評者:渡邉 公太(帝京大学文学部専任講師)
はじめに
本書は、「国際主義(インターナショナリズム)」という概念を手掛かりとし、従来の国際関係史研究でほとんど注目されることのなかった、国際連盟の対中国技術協力を扱ったものである。著者によれば、「国際主義」には二重の意味合いが含まれている。国際社会主義・共産主義を意味する「Internationalism」と、異なる国々の利益や行為の潜在的調和を信じるというより広い意味を持つ「internationalism」である。そして本書は連盟の対中国技術協力を通じ、後者の国際主義(internationalism)と帝国主義としての日英両国の対応について、豊富な一次史料を縦横無尽に駆使して検証する。
周知のように、国際連盟は第一次世界大戦の教訓から、アメリカのウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領の提唱によって設立された、人類史上初の集団安全保障の国際機関であった。だが大戦後の世界平和の担い手となるはずであった連盟は、結局のところ約20年後の次なる大戦争を防止することができず、無用の長物にしかすぎなかった。そのため、伝統的な日本外交史研究においても連盟に対する消極的イメージが根強く、一部の例外 [1] を除いて、その活動をつぶさに追った研究はなかなか現れなかった。
だがこうした連盟研究の状況も、ここ10年ほどの期間に目覚ましい変化を遂げつつある。とりわけ戦後史との関連で、連盟が行った社会人道面の活動に対する再評価の試みは、著者を含む国際関係史研究者の手によって急速に進展している。連盟の保険事業について詳細な分析を行った安田佳代によると、連盟が行った活動の歴史的意義とは、①第二次大戦後の国際統合や地域統合に少なからぬ影響を与えたこと、②グローバル・ガヴァナンスの源流とも言える、多様な国際事業の土台が築かれたこと、という点にあるという [2] 。本書もまた同様の問題意識に立つ研究であり、中でも連盟の対中国技術協力について、それを第一次大戦後の国際主義の試みと位置づける点に特徴がある。
本書の構成
本書は、序章と終章に三部九章を加えた構成となっている。
序章
第一章 国際主義と帝国
第一部 国際主義と日本の格闘
第二章 国際連盟の思惑と中国の引力
第三章 満洲事変期の連盟、イギリス、日本
第四章 日本の連盟脱退通告と天羽声明
第五章 中国にとって連盟とは
第二部 国際主義と介入
第六章 日中戦争勃発後の連盟と中国
第七章 ビルマロードとイギリス帝国
第三部 戦後への継承と帝国の変容
第八章 国際連盟から国際連合へ――イギリスの演じるべき役割
第九章 国際社会の要請とアヘン問題――桎梏としての帝国
終章
第一部は連盟の発足から日中戦争勃発まで、第二部は日中戦争期、第三部は戦中から戦後への移行期を扱っている。以下、本書の構成に従い、時系列的に連盟の技術協力問題について紹介していく。
ライヒマンの対中国技術協力
本部で主人公となるのが、ポーランド出身の医師で疫学者のライヒマン(Ludwik Rajchman)である。ライヒマンは第一次大戦中にポーランドの伝染病対処を支援し、その功績もあって大戦後には連盟の保険部長に就任した。
本書でライヒマンは、国際協力の分野で活躍した、国際主義の体現者として扱われている。確かにライヒマンは従来の大国による支配に批判的であり、列国のパワー・ポリティクスよりも一般人の福祉に関心を有していた。そうしたライヒマンによる「国際主義」的な活動は、必然的に帝国主義と対立することになり、多くの批判を受けることにもつながる。
第一章では、連盟発足とその際に設置された社会人道問題に関する機関が紹介される。連盟規約の第23条は社会人道面の規定であり、これに基づいて国際労働機関(ILO)、アヘン諮問委員会(OAC)、連盟保健機関が設立された。そしてこうした社会人道面の活動の主な舞台となるのが、中国であった。
この時期、アヘンの吸煙はほぼ東・東南アジアに限定されており、なおかつ列国の統治が浸透していない非・植民地の国は中国しかなかった。したがって連盟の技術協力は、中国を舞台に展開するしかなかった。そしてその中心的役割を担うのが保険部長のライヒマンであった。
第二章では、連盟の対中国技術協力の本格的な開始が対象となる。1929年に保険機構から専門団が派遣され、中国の海港衛生や検疫施設の調査が行われた。このとき中国へ赴いたライヒマンは、中国国民政府を高く評価し、保健衛生分野での広範な計画を作成することに成功する。だが中国に多大な権益を有する日英の外務省当局などは、こうした連盟の対中国技術協力に批判的であった。連盟で日本代表として活躍し、「国際主義者」として知られる杉村陽太郎などもその例外ではない。ゆえに著者は杉村に対し、「国際主義よりも、日本の国益を第一に考えるナショナリスト」(78頁)と評している。
第三章では、1931年7月の長江大氾濫、および同年9月より発生した満州事変をめぐるライヒマンの対中国援助について論じられる。この際、ライヒマンは技術協力にとどまらない、連盟による根本的な問題解決を提言する。そして、国民政府の宋子文財政部長との会談において、日本の侵略行為に対抗することで意見の一致を見た。だがこのライヒマンの対応は、明らかに中国へ一方的な肩入れをしたものであり、「慎重さ、外交的配力の欠如」(103頁)であった。
第四章では、連盟理事会特別委員会(対中国技術協力委員会、TCC)設置の過程について論じられる。上述したように、連盟の対中国援助は、日本にとってはとうてい受け入れがたいことであった。ゆえに日本は1934年4月の天羽英二外務省情報部長による、いわゆる天羽声明において、連盟や列国による対中国援助を批判した。イギリスもまた、日本を除外した形で中国へ支援をすることには消極的であり、かつての新四国借款団のような、日本を含めた列国間協調の枠組みを踏襲することを望んでいた。そして日本からの強い反発を浴びたライヒマンは、技術代表の座から外れることになる。
第五章では、ライヒマンが技術代表から外れて以降のTCCの活動について概説がなされる。ライヒマンが外れた後も対中国技術協力の活動は継続されていたが、そこには問題も含まれていた。すなわち、連盟の財政が悪化していく中、中国という特定の国に対してのみ技術協力を継続することは、連盟の構成国からすると納得のいくものではなかった。さらに、技術協力の背景にある「遅れた場所に対する文明化の使命」という考え方も、現地の人びとからは「介入」としか解釈されず、現地との間で摩擦を生じさせる要因となってしまう。
日中戦争期の技術協力
第六章は、1937年7月からの日中戦争の勃発以降を対象とする。戦争被害が拡大したことで中国の衛生状況が悪化し、伝染病が拡大したことで、保険部長のライヒマンが再び対中国技術協力事業へ関与することになる。その内容は、国民政府の権限を大幅に拡大することで伝染病対策を行うというもので、国民政府の影響力を拡大させるというものであった。そこにはライヒマンの理想主義的要素が多分に含まれていたため、「Internationalism(共産主義)」を想起させた。ゆえにライヒマンの活動は、連盟内でも支持を得られることはほとんどなかった。
第七章では、イギリスによる対中国支援のためのルートであった、ビルマロードとその関連地域における帝国主義の変容が分析される。1939年に疫学研究者であったロバートソン(Robert Cecil Robertson)は、ビルマと中国国境の雲南地域での疫学調査を行った。これは連盟が、中国の内陸深くまで関与するようになったことを意味した。そして従来はこうした内陸地域は、イギリス帝国の中でもほとんどその影響が及ばない「周縁地域」であったため、間接統治しか行われておらず、実質的に自立を維持した状態だった。だが連盟がこうした周縁地域に関与するようになったことで、この地域の自立性は喪失されるようになっていく。それは戦争とは直接関係しない地域に対して戦争が及ぼした、ある種の副産物であったと言えるかもしれない。
戦後への継承
戦争の拡大による国際主義の拡張と帝国主義の変容は、戦後世界の建設に向けてより一層進展していく。第八章では、戦争防止に無力であった連盟の終焉から、国際連合の創設が扱われる。国連はいくつかの分野で連盟を踏襲することになったが、そこには技術協力の活動も含まれていた。そして国際連合経済社会理事会(経社理)が設立されることになり、またアヘン対策については麻薬委員会(Commission on Narcotic Drugs)の設立へとつながった。
第九章では、国連による国際主義の要請に対するイギリス帝国の対応について分析がなされる。戦後の国際社会をアメリカとともにリードしたいイギリスは、周縁地域の福祉向上という国際社会からの要請に応えなければならなかった。そして1946年末には、帝国内でのアヘンの非合法化を決定する。
だが1948年1月にビルマらがイギリス帝国から独立すると、周縁地域のアヘン吸引問題対策は、新たな独立政府にその責任が移行する。イギリス帝国は解体することになったが、それによってアヘン対策という困難な問題は、不安定な新政府に「遺産」として引き継がれることになった。
「国際主義」の可能性
先述したように、連盟の対中国技術協力という、これまでほとんど注目を浴びることのなかった分野に深く切り込み、豊富な一次史料でもってその実態を明らかにした本書の議論は手堅い。それでいて、狭義の連盟研究にとどまらず、近年盛んな帝国論やグローバル・ガヴァナンス論などの多様な分野に貢献をなすものでもある。こうした奥行きを持つ本書であるが、評者の関心からいくつかの論点を列挙してみたい。
まず本書を一読すると、おそらく読者は「国際主義」という本書の鍵となる概念に対して、その実現可能性に極めて悲観的な印象を抱いてしまうのではなかろうか。本書でも繰り返し述べられているように、本書が扱う時期になされた一連の国際主義の試みは、いずれも成功したとは言い難い。むしろ日中戦争や太平洋戦争といった列国同士の激しい権力闘争によって、ほとんど意味を持たなかったとさえ解釈できてしまう。すなわち、ライヒマンのような「国際主義」者の活動は、結果的に国家間の協調や平和といった何らかの具体的成果を生んだわけではないのである。
むしろこの時期の国家間協調に貢献したのは、「国際主義」者よりも、国益を追求するナショナリストたちの方であろう。日英関係に限ってみても、戦間期の両国の協調を志向したのは、ネヴィル・チェンバレン、ウォレン・フィッシャー、吉田茂といった、中国ナショナリズムを軽視(無視)するパワー・バランス重視の政治家・官僚たちであった [3] 。そして「国際主義」という理念が、こうした国家間協調の担い手たちから忌避されたことは極めて自然なことであった。
もちろん著者にとっても、こうした事実は言わずもがなであろう。前著 [4] において、中国を舞台とした日英間のパワー闘争を描いた著者は、大国間のパワー・ポリティクスの複雑さを十分に熟知しており、ゆえに時に理想に走りすぎるライヒマンに厳しい評価を下すこともしばしばである。
だがその一方、著者は「国際主義」の可能性を強調しないわけにはいかない。本書の結論部で著者は、「正確な情報を得て国際社会を理解し、できる限り自らもそこに参加し、問題を感じれば力ではなく言葉による交渉によって理解を深め、状況改善に貢献していくことの重要性は、…明らかだと思われる」(280頁)と締めくくっている。おそらく著者は、「国際主義」という実現困難な理想を現実政治に採用するためには、本書で示したような、幾多の厳しい試練を乗り越える必要があったと考えているのではなかろうか。逆に言えば、こうした厳しい試練を経験したからこそ、戦後の国際社会は「国際主義」に対する理解が深まり、現在に至るまで様々な「国際主義」に基づく国際機構などが設立されたり、政策に影響を及ぼすようになったのであろう。それは従来の主権国家間関係を前提とした国際関係論に対する批判的意味合いも含まれているように思われる。
おそらく、「国際主義」が国際社会に浸透することの是非については、現代においても様々な見解があろう。「国際主義」がすぐさま人類に平和や幸福を提供するわけではないことは、われわれはすでに戦間期の教訓からうかがい知ることができる。もし「国際主義」の名のもとに他の地域へ何らかの施しを授けようとするならば、そこには必ず「介入」という問題がついて回ることになる。パワー(軍事力)でもって他国を支配する帝国主義と、理念でもって他国に普遍的な思想や社会システムを強制することは、少なくともその手段においてさほど変わりはない。ゆえに国際主義には、「何のため」「誰のため」という疑問が必ず付きまとうことになる。
だがいかなる立場に立とうとも、「国際主義」は過去・現在・未来の国際社会を語る上で欠かせないキーワードであることは否定できない。こうした議論を進める際において、本書は歴史的教訓をわれわれに提示してくれる極めて貴重な一書である。
[1] 日本とのかかわりで国際連盟の活動を通史的に扱った代表的な研究書として、海野芳郎『国際連盟と日本』(原書房、1972年)、塩崎弘明『日本と国際連合』(吉川弘文館、2005年)、Thomas W. Burkman, Japan and the League of Nations: Empire and World Order, 1914-1938 (Honolulu: University of Hawaii Press, 2008); 篠原初枝『国際連盟――世界平和への夢と挫折』(中公新書、2010年)。
[2] 安田佳代『国際政治のなかの国際保健事業――国際連盟保健機関から世界保健機関、ユニセフへ』(ミネルヴァ書房、2014年)2-3頁。
[3] 木畑洋一「失われた協調の機会?――満州事変から真珠湾攻撃に至る日英関係」細谷千博ほか編『日英交流史2 政治外交Ⅱ』(東京大学出版会、2000年)22頁。
[4] 後藤春美『上海をめぐる日英関係1925-1932年――日英同盟後の協調と対抗』(東京大学出版会、2006年)。