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【書評】マーク・マゾワー著『暗黒の大陸:ヨーロッパの20世紀』中田瑞穂・網谷龍介訳(未来社,2015年)

July 20, 2016

池本 大輔 (明治学院大学法学部政治学科准教授)

1.はじめに

本書は、イギリスが生んだヨーロッパ近現代史研究の泰斗、マーク・マゾワーの手になる名著の待望の翻訳である(原著の刊行は1998年)。マゾワーはギリシャ史研究者としてそのキャリアを開始したが、二十世紀のヨーロッパを俯瞰した本書の他、日本でも翻訳が出た『国際協調の先駆者たち』や『国連と帝国』など、最近では国際機構の研究にも手を伸ばしている。

本書の狙いは、二十世紀ヨーロッパ史を民主主義の必然的な勝利の物語とみる見方に対して反論することにある。マゾワーによれば、現代の民主政治は1914年の古いヨーロッパ秩序の崩壊に始まる、長期にわたる国内的国際的実験の産物であり、自由民主主義・共産主義・ファシズムという三つの競合するイデオロギーの間で、ヨーロッパを規定するための絶え間ない闘争が、20世紀のほぼ全体を通じて続いた。マルクス主義歴史学者のホブズボームが唱えたような、20世紀は共産主義と資本主義の闘争の時代だという見方をマゾワーは退ける。彼によれば、政治を経済に還元することはできず、価値やイデオロギーの違いが重要だからである。そして民主主義にとっては、共産主義よりもヒトラーの方が大きな脅威だった。民主主義の勝利は間一髪の成功と予想外の展開の産物であり、ナチズムはヨーロッパ史の伝統からの一時的な逸脱でなく、むしろその主流に属する現象だったのである。

自由主義は、個人の自由の擁護・国家の形式的平等・自由貿易を旗印にしている。1930年代から40年代にかけて、自由主義はファシズム(人種主義的な集団的福祉・ダーウィン的闘争と優越人種の支配・ドイツの優越的地位の下でのヨーロッパの経済的協調を掲げる)の挑戦を受け、かろうじて生き残った。この闘争は三つの長期的な影響を持つことになる。第一に、人々はイデオロギー政治に疲れて私的な空間に籠もるようになり、個人に自由な空間を提供する民主主義の良さを再発見した。第二に、民主主義はヒトラーの挑戦に立ち向かう中で再活性化し、社会的な責任に目覚めた。第三に、この自由民主主義は1945年以降初めて左翼からの競争に直面したが、新たな戦争が回避されたため、両者の争いは経済的なものとなり、西側諸国だけがグローバル資本主義の圧力にうまく適応したことで勝利を収めた。

ヨーロッパ史を扱う本書が、文明的なヨーロッパと対比する意味で未開のアフリカを指す表現として使われた「暗黒の大陸」をタイトルとするのには理由がある。ナチスはヨーロッパ文明の中にある破壊の潜在能力を悪夢のように暴き出したが、彼らが「劣等人種」とみなしたヨーロッパ人たち(ポーランド人やロシア人、そしてもちろんユダヤ人)を扱ったやり方は、英仏の帝国主義がアフリカ人に用いた方法と同じだったのである。

2.各章の内容紹介

本書の目次は以下のとおりである。各章の内容を簡単に紹介する。なお本書はいわゆる通史でなく、各章はテーマ別のエッセイとでもいうべき体裁をとっている。

はじめに

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第1章 見捨てられた神殿:民主主義の興隆と失墜

第2章 帝国、国民、マイノリティ

第3章 健康な身体、病んだ身体

第4章 資本主義の危機

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第5章 ヒトラーの新秩序、1938-45年

第6章 黄金時代への青写真

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第7章 残忍な平和、1943-49年

第8章 人民民主主義の建設

第9章 民主主義の変容:西欧、1950-75年

第10章 社会契約の危機

第11章 鮫とイルカ:共産主義の崩壊

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エピローグ

第1章では、1930年代の各国の政治的分極化の中で、民主的な価値が雲散霧消していく様が語られる。当時の自由主義は憲法上の権利に焦点を置く一方、社会的責任を無視していた。そのため、国民全体を体現し表出するという役割を果たせなかった。エスニシティや階級間の亀裂が深刻化し、国民の統一を第一に優先するものは、権威主義的な政治秩序に引き寄せられた。

第2章は、第一次大戦後英仏主導で中東欧に打ち立てられた、民族自決の原則とマイノリティの国際的保護にもとづく自由主義的秩序を扱っている。敗戦により崩壊したロシア・ハプスブルク・ドイツ帝国から独立した東欧の新興諸国は多くのエスニック・マイノリティを抱えていた。国際連盟はこれらのマイノリティの保護を任務の一つとして発足したが、自由主義は幾つかの点で説教と実際の行為の内容が食い違っていた。第一に、一般的なマイノリティ保護の原則を定めた国際レジームではなく、新興諸国のみを対象とし、西欧の「文明化された」国々をカバーするものではなかった。第二に、このレジームはマイノリティをマイノリティとして永続的に保護することを目的としたものではなく、国民的一体性をつくりだすために「同化」するという暗黙の前提に依拠していた。第三に、西欧の英仏両国も国内のマイノリティに対しては同化主義をとっていたが、その植民地では人種別の発展という考えや隔離政策がとられていた。東欧の新興国家はやがて同化から手を引いていき、マイノリティは安全保障上の脅威とみなされるようになった。反ユダヤ主義も一般的であった。ヒトラーが1930年代に権力を掌握したのはこのような潮流の中のことだった。もっとも、ナチスドイツの人種的ナショナリズムが極端な形をとったのもまた事実である。

第3章では家族政策が扱われる。ナチスの家族政策は悪名高いが、マゾワーによれば、国家は人種的に健全な子孫を必要とし、そのために私的生活に介入する必要があるという考え方自体は、戦間期には多くの国々で左右を問わず受け入れられていた。これは出生率の低下(人的資源の「量」)への懸念を背景にしたものであり、公衆衛生への危険(人的資源の「質」の維持)を口実に疾病者の隔離・断種もあわせて実行された。ここでも、第三帝国による「劣等人種」の殺害は、既に存在した傾向を極端な段階にまで押し進めるものだった。

第4章では、自由貿易と国際金本位制に立脚する自由主義路線の失敗が語られる。国際的にはドイツ賠償金問題をめぐって各国が対立する一方、国内では新たに高い生活水準を期待するようになった労働者と資本家の対立の調停に失敗した。国際的な資金循環の途絶が金融破綻・大恐慌を引き起こし、財政均衡主義に基づく危機対応は失敗に終わった。このことは、1930年代の経済的挑戦に立ち向かいうる、ファシズムや共産主義に代わる民主的な選択肢はありうるのか、という問いを提起した。東欧と西欧の両方で、1930年代の古典的自由主義の失敗が、経済における公的権力と私的権力のバランスを見直させ、第二次大戦後の大好況への道を固めた。

第5章では、ヒトラーのもたらした新秩序がなぜ最終的に失敗に終わったのかが説明される。ナチスドイツのヨーロッパ新秩序は政治的には階統性とドイツの人種的優位性にもとづくものであり、当初ドイツによる占領を歓迎する向きがあった諸国にあっても、対独協調の可能性を損ねた。経済的には、シュペーアの唱えた広域経済圏の構想は、経済的統合と非関税圏の創設を含み、戦後実現した共同市場を彷彿とさせる。しかしここでも人種が妨げとなり、ヒトラーの下では実現不可能な構想であった。

絶え間のない暴力の体制に服従することの衝撃があまりにも大きかったので、第二次大戦中にヨーロッパの政治的社会的態度は著しい変貌を遂げ、民主主義の長所を再発見した。ナチスの新秩序は、それに代わる体制を何とか考え出そうとさせる役割を果たしたばかりではなく、いつかの領域では戦後の現実がまさにそこから生まれ育つ苗床であった。そこで第6章では、各国における戦後ヨーロッパの構想が検討される。第一に、デモクラシーが保証する政治的権利と自由の価値が再評価されるようになった。第二に、形式的な自由はそれだけでは不十分とされ、経済や社会の運営にあたって政府が新しい役割を担うことを期待されるようになった。社会民主主義者だけでなく保守層もこれを支持したことで、左右の収斂が起き、戦後の政治的安定につながった。国際的には自由貿易が支持された結果、国内の国家介入とのデリケートな調合により戦後経済の「奇跡」が実現した。第三に、ナチスの人種理論を前に、民主主義国家は自ら唱えてきたことと実践してきたことの間にある矛盾を自己テストせざるを得なくなった。第四に、国民国家と国際秩序については、平和と人権の擁護のために国際法の再生が目指されたが、国家主権との兼ね合いから成果は限定的だった。戦時の夢が不完全にしか実現しなかった点では、ヨーロッパ統合も同じであった。

第7章では、ヴェルサイユの夢であった国民的同質性が現実になったのは、ドイツによる少数民族の殺戮と、大戦末にドイツ系住民が東欧から追放されたからだという冷厳な事実が指摘される。民主政治が民族的多様性の問題をうまく処理できないという指摘は、本書で繰り返されるテーマである。

第8章では、ナチスドイツの東欧支配がその人種的ナショナリズムのために長続きしなかったのとは対照的に、ソ連の共産主義が東欧のナショナリズムと順応したがゆえに持続力をもち、工業化にも成功した経緯が説明される。

第9章では、西欧における民主主義の再生が語られる。マゾワーがとりわけ重視するのが、実体的な社会的・経済的権利へのコミットメントの拡大である。福祉国家は、戦争が社会的連帯への要求を作り出す一方、戦後の経済発展が必要な資源を生み出したことで可能になった。それに対して、冷戦や超大国による介入の影響はそれほど大きくなかった。階級間の敵対関係は融解し、消費社会が到来した。

第10章では、資本主義と民主主義の二重の改革から生まれた社会契約が1970年代の経済成長の鈍化により危機に陥る一方、1930年代への回帰は起こらなかったことが強調される。社会契約が崩壊しなかったのは、西欧の国民国家が自らの力の限界と、世界的な競争に対して自らの生活様式を擁護するためには協調に基づいた行動が必要であることを理解するようになったからであり、グローバル化によって一国的経済政策を実施する政府の力が低下したことで、ヨーロッパ統合という選択肢が魅力的になった。とはいえ、資本主義と国民国家の要請の間には緊張関係がある。資本主義がもたらした移民は、ヨーロッパに染みついた人種主義を表面化させた。1970年代の景気後退によって移民は望まれざる異邦人と見なされるようになり、移民排斥を訴える極右政党が台頭した。

第11章では共産主義の崩壊が語られる。ソ連支配の崩壊は、迅速かつ予期せぬものであったが、平和的に実現した。東欧諸国でも、西側と同様1970年代以降経済成長が鈍化し、福祉制度が歪んだ。共産主義が民主主義と比較してうまく対処できなかったのは、重工業と巨大な労働者階級を抱え、経済合理性のためにデフレや大量解雇を行うことが政治的に不可能だったためだ。生活水準の低下した労働者は体制に背を向けたが、反体制派は分裂しており、最終的に鍵を握ったのはソ連の政策変更であった。クレムリンは国内での経済改革の優先とアフガニスタンでの失敗のため、東欧からの撤退を選んだのである。共産主義の終焉は脱植民地化のプロセスの一部として位置づけられる。

ソ連帝国の崩壊によってヨーロッパの権力均衡に生じた最も根本的な変化は、ドイツの再統一だった。しかしドイツは民主化し、国外に住むドイツ系住民の問題が消滅した今、もはやヨーロッパにとっての脅威ではない。したがってドイツ問題の解決のために経済通貨同盟を実現する必要はなかった。冷戦終結後の旧ユーゴスラヴィアの戦争は、ナショナリズムの破壊力を示し、ヒトラーが生存圏獲得の際に用いた方法や価値を思い起こさせるものだった。

エピローグでは今後の展望が語られる。冷戦の終焉によりヨーロッパは一つになり、イデオロギーの重要性は低下した。マゾワーによれば、1989年に勝利したのは資本主義であって民主主義ではない。どう民主主義と資本主義の折り合いをつけるかが課題であり、EUだけがこの挑戦を受けて立つ唯一のヴィジョンである。もっともEUは経済的な存在として最も重要である一方、政治的軍事的な役割は小さいままだろう。重なり合った主権のヨーロッパを、国民国家が姿を消し、より大きな統一体の中に消えていくヨーロッパと混同してはならない。

3.評価と疑問点

本書に明示的には書かれていないが、自由民主主義の理念と現実のギャップが本全体を貫く問題関心である。ギャップを指摘することは、ヨーロッパの民主主義を貶めるものではない。というのは、民主主義においては、ギャップを指摘することが現実を理念に近づけていく第一歩であるからだ。ティモシー・ガートン・アッシュが指摘しているように、本書の書名には定冠詞がない。つまりマゾワーは、ヨーロッパを世界における唯一の暗黒の大陸として糾弾しようとしたわけではない。むしろ本書は、ヨーロッパの民主主義が様々な限界を抱えつつも、過去の失敗から学びながら歩んできた道のりを描き出す著作なのである。

本書の内容に疑問の余地がないわけではない。その最たるものは、20世紀における共産主義の役割を過小評価しているのではないか、という点である。確かに、自由民主主義に対してもっとも強烈な軍事的挑戦をつきつけたのはファシズムだった。しかしファシズムが当初国内でも国際的にも影響力を拡大することが許容されたのは、マゾワーも認めるようにエリートや保守層の間で共産主義の方がより大きな脅威として認識されていたためではないか(21頁・106頁)。同様に、第二次大戦後西欧諸国で戦後コンセンサスが形成されるにあたって、ファシズムの教訓が果たした役割を本書は強調している。しかしアメリカは、戦後直後はより自由主義的な国際経済秩序の再建を目指していたが、冷戦激化に伴って共産党を政権から追放することを条件に西欧諸国が福祉・成長志向の経済政策を実行することを容認したのであり、共産主義の脅威が果たした役割はマゾワーが考えるより大きいのではないだろうか。

この点は原著の出版から20年近くを経た本書の現代的意義にも関わっている。一見したところ、マゾワーの予想は当たらなかったようにも見える。彼は冷戦終結後に新自由主義が拡散し社会契約が消滅することを予見できなかった(451頁)。グローバル経済の中で、民主主義と資本主義の折り合いをつけることを可能にする枠組みとして期待されたEUは、ユーロ危機やイギリスの離脱など、多くの問題に直面している。しかし上記の表面的な限界を超えて本書を際立たせるのは、社会的側面を失った民主主義の脆弱性やそのような状況下でのナショナリズムの醜悪さについての彼の警告が、われわれの眼前で起きている事態を見事に説明しているという事実である。1930年代の教訓は彼が考えたよりも簡単に忘れ去られたかもしれない。しかしそれは教訓が無価値であることを意味しないのである。

このような名著を良質の翻訳で読むことが出来るのは不幸中の幸いである(但し、nationを全て「国民」と訳す(65頁訳注)ことには異論がありうる)。とりわけ多くの訳注を付すことで、それなりの前提知識を要求する本書を広範な読者層に届けようとした訳者の努力は高く評価されるべきだろう。本書とめぐりあう幸運な読者が一人でも多からんことを!

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