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ブートロス・ブートロス=ガリ『打ち負かされず─国連とアメリカのサーガ』について

September 25, 2007

池内恵・国際日本文化センター准教授

はじめに

第6代国連事務総長ブートロス・ブートロス=ガリの回顧録『打ち負かされず─国連とアメリカのサーガ』(Boutros Boutros-Ghali, Unvanquished: A U.S.-U.N. Saga, London, I. B. Tauris, 1999)は、実務であれ研究であれ、なんらかの形で国連に携わる人々に、また国連という存在に漠然と憧れを持っている人々にとって(あるいは反感を持っている人でも)、紐解いてみる価値があると信じている。冷戦後、そして湾岸戦争後、の国際政治秩序の形成における最初期の段階に、国連の事務局中枢が置かれた立場や、迫られた判断、国連をめぐる主要国間の政治の展開が、しばしば映画的な場面・人物描写を交えて描かれる。世界各地の紛争・民族問題への国連の関与がどのような経緯と力学で推進されたか、あるいは阻害されたか、国連の事務総長の視点から記される。
国連研究を直接の専門分野としていない筆者がガリの回顧録に興味を持ったのは、彼がエジプト人であり、エジプト近代史上重要な役割を演じ続けている有力家族の出であるというきっかけからである。
ガリはアラブ世界に近代的な政治学、特に国際政治学を移植するのに大きく寄与した人物である。カイロ大学に政治経済学部を設立し、初代学部長となるとともに、アフラーム政治戦略研究所も設立、初代所長となった。多くの著作を著わすとともに、組織の統率者としても頭角を発揮したことで、サダト大統領の目に留まり、外務担当国務大臣に任命された。これによって、サダトのエルサレム訪問、キャンプデーヴィッド会談、和平条約の調印といった目覚しいエジプト外交の推進役としてその役割を発揮するようになる。これについては彼自身の別の回顧録『エジプトのエルサレムへの道』に詳しい。
しかし、アラブ世界への関心からだけでなく、この回顧録が読み物として純粋に面白く、読むことを楽しんだからこそ、ここに紹介したいのである。「国連事務総長」という地位には、特に日本では、倫理的高潔さや、政治的に超然とした立場が想定され、あたかも「神聖にして不可侵な」ものであるかのように扱われてきたきらいがある。こういった印象にもっとも適合するのはダグ・ハマーショルドだろう。しかしガリの回顧録の筆致には、このような日本的期待を大きく裏切る面がある。むき出しの権力闘争をやや露悪的に記述し、各国首脳、特に米クリントン政権の高官が舞台裏で示すしぐさや表情を諧謔まじりに闊達に描写し、私憤も混じっているのではと疑わせるほどに善玉と悪玉を書き分ける。普通は暴露本というものは出てきた組織の非をあげつらうものだから、組織の長自らが暴露本を出すというケースは稀だろう。ガリは国連そのものを批判しているわけではないが、国連というものが抱えている問題や制約、困難な状況を詳細に描いてしまっている。
しかしクリントン政権高官とやり合った舞台裏を明かした点での面白さについて記しはじめると、この本がどこか品位を欠くような、歴史の資料としての価値に難があるような印象を与えてしまいかねない。まずは、本書のより堅実な意味での意義について述べておきたい。
本書が特に日本の読者にとって意義があるのは、国連そして特に安保理を徹底的に権力政治の場として描いたという点だろう。本書は、ともすれば理想主義的に描かれがちな日本での国連に関する議論に波紋をもたらす、あるいは困惑さえ誘うものかもしれない。高位の事務レベルでの国連外交の駆け引きや配慮の機微は、これまでの元国際公務員の回顧録からうかがい知ることもできる。しかし国連事務総長という特殊な立場において、ある時は各国首脳からの要求の矢面に立ち、ある時は首脳間の交渉を垣間見るという形で、首脳レベルでのいわば「国連政治」を目の当たりにし、さらにそれをかなり大胆に書き記したという意味で、本書はこれまでの国連事務総長の回顧録とは様相を異にする。ある面では外交的配慮をかなぐり捨て、個人攻撃にも近いような批判を行っている場面もあることは、見方によっては国連事務総長という職の品位を下げたという非難も受けよう。しかし対立や力関係の所在を赤裸々に示したという意味で、読者に資するところがあるだろう。
1992年から96年は、旧ユーゴスラビアの民族紛争、ルワンダでの虐殺、ソマリアの内戦といった地域紛争が頻発し、国際社会の介入が論議の的となった時期であり、その後の国連による平和活動の理論構築と実践や失敗例の積み重ねがなされた時期であった。アフガニスタンではムジャーヒディーン政権下での内戦の果てに、ターリバーンが登場し急速に全土に実効支配を及ぼし、アル=カーイダとの結びつきから国際テロリズムの基地となり、2001年の9・11事件への決定的な活気となった時期でもあった。パレスチナでは1993年のオスロ合意によっていったんは和平への希望が灯ったが、湾岸戦争後も存続したイラクのフセイン政権への制裁が長期化する趨勢が固まった時期でもあった。それらの紛争の仲介や関与に、国連はどのような意思決定を行い実行したのか。一人の重要な当事者による記録として貴重である。いうまでもなく、ガリが時系列的に記す、在任中に直面したさまざまな課題についての、自身の認識や状況判断、実際に行った対応の記述は、事実関係を客観的・相対的に入念に検討したうえで、国際政治史の当事者による記録として折に触れ参照されていく価値がある。
ガリの名が最もよく記憶されているのは、1992年6月に発表した報告書『平和への課題』で行った、国連による平和活動の理論化だろう。この報告書の背景にあるガリ本人の意図はいかなるものだったか。回顧録から伝わってくる平和の「強制」をも含む強力な国連平和活動を提唱した人物の人となりは、国際政治の展開を単に抽象的なパワーとアクターの作用する場に還元して把握するのではなく、生身の人間の営為の積み重ねとして見ていく際には参考になるだろう。

ブートロス=ガリの証言と弁明

すでに原著の刊行から十分に時が経っている。本稿では本としての紹介をこえて、ガリの事務総長任期を歴史的に評価する際の論点となり、評価が分かれる事項についての個々具体的な記述を検討する作業に入りたい。その際に、同時期に活躍した国連や主要国の高官による回顧録も折に触れ参照し、ジャーナリストによる著作や論評も参考にして、ガリ本人の記述を相対的に位置づけてみたい。もとよりここでは網羅的・包括的な検討を意図するものではなく、本書の紹介に奥行きを持たせることを意図して手近な翻訳書を中心に参照しておく。

(1)国連事務総長の選ばれ方

まず、ブートロス=ガリが一九九一年に次期国連事務総長に任命される経緯が興味を引くところである。国連事務総長という人事はどのようにおこなわれるのか。ガリが事務総長に着任してくるのを、国連事務局の側で迎える立場にあったマラック・グールディング(当時国連平和維持活動担当の国連事務次長)の評言を引いてみよう。「一九九一年一一月二一日、ブートロス=ガリが安保理での選挙に勝利し、十二日後、総会が正式に任命した。私はこの結果を喜ばしく思った。私はそれまでにもカイロを訪れブートロス=ガリとは面識があり、彼の知性と外交の経験と人間的魅力と機転に感服していた。アフリカ諸国の大部分にとっては、アフリカ初の国連事務総長にはサハラ砂漠以南のアフリカ人の方が良かったかも知れないが、ブートロス=ガリはイスラム教国のキリスト教徒でユダヤ教徒を妻に持ち、多様な世界を網羅することのできる人物だった」(マラック・グールディング『国連の平和外交』幡新大実訳、東信堂、2005年、363頁)。
グールディングは「アフリカ初の国連事務総長」と形容をしているが、ガリ自身ははっきりと、最初から次は「アフリカの番だ」ということになっていたと再三記している。ガリに立候補の可能性が打診されたのは1991年にナイジェリアのアブジャで開かれたアフリカ統一機構(OAU)サミットにムバーラク大統領の代理で出席した際だったという。首脳による非公式会合で次の国連事務総長ポストが話題に上り、この時点で「今回は『アフリカの番』」であるという認識がすでに共有されており、カメルーン、ガーナ、ナイジェリア、シエラレオネ、ジンバブエからの候補者の品定めがなされた後、ガボンのオマル・ボンゴ大統領から、「ブートロス、君はどうだい? 君はアラビア語とフランス語と英語をしゃべる。最高の国連事務総長になれるぞ」と水を向けられたのが発端だという(p. 7)。帰国してエジプトのムバーラク大統領に報告すると、大統領は当初は必ずしも乗り気でなかったというが、1991年6月に許可を得て選挙運動を始めた。国連事務総長の選出法は不明朗な点も多く批判もあるが、ガリ自身は現行のシステムに肯定的で、もし選考委員会を設置したり候補者の基準を明確にしたりすれば、「国連はただのお役所になってしまう。国連憲章の起草者たちは、変化する国際社会の必要に応じる余地を多く残しておいた。『安全保障理事会の勧告に基づき、総会が事務総長を任命する』とだけ規定され、それ以外はどろどろした政治に委ねたのである」(p. 8)という。さらに「私は自分の中に『政治的人間』を自覚した」(p. 9)と積極的である。フランスの支持は最初期から堅かった。1991年8月クーデタで混乱の最中のソ連には9月末にムバーラク大統領と共に訪問して折衝したが、イギリスからブルントラント・ノルウェー首相を推す根回しがなされたがゴルバチョフはガリに決めたという。アメリカは大統領、議会共にパキスタンのイスマーイール派指導者のサドルッディーン・アーガー=ハーンに傾いていたが、ベーカー国務長官はイラクとクウェートへの国連による人道援助プログラムをめぐってアーガー=ハーンと意見を異にしており、反対したとされる(p.11)。アメリカでは「今度はアフリカの番」であるとは10月まで認識されておらず、ハンス・ファン・デン・ブルーク元オランダ外相をベーカーは推していた。結局ジンバブエのバーナード・チチェロ財務相との競り合いに勝ってガリが選出されるのだが、「のちに聞いたところでは、ブッシュとベーカーは支持する候補者について合意できず、トマス・ピカリング国連大使に明確な訓令を与えなかったのだという。私を第6代国連事務総長に選出した評決で、アメリカは棄権していた」(p. 12)。

(2)行財政改革

就任早々に取り組みを迫られた国連事務局の行財政改革については、前任者のデクエヤルが「役職を一つか二つ無くせれば、うまくやったといえるだろう」と引継ぎで語ったと記し、安全保障理事会局、特別政治問題局(脱植民地化を担当)、反アパルトヘイト・センター、総会局、軍縮局、調査局を政治局に統合し、「18もの高位の役職を廃止した」と成果を誇っている。

(3)平和への課題をめぐって

1992年6月に安保理に提出した『平和への課題』は、同年1月の安保理首脳会談での求めに応じたものだが、「安保理はそれまで自らに属していた責任を事務総長に委任したのだ」(p. 26)とガリは記し、事務総長にその時点で期待されていた役割・権限の大きさを思い起こさせる。ガリが事務総長として実際に行った紛争への対応に関しては評価が分かれる。おそらくそのためか、『平和への課題』執筆時の意図について、まさに「部隊の迅速な派遣」を意図していたのだと記している。

(4)ボスニアをめぐって

1991年の暮れにかけて緊張を高め、1992年春の内戦の勃発、激化の時期を通じてのブートロス・ガリの姿勢には批判が多い。この問題についてはガリもかなりの紙幅を割いており、やや長くなるものの、主要な問題点についていくつかここで紹介しておきたい。
1992年の10月ごろまでの国連の対応については、その消極性が批判され、特にガリ自身の思想や性格にまで批判が及ぶこともしばしばである。集約すれば、次のような批判となるだろう。

ここで国連の出遅れを決定的にしたのが、事務総長の「後向き」の姿勢だった。
ブートロス・ガリ事務総長は、国連保護軍の活動領域をボスニアにまで拡大することに非常に消極的だった。それどころか、ボスニア各地で戦闘が続く中で、国連保護軍司令部をベオグラードに移転(その後ザグレブに再移転)させ、一時はボスニアから国連保護軍を完全に撤退させようとまで考えた。
ブートロス・ガリはこの年(九二年)六月に『平和への課題(AGENDA FOR PEACE)』を発表し、国連の平和維持活動を強化し、停戦などの条件が整わないもとでも積極的に関与していく「平和執行活動」を提唱したが、ことボスニアに関しては平和維持や人道援助活動にすら消極的で、自説とは反対の言動を繰り返した。(千田善『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』勁草書房、1999年、129-130頁)

千田は「この時期に(あるいはもっと早く)大規模な国連部隊をボスニアに派遣すれば、紛争激化の抑止効果があったかもしれない」と主張する。遅れて国連部隊が投入されてからも「結局、ずるずると小規模な追加派兵を繰り返し、ボスニア駐留の国連保護軍は二万人以上にまで膨れ上がったが、初動で出遅れたうえ、任務が限定的で、さらに装備・兵員規模がその任務にさえ見合わないなど、ちぐはぐな印象をぬぐえなかった」(千田、前掲書、130頁)とも批判する。そして「一方で『平和執行部隊』を提唱しながら、他方ではボスニアでの国連保護軍展開に反対したブートロス・ガリの並外れた個性と頑固さは、ボスニアや旧ユーゴの問題だけでなく、安保理と事務総長が対立する形での国連の機構運営をぎくしゃくとしたものにした」(131頁)と断じている。
ガリは「消極姿勢」への批判に、国連は十分な装備や人員を与えられることなく、現地の状況に照らして不可能な課題を背負わされていた、だからこそ国連部隊への過剰な要求に反対したのだ、という形で反論する。「1991年7月21日、私は安保理に『国連は安保理の要求を満たすための権限も手段も与えられていない』と報告した」(p. 43)。

ヨーロッパが、西側世界が、そして世界がボスニアの惨劇に対して示した反応は、ばらばらで欺瞞的だった。アメリカとNATOとCSCEとG7のそれぞれが、ボスニア問題に対して独自の立場を取っており、重複したり拡散的だったりした。困難な決断を自ら行い、十分な資源を割り当てることなく、国連で代用しようとしていた。現地では国連の兵士たちはいよいよ不可能な状況に置かれるようになっていた。彼らは人道援助を届けるために送られたのだ。セルビア人もボスニア人も、国連の兵士は襲われた場合にも武器使用を許可されていないことを知っていた。民兵がチェックポイントを設けて物資をせびるのが常態化し、国連部隊への恥辱は増した。かつては歓迎されていたブルー・ヘルメットが、助けようとしている相手から脅迫と蔑みを受けるようになっていた。(p. 45)

そしてガリは安保理に率直に問題を指摘したという。

安保理議長宛の私の書簡によって、緊張が走った。
「私は今、安保理が政治的支持をすでに与えている任務の履行に関して、安保理に助言しなければならないという不愉快な立場に立たされています。安保理の取った行動によって、期待が高まっています。熟考の上、申し上げなければなりません。安保理はこのような措置を採用する前に、これまでの慣例通り、UNPROFORの技術的側面について確かな見解を求め、その見解が届くのを待つべきでした。ここ数週間、ボスニア・ヘルツェゴビナから届く恐ろしいニュースを聞くにつけ、ロンドンでの会議で持ち上がった機会に賭けてみようとする安保理の立場は理解できます。しかし、安保理と事務総長がもっと協力して動けるよう望みます。もちろん私は安保理に仕える立場です。しかし同時に、私の権限の範囲内については私の見解が反映されることを望みます」
同日、安保理はこの件に関する会合を開いた。安保理議長は私の書簡について、「事務総長と安保理の関係をめぐる根本的な問題に触れてしまっている。安保理はこのことを今後も留意する」と注意深く言及した。イギリスの国連大使デービッド・ハネイ卿は「口は災いのもと」と言ってコメントを避けた。ハネイと私は、時折意見が一致しないことがあった。彼は態度が横柄だった。私に似てないこともない、という人もいたが。しかし彼は私の知る国連大使の中で最良の一人だった。(p. 44)

なお、ジェームズ・ベーカー元米国務長官の回顧録『シャトル外交 激動の四年』に記された範囲では、ガリが突出して消極姿勢をとり、国連部隊の派遣を阻んだという認識ではない。1992年4月14日にボスニアのシライジッチ外相がワシントンにベーカーを尋ねてきた際に、ボスニアの事態に対する「アメリカの懸念」を伝えたものの、「ただし、国連の平和維持軍は、調停のために派遣されるわけではないことを理解して欲しかった」と記され、同日にベーカーがハード外相に電話した際に、「情勢が安定しないうちに、ボスニアに国連軍を入れることに、彼は消極的だった」ともある。翌日もハードは国連部隊派遣への懸念を繰り返したという(ジェームズ・A・ベーカー?『シャトル外交 激動の四年』仙名紀訳、新潮文庫、1997年、下巻615、617頁)。
しかしガリの姿勢が国連で各国に反発や失望をもたらしたことは事実だろう。前述のグールディングの回顧録では、ガリが1992年5月12日に行った安保理への報告が与えた印象が大きいようである。「この報告書は安保理の理事国のほとんどを落胆させた。苦々しそうに拳を握り締める姿がたくさん見られた。理事国のほとんどは、国連はボスニアでもやれるという報告を望んでいた。しかし、事務総長はできないと云った。事務総長の議論は反論の余地はなかった。しかし、それでも「国連が何とかしなければならない」という思いが燻ぶっていた。」(グールディング、前掲書、393頁)。
この日の安保理への報告は、ガリの立場からは、現地での状況の悪さを伝えるためのものであった。そして

国連のボスニアでの活動を拡大してはならないという私の勧告に安保理は耳を貸さなかった。5月15日の決議752号はUNPROFORに人道物資輸送を護衛するよう要求した。そして、「すべての非正規軍は……解体され武装解除される」ものとし、全ての勢力が国連の活動に協力することを呼び掛けた。これは非現実的な「なし崩しの拡大」の始まりだった。それが国連のボスニアでの悲劇に結びつくことになる。(p. 40)

ガリが回顧録の時点で提示する立場からは、国連部隊が投入されるためには、関係国や諸大国による平和の斡旋によって状況が沈静化され、当事者の同意と協力を得られる必要がある。状況が悪いままに介入するのであれば自衛の能力を十分に備え、強制力の行使を正当化する強力な決議を安保理から与えられている必要があった。そういった条件が整わなかったがゆえに国連部隊の投入に反対したのだ、ということになる。
目につくのは、ガリがしばしばジョージ・ブッシュ(父)政権の国際機関担当の国務次官だったジョン・ボルトンとの意見の一致を強調していることだ。

私は米国務次官ジョン・ボルトンが5月25日に議会で行った発言によって勇気づけられた。ボルトンによれば、旧ユーゴスラビアへの国連平和維持部隊の派遣は、ECの行っている交渉による紛争解決の試みと密接にかかわっている。もし対話が功を奏しない場合、「そして諸勢力が相違の克服に真摯に取り組まない場合、安保理はこの活動の任務を見直すことになる」。ボルトンの言葉は明確で断固としていた。私の立場ともまさに一致している。「国連平和維持活動は失敗の尻拭いではない。万策尽きた後にいやいや送り込まれるものではない」(p. 39)。

1992年8月26日とその翌日にロンドンで開かれた「旧ユーゴスラビアをめぐる国際会議」でのガリは共同議長を務め仲介案を当事者に呑ませたが、ガリは次のように記している。

ロンドン会議で、参加各国がうすうす知っていながら認めることを拒んできたことについて、私は率直に切り出した。
「ボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争のおぞましさはさぞかしお驚きでしょう。みなさまにはUNPROFORの活動に大いに期待していただいていますが、UNPROFORはご期待に応えるための資源と能力を欠いております。……安保理は紛争当事者の双方が行うべきことを数多く示していますが、……国連の部隊は1992年6月5日の合意(人道援助を目的としてサラエボ空港を再開すること)を執行するための権限と装備しか明示的には与えられていません。UNPROFORは最も困難で危険な条件のもと、この任務を遂行してきました。
認識していていただければならないのは、国連に課された任務を果たすために国連要員は対立諸勢力が擁する非正規軍諸部隊の協力を仰ぐことを余儀なくされているということです。こうした諸勢力は流血の阻止と平和の回復を目指すあらゆる試みに対して激しい敵意を燃やしているのです」
ロンドン会議で私が望んだのは、現実を直視してもらうことだった。
「現状の付託された任務では、国連の権限それ自体では、この紛争を持続的な政治解決による終結へと導けません。もっと、もっと多くが緊急に求められているのです。そのためにわれわれはここロンドンに集まったのです」
介入をいかに、いつ行うか、そしてそもそも介入を行うべきか否かを見るための皆が共通しうる枠組みを私は示したかったのである。以下の二点をはっきりさせておきたかった。
第一に、世界各地で持ち上がる暴力の全てに国際社会が割って入ることは不可能である。しかし我々に関心を迫る種類の紛争がある。国際平和と安全を脅かすものや、人類が共有する根本的な道徳規準を踏みにじるもの。また、放置すれば国際システムの基礎を掘り崩しかねないもの。ボスニアの危機は明白にこれらの基準を満たしていた。
第二に、ロンドン会議ではある定式を見つけることが求められる。諸勢力の多様性は尊重されながらも、政府が諸勢力を横断した共通の目的のために尽くし、諸勢力から等しく忠誠を受けられるようになる、そんな定式である。
「もしあらゆる民族、宗教、言語集団が国家を主張すれば、細分化に歯止めがかからなくなりますよ」と私は警告した。これはボスニアが多民族国家としてとどまる方が良い、ということを含意する。
私はロンドン会議の参加者にボスニアの過酷な将来に直面するよう求めた。平和の維持が失われ対立が再燃した場合、国連部隊は撤退してしまうか、あるいはより大きな国際的取り組みのもとで外交だけでなく軍事力による解決をもとめる動きの一部として再編されるほかに道はない。(p. 47-48)

ガリがこの回顧録で一貫して主張し続けるのは、「装備と権限付託が不十分である限り、国連は動けない」こと、さらに「問題解決は現実に根ざしたものでなければ実現不可能である」という筋を通していただけなのだ、という点である。国連の(自らの)立場の一貫性と対比されるのが、アメリカの政策の揺れである。例えば「クリントン政権は就任の最初の数週間で、バンス-オーウェン・プランを葬った。そこではセルビア人が統一国家の領土の43パーセントを与えられるという案だった。1995年のデイトン合意をクリントン政権は誇ったが、三年近くも恐怖と殺戮が続いたあげくに、国家は二つに分割されセルビア人は49パーセントもの領土を得るのだ」(p. 247)と皮肉る。
グールディングの回顧録を見てみると、ガリの「理屈」の正しさには同意しつつ、また別の側面を示している。「その行き着くところは、ブートロス=ガリが前任者のペレ=デ=クエヤルと違って安保理の「非公式協議」の場に滅多に姿を現さなかったことで、もっと悪いことになった」「ブートロス=ガリはそれほど辛抱のできる男ではなく、すぐにもっと大事なことに時間を使うべきであると考えて、滅多に出席しなくなった。このことは、安保理の理事国のいくつかから、理事国を馬鹿にした行動であると見られた。」(グールディング、前掲書、397-398頁)。
なお、1992年8月のロンドン会議でのガリの行動について、ガリの回顧録には現れない場面が鮮やかに描写されている本がある。ボスニア紛争をめぐる国際世論の形成を、PR会社の果たした役割に焦点を当てた、高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』(講談社文庫、2005年[単行書2002年])である。この本ではボスニア政府についていたPR会社のジム・ハーフとデビッド・フィリップスの視線を通じてガリの姿が描かれている。

ロンドン会議の二日目、本会議場での討論が中断し、各国代表団がいったん控え室に戻って作戦を練っていたとき、突然、国連のガリ事務総長がボスニア政府の控え室に入ってきた。
その時のことを、ハーフと連携してボスニア政府代表団を助けていたデビッド・フィリップスはこう証言する。
「ガリは手を後に組み、イゼトベゴビッチ大統領の目をまっすぐに見つめました。それは、私のこれまでの人生で経験した中でも、最も緊張感が高まった瞬間でした」(高木、前掲書、321頁)

ガリの提案は「その基本的な認識において、シライジッチ外相やイゼトベゴビッチ大統領が受け入れられるものではとうていなかった」という。ここでガリは斬り込む。

「大統領、これはわれわれ国際社会の、あなたがたへのお願いです。これがあなたがたに残された平和への最後の機会なんですよ。さあ、大統領の答えはどうなんですか?」
ガリ事務総長はイゼトベゴビッチ大統領に即答を迫った。(高木、前掲書、322頁)

ここでガリが提示した解決策は、収容所の閉鎖や重火器を国連に引き渡すなど、セルビア人勢力に厳しい内容も含まれたものの、基本的には三勢力を平等に扱い、かならずしもセルビア側のみを悪玉とはしない解決策であったため、室内にはすすり泣きすら洩れたという。しかしイゼトベゴビッチが受け入れを表明する。

「だが、あなたの提案をのむ以外、選択肢はないようだ」と受け入れを表明した。そ
の瞬間、険しかったガリ事務総長の表情が、ぱっと明るくなった。ガリは礼を言う間もなく、部屋を駆け出していった。ただちに全体会議を再開すると、つい今しがたイゼトベゴビッチ大統領にのませた声明を採択し、ロンドン会議の終了を宣言した。翌日三日目の会合はすべてキャンセルされ、予定より一日早くあたふたとロンドン会議は終わった。とりつけた合意が紛争当事者の心変わりによって反故になることを恐れたかのようだった。(高木、前掲書、323頁)

ボスニア側にとっては不利な条件を呑まされたという認識だったようだが、グールディングの記述では、ガリこそが自説を撤回することを余儀なくされたのだという。同じ8月27日についての記述で、「日が暮れてから、共同議長のメイジャーとブートロス=ガリが記者会見を行った。メイジャーが、カラジッチ(ボスニアのセルビア系指導者)と合意を結んだと発表して、私は驚天動地であった」(グールディング、前掲書、403頁)。グールディングによれば、この合意の中核は、ダグラス・ホッグ(英外務省担当閣外相)がカラジッチと交渉して、ボスニアのセルビア系軍が保有する重火器をボスニア国軍に申告し、それらの重火器を国連の監視下に置くことを認めさせた点にあった。「明らかに、これはイゼトベゴヴィッチ(ボスニア大統領でイスラム系)を交渉に引き止めておくためにどうしても必要な措置であった。しかし、国連代表団の我々の誰も、まさか英国政府が国連に、ブートロス=ガリ事務総長が僅か一ヶ月前まで国連にはできないと公言してきたことをやると約束させる合意を作成しているとは、想像だにしていなかった」(403頁)。こういった複数の回顧録・ドキュメンタリーの記述を衝き合せてみると、一つの現実に対する多様なパースペクティブの存在が顕著に浮かび上がり、興味深い。
ガリがボスニアへの介入に消極的である、という批判は、アフリカへの介入を重視しすぎる、という批判と一体となっていた。グールディングによれば「ブートロス=ガリはエジプト政府の対アフリカ政策を担当していた頃、ソマリアによく関与してきた。彼はこの決定で国連が抱え込むことになる仕事の大きさをよく承知していたが、彼は国連の和平斡旋と平和維持の優先事項の中で、アフリカが忘れ去られていると見ており、そういう事態を是正すると固く心に誓っていた。ナミビアで既に行われた活動、アンゴラと西サハラで当時行われていた活動、そしてモザンビークで始まることとなっていた活動のことを考えれば、この見方は必ずしも正確ではなかった。しかし、ブートロス=ガリが国連事務総長を勤めた間中、彼の思考はこの見方に支配されていた。そして、彼は、事務総長に着任早々、安保理の西側理事国は旧ユーゴスラビアにおける「金持ちの戦争」にばかり目を奪われて、ソマリアにおけるはるかに深刻な人々の苦しみには無関心であると批判し、味方に失点を与えてしまった」(グールディング、前掲書、344頁)
1992年の年末のサラエボ訪問の際になされたガリの「金持ちの戦争」発言は物議をかもし、後々まで言及されることになったが、これについて本人は次のように記している。

ジュネーブでボスニア人たちに私的に告げていたことを、サラエボでは公の場で言った。サラエボの人たちに忠告したのだ。「あなたたちは世界の十の地域よりもずっとましな状態にある……リストをあげてもいい」
この発言によって私は無茶で無神経だと解釈された。大晦日だった。私はサラエボの人々に希望のメッセージを伝えたかったのだ。私の意図していたのは、ボスニアのモスレムは孤独じゃないということだ。国際社会と世界中の友人の支援と好意を得ている。ボスニアでは外部の世界が平和と正義を押し進めてくれる可能性が多いにある。残念なことに、アフリカの「孤児の紛争」ではそうではない。ほとんど誰も知らないし気に掛けない。まして助けてくれようとはしない。欧米諸国は、私をボスニアに専念させようとした。私はボスニアに深い関心を持っていたが、私の地位は他の様々な危機にも関与しなければならないはずだった。実際には安保理は国連を旧ユーゴスラビア問題にばかり偏って関与させようとしていた。そんな中、私はソマリアへの関心を深めていった。(p. 52-53)

(4)「ブラックホーク・ダウン」の責任論
ソマリアへの介入に対しては、ボスニアとは逆に、ガリは過度の積極性や、それによって米軍を先頭に引き込んだ、といった非難を受けることになった。ソマリア問題についての検討はここでは詳細に紹介しないものの、特徴的な一ヶ所にのみ言及しておきたい。映画『ブラックホーク・ダウン』で知られる、1993年10月3日に行われた、アイディード将軍に対する米特殊部隊の急襲作戦の失敗による19人の米兵の死亡に関する記述である。
この作戦の失敗の責が、アメリカの政界や世論で国連、特にガリその人に負わされたことはクリントンの回顧録の記述にも現れている。「アメリカ人の憤怒と驚愕は収まらなかった。人道支援の任務がどうやって、アイディード捕獲の妄想に変わってしまったのか? アメリカ軍はなぜ、ブートロス=ガリ事務総長の命令に従っていたのか?」(ビル・クリントン『マイライフ クリントンの回想』朝日新聞社、2004年、下巻135頁)。クリントンは自身の立場としては、国連に責を帰すことは避けている。クリントンの記述からは、作戦を実行した部隊の指揮命令系統はアメリカ側にあり、作戦の立案や実行がアメリカ軍の側で完結していたように見える。
ガリはこの事件についてどのように自らの立場を示しているのだろうか。ガリはまず、この事件の前に安保理に対して報告を行い、「現地の司令官が有効な指揮命令系統を確保しない場合」には問題が生じると警告していた、というところから書き起こす。同じことを公の場でも、例えば8月20日の『ニューヨーク・タイムズ』に寄稿した論説で、明確にしており、「部隊を提供する各国が調整なしに決定を行えば、作戦失敗の危険性が高まる」ことを警告しておいた、という。その上でこう記す。

ずっと後になってから知ったのだが、私の安保理への報告の五日後、米国のデルタ・フォースのコマンドやレンジャーたちが、ノース・カロライナ州フォート・ブラッグの統合特別作戦司令部を発ちソマリアに派遣された。1993年10月3日の夜、国連職員のまったくあずかり知らないままに計画され、決定され、実行に移された作戦において、米国デルタ・フォースがモガディシュ南部のある住居に襲撃をかけた。彼らは諜報情報によって、その住居ではムハンマド・ファラーフ・アイディードが主要な副官らと会合を行っているものと信じていた。(pp. 103-104)

このように、アメリカの単独の不用意な介入が失敗を招いたのであって、国連はそこに責を追わないという立場を論証しようとしている。
しかしガリの事務総長の再選をクリントン政権が拒否する際には、ガリがアメリカをソマリアの紛争に巻き込んだ、という説はアメリカでは定着していた。クリントン政権時代に国連大使だったマデレーヌ・オルブライトの回顧録では、ガリの犯した過ちとして第一にソマリアを挙げている。

1996年にブートロス・ブートロス=ガリの事務総長再選を阻止するために、私は主導権を握った。日増しに事務総長との隔たりは大きくなっていった。ブートロス=ガリはソマリアでアイディードと対決するという失敗に終わった戦略に最初に飛びつき、最後まで手放さなかった。ルワンダでは虐殺へと推移する時期に関与を避け、その怠慢を決して認めなかった。ボスニアでは「二重の鍵」の仕組みに固執したこと、この紛争を「金持ちの戦争」と片づけたことは看過しがたい。(Madeleine Albright, Madam Secretary: A Memoir, New York, Hyperion, 2003, p. 207)

打ち負かされて

ブートロス=ガリは1996年の任期切れで退任を余儀なくされる。オルブライトが記すように「国連とアメリカの関係を改善させるためには、この事務総長には辞めてもらわねばならないという結論に至った。これは一戦交えねばならないということだ」(Albright, Madam Secretary, p. 204)という、アメリカの強い反対によるものだった。通常は2期務める事務総長職を1期で退任したのはこれまでガリだけである。これについてガリは、アメリカ内政の日程と交錯したことで、不必要に政治問題化された結果の不運な出来事であったとする。

国連事務総長としての五年の任期の終わりが近づくにつれて、友人や同僚、国連加盟国から二期目を狙うことを求められるようになった。私は事務総長職の独立性を高め、その重責を立派に担ったという。それまでの事務総長はみな、二期連続して勤めていた。もし私がそうしなければ、わが祖国エジプト、わが大陸アフリカに対する侮辱となるというのだ。それには同意できた。正直に言えば、私自身のプライドと達成感もまた、私を二期目に駆り立てていた。しかしリスクがあった。1996年というのは、アメリカの大統領選挙の年である。二〇年に一度だけ、国連とアメリカの長の選挙が同じ年に行われる。国連の問題がアメリカの政治に絡めとられかねないことを私は知っていた。そして絡めとられてしまったのである。(p. 3)

クリントン政権、特にオルブライト国連大使との対立や、それが1996年にアメリカによる再選の断固拒否に至る経緯について、記述は特に具体的になる。再選の不支持という外交的な全面対決に際して、最高位の外交官の間ではどのような会話が交わされていたのだろうか。ガリの回顧録は好奇心を満たしてくれる。

クリストファーは、エルサレムからの電話で伝えた、クリントン政権の私への不支持の方針を確認しに来たという。「なぜですか」私は尋ねた。
「われわれの間の友情ゆえに」お答えすることはできない、とクリスファーは言った。私は言った。
「クリス、頼むよ。友達だからこそ答えてくれなきゃ困るじゃないか。私がどんな過ちを犯したのか、私の行為のどこがこんな事態を引き起こしたのか、知っておく必要がある」
私はこう続けた。
「事務総長の最優先課題は、アメリカと国連との関係だ。なぜならば、アメリカは唯一の超大国だからだ」
そしてこうも言った。
「これじゃアメリカは多国間協調の原則を忌避するということになるぞ。アメリカと国連の間には緊張と相違が常にある。普通のことだ。私がいったい何をしたからといって、こんな異例のアメリカの決断になったんだ」
クリストファーは、理由をお答えすることはできない、と繰り返した。私は言った。
「君は傑出した弁護士だ。なぜクリントンに向かって私を弁護してくれないんだ」
クリストファーは微笑んでみせようとした。
「私は大統領の弁護士であって、君の弁護士じゃないよ」(p. 6)

米政権の最終的な再選拒否は次のように伝えられたという。

四月一四日、日曜日の午後八時のことだった。バンスとハンブルグが会いに来た。バンスは非常に困っていて、どう切り出したら良いか計りかねているようだった。ポケットから小さな紙片を取り出し、ウォーレン・クリストファー国務長官からのメッセージを読み上げた。
「クリントン政権は貴下の再選を支持しないことを決定しました」
私はバンスとハンブルグに、非常に驚いてはいるけれども、たとえアメリカが拒否権を行使するとしても私の決心は揺るがないだろう、と告げた。(p. 5)

米国の国連大使だったマデレーヌ・オルブライトとの対立は再三描写される。1996年10月7日にガリの公邸で行われた夕食では次のような会話が交わされたという。

夕食の席に着くと、私は切り出した。
「今日お越しいただいたのは、あなたと報道官がひどい発言を私に投げつけましたけれども、私はあなたにもクリントン大統領にもなんら悪い感情を持っていないということを直接お伝えしたかったのです」
マデレーヌは、
「ホワイトハウスと国務省が貴方を辞めさせると粗野に発表したことには困惑し、憤激しています」と答えた。
彼女が南カリフォルニアでリムジンに乗っていた時に電話がかかってきてこの報道を知らされ、彼女は「衝撃を受けた」のだという。
「どうなると思いますか?」彼女は尋ねてきた。
「それは加盟国が決めることです」私は答えた。
私は続けた。「これはもう私一身の問題ではありません。」私は米国と共に建設的に働いていくという約束に忠実であろうと思っています。米国が拠って立つ理念と原則を私も共有しているからです。私は言った。
「私は過去にこのことで政治的な代価を払ってきました。ナセルがスエズ運河を国有化したとき、私は『親米』というレッテルを貼られました。そして海外渡航を禁じられてしまったのです」
「そのことは知っています」とオルブライトは言いつつ、
「名誉ある形で辞任するというのはどうですか?」と突如訊ねてきた。
「そんなことできませんよ」私は答えた。
「どうやって祖国エジプトに反対出来るんですか。祖国が私の再選を支持してくれているのですよ」
これに対してマデレーヌは、貴方を交代させようとするキャンペーンによってアラブ世界との関係を損なわなければいいのだが、と返答した。
レイアが加わった。「何でうちの人をやっつけようとするのよ?」
マデレーヌはこれに国務省の公式見解で応じた。クリントン大統領には本当に他に選択肢がないのです。これは議会の要求です。
ダイニング・ルームは暑すぎた。会話は進まず、じきにおひらきとなった。(pp. 302-303)

任期の末近く、そして本書の末尾にも近く、ガリはオルブライトと最後の会食をする。そこでもまた絶妙の噛み合わない会話が再現されるのだが、こちらは本書を手にとって読んで頂きたい。それにしても、タイトルの「打ち負かされず」というのは反語に近い。「身内」のはずの国連内部にも冷ややかな空気があったことをガリ自身が記してもいる。再選の選挙に敗れたガリについて、国連職員の受け止め方の一端を示すのは次のエピソードである。

その後、私の直近の同僚が職場を後にするとき、エレベーターで女性職員たちの会話を立ち聞きした。

「うれしい?」
「ええ。すばらしいわ」
「最高の結果だと思わない?」
「そうね。だけど彼(アナン)にとっては大変よ。アメリカはすごい圧力をかけてくるだろうね」
「そうね。だけどいずれにせよよい結果ね」

国連職員の多くは実際この結果を歓迎していた。彼らにとっては国連にもっと静かな、もっと問題の少ない時期が到来すると期待できる結果だったからだ。(p. 330)

ドラマの一場面のような、できすぎた感がないでもないが、そのようなところもガリの回顧録の魅力となっている。
去り行くガリへの、イギリスのメイジャー政権の外相を務めていたダグラス・ハードは次のように評価している。

ブートロス・ブートロス=ガリは、われわれが両方とも外務担当国務大臣だった時代から親交がある。おそらく彼は二期目を目指すべきではなかったのだろう。ガリとアメリカ人は、任期の最後の数週間、戦術を誤った。けれども彼の国連事務総長としての功績は際立ったものだ。ガリは国連が哲学者を必要とした時に現れた。今、国連は管理者を求めている。(Douglas Hurd, The Search for Peace: A Contemporary Peace Diplomacy, London, Warner Books, 1997.

むすびに

国連の側の立場の一貫性と筋道を論じ、クリントン政権の側の立場の変化を衝き、アメリカ政治の思惑によって流され、メディアによって増幅される対国連政策の揺れ動きを批判する。それによって国連という存在の意義の大きさと共に制約の大きさを描くというのが、この回顧録に一貫して流れたテーマだろう。ガリの主観から書かれた部分も多く、登場する各国高官や、ガリを側面から見届けた外交官たちの見解も考慮に入れる必要がある。日本の思想論壇や文学評論といった場で交わされる国際社会論は、現実との接点が断片的になりがちであり、この回顧録のリアリズムに目を向けてみることは有益なことではないかと思われる。
9・11事件からイラク戦争にかけて、世界各地の紛争や戦争の帰趨が、現地よりもむしろニューヨークで議論され決せられる場面が数多く報じられるようになった。そして北朝鮮をめぐる国際政治・外交に日々注目する中で、大国・小国入り乱れた権力政治の場という国連の性質や、軍事的強制力の正当性をめぐる政治交渉の場としての安保理の姿も、日本の一般世論の間に徐々に浸透しかけていると思われる。『打ち負かされず』が理解され、受容されるための土壌はやっと整いかけたところだろう。

    • 国際日本文化センター准教授
    • 池内 恵
    • 池内 恵

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