、英米両国の一次史料に当たりながら、チュニジア・モロッコの独立経緯に隠された歴史的意義を詳らかにしていく。

構成

序章 脱植民地化と独立
第一章 英仏の植民地政策と独立前史
第二章 ブルギバの七原則とフランス・チュニジア交渉 1950年‐1951年
第三章 スルタンによる独立の要求 1950年10月-1951年12月
第四章 チュニジア問題の国連討議 1952年1月-12月
第五章 スルタンの廃位 1952年1月-1953年8月
第六章 チュニジアの国内自治 1953年1月-1955年6月
第七章 モハメド五世の復位 1953年8月-1955年10月
第八章 モロッコの独立 1955年10月-1956年5月
第九章 チュニジアの独立 1955年6月-56年6月
終章 チュニジア・モロッコの独立とその後

内容

では、本書でどのような議論が展開されたのかについて、各章の内容を要約してみていきたい。まず序章では、本書の中心的な問いの設定が提示される。それは、脱植民地化の過程において「宗主国がなぜ植民地独立を決定したのか」という問いである。これまでの説明では、第二次大戦によってヨーロッパが疲弊したのと同時に現地ナショナリズムが湧きあがったからだというのが一般的である。しかし他方で、独立後においても旧宗主国と旧植民地国との間には、厳然たる政治的経済的格差が存続する。本書のこの脱植民地化に関する一般的な言明を繋ぎ合わせ、そこに、1950年代以降の「強いられた」「平和的な独立過程」の重要さを指摘する。すなわち、本書の主張を一言でまとめるならば、独立を争う戦争の発生前に旧宗主国は独立を容認することで自国の影響力を温存しようとしたこと、しかし同時にそれは宗主国にとっては「強いられた選択肢」でもあったこと、そしてそのような脱植民地化プロセスの原型こそ、フランスからのモロッコ・チュニジア独立過程に現れていることである。

このような立論のため、筆者が重視する枠組みは次の四点である。第一に独立するタイミングの説明であり、これを国内の「実効的協力者」の確保が重要であったと指摘する。第二に独立承認に至る動機を解明することである。第三にアメリカの対フランス植民地政策への意図を十分に解明することであり、そして第四にフランス植民地政策の転換の解明を行うことである。

第一章は、まず植民地帝国たる英仏両国の植民地政策の特質・展開と、チュニジア・モロッコの独立前史を概観する。まずフランスに関しては、組織としてのフランス連合と原理としての同化政策がその特質として挙げられる。この二つの特質は、植民地国家における現地自治を承認せず、本国を頂点とする中央集権的な組織化を行う一方で、そこにおいても「一にして不可分の共和国」原理を採用することで、植民地地域におけるフランス人と同等の政治的権利の享受を図る点で、不可分の関係にある。他方で、イギリス植民地政策は、政治的権利の現地人への漸次的委譲を進めていたことに特質がある。それゆえ戦後イギリスは、植民地との国家連合であるコモンウェルスを作り上げた。

また1949年までのチュニジア・モロッコに関して押さえるべき点は、まずチュニジアは1881年から、モロッコは1912年からフランスの保護国となったことである。これは現地の支配機構の存続を意味し、チュニジアにおいてはベイが、モロッコにおいてはスルタンが名目上の主権者であり続けた。また国内情勢はチュニジアが相対的に安定していたのに対し、モロッコのそれは不安定だった。スルタンの実効的な支配が及ぶのは北部のみで、ある南部はベルベル人の地方豪族が統治していた。この国内分裂の様相は、後に独立過程の際に大きな役割を果たす。この二国はフランスから姉妹国の関係として扱われ、実際独立過程において、相互的な連関を有している。そのため、叙述はチュニジアとモロッコを交互に取り上げながら進められる。

第二章は1950年から51年にかけてのチュニジアにおける主権回復に向けた政治運動の登場とその展開を扱っている。50年7月にチュニジアのナショナリスト政党のネオ・ドゥストゥール党党首のブルギバがチュニジアの主権回復に向けた七原則を発表した。ブルギバはカリスマ的なナショナリスト指導者であったが同時に親仏的な立場を隠さなかった。このブルギバの要求に対するフランスの反応はあくまで「共同主権」、すなわちチュニジアの独立拒否の立場を崩さなかった。チュニジア国内の穏健派ナショナリストは失望し、ブルギバはフランスとの二国間交渉でなく国際社会における支持によって独立を獲得する方向へ戦略を変更する。

第三章は、1950年から51年にかけてのモロッコにおける独立要求の開始を扱う。同じ50年に、チュニジア同様、スルタンも独立への明確な要求をフランスに対して発する。またモロッコのナショナリスト政党のイスティラクール党は早くからモロッコ独立を国際問題化することに熱心だった。スルタン自身の独立要求とこの国際化路線によって、アラブ世界はモロッコ問題を国際連合に付託するように働きかけ始めた。しかし、この動きは、反対するフランスとそれに同調する英米に阻まれ失敗に終わる。

第四章は、1952年における、チュニジア独立の国際問題化に戦略を転換したブルギバとそれを封じ込めようとするフランスとの対立の構図が描写される。フランス政府は、チュニジア問題を国連付託することを阻止しようとする一方で、一応の改革案を提出するが、これは自治権を与えるものではなかった。しかしチュニジア問題は同年末に国連で討議に入り、フランスの同化政策の根本が崩れ始めるが、この時点でフランスの危機意識はまだ低かったという。それどころか、仏人の利益の温存を含意していた地方議会設立をベイに承諾させた。

第五章は、これと並行して国際問題化しつつも、国内政治が大きな動揺を迎えるモロッコの事情を活写する。モロッコもチュニジアと同様に52年末に国連に問題が付託されるが、チュニジアとは逆に、スルタンはあくまでフランスの地方議会設立案を拒絶する。そのために、親仏派にして反スルタンの保守派の反発を招き、保守派はスルタンの廃位に動く。内戦勃発の危機を目の前に、フランスは止むを得ず自身の手でスルタン廃位を決定する経緯が詳述される。

第六章および第七章は、このようなチュニジア・モロッコの独立をめぐって情勢が大きく転換する過程が描かれる。第六章は53年から55年にかけての、チュニジアにおいて国内自治権の承認に至る経緯とその後の反応が詳細に叙述される。1952年末に、フランスはチュニジアのベイに地方議会の導入に同意させ、議会選挙が翌年行われるが、むしろ国内における反発を招くことになった。自身の特権保持を重視するベイは、54年春にさらなるフランスからの改革案を受け入れるが、ここに至ってベイに対する地方匪賊による反乱が勃発する。国内情勢が急転するなかで、ベイの権威は失墜し、チュニジア国内で実効的な支持を勝ち得ているナショナリズム政党の存在感は大いに高まるのである。さらにこの時期、フランス国内でも大きな政治的な変化が起こる。54年6月に中道左派でリベラルな植民地政策で知られたマンデス=フランスが首相に就任し、外務省も「共同主権」原則の失敗を認め国内自治承認へと動くのである。それが対外的に明らかになったのが、54年7月31日、チュニジアに電撃訪問したマンデス=フランスが発表した「カルタゴ宣言」である。これは、チュニジア国内の自治権を認めたもので、戦後フランス植民地政策の大きな転換点となった。しかし、確かにこの宣言を受けて55年からチュニジア-フランス関係の再定義に両国は動きだすのだが、保守派と入植者の双方から自治・独立を主張するナショナリズム政党は攻撃を受け、この時点で国内政治は不安定のままであった。

第七章では、同じく53年から55年までのモロッコ情勢の急展開と独立に向けた過程が詳述される章であり、本書の根幹的な部分を成している。53年8月にスルタンのモハメド5世が廃位されたのを受け、フランスはチュニジアと同様の改革に着手する。スルタンの権限を制限し、地方議会を設置したのである。しかし、スルタン廃位は国内外からの反発を招いたばかりか、新スルタンのアラファには正統性の欠如が認識された。そのため、都市と地方間の国内的な政治的分断は一層深まった。他方で、チュニジア同様、マンデス=フランスの首相就任後、本国は国内自治の付与の方向に動いており、カルタゴ宣言後、モロッコに対する政策も方針転換する。しかしチュニジアと異なり、現スルタン・アラファに対する反発が強かったモロッコでは、この王朝問題も同時に解決する方向があった。そのため55年8月にモロッコの諸勢力と交渉し、現スルタンの退位と新政府の樹立について合意が成立する。しかしこれはまだモロッコの独立を容認するものでは決してなかった。事態が急展開するのは10月以降である。一方で国外ではエジプトへの東側からの軍備支援が明らかとなり、他方で国内では従来スルタンと対立していたベルベル人勢力が、突如前スルタンの復位と独立要望を表明したのである。前者については、モロッコの反仏勢力に東側の影響力が及ぶ危険性が出現したことを意味し、後者については、それまで国内で分断されていた政治勢力が前スルタンに集約し、モロッコの政治的一体性が出現したことを意味した。したがって、独立を認めずなければモロッコの一体性を体現する前スルタンは反仏へと転じ東側に取り込まれかねない。フランスはこのような状況の出現に、遂に独立の容認へと踏み切るのである。

第八章は、引き続き、55年から56年にかけてのモロッコ独立過程を扱う。前述の通り、フランスはモロッコの独立に決断するに至るが、これは戦後フランス植民地体制の根本的な変革を意味していた。フランスは、新生モロッコを親仏的な紐帯につなぎとめつつ、仏人入植者の利権保持に努めなければならなかった。そこで、フランスは完全独立を承認しつつも、本質的な影響力が残るように、モロッコとの関係の再構築を図るのである。56年3月2日にフランスはモロッコ独立を承認し、同年11月に国連総会はモロッコ加盟を承認した。

第九章は、チュニジアの独立承認過程を扱う。チュニジアはベイの権威の失墜と共に国内政治闘争が本格化する。ここで国民的リーダーとなるのがブルギバであった。そしてモロッコ情勢の急展開と共に、チュニジアにおいても独立を達成すべきだという意識が国内で有力になるのである。モロッコから遅れること僅か2週間ほどの56年3月20日に、フランスによるチュニジア独立が承認される。こうして、チュニジア・モロッコは、それぞれに異なる国内事情を抱えながらも、国内情勢が相互に影響しながら、ほぼ同時期に独立を達成するのであった。

終章では、本論の主張が改めてまとめられる。第一に、フランスのチュニジア・モロッコに対する政策転換が生じたタイミングの説明として、それぞれの国内の「実効的な協力者」が変更したタイミングを指摘する。第二に、国際的圧力の影響について、一貫したアメリカの態度がフランスに影響を与えたことを指摘する。第三に、独立を承認した動機として、外部要因(ソ連の脅威)の重要性を指摘する。第四に、チュニジア・モロッコの独立が脱植民地化の過程全体に与えた意義として、以下のように述べる。

「1950年代半ば以後、独立を付与することによって影響力を残すという戦略は、決して場当たり的に用いられたわけではない。それは、第二次大戦後にヨーロッパ宗主国が、現地での圧力と国際的な圧力によって脱植民地化を迫られるなか、意図的に採用した戦略だった。このような戦略の起源となったのが、フランスのチュニジア・モロッコに対する独立の承認だったのである」(p.376)

これは、池田氏による本著作の主張をもっとも明瞭に要約したものであろう。

評価

以上、叙述のメインは1950年から56年までの数年間に限定されているが、その限定された期間におけるフランス-チュニジア・モロッコ間交渉を英仏、仏米交渉も踏まえながら、きわめて詳細に再構成したのが本書である。仏米英の三カ国の史料を蒐集し、さらに分析に際しては、チュニジアとモロッコの其々の国内政治構造の相違が重視される。邦語どころか、欧語文献ですら、ここまで緻密に交渉過程を再現した研究は、本書が唯一であろう。畢竟、本書の原型となったものは、筆者が2006年にロンドン大学に提出した博士論文であり、本書にはさらにチュニジア・モロッコ独立が脱植民地化過程全体における位置づけについてより理論的に考察した序章・終章が付け加わっている。このように、本書は何よりもまず、チュニジア・モロッコ独立に向けた第一級の国際交渉史研究として評価すべきである。

他方で、本論で展開される独立に向けた濃密な交渉史と序章・終章で展開される枠組みとの整合性については、やや違和感を覚えなくもない。本論で展開されているように、チュニジア・モロッコの独立を承認する動機として国内実効協力者の存在の確保に加え、そのタイミングの説明として独立交渉とは別トラックで展開された外的要因(マンデス=フランスの登場、エジプトへの東側支援、ベルベル人勢力の前スルタンへの支持)を指摘している。この二要因の組み合わせは、ある意味で、チュニジア・モロッコの独立の偶然性を指摘しているが、同時にその過程は、その後の植民地独立の「モデル」ともなったという。この点は、いかに考えればいいのだろうか。筆者の提示した脱植民地化のモデルは、歴史の必然性と構造について、深い思索を呼び起こさざるを得ない。なお、この点につき、モロッコの政治情勢が分断化していく中でどうしてベルベル人勢力が前スルタン支持に急転したのかについて、可能であればもう少し突っ込んだ説明が欲しかった。

最後に、本書は脱植民地化過程を大きなテーマとしているが、この脱植民地化プロセスと並び立つ大きな国際関係史のテーマ、例えば冷戦やまたヨーロッパ統合との連関についても、論の射程として織り込んでほしかったと言えば、望みすぎであろうか。とはいえ、筆者は別の論考で脱植民地化とヨーロッパ統合との表裏一体的展開について実証的研究論文を発表しており(池田亮「帝国かヨーロッパか:チュニジア国内自治とフランスの対ヨーロッパ統合対策1950-1956」山内進(編)『フロンティアのヨーロッパ』国際書院、2008年)、重層的な国際政治の展開について分け行って入ることもできたのではないかと思うからである。この点については、筆者の新しい研究の展開を俟ちたい所である。
    • 政治外交検証研究会メンバー/明治大学政治経済学部准教授
    • 川嶋 周一
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