評者:白鳥潤一郎(慶應義塾大学法学研究科助教)
いわゆる歴史認識問題や竹島(韓国名:独島)問題に象徴されるように、日韓関係には独特の難しさが付きまとう。それは、日本の植民地支配という歴史のみに起因するわけではない。冷戦の開始に伴って朝鮮半島は南北に分断された。南北の分断が朝鮮戦争を経て固定化されていく一方で、日本は「朝鮮特需」に沸き、復興から高度経済成長への足掛かりを得た。日本と韓国はともにアメリカの同盟国となったが、日韓両国の国交正常化は1965年のことであり、それは朴正煕という「開発独裁」色の強いリーダーとの間で行われた。この国交正常化が困難な日韓関係の始まりに過ぎなかったことは、我々がよく知るところである。
本書が対象とする、1981年から83年にかけて日韓両国を揺るがした、いわゆる日韓安全保障経済協力(安保経協)問題には、日韓関係の難しさが凝縮されている。1981年4月、全斗煥政権による100億ドルの経済協力要請に始まり、82年夏の教科書問題を挟んで、中曽根康弘首相の電撃的な訪韓によって83年1月に決着に至るこの問題には、様々なドラマが存在した。著者は外務省の北東アジア課長としてこの問題の処理に携わった当事者である。
第1章 軍事政権の要求
第2章 日韓に横たわる深い溝
第3章 外相たちの「哲学」
第4章 韓国の「克日」
第5章 全斗煥と瀬島龍三
第6章 偽造されかけた親書
第7章 「最終案」の行方
第8章 親日と反日のはざまで
第9章 ニューヨーク会談で見えた薄光
第10章 瀬島龍三の裏工作
終章 終幕――ソウルの初雪
終章を含めて全11章からなるが、それぞれのタイトルからも分かるように、各章は安保経協交渉をドラマ仕立てにした際の見出しという色彩が濃く、研究書のように各章にテーマが設定されているわけではない。そこで、以下では評者なりに本書で描かれる交渉の各局面を簡単にまとめることにしたい。
1981年4月23日、盧信永外務部長官が須之部量三駐韓大使に合計100億ドルの対韓経済援助を打診した。国交正常化とともに開始された対韓経済援助は韓国の発展に伴って減少傾向にあり、この要請は援助の大幅な増額を求めるものであった。その第一報が外務省の北東アジア課に寄せられたところから本書は始まる(第1章)。これが2年近くにわたって続くことになる交渉の始まりであった。韓国からの申し入れを受けて、高島益郎外務事務次官と崔慶禄駐日大使の会談が持たれ、韓国側の要求が高度に政治的な要求であることが確認された。こうして、外相同士の会談に舞台は移るかに思われたが、鈴木善幸首相訪米後に伊東正義外相が辞任し、新外相に園田直が就任することになったことで、外相会談は延期せざるを得ず、結局8月下旬までその開催はずれ込むことになった。
この間、日本の外交当局は情報収集に努めるとともに、韓国側との接触を重ねた。その結果浮かび上がったのが日韓に横たわる深い溝である(第2章)。朝鮮半島情勢をめぐる認識をはじめとして日韓間の差異は多岐に渡るが、韓国との交渉の焦点は、経済協力を増大させる理由としての安全保障論議の取り扱い、全体の金額提示を先行させるべきとする韓国側の立場と、具体的プロジェクトの積み上げによって全体の額を決めようとする日本側の立場との調整、の2つに絞られた。この2点は交渉妥結に至るまでの一貫した課題となった。その後、8月に外相会談(第3章)、9月に閣僚会議(第4章)が行われたが、日韓間の認識には依然として大きなズレがあり、韓国側から外交ルートとは違うルートでの瀬踏みが真剣に行われた。
こうして交渉はある種のデッドロックに陥っていたのだが、日本の内閣改造によって「日韓交渉の第三幕」(166頁)が始まることになった。韓国側ととかく感情的な衝突を起こしがちであった園田に代わり、11月30日、桜内義雄が新外相に就任したのである。しかし、新外相就任によっても日韓の立場の違いは変わらず、日本側の非公式ルートも始動することになった。ここで裏舞台に登場したのは瀬島龍三である。韓国と独自のコネクションを持つ瀬島の全斗煥との会談を経て交渉は再び動き出し、1982年1月と2月、2回の実務者協議が開催された(第5章)。この協議自体が、「本来、安全保障と政治的理由からの対日要請であるものを、何とか経済的ないし民生安定のための協力という枠組みに押し込むための、外交的な「芝居」」(179-180頁)だったわけだが、2回の実務者会談によって韓国の要求の具体的内容が相当程度明らかになった。
実務者協議の後、桜内外相と盧信永長官の二度目の外相会談に向けた調整が始まった(第6章)。この段階までに韓国側の要求は当初の100億ドルから60億ドルへと変わっていたが、依然として日本側の40億ドル弱という提示とは開きがあり、さらにその中身についても調整がついていなかった。そこで日本政府部内では、「日本の内部で大きな政治力を持ち、かつ韓国の全大統領と直接話し合える特使を日本から派遣し、内々に韓国側と話し合うべきとの考え方」(189頁)が検討され始めた。特使の最有力候補とされたのは竹下登であり、木内昭胤外務省アジア局長から竹下への打診も行われた。結局、竹下派遣構想は流れたが、その代わりに瀬島ルートが再び活用され、そのカウンターパートの権翊鉉と外務省幹部との直接接触が行われることになった。
裏舞台での調整を経て、具体的な外相会談に向けた調整が進められることになった(第7章)。前田利一駐韓大使の一時帰国、そして渡辺美智雄大臣を含む大蔵省幹部と外務省幹部の調整によって日本側の「最終案」が固められ、柳谷謙介外務審議官が4月に訪韓した。しかし、韓国側は「この程度では国内が爆発する」(218頁)と日本の提案を蹴り、日韓交渉はいわばにらみ合いに近い状態になった。
日韓交渉は韓国の外務部長官が盧信永から李範錫に交代したことによって新しい動きを見せる(第8章)。李の生家は独立運動家の間でも名を知られた「名家」であり、「親日派」として糾弾されにくく、率直に話し合えるのではないかという観測が日本側関係者の間で流れた。李は米国訪問の途次の日本立ち寄りという形で、7月に外相会談が実現した。結果として、この会談によって、経済援助の大枠は固められ、「実質的」折衝への道が開かれた。
このように妥結に向けて前進したかに見えた中で発生したのが、いわゆる教科書問題である(第9章)。「交渉は、いわば演劇の最中における地震によって一時中断されたのだった」(247頁)。その後、ニューヨークの国連総会時に日韓外相会談が開催され、関係修復ムードになっていったが、ここで今度は日本の政局が動き、11月27日、鈴木首相が退陣、中曽根康弘政権が発足した。中曽根は瀬島に訪韓の地ならしを依頼し、12月末、瀬島が極秘に訪韓、全大統領との会談を経て、年が明けた1983年1月、中曽根が電撃的な訪韓を行い、ここに日韓安保経協はようやく妥結した。
情報公開法の利用など、本書と同様のスタイルを取る著者の前著『記録と考証 日中実務協定交渉』(岩波書店、2010年)は、中国課首席事務官時代に携わった日中実務協定交渉を、当時の外務省文書に加えて、より高いレベルの関係者の回顧等を利用することで、学術的に交渉の全体像を描こうとしている。これに対して本書で取り上げた安保経協について、著者は外務省の主管課長として、政治レベルの機微も含めて、当時から交渉の全体像を知り得る立場にあった。それゆえ、注釈を丹念に確認しながら読めば分かるように、現在も外務省が開示しない交渉の機微に渡る部分は当時の新聞記事や自らのメモ、さらには関係者への聞き取りを利用することで、当事者にしか知り得ない様々な状況を描写している。こうした事情を勘案すれば、どこまでが当時の著者の知り得た情報であるか疑問の残る点はあるにせよ、本書は注釈を付すことで客観性を持たせる努力をした主管課長による日韓安保経協に関する回顧録として読むべきだろう。
やや特殊な性格を持つ本書だが、その読みどころは実に多い。何よりもまず、日韓安保経協交渉に関してこれだけ詳しい内容を持つ著作はこれまでなかった。これまで、この問題は全斗煥や中曽根康弘、そしてアメリカのレーガン大統領といった指導者たちのレベルで語られることが多く、とりわけ日本では中曽根のイニシアティブという側面が強調されがちであった。また、同時期に本格化していく「戦略援助」の典型として描かれてきた(デニス・T・ヤストモ『戦略援助と日本外交』同文館、1988年、109-121頁)。本書の登場により、バランスの取れた歴史叙述が可能となるだろう。
政官関係やマスメディア、そして非公式接触者との関係について、極めて詳細に内部からの視点が明らかにされていることも本書の読みどころである。このドラマが進行する中で、日本の外相は伊東正義、園田直、桜内義雄、安倍晋太郎と次々とかわり、韓国の外務部長官は盧信永から李範錫に代わった。その局面ごとに、本書の言葉を借りれば外相たちの「哲学」が交渉の進展に影響を与えたことが読み取れる。例えば、急転直下、日韓閣僚会議開催が決まるなど外相のイニシアティブが重要な意味を持った園田外相時代のエピソードは、交渉における政官双方の役割を考える上でも興味深い。さらに、桜内や竹下などの言葉を通じて見えてくる政治家の世界と外交の関係は、自民党政治の機微を明らかにしている。
また、現代外交の難しさを明らかにするのが非公式接触者とマスメディアに関する部分である。日韓交渉における瀬島龍三の役割については既に広く知られているところであるが、瀬島の派遣にあたって政府内で周到な準備が行われていたことや、密な連絡を続けていたことが本書の記述から裏書きされる。朴正煕時代のような「古い世代の癒着」を断ち切ることを一つの目的に始まったはずの交渉が(24-26頁)、途中から瀬島という「密使」を必要としたことにも日韓関係に潜む独特の難しさを象徴している。マスメディアとの関係は随所に顔を覗かせるが、それは最終局面における瀬島派遣に関する部分でも登場する。瀬島による秘密工作が外に漏れれば、それまで積み上げてきたものが一挙に壊れかねない。中曽根首相や竹下蔵相などの政治家とも緊密に協議を続けつつ行われた瀬島派遣の成果をいかに表舞台に上げるかは、マスメディアとの関係のみならず、交渉全体を仕上げるにあたってクライマックスの一つとなった。
このように類書には見られない読みどころを多数持つ本書であるが、いくつかの点で読者の注意を促す必要とともに今後の課題を示しているように思われる。まず、木内昭胤アジア局長をはじめとする外務省高官たちの心情描写や直接引用されるセリフは、額面通りに受け取っていいのだろうか。巧みなストーリー捌きの中に置かれるために、効果的である反面、読者は知らず知らずの内に著者の見方に引き寄せられていってしまう。検証という側面を重視して書かれた『日中実務協定交渉』に比して、本書はストーリーをもって語らせているだけに、この点はより注意して読む必要があるだろう。
また、本書では安保経協交渉の始点を1981年4月に置いているが、それ以前からの流れやより大きな文脈を押さえることも必要かもしれない。そもそもなぜ全斗煥政権が対日要求を行ったのか、また日本政府はそれまで対韓援助問題をどのように考えていたのかといったことは、交渉開始の背景として重要だろう。これらについて本書が触れていないわけではないが、背景説明に留まっている。こうした点について著者は自覚的である。始点のみならず、終点も含めて著者は「一つのドラマの始まりが、本当はいつだったかは、歴史の考証を待たなければ、軽々しくは断じ得ない。同じく、現実世界のドラマは、終わったと思っていると、どこかで進行中だったりする。この書の一兆円のドラマも、実は、朴正煕大統領の暗殺に始まり、金大中大統領の登場で一応幕を下ろしたという見方もできる。いや、ひょっとすると、日本と韓国を巻き込んだドラマは未だに続いているのかもしれない」(302頁)という。この点と関連して、朴政権に象徴される「古い世代の癒着」はこの交渉を経てどのように変化したのだろうか。また、経済大国として70年代後半から日本政府が援助増額を掲げていたこととこの交渉はどのように関係しているのだろうか。さらに、特使や密使を用いた外交そのものは、アメリカや中国、さらには東南アジアとの外交でもしばしば行われることであるが、この交渉における瀬島の役割は、その他の交渉と比してどのように位置づけられるのであろうか。こうした点についても本書の中で触れられていないわけではないが、著者の所掌事務を外れることは、交渉の背景として触れられるのみで、評価は慎重に避けられている。著者の問いかけやより大きな文脈をふまえてこのドラマをどのように考証していくか、これは研究者に投げかけられた課題と言えよう。
交渉の始点とも関係することとして、アメリカ要因をどのように考えるかという問題もある。これまでの限られた研究でも、1981年秋になって日本の交渉姿勢が軟化した背景として、アメリカの影響が指摘されてきた(小此木政夫「新冷戦下の日米韓体制――日韓経済協力交渉と三国戦略協調の形成」小此木政夫・文正仁編『日韓共同研究叢書4 市場・国家・国際体制』慶應義塾大学出版会、2001年、198-199頁)。さらに、日本が韓国の要請を受けて交渉に入った背景を、1977年のカーター政権成立にさかのぼって日米間の「負担分担」の観点から検討する最新の研究もある(石田智範「対韓支援問題をめぐる日米関係(1977-1981年)――「責任分担」論の視点から」慶應義塾大学大学院法学研究科修士論文、2011年)。本書の記述はアメリカについて抑制的である。当時のアジア局関係者へのヒヤリングに基づいて「対韓経済協力問題について、米国政府当局から直接日本の外交当局に、要請やアプローチがあった事実は確認されていない」(42頁)とするが、「直接」という言葉が慎重に付されている。また、日韓交渉が記述の中心に据えられることは当然だとしても、その記述にあまりにアメリカが見えないことも気になる。韓国側がアメリカを動かそうとしていた事実は本書でも触れられており(例えば、39-40頁)、日本の対韓援助問題を日米韓三国の視座から改めて検討することも重要な課題となるのではないだろうか。
いずれにせよ、本書は日本における外交官の回顧録として例外的な密度を持ち、示唆に富んだ著作と言える。出版社の意向もあるのか、センセーショナルな本作りとなっていることは否めないが、本論はあくまで冷静な筆致で貫かれている。この交渉から見えてくる様々な問題は、日韓関係のみならず日本外交全体を考える際に一つの出発点となり得るというのが評者の率直な評価である。近年、政策研究大学院大学のプロジェクトを筆頭に、外交官の証言はかなりの蓄積が見られる。それに比して当人の手による密度の濃い回顧的著作は限られているのが現状だろう。本書を嚆矢にして、こうした回顧録が出版されていくことを期待したい。
最後に形式的な点を1つ指摘しておきたい。本書では情報公開法に基づく開示請求によって取得した外交文書は、その文書名や作成者・日付等の情報が記されているものの、開示請求番号が付されていない。開示請求番号が明記されていれば、文書の再請求が容易となり、事務手続きも簡略化できる。学会誌等に掲載される論文でも開示請求番号を明記することは徹底されていないのが現状であり、本書の注釈のつけ方には致し方がない面もあるが、開示請求番号を明記することが請求者と官庁の双方にとって望ましく、慣行として定着させていく必要を広く訴えておきたい。
いわゆる歴史認識問題や竹島(韓国名:独島)問題に象徴されるように、日韓関係には独特の難しさが付きまとう。それは、日本の植民地支配という歴史のみに起因するわけではない。冷戦の開始に伴って朝鮮半島は南北に分断された。南北の分断が朝鮮戦争を経て固定化されていく一方で、日本は「朝鮮特需」に沸き、復興から高度経済成長への足掛かりを得た。日本と韓国はともにアメリカの同盟国となったが、日韓両国の国交正常化は1965年のことであり、それは朴正煕という「開発独裁」色の強いリーダーとの間で行われた。この国交正常化が困難な日韓関係の始まりに過ぎなかったことは、我々がよく知るところである。
本書が対象とする、1981年から83年にかけて日韓両国を揺るがした、いわゆる日韓安全保障経済協力(安保経協)問題には、日韓関係の難しさが凝縮されている。1981年4月、全斗煥政権による100億ドルの経済協力要請に始まり、82年夏の教科書問題を挟んで、中曽根康弘首相の電撃的な訪韓によって83年1月に決着に至るこの問題には、様々なドラマが存在した。著者は外務省の北東アジア課長としてこの問題の処理に携わった当事者である。
本書の構成と概要
本書は、以下の各章から構成されている。第1章 軍事政権の要求
第2章 日韓に横たわる深い溝
第3章 外相たちの「哲学」
第4章 韓国の「克日」
第5章 全斗煥と瀬島龍三
第6章 偽造されかけた親書
第7章 「最終案」の行方
第8章 親日と反日のはざまで
第9章 ニューヨーク会談で見えた薄光
第10章 瀬島龍三の裏工作
終章 終幕――ソウルの初雪
終章を含めて全11章からなるが、それぞれのタイトルからも分かるように、各章は安保経協交渉をドラマ仕立てにした際の見出しという色彩が濃く、研究書のように各章にテーマが設定されているわけではない。そこで、以下では評者なりに本書で描かれる交渉の各局面を簡単にまとめることにしたい。
1981年4月23日、盧信永外務部長官が須之部量三駐韓大使に合計100億ドルの対韓経済援助を打診した。国交正常化とともに開始された対韓経済援助は韓国の発展に伴って減少傾向にあり、この要請は援助の大幅な増額を求めるものであった。その第一報が外務省の北東アジア課に寄せられたところから本書は始まる(第1章)。これが2年近くにわたって続くことになる交渉の始まりであった。韓国からの申し入れを受けて、高島益郎外務事務次官と崔慶禄駐日大使の会談が持たれ、韓国側の要求が高度に政治的な要求であることが確認された。こうして、外相同士の会談に舞台は移るかに思われたが、鈴木善幸首相訪米後に伊東正義外相が辞任し、新外相に園田直が就任することになったことで、外相会談は延期せざるを得ず、結局8月下旬までその開催はずれ込むことになった。
この間、日本の外交当局は情報収集に努めるとともに、韓国側との接触を重ねた。その結果浮かび上がったのが日韓に横たわる深い溝である(第2章)。朝鮮半島情勢をめぐる認識をはじめとして日韓間の差異は多岐に渡るが、韓国との交渉の焦点は、経済協力を増大させる理由としての安全保障論議の取り扱い、全体の金額提示を先行させるべきとする韓国側の立場と、具体的プロジェクトの積み上げによって全体の額を決めようとする日本側の立場との調整、の2つに絞られた。この2点は交渉妥結に至るまでの一貫した課題となった。その後、8月に外相会談(第3章)、9月に閣僚会議(第4章)が行われたが、日韓間の認識には依然として大きなズレがあり、韓国側から外交ルートとは違うルートでの瀬踏みが真剣に行われた。
こうして交渉はある種のデッドロックに陥っていたのだが、日本の内閣改造によって「日韓交渉の第三幕」(166頁)が始まることになった。韓国側ととかく感情的な衝突を起こしがちであった園田に代わり、11月30日、桜内義雄が新外相に就任したのである。しかし、新外相就任によっても日韓の立場の違いは変わらず、日本側の非公式ルートも始動することになった。ここで裏舞台に登場したのは瀬島龍三である。韓国と独自のコネクションを持つ瀬島の全斗煥との会談を経て交渉は再び動き出し、1982年1月と2月、2回の実務者協議が開催された(第5章)。この協議自体が、「本来、安全保障と政治的理由からの対日要請であるものを、何とか経済的ないし民生安定のための協力という枠組みに押し込むための、外交的な「芝居」」(179-180頁)だったわけだが、2回の実務者会談によって韓国の要求の具体的内容が相当程度明らかになった。
実務者協議の後、桜内外相と盧信永長官の二度目の外相会談に向けた調整が始まった(第6章)。この段階までに韓国側の要求は当初の100億ドルから60億ドルへと変わっていたが、依然として日本側の40億ドル弱という提示とは開きがあり、さらにその中身についても調整がついていなかった。そこで日本政府部内では、「日本の内部で大きな政治力を持ち、かつ韓国の全大統領と直接話し合える特使を日本から派遣し、内々に韓国側と話し合うべきとの考え方」(189頁)が検討され始めた。特使の最有力候補とされたのは竹下登であり、木内昭胤外務省アジア局長から竹下への打診も行われた。結局、竹下派遣構想は流れたが、その代わりに瀬島ルートが再び活用され、そのカウンターパートの権翊鉉と外務省幹部との直接接触が行われることになった。
裏舞台での調整を経て、具体的な外相会談に向けた調整が進められることになった(第7章)。前田利一駐韓大使の一時帰国、そして渡辺美智雄大臣を含む大蔵省幹部と外務省幹部の調整によって日本側の「最終案」が固められ、柳谷謙介外務審議官が4月に訪韓した。しかし、韓国側は「この程度では国内が爆発する」(218頁)と日本の提案を蹴り、日韓交渉はいわばにらみ合いに近い状態になった。
日韓交渉は韓国の外務部長官が盧信永から李範錫に交代したことによって新しい動きを見せる(第8章)。李の生家は独立運動家の間でも名を知られた「名家」であり、「親日派」として糾弾されにくく、率直に話し合えるのではないかという観測が日本側関係者の間で流れた。李は米国訪問の途次の日本立ち寄りという形で、7月に外相会談が実現した。結果として、この会談によって、経済援助の大枠は固められ、「実質的」折衝への道が開かれた。
このように妥結に向けて前進したかに見えた中で発生したのが、いわゆる教科書問題である(第9章)。「交渉は、いわば演劇の最中における地震によって一時中断されたのだった」(247頁)。その後、ニューヨークの国連総会時に日韓外相会談が開催され、関係修復ムードになっていったが、ここで今度は日本の政局が動き、11月27日、鈴木首相が退陣、中曽根康弘政権が発足した。中曽根は瀬島に訪韓の地ならしを依頼し、12月末、瀬島が極秘に訪韓、全大統領との会談を経て、年が明けた1983年1月、中曽根が電撃的な訪韓を行い、ここに日韓安保経協はようやく妥結した。
本書の評価
本書の評価には若干の難しさがある。著者自身が「回想録ではなく、それでいて学術書でもなく、実話小説でもない、ある意味で不思議な内容」(302頁)を持つ本と断っているが、本論で著者自身は「北東アジア課長」と三人称で描かれ、また注釈を付し、情報公開法を利用することで外務省から引き出した文書や当時の新聞記事が縦横に利用されるなど、外交官による著作として本書は独特のスタイルを取る。情報公開法の利用など、本書と同様のスタイルを取る著者の前著『記録と考証 日中実務協定交渉』(岩波書店、2010年)は、中国課首席事務官時代に携わった日中実務協定交渉を、当時の外務省文書に加えて、より高いレベルの関係者の回顧等を利用することで、学術的に交渉の全体像を描こうとしている。これに対して本書で取り上げた安保経協について、著者は外務省の主管課長として、政治レベルの機微も含めて、当時から交渉の全体像を知り得る立場にあった。それゆえ、注釈を丹念に確認しながら読めば分かるように、現在も外務省が開示しない交渉の機微に渡る部分は当時の新聞記事や自らのメモ、さらには関係者への聞き取りを利用することで、当事者にしか知り得ない様々な状況を描写している。こうした事情を勘案すれば、どこまでが当時の著者の知り得た情報であるか疑問の残る点はあるにせよ、本書は注釈を付すことで客観性を持たせる努力をした主管課長による日韓安保経協に関する回顧録として読むべきだろう。
やや特殊な性格を持つ本書だが、その読みどころは実に多い。何よりもまず、日韓安保経協交渉に関してこれだけ詳しい内容を持つ著作はこれまでなかった。これまで、この問題は全斗煥や中曽根康弘、そしてアメリカのレーガン大統領といった指導者たちのレベルで語られることが多く、とりわけ日本では中曽根のイニシアティブという側面が強調されがちであった。また、同時期に本格化していく「戦略援助」の典型として描かれてきた(デニス・T・ヤストモ『戦略援助と日本外交』同文館、1988年、109-121頁)。本書の登場により、バランスの取れた歴史叙述が可能となるだろう。
政官関係やマスメディア、そして非公式接触者との関係について、極めて詳細に内部からの視点が明らかにされていることも本書の読みどころである。このドラマが進行する中で、日本の外相は伊東正義、園田直、桜内義雄、安倍晋太郎と次々とかわり、韓国の外務部長官は盧信永から李範錫に代わった。その局面ごとに、本書の言葉を借りれば外相たちの「哲学」が交渉の進展に影響を与えたことが読み取れる。例えば、急転直下、日韓閣僚会議開催が決まるなど外相のイニシアティブが重要な意味を持った園田外相時代のエピソードは、交渉における政官双方の役割を考える上でも興味深い。さらに、桜内や竹下などの言葉を通じて見えてくる政治家の世界と外交の関係は、自民党政治の機微を明らかにしている。
また、現代外交の難しさを明らかにするのが非公式接触者とマスメディアに関する部分である。日韓交渉における瀬島龍三の役割については既に広く知られているところであるが、瀬島の派遣にあたって政府内で周到な準備が行われていたことや、密な連絡を続けていたことが本書の記述から裏書きされる。朴正煕時代のような「古い世代の癒着」を断ち切ることを一つの目的に始まったはずの交渉が(24-26頁)、途中から瀬島という「密使」を必要としたことにも日韓関係に潜む独特の難しさを象徴している。マスメディアとの関係は随所に顔を覗かせるが、それは最終局面における瀬島派遣に関する部分でも登場する。瀬島による秘密工作が外に漏れれば、それまで積み上げてきたものが一挙に壊れかねない。中曽根首相や竹下蔵相などの政治家とも緊密に協議を続けつつ行われた瀬島派遣の成果をいかに表舞台に上げるかは、マスメディアとの関係のみならず、交渉全体を仕上げるにあたってクライマックスの一つとなった。
このように類書には見られない読みどころを多数持つ本書であるが、いくつかの点で読者の注意を促す必要とともに今後の課題を示しているように思われる。まず、木内昭胤アジア局長をはじめとする外務省高官たちの心情描写や直接引用されるセリフは、額面通りに受け取っていいのだろうか。巧みなストーリー捌きの中に置かれるために、効果的である反面、読者は知らず知らずの内に著者の見方に引き寄せられていってしまう。検証という側面を重視して書かれた『日中実務協定交渉』に比して、本書はストーリーをもって語らせているだけに、この点はより注意して読む必要があるだろう。
また、本書では安保経協交渉の始点を1981年4月に置いているが、それ以前からの流れやより大きな文脈を押さえることも必要かもしれない。そもそもなぜ全斗煥政権が対日要求を行ったのか、また日本政府はそれまで対韓援助問題をどのように考えていたのかといったことは、交渉開始の背景として重要だろう。これらについて本書が触れていないわけではないが、背景説明に留まっている。こうした点について著者は自覚的である。始点のみならず、終点も含めて著者は「一つのドラマの始まりが、本当はいつだったかは、歴史の考証を待たなければ、軽々しくは断じ得ない。同じく、現実世界のドラマは、終わったと思っていると、どこかで進行中だったりする。この書の一兆円のドラマも、実は、朴正煕大統領の暗殺に始まり、金大中大統領の登場で一応幕を下ろしたという見方もできる。いや、ひょっとすると、日本と韓国を巻き込んだドラマは未だに続いているのかもしれない」(302頁)という。この点と関連して、朴政権に象徴される「古い世代の癒着」はこの交渉を経てどのように変化したのだろうか。また、経済大国として70年代後半から日本政府が援助増額を掲げていたこととこの交渉はどのように関係しているのだろうか。さらに、特使や密使を用いた外交そのものは、アメリカや中国、さらには東南アジアとの外交でもしばしば行われることであるが、この交渉における瀬島の役割は、その他の交渉と比してどのように位置づけられるのであろうか。こうした点についても本書の中で触れられていないわけではないが、著者の所掌事務を外れることは、交渉の背景として触れられるのみで、評価は慎重に避けられている。著者の問いかけやより大きな文脈をふまえてこのドラマをどのように考証していくか、これは研究者に投げかけられた課題と言えよう。
交渉の始点とも関係することとして、アメリカ要因をどのように考えるかという問題もある。これまでの限られた研究でも、1981年秋になって日本の交渉姿勢が軟化した背景として、アメリカの影響が指摘されてきた(小此木政夫「新冷戦下の日米韓体制――日韓経済協力交渉と三国戦略協調の形成」小此木政夫・文正仁編『日韓共同研究叢書4 市場・国家・国際体制』慶應義塾大学出版会、2001年、198-199頁)。さらに、日本が韓国の要請を受けて交渉に入った背景を、1977年のカーター政権成立にさかのぼって日米間の「負担分担」の観点から検討する最新の研究もある(石田智範「対韓支援問題をめぐる日米関係(1977-1981年)――「責任分担」論の視点から」慶應義塾大学大学院法学研究科修士論文、2011年)。本書の記述はアメリカについて抑制的である。当時のアジア局関係者へのヒヤリングに基づいて「対韓経済協力問題について、米国政府当局から直接日本の外交当局に、要請やアプローチがあった事実は確認されていない」(42頁)とするが、「直接」という言葉が慎重に付されている。また、日韓交渉が記述の中心に据えられることは当然だとしても、その記述にあまりにアメリカが見えないことも気になる。韓国側がアメリカを動かそうとしていた事実は本書でも触れられており(例えば、39-40頁)、日本の対韓援助問題を日米韓三国の視座から改めて検討することも重要な課題となるのではないだろうか。
いずれにせよ、本書は日本における外交官の回顧録として例外的な密度を持ち、示唆に富んだ著作と言える。出版社の意向もあるのか、センセーショナルな本作りとなっていることは否めないが、本論はあくまで冷静な筆致で貫かれている。この交渉から見えてくる様々な問題は、日韓関係のみならず日本外交全体を考える際に一つの出発点となり得るというのが評者の率直な評価である。近年、政策研究大学院大学のプロジェクトを筆頭に、外交官の証言はかなりの蓄積が見られる。それに比して当人の手による密度の濃い回顧的著作は限られているのが現状だろう。本書を嚆矢にして、こうした回顧録が出版されていくことを期待したい。
最後に形式的な点を1つ指摘しておきたい。本書では情報公開法に基づく開示請求によって取得した外交文書は、その文書名や作成者・日付等の情報が記されているものの、開示請求番号が付されていない。開示請求番号が明記されていれば、文書の再請求が容易となり、事務手続きも簡略化できる。学会誌等に掲載される論文でも開示請求番号を明記することは徹底されていないのが現状であり、本書の注釈のつけ方には致し方がない面もあるが、開示請求番号を明記することが請求者と官庁の双方にとって望ましく、慣行として定着させていく必要を広く訴えておきたい。
0%