三好真理(国連代表部公使)
1.はじめに
昨秋、北岡先生から、国連代表部における「陰の編集長」を命じられ(?)、これぞと思う代表部員を捕まえては、この欄に原稿を書くよう迫ってきた(こつは、「貴方のこんな話を読んでみたい。聞いてみたい。」というヒントを出すことと十分な時間的余裕を持って依頼すること)。爾来、断られることもなく、いやな顔をされることもなく、協力してもらった上司・同僚にまずは感謝したい。非常に楽しい仕事であったが、とうとう私自身が、ここニューヨークにおける約2年の任期を終え転勤することになってしまった。この機会に、罪滅ぼしをかねて駄文を寄せることにしたのでおつきあい頂ければ幸いである。
1980年の外務省入省以来、代表部勤務は、1992-95年のジュネーブ代表部勤務に次いで、2度目であったが、時代も違うし(当時、ジュネーブでは政務部で、主に人権・人道援助を担当していた。ちょうど緒方難民高等弁務官がおられた時期で、旧ユーゴー、ルワンダ問題への対応に忙殺されたが、日本のODAも伸び続け、大いにやりがいを感じながら、いかに「顔の見える援助」を実現するかに腐心した)一概に比較はできないが、特にニューヨークとジュネーブで大きく異なると思ったのは、選挙と安保理の存在であった。
2.年がら年中「選挙の季節」の国連本部
ジュネーブにおいても、WHO事務局長の再選キャンペーン等経験したが、ニューヨ-クにおける選挙の頻度にはかなわない。私がニューヨーク着任以降2年の間にも、国際法委員会(ILC)、大陸棚限界委員会、行財政問題諮問委員会(ACABQ)、国際刑事裁判所(ICC)裁判官、人権理事会、経済社会理事会、婦人の地位委員会等の選挙が行われ、幸い日本は全勝中である。
残念ながら、紙面の都合で、その極意は明かせないが、「選挙の神様」のような高須大使を間近で見ていると、まず、票読みは「石橋をたたいて渡るほどに」緻密かつ慎重に、選挙活動は「あらゆる手を尽くし、最後まで気を抜かない」ということがポイントかと思う。それでも「選挙は一寸先は闇」で、一票差で泣いた欧州の国など、「切腹物」という言葉が万国共通と思えるほど、選挙は真剣勝負であり、敗れた時の落胆は大きい。
選挙は、投票用紙に国名や個人名を記載する形で行われ、大半は総会議場で行われる(例外は事務総長推薦のための安保理メンバーによる投票(正式任命は総会議場においてアクラメーションで行われる)と、安保理議場と総会議場で同時に選挙が行われるICJ選挙、あるいは総会議場以外で行われたICC選挙等くらいである)。普通は、選挙は「晴れの場」でもあるので、議場には常駐代表ないし副常駐代表が登場する。したがって、私自身は実際に投票したことはないが、事務局職員に聞いた話では、綴りを間違えていても、「テラー」と呼ばれる立会人(利害関係のない非立候補国を各地域グループから集めてその都度構成)が常識的に読みとれれば有効票となる由である。それでも万全を期するために各候補は念押しの為、直前に、各国代表団の卓上にビラやパンフレットを配りながら、最後のお願いをする(日本の公職選挙法と違い、当日まで選挙運動が可能である)。
最近、「日本出過ぎ論」はなりを潜めている印象であるが、それでも選挙について事前調整を行っている毎月のアジア・グループ会合(地域会合毎に調整が行われ、選挙実施前にスレートが成立していることが望ましいが、なかなかこうはいかない)では、思わぬ伏兵が立候補を表明したりして、熾烈な争いが展開されている。
日本にとって本年最大の懸案は、10月17日に行われる安保理選挙である。10回目の安保理入り(任期2009-2010年)を目指す日本と、50年ぶり2度目の当選を果たしたいイランとの間では、現段階(9月末)で調整がついておらず選挙戦は必至である。日本の勝利を、次の任地のベルリンから祈りたい。
(注:その後17日の選挙で、日本は158票を獲得し、10回目の安保理入りを果たした)
3.安保理
前回(2005-2006年)安保理メンバーだった頃、後半の4ヶ月だけ経験したが、日本が議長を務めた2006年10月には北朝鮮の核実験やパン事務総長の選出などがあって、このときの体験は大きなアセットとなっている。
この時の様子は、大島前国連大使が「正論」(平成19年5月号)に詳細に書いておられるが、朝の8時前には代表部前に熱心な日本のプレスの方々が、同大使のコメントを取るために待ちかまえていて、同大使は一躍日本のお茶の間の顔となった。また、毎朝の朝会議で、大使の日程やその日の作戦を打ち合わせるが、とにかく、安保理議長になると千客万来で、皆が、最新情報を携えて議長を訪れる。大使の日程は分刻みであった。議長は、重要な協議の度に事後stake out(ぶら下がり)をするが、大島大使は、流ちょうな迫力のある英語で、そして時には、仏語圏諸国向きにこれまた流ちょうな仏語で、議長の立場と同時に日本の立場を発信していた。
大使を支える体制も充実していたが、尋常ならぬ忙しさで(土日も祭日もつぶれることが多かった)、小規模な代表部がなぜこなせられているのか、疑問だった。もっとも、日本のようにいくつかの作業部会を掛け持ちし、ハンドブックまで作り、紛争地域への安保理ミッションをアレンジし得た国はそうなくて、日本が安保理を去る際には、是非早く戻ってきてほしいと要望された。
192カ国の加盟国全てを巻き込んだ安保理改革は、思うほどには進展していないが、日本の安保理入りを支持してくれる国は多い。これらの国の期待に応えるためにも、日本は次の安保理選挙に当選して、国力に見合った貢献をする必要があろう。なんと言っても安保理は、世界の平和と安全の分野で「主要な責任」を担うフォーラムで、日本は大いに貢献できるはずなのだから。
4.欧米の違い
最後に、初めてのアメリカ勤務で、過去3回の欧州勤務との違いを感じたので、記しておきたい。もちろんかなり主観的なものであることをお断りしておきたい。
まず、米国は自由(freedom)を重んじる国だということを感じた。自身の「自由」を重視するからこそ、他人の「自由」も尊重する。全般的に欧州人より、寛大でおおらかである。2001年の9.11事件、そして多くの国家元首を迎える毎年9月の国連総会時、厳しい規制を物ともせず、黙々と指示に従い行列を作る人々の姿を見るたびに忍耐強いと感心させられた。
それから、米国は「若い」との印象である。最後まで見届けられないのが残念だが、この度の大統領選挙で、民主党のオバマ候補が一時見せた勢いは、若い人々の支持なしにはあり得なかった。スーパーマンのような「ヒーロー」が好まれるお国柄でもある。
そして、言うまでもないことだが、移民の国だということである。特にマンハッタンにいるとおよそあらゆる人種の人々と接することができる。Melting Potとも言われるが、決して完全に融合しているわけではなく、様々な問題や摩擦を内包していることが見て取れる。統一を果たしたドイツのように、同一民族、同一言語の国においてさえ、インフラの均一化に10年(実際にはそれ以上かかっている)、意識の上でのギャップを克服するのに一世代(約30年)かかると言われている。気の遠くなりそうなプロセスだが、ニューヨーカーたちは誇りを持って、肩に力を入れることなく、前進しているように見える。
「国連」と「米国」というテーマを追求した2年間であったが、とても充実していた。今後も大西洋の向こう側から観察し続けたい。読者の皆様、今後も「代表部便り」をよろしくお願いいたします。