染野 憲治
本年7月28日、江蘇省南通市啓東にて排水管建設計画に反対するデモが発生した。南通市の工業開発区にある王子製紙工場の排水を約100キロ離れた啓東地域の沖合に流すため、市が建設を進めていたものだが、これに反発した住民らの抗議活動が暴徒化、最終的に市は事態収拾のため計画撤回の表明に至った。
この工場は、日系企業による対中投資でも最大規模で総投資額は約2,000億円を計画している。工場の建設に至るまでに環境アセスメントなど中央政府の認可も得て、排水についても規制基準をクリアして長江へ流していたが、工場の本格稼働に伴い排水量が増加することから市が工場建設の前提として計画をしていたものである。
この事件の少し前、7月初めには、四川省徳陽市什ホウにおいて銅モリブデンの製錬工場建設に対する反対運動が発生し、総工費約1,300億円の計画が中止に追い込まれている。
近年、中国では年間20万件近くの「群体性事件」(デモなどの集団抗議活動)が発生している。土地問題や格差、汚職などに起因するもののほか、環境問題に絡んだ「環境群体性事件」も増加している。急速な経済発展による環境汚染の深刻化、さらに生活の向上による個人の権利意識の高まりが背景にある。
著名な事例としては、2005年に浙江省における3つの大規模な環境群体性事件、2007年には福建省アモイ市においてパラキシレン(PX)工場の撤去を求める事件、北京市海淀区六里屯のごみ発電プロジェクト建設反対運動、さらに、2008年の遼寧省大連市のPX事件などが挙げられる。
公式統計でも、中国における環境汚染に対する投書は年々増加し、2010年には70万通、陳情件数も2002年のピークには9万件、2010年も3万件以上にのぼる。中国では反日運動を「愛国無罪」の名で容認させることがあるが、環境問題も同様に「環保無罪」といわんばかりの様相を呈している。
廃棄物処理場の建設反対運動などについては、購入した住居の価値が下がることを嫌った住民による、いわゆるNIMBY(NOT IN MY BACKYARD:自分の裏庭は嫌)と思われるものもあるが、報道やインターネットを通じて、重金属汚染によりがん患者が大量に発生した「がん村」、北京などでのPM2.5(大気中微小粒子状物質)による深刻な汚染など、環境汚染による健康被害は広く国民に認知され、情報が拡散されるようになった。地方政府が外資にどのような歓迎姿勢を示しても、地域住民の理解なしに工場建設を進めることは困難さを増している。
加えて現在の中国の環境汚染を示すデータは、項目や地域によっては、日本の高度成長期、1970年代初め以上の汚染を示している。中央政府による地方幹部の評価にも、経済成長のみならず、環境の状況が反映されるようになってきた。そのため地方においても、汚染物質の総量抑制に向けて、国の基準の「上乗せ」(規制水準の強化)、「横出し」(規制対象の追加)、さらには大気や水質汚染に関する排出権取引の導入など新政策の導入にも積極的である。この先、中国の環境規制は、厳しくなることはあっても緩和されることはないであろう。
中国進出を考えている企業に対し、できるだけ多くの誘致実績を作りたい地方政府が提供する情報や分析は、耳当たりがよいものに偏っていることも考えられる。また、進出する企業としても、基準を十分に守らずに操業しているようなイリーガルな競争相手などがあると、自社の環境対応を可能な限り緩くしたいという誘惑に駆られるかもしれない。
しかし、環境問題への関心が高まる中国においては、環境規制を遵守してもなお、紛争に巻き込まれることがある。さらに日系企業は、外資系企業のなかでも特に政治・外交の影響を受けやすく、このような群体性事件に巻き込まれた場合は、建設反対や操業停止に留まらず、不買運動など影響の長期化も懸念されることからも、より注意深くあるべきだといえる。
また、事後的には対応しようがない要素も少なくない。日系企業が中国への進出に当たって地元の会社を買収したところ、この企業の過去の環境規制違反の評価まで引き継いでしまった、という例があった。
工場建設をした地元政府指定の企業が製造した環境汚染防止機器を使用したら、その機器の能力不足により環境基準をクリアできず、地元政府から処罰された、といった実話もある。これらの違反記録がNGO(非政府組織)などによりインターネットなどで公表されれば、企業の信頼やブランドにも傷がつきかねない。
中国に進出する企業が、このような「環境リスク」に向き合うためには、事前の正確な情報の収集と冷静な状況分析が重要である。あまりに当然のことかもしれないが、信頼すべき情報の見極めが困難な中国では、この当然のことが難しい。
まずは、日本および中国の中央・地方政府、先行して進出した日系企業や中国企業など信頼できるパートナー、さらには地元住民やNGOなどのステークホルダーまで幅広い人脈を構築することがその第一歩となろう。そして、一つのルートによる情報を鵜呑みにせず、セカンドオピニオンを聞く姿勢も不可欠だ。