ジャン=マルク・クワコウ教授 は、現在、国連大学ニューヨーク事務所長を務めるほか、国連システム学術評議会(ACUNS)理事やフランス政治刷新財団顧問も兼任しています。それ以前の1996-2003年には、 国連大学東京本部で上級研究員を務め、また、ブトロス・ブトロスガリ国連事務総長(任期:1992-1996年)のスピーチ・ライターとして活躍したことでも知られています。
クワコウ教授は、パリ政治学院より国家博士号を、パリ大学文理学部ソルボンヌで政治法学博士号を取得。著書に、今年5月に翻訳が出版されたばかりの『国連の限界/国連の未来』(池村俊郎・駒木克彦訳。藤原書店)ほか、多数があります。
本稿は、インド洋での海上自衛隊による給油活動をめぐって与野党対立が激化する中、メールマガジン『国連ウォッチング』編集部からの依頼にクワコウ教授が見解を表明したものです。(蓮生郁代・大阪大学大学院客員准教授)
日本は歴史的に、国連の平和維持活動(PKO)には、自衛隊による後方支援という形でのみ参加してきた。これは、日本が、憲法第9条において、国際紛争解決の手段としては、武力の行使を放棄していることに由来する。
いうまでもなく、憲法第9条は、武力行使を想定するPKOへの日本の参加を妨げる意図で作られたものではない。憲法制定時には国連のPKOなるものはまだ存在していなかった。最初のPKOが発足したのは、憲法制定の数年後のことである。さらに言えば、PKOにおいて武力が行使されるようになるまでには、数十年を要した。実際、冷戦の終結により、度重なる人道上の危機が起きてはじめて、国際社会は、国連憲章第7章に基く武力行使に踏み切ったのである。
この点に関連して、冷戦終結後、武力行使の可能性を伴うPKOがさまざまな形で展開されるに至り、日本の立場の曖昧さは、他の主要先進国との比較において、ますます目立つようになった。冷戦期にはPKOがまだ目新しく、武力行使に至ってはさらに稀であったため、憲法第9条の制約を持つ日本がPKOに参加できないという事実は、さして問題にはならなかった。特に、東西両ブロックが地球規模で対立していた1990年代以前には、国家安全保障が各国の主要な関心事だったが、1990年代初頭には、こうした状況に変化が生じた。日本を含む各国の外交政策の主要目的が、国益ならびに国家安全保障である点は変わらないが、今では、国境を越えた連帯がより多くの注目を集めるようになっている。紛争に巻き込まれた国々とそこに住む人々を支援することは、国際社会の責任であるという意識が求められていることを、忘れてはならない。<注1> したがってこの新しい国際環境の下では、PKOならびに武力行使に関する日本の制約は、国際的にも、国内的にはなおさらのこと、議論の対象とならざるを得なかったのだ。
日本で、後方支援の範囲を超えるPKO参加に関して賛否両論があるのは、多分に憲法第9条の解釈の違いによるものである。
日本が、PKOやイラク、アフガニスタンにおける異なるタイプの国際活動に、より本格的な参加をすることに反対する勢力にとっては、憲法第9条は日本の外交政策上のガイドライン以上のものである。彼らにとって、憲法第9条こそは第二次世界大戦後の日本、ひいては平和に徹する現代日本のアイデンティティの根幹をなすものである。それゆえ、武力行使の放棄を謳った9条は手を触れてはいけないものであり、ましてやPKO参加のために修正するなどは論外ということになる。
日本のPKO参加の拡大を支持する勢力は異なる見方をする。彼らにとって憲法第9条は、もちろん戦争一般に適用されるものであるが、とりわけ侵略戦争に対するものである。しかし、武力行使が平和と人道目的を前提とし、多国籍の枠組みの中で想定されている場合であれば、9条が日本の外交政策とその実現を制約することにはならない。この観点に立てば、日本のより広範なPKO参加に道を開く憲法改正の可能性はあるのだ。
日本のPKO参加の範囲がいかにあるべきかという問題は、国内では議論が白熱しているが、国際的にはそれ程熱心に論じられてこなかった。それは取りも直さず、米国との強力な軍事的・政治的同盟関係(また米国に対する心理的依存性)に立つ日本は、国際安全保障の観点から見れば、相対的にマイナーな存在と見られているからである。
さらに国際的には、国連平和活動における日本の役割に関して、(アジアという)地域的レベルと、より広範なレベルとでは、その受け止め方に大きな違いが存在する。
日本の本格的PKO参加の是非に関して、アジア以外の諸外国は、おおむね「不可知論的」な姿勢をとっている。各加盟国は国連システムに対する日本の重要な貢献を認識し、国連の理想・組織・メカニズムに対する責務遂行を評価している。各国はまた、日本が普通の国として、単に国際機関に対して財政的に貢献するだけでなく、必要とあれば武力行使を支援するなど、あらゆる種類の国際的責任を分担すべきであると見るようになっている。他方、先進諸国が、PKO参加にますます消極的になっている折から(この点については、PKO担当国連事務次長ジャン=マリー・ゲエノーが近年繰り返し強調している。<注2> )、先進国としては日本のPKO参加を要求しにくい事情がある。
(アジアという)地域的環境でいうと、歴史的な背景から、日本の武力行使はデリケートな問題として受け止められる。はっきりと表明しているわけではないが、中国と南北コリア(韓国と北朝鮮)は、日本が武力行使を想定する国際活動に参加するとなれば、心穏やかではいられない。と言っても、中国と韓国が(北朝鮮は別かもしれないが)、日本を安全保障上の脅威と見なしているというわけではない。中韓両国は、今では日本が平和国家で、何にもまして国内の繁栄に主たる関心を寄せる善良な地球市民であることに疑いを抱いてはいない。とはいえ、過去に対する日本のあいまいな姿勢が、憤りとまではいかなくとも、日本に対する不信の念を両国に抱かせ続けている。
すでに明らかなように、国際的にも地域的にも、日本の本格的PKO参加を要求する強い外圧はほとんど存在しない。実際問題として、外圧があるとすれば、主として米国、それも現政権からもたらされている。しかしブッシュ政権は、何にもまして、平和活動の多国間の枠組みに日本が参加することを求めているわけではない。ブッシュ政権が主に求めているのは、米国の条件に適った、米国の関心事項に対する日本政府の強力な支援なのである。
こうした背景のもとで、国際平和活動参加をめぐって日本が直面している問題は次のように表現できる。「いかなる形式で参加すれば、現場に良い成果をもたらし、日本の国益にも資することになるだろうか」。そして、「この問いを、現在論争の的となっているアフガニスタンにおけるISAF(国際治安支援部隊)のような活動について、問うてみるとどうか」ということである。
これらの問いに対する回答は以下の四通りになる。
第1の回答は、日本は、過度にならない程度に国際的評価および国際世論に耳を傾けるべきであるというものである。19世紀の開国以来、日本は、他国が日本およびその政策をどのように見るかということにきわめて敏感だった。こうした姿勢の根底には、認められたい、あるいは受け入れられたいという、より根源的な欲求があり、その状況は冷戦後も変わっていない。1991年の湾岸戦争時に、多国籍軍の一員として巨額の財政的貢献をしたにもかかわらず、評価されなかったことに対する失望の念が、この状況をよく物語っている。しかし日本は、他国の目にどう映っているかという生き方を過度に追求すべきではなく、自身の実績と国際社会に対するさまざまな貢献にもっと誇りを持つべきである。日本は、安全保障理事会の常任理事国ではないにもかかわらず、国際レベルで最高の地位を占めていることは誰も否定できないのだから、そのことは、日本にとって安心と自信の根拠となるはずだ。
第2に、原理・原則の問題として、国際安全保障面における日本の活動は国連決議を尊重し、主に国連の旗のもとで行われるべきである。もちろん、このことは、日本の最も重要な同盟国である米国の願望を考慮に入れなくてもよいということではない。しかし、それは、日本の長期的国益と国民の利益を損なわず、国民世論に反しないように行う必要がある。日米同盟があるからと言って、単純に政策を一致させる必要はない。とりわけ現在のように、米国の政策が国内でも世界でもきびしく批判され、失敗と見做されている時にはそうである。 言い換えれば、日本政府は、テロとの戦いを含めた安全保障政策を、同盟国の目の前にある一時的な見解と一致するがゆえに遂行すべきではなく、国際平和のために必要と考えるがゆえに実行すべきである。つまり、日本政府は、米国の現政権の政策を、憲法解釈を拡大するための口実として使うるべきではない、ということである。
第3に、憲法第9条をめぐる深刻な国論の分裂を見ると、憲法改正はそう近い将来には実現しそうにない。すると、この問題にあまり時間とエネルギーを費やすのは得策ではない、と考えたくなる。この問題に関しては際限のない議論に陥りやすいからだ。しかしより重要なのは、ユニークな憲法上の制約の下で、日本が国際社会において、正しく、かつ責任ある役割を果たすことだ。そのためには、現行の憲法理念の下で行われる日本の活動が、内外で理解され、尊重される必要がある。さらには、日本政府は自国の外交政策、その可能性と限界を、日本国民ならびに(アジア)地域の住民、さらに広く国際社会に向けて説明するいっそうの努力が必要になる。結局のところ、一国の外交政策を含むいかなる政策でも、それが信憑性を持ちうるためには、その枠組みと目的について、説得力のある説明をする必要があるのだ。さもなければ、その政策が支持されることもなく、達成するところもほとんどないことは確実である。
第4に、ここ数ヶ月、日本で論争の的になっているが、アフガニスタンおよびそれに関連する問題にどう対処するかということである。実際、国際治安支援部隊(ISAF)が現場で従事している任務は、カブール南部地域のタリバンに対するゲリラ掃討作戦のように、平和維持という本来の任務を離れた軍事作戦であるが、日本が参加するとしても、憲法上の制約ゆえに、非軍事的な支援活動とならざるを得ない。しかし、テロとの戦いを支援するため海上自衛隊が行ってきた給油活動を巡る論争が示すように、この非軍事的活動でさえも問題視されている。では、どうすればよいのか。この問いに対する完全な回答にはならないが、次の3点を指摘しておきたい。
●防衛省は、2007年11月初め、インド洋海域から海自の補給船を撤収するにより、アフガンにおける対テロ戦争支援活動を終了した。この活動は、海外における日本の軍事的プレゼンスを高めた一方で、国内では批判が増大した。このことは、日本が従来の慎重なアプローチ以上の平和活動への参加には、引き続き消極的であることを示している。しかし、多国籍軍の海上作戦は、貿易依存度が高い日本にとって生命線とも言えるシーレーンの安全維持に役立ち、特に中東からの原油確保のためにも重要である。したがって、海上作戦は日本経済と国民福祉に大きな影響を与えるがゆえに、日本が支援することのできる重要な分野の一つである。さらにそれは、日本が、単なる財政支援にとどまらず、要員派遣によって国際社会によるテロとの戦いに(特にG8の一員として)参加する機会でもある。しかし、給油活動再開の決定を行う前に、国内で、これまでの活動の包括的な評価を行い、公式の場で議論をすべきである。
●このようなアプローチは、教育、武装解除、医療、保健衛生、食糧生産、インフラ建設など、停戦合意ゾーンに住むアフガン民衆の生活向上のための支援を排除するものであってはならない。そして、こうした活動はさらに質的に強化しながら多角的に展開することができる。アフガンにおけるこうした活動は、同国の情勢が不安定なだけに、その効果と影響には疑問があるものの、これこそ日本が国際的努力の一環として貢献できる分野なのである。そして、日本が可能な限り、アフガン支援の推進力維持に貢献することは、外交上の選択肢としても賢明である。またそれは、最近日本政府が広島平和構築人材育成センター<注3>の設立で示したたように、人材育成のためのイニシャティブを取るとともに、人道・平和・ガバナンス支援を実行する役割を果たすことになるのだ。
●最後に、政党の見解が異なることは理解できるし、健全なことでもあるが、今日、私たちが抱く印象は、この問題が何よりも自民党と民主党の主導権争い、または政治的駆け引きの道具とされ、問題の本質が、人質とまでは行かなくとも、捕われの身となっているという事実である。つまり、これらの問題とそこにつきまとうジレンマは、前向きで現実的な解決策を模索するために議論されるべきなのに、何にもまして政治的利益追求のために議論されているという印象を受ける。したがって、自民・民主両党の対立が沈静化し、日本国民および国際社会全体の利益のために協力し合える段階にまで、両党の関係が成熟することを期待するほかない。
2007年11月9日 ニューヨークにて
<注1> ジャン=マルク・クワコウの日本語版新著『国連の限界/国連の未来』(藤原書店、2007年)参照
<注2> 2006年10月19日、総会第4委員会提出の活動報告参照。http://www.un.org/Depts/dpko/dpko/articles/article191006.html
<注3> http://www.peacebuilderscenter.jp/index_e.html