佐賀県唐津市長/坂井俊之氏インタビュー概要
○日時:2010年11月17日
○場所:唐津市役所
○インタビューアー:東京財団政策プロデューサー 井上健二・松下薫
佐賀県の北西にあって玄界灘を臨み、古くは、中国(唐)などの大陸との窓口(津・港)として重要な役割を担っていた「唐津」は、唐津藩の城下町を前身とし、唐津神社の秋季例大祭である唐津くんちや特別名勝の虹の松原、呼子朝市などで有名です。2005年に周辺の東松浦郡呼子町、鎮西町、肥前町、相知町、厳木町、浜玉町、北波多村と合併(新設合併)し、また、2006年に七山村を編入して誕生した広大な面積を有する新しい市でもあります。
唐津市 のリーダーとして、合併の効果を地域住民に見える形でどう具現化させようとしているのかや坂井市長が掲げている「現場主義」とは具体的にどのようなことかについて、お話を伺いました。
教育やまちづくりの核となる「唐津くんち」
(事務局)
本日はお忙しいところお時間を頂戴し、ありがとうございます。唐津と言えば、すぐに思い浮かぶのが「唐津くんち」ですが、その魅力とはどんなところにあるのでしょうか?
(坂井市長)
唐津くんちは、毎年11月の2、3、4日の3日間開催されます。今年は約50万人の方にお越し頂きました。190年前に一番曳山の赤獅子というのが誕生して以来、今は14カ町、14台の曳山があります。一番の魅力は、その曳山が、あの上に人が乗るんですが、プラスチックでもグラスファイバーでもなくて、和紙を張り重ね、その上に何度も漆を重ね塗りする漆の一閑張りで出来ていることなんですよ。和紙芸術の第一人者と言われる柳橋眞先生に、唐津くんちの曳山の塗り替えの審議会委員をやってもらっているんですが、柳橋先生曰く「日本の三大和紙芸術」と言われています。
これは定かではないんですが、一番赤獅子、二番青獅子という曳山を作った当時ぐらいまでは、おそらく輪島の漆職人の方々がこちらに来られて、一緒に監修をされながら、曳山を塗られたであろうと言われています。実は北前船の歴史があって、北前船が北上して北陸、東北まで行く途中に、唐津の馬渡島、呼子あたりが北前船の一つのルート上にあったんです。面白いのは、輪島市に海士町という町があるんですが、実は呼子にも同じ名前の海士町があって、輪島の海士町に行くと、そこの人の言葉が唐津弁なんですよ。輪島の塗師が唐津に北前船で入ってこられて、唐津にお住まいになられて、一番曳山を塗りいただいたんだというふうなことなんですね。それ以降は、唐津にずっといる塗師さん、実は今、塗師をやっている方は唐津にはもういらっしゃいませんが、ずっとその方々が修理をしたり、塗ったりしてきたのが今の唐津の曳山なんです。
(事務局)
北前船によってもたらされた輪島と唐津との地域間の交流の歴史が「唐津くんち」の曳山に大きな影響を与えているんですね。成り立ちに大きな影響を与えているのですね。唐津の方は、とても唐津くんちを大事にされていて、まちづくりの核にもなっているというお話をお聞きしたことがあります。
(坂井市長)
唐津くんちには、各町内の代表14名で構成された唐津曳山取締会があります。唐津曳山行事を取り仕切る「総取締」が一人、その下に副総取締などが4~5人いらっしゃる。本部の下に各町内の、一番曳山なら一番曳山の正取締、副取締というように、ずっと縦社会の組織なんです。七番曳山飛龍ですと、飛龍会という曳く人たちだけの会があって、その中でもまた序列が、正取締、副取締、若頭、若頭補佐とずっとあるわけです。面白いのは、学校の先生が生徒を叩くと、今は、悲しいかな、問題になったりしますが、取締から叩かれた場合、叩かれた子供は「お前が悪い」と言われるだけで、叩いたことに誰も文句を言わないんですよ。取締が、夜遅く繁華街で遊んでいる若者を見つけ、首根っこをつかまえて、「はよ帰れ」と言うと、これはノーは言われんとですよ。なぜかっていうと、そうしなければ「曳山、曳かせんけんな」となるわけです。また、曳山を曳く子どもたちの面接があるんです。2回だけ面接を許されるんです。例えば、茶髪やピアスをした高校生が面接に来ると落とされる。「次までに直してこな曳かせんぞ」と。その2日後くらいにもう一回、面接の日があるんです。そうすると、前に来たとき、金髪でピアスしていたのが、2回目に来たら七三分けで黒々とした髪に変わっちゃっているわけですよ。そういう昔ながらの縦社会があるんです。曳山の世界で取締になるっていうのは学歴も仕事も関係なくて、人望でしかなりえない。あの人は若いころからがんばって曳山のためにしてくれたとか、頼りがいのある人とか、決断力がいいとか、さわやかだとか、いろんな要素があります。そういうものを兼ね備えた人間しか取締になれないんですよ。よく考えると、これらの要素は、今のリーダーに求められている条件だなと思うんです。
(事務局)
「唐津くんち」の曳山は和紙を重ねた漆の一閑張りで出来ているということでしたが、漆の塗り替えなどの補修をどのようにされているのでしょうか。
(坂井市長)
曳山の総塗り替えは14台のうちの1台をほぼ2年に一回やっています。1台あたり2000~3000万円ほどかかります。補助も少しは出ますが、基本的には町内でお金を集めて塗り替えをしています。唐津で塗師さんがいらっしゃった頃は、神社の横にむしろを立てて、そこで塗り替えをやったりしていたんですよ。今、唐津市内に塗師さんがいなくなって、久留米や大牟田の仏壇屋さんに塗り替えをやってもらうようになったんですが、曳山を運搬するリスクがあるわけです。塗り替えて、持って帰ってくるときにガタッといったら大変なことになるので、そのリスクを、曳山の人たちはみんな心配していましたので、塗師の方に来てもらって、地元で塗り替えをやってもらうことにしました。そのため、去年、曳山を入れて塗り替えができる場所を整備したんです。地元の方々は、丁寧に曳山を塗ってくれているのか心配で、以前は、バスを貸し切って、塗り替えの様子を見に行ったりもしていたんですよ。今は、年寄りの方が毎日、塗り替えをしている場所に、見に行かれているようです。特に、お年寄りは曳山に思いがありますから。何代前までずっと知っていますから、「あのときはあやんなっとらんやった」とか、曳山を見ながら親子で話ができるわけです。唐津くんちを通して、親子の会話がなくなっている世代に逆に親子の会話ができちゃっているんです。子どもたちも学校帰りに曳山の塗り替えの様子を見に行っていますから、自分の曳山への親しみの醸成にもつながっていようです。将来、子どもたちの中から曳山専門の塗師になりたいという子が出てきてくれればと期待していますし、曳山専門の塗師としてプロで生きていける人間を育てていきたいという夢を持っています。
唐津は、曳山という独特の組織と体系があって、その人たちと連携をして、一緒に笑い、議論も大いにする。そうしたことが教育やまちづくりの面で一つの核になっているのです。
各地の祭りや伝統を生かした合併効果
(事務局)
平成の大合併で、たくさんの数の市町村が合併し、広大な面積を有する新唐津市が誕生したわけですが、地域住民にとってメリットが実感できる合併となることが大事ですね。
(坂井市長)
今の唐津市は、2005年に周辺の東松浦郡呼子町、鎮西町、肥前町、相知町、厳木町、浜玉町、北波多村と合併し、2006年に七山村を編入して出来ていますので、全国的にも自治体数の多い合併で、合併後の新唐津市の面積は487平方キロメートルで、これは福岡市と北九州市を合わせた面積より大きいんです。それに有人離島が7つあります。当然、各地域には様々な特色のあるお祭や行事があるんですよ。それで、まず、合併して取り組んだのが、唐津くんちだけじゃなくて、各地域の歴史的なもの、祭や行事を復活、継続していくということでした。
地域に赴いて、地域のおじいさんやおばあさんのお話を聞き、各町村の伝統、文化に触れてみると、ああ、この地区っていうのはこういう形で盛り上がってきたんだなってことを肌で感じます。だから、合併しても、祭や行事をはじめとした地域の文化や伝統は絶対なくしたくなかったんですね。こうした予算だけはちゃんとつけて、祭や伝統文化で、もし止めているなら復活させるなど、絶対消さないと言い続けてきました。地域の一体感の醸成のためにも大事だと思っています。水害のために途切れてしまっていた地域の祭を復活させたら、それがきっかけでまた、外に出た人もその地区に戻ってきたりしているんです。地元に帰って、何か仕事を細々とでもしながら、復活された祭りに自分は携わっていきたいという若い人もたくさん出てきました。
合併することによって、各々の地域が持っていた特色が失われているところが多いですが、その逆をやってきたんですよ。
たとえば、七山では、国際渓流滝登りというイベントを合併前からやっているんですよ。毎年夏に、1500人くらいの人たちが応募し、渓流登りを楽しんでいましたが、合併と同時に、合併をしたら、どのみちこうしたイベントはなくなることになるだろうからということで、七山の人達が止めてしまったんです。それで何度も足を運んで、「実は滝登りを復活したい。だから、合併に対する賛成・反対は抜きにして、一緒になって滝登りを復活してくれんだろうか」というお願いに上がったんですよ。今は当時の合併賛成派、反対派、もう入り乱れて新しい実行委員会をつくっていただいて、毎年、開催をされています。最近は、どんどん参加人数が増えてきていて、人数制限をしないといけないぐらいに人気になっています。
もう一つは、「唐津うまか博・鍋まつり」です。唐津市内のそれぞれの地区で特色のある鍋の文化があったんです。「こればい」と思いました。最初は、競艇場の一画を借りて、商工会のテントを張って、こじんまりとした手づくりのイベントでしたが、回を重ねる毎に参加者が増えて、去年は4万人、今年は5万2000人の方にご参加頂きました。合併後の「唐津市内の全ての鍋ば集めてみるか」というアナログ的な発想なんです。
今までやってきたことを振り返ると、祭りのようなその町でみんなが集中的に意識が高まる、昔あったものを復活したり、昔からやっているものを継続したり。そういうことで地域は大変に盛り上がるんですね。合併っていうのは、合併した地域が一緒になって、各地域の人たちの誇りに思っているものや得意技を生かして、皆でそれを楽しんで、地域の誇りをたたえあって、一体感を醸成していくことが大事なんですね。
さらに、合併後の広い市域内の情報格差をなくし、地域住民間の一体感の醸成にも資する情報基盤の整備を積極的に進めています。特に、唐津市には7つの有人離島もありますので、光ファイバーの整備を進めることで、一番遠い馬渡島にも同じ時間に同じ情報を共有することができるようになりました。この情報基盤を活用すれば、中核となる日赤病院や済生会病院は市の中心部にあるのですが、その先生方がコンピュータを通して、離島医にアドバイスをすることも可能で、今後、整備した情報基盤を有効活用した様々な取り組みを進めていきたいと考えています。
市民が踊れる舞台づくりには行政の汗が必要
(事務局)
最近、市民との協働に積極的に取り組む地域が増えていますが、唐津市ではどのような状況でしょうか? また、効率的な行政の推進のためにどのような取り組みをすすめていらっしゃるのでしょうか?
(坂井市長)
今、国も自治体も、官民協働、市民協働を進めましょうという流れにありますが、いつも市の職員に言っているのは、この言葉で市民のみなさん方をごまかしちゃ駄目だと。役所は、土台や舞台づくりにしっかりと取り組む、汗をかくことが必要で、その上で、市民のみなさんに踊ってもらうということ。ともすれば、官民協働の名のもとに、すべて丸投げして、お金を出しますからNPO法人さん、民間団体さんやってください。役所は、あとは何も知りません。加勢もしない、汗もかかない。そういうことじゃ駄目なんですね。
行政は最大のサービス産業
(坂井市長)
行政とは何かということに関して、岩國哲人氏が「行政は最大のサービス産業」とよくおっしゃっていました。私はもとホテルマンですから、サービスっていうのはわかるんですよね。きれいな言葉で言えば、「おもてなしの心」ですが、一万円の代価に対して、これだけでいいのって言われるのがサービスですよ。市長になってはじめた市民向けのサービスの1つが、役所の入り口付近の申請用紙が置いてあるところにコンシェルジュを配置したことです。市民のみなさんとの距離を縮める。市民目線にたって、迷う人をつくらない。クレームもそこから始まりますので。案件が複数の課にまたがる場合は、キーになる人を一人決めて、その人が必要な全セクションに連れていってあげればそんなにクレームは出ないんですね。やっぱり「人」だと思います。そこで、年に一回、私が講師となって、市民課の職員等にホテルマンのやるような実践的なサービス研修を実施したりしています。
また、私はこれまで一貫して「現場主義」を掲げて市政を進めてきましたが、その具体的な取り組みの一つとして進めてきたのが、合併前の旧唐津市長時代から続けている出前講座です。他の自治体でも出前講座の取り組みをしているところもありましたが、「役所の第何会議室で何の件について何時から何名募集」というものが多かった。唐津市の出前講座は「仮に10人集まったらどこへでも伺います」というもので、これまでに110回以上現地に赴いてお話をさせていただいており、いまでも続けています。この出前講座のいいところは、私が現地に行くとなると、講座のテーマに関係する担当部門の責任者が一緒に来ることになるので、役所に来なくても、ここで聞かれたら答えますよといったサービスも兼ねているというわけで、出前講座は出前役所でもあると思っています。
プロ人材の登用と高度でシームレスな行政サービスの提供
(坂井市長)
また、市役所の職員には、人事異動があるため、プロフェッショナルがいないんですね。このため、プロ人材を積極的に登用してきました。プロフェッショナルの知識があり、また、職員に異動があっても対処もできるし、異動してきた人にも教えることができます。しかも、退職金をもらっていらっしゃるので、そんなにたくさんの給与をお支払いする必要もありません。例えば、防災関係では、定年退職をした元陸上自衛隊の専門家で、唐津に縁のある人を嘱託で常勤雇用しています。地域防災計画や身障者・要援護者の方々の防災計画づくりをはじめ、災害発生時には、プロの知恵と経験が発揮されるなど、活躍していただいています。
この他にも、唐津には7つの離島があり、また、プルサーマル第1号の玄海原子力発電所がありますので、テロ対策の専門家や原子力専門家も必要ということで、第七管区海上保安部で船に乗っていた唐津縁の方や三菱重工の原子力の設計者の方にも嘱託で市役所に来ていただいています。防災にしても、原子力等にしても、プロフェッショナルをお願いして、来てもらうことによって人事異動等による知識薄弱をなくすということと、プロから専門的知識を教わるというダブルの刺激を与えてもらっていますし、また、より高度なサービスの提供に努めています。
「一課一改革100の提案」で改革を推進
(坂井市長)
効率的な行政の推進という面では、「唐津市職員一人一改善運動」、サブタイトルが一課一改革100の提案という職員の改革提案・改善運動を進めています。だいたい隔年で職員から改革案を100個提案してもらって、それらをランク分けして、すぐ出来るもの、少し時間をかけて見直すべきものなどに整理して、できる改革から取り組んでいます。役所がまず、先陣を切って、行政改革をやってみせないと、市民のみなさんに信頼されません。「無駄、無理、むら」という役所の三大マイナスをあえてこっちが示して見せて、これを改革していきますというのを提示していかないと、市民のみなさんの理解は得られません。行革は市民のみなさん方と一緒になって取り組んでいくものですから。役所がまず示してみせるということが大事です。
市議会は市政推進の車の両輪
(坂井市長)
それと、唐津市政をしっかりと運営していく上で議会との良好な関係を築くことはとても重要です。今、唐津市役所と市議会との関係は、二元代表制が非常にうまく機能していると思っています。市長として、「この政策を推進したい」と本気で言っているんだということを議会にはちゃんと見せていって、ご支援をいただかないと、可決できません。何かを進めようという時に、執行部側が急ぎすぎることがあるかも知れないわけですが、その時、誰かがチェックし、ブレーキをかけて、ギアチェンジすることが必要で、それは議会しかないと思っています。何かを進めようとしても、議会で無条件に通されることは一切ありません。やっぱり議論があって、「これはどうなの? ちゃんと周知できるのか?」といった細かいところまで詰めてもらえるので、市役所と市議会は車の両輪となっていますし、互いに健全な関係になっていると思っています。
ATAの整備と広域連携で魅力ある観光開発を
(事務局)
唐津には、さきほどお話のあった「唐津くんち」をはじめ、唐津焼、白砂青松で有名な虹の松原、呼子の朝市やイカなど多彩で魅力的な観光資源があります。近年、観光振興を通じた地域活性化に取り組む地域も多いようですが、唐津では如何でしょうか?
(坂井市長)
観光開発では、旅行客に資源を見てもらって喜んでもらうのは大事なんですが、大手の旅行会社に頼んでも、バスで周遊するだけで素通り的になっちゃうんですよ。唐津の食をじっくり味わってもらったり歴史を楽しんでもらったりといったことがなかなかできなかったので、以前から、地域で旅行商品を企画して販売できないだろうかと考えていた。それを戦略的に進めるための組織がATA(Area Tourism Agency)で、佐賀県で一番最初に立ち上げて現在も稼働しています。このATAのつくった旅行商品の中でも、特に、農業・漁業体験をしたり、花火やバーベキューをしたり、民泊を通じて、農家や漁師の家の暮らしを体験するなど、都会の子どもたちが日ごろできないことが体験できるというので大変好評なんです。
また、十数年前から九州北西部の自治体の首長が集まる玄界灘ウエストコーストサミットで、国土交通省と一緒にシーニックバイウェイ、玄界灘風景街道という取り組みを進めてきました。いわゆる、急がんでよか人たちに風光明媚な糸島半島をグルーッと回りながら風景を楽しんでもらい、唐津に入って、ここでイカを食べてもらうといったような、その地域ならではの風景をゆっくりと楽しんでもらえるような街道づくりがシーニックバイウェイです。先日、玄界灘風景街道の更なる充実のための連携フォーラムがあったのですが、玄界灘風景街道をさらに延ばして、伊万里、松浦市、佐世保まで行く新たなルートも加え、強固なものにしようという呼びかけをさせていただいた。こうした広域的な地域連携を積極的に進め、魅力のある観光圏の形成も進めていくことが大事だと思っています。
地域づくりの核は大学等との連携
(事務局)
これまでのお話で、坂井市長が地域リーダーとして、地域再生のために様々な取り組みを積極的に進めてこられたことがよく分かりましたが、今後の唐津市の更なる発展に向けて、どのような地域づくりを進めていこうとお考えでしょうか? 坂井市長の今後の地域戦略を教えてください。
(坂井市長)
唐津は大学のない市でしたから、私学の学校もないんです。それで逆転の発想をして、大学と連携しようと思ったんです。これまでも九州大学や佐賀大学とはお付き合いはあったのですが、唐津の地域資源を活用した地域振興や産業振興を更に進めるため、改めて協力協定を結びました。市内の南高校に、佐賀大学の先生方が放課後に教えに来ていただくなどご指導いただいたお陰で、たとえば、「お花の甲子園」と呼ばれている生花の大会が年に一回京都であって、これに出場して優勝するなどの成果をあげています。また、唐津では、呼子のイカが有名ですが、イカを生きたまま運ぶというのはとても難しいんです。ブランドになっている呼子のケンサキイカを生きたまま運んで、そう考えて、九州大学大学院の海洋生物を専門に研究されている先生方に、その搬送技術の開発をお願いし、試行錯誤を重ね、5回目の挑戦で東京まで無事に搬送する技術を確立することができました。この共同研究の成果により、現在では、呼子のケンサキイカを東京まで運び、より多くの人に呼子イカの活きづくりを食べてもらえるよう販路開拓に取り組んでいます。
やっぱり佐賀大学や九州大学と協力協定を結び、連携したことで、唐津市内に大学はないけれども大学の先生たちが、さも大学があるように来てくれて、協力やアドバイスをいただけるので、とても良かったと思っています。
さらに、今年4月に早稲田の中高一貫校が唐津に開校しました。佐賀県出身だった早稲田大学創設者の大隈重信氏との関係で、早稲田大学OBの方々が、佐賀県内に早稲田大学の系属校として中高一貫校を設立しようと計画されたのがきっかけでした。早稲田大学二代目学長で商学部の祖と言われる天野為之さんが唐津の出身であったことや理工学部の設立のために資金提供をし、その礎を築いた竹内明太郎さんが、かつて芳谷炭鉱(唐津市)のオーナーであり、唐津に縁のあった方だったということも、唐津に開校することができた大きな要因でした。誘致にあたっては、相当努力しましたが、早稲田大学の創立125周年記念事業として開校することができました。卒業生の50%は早稲田大学に受け入れる早稲田大学では異例中の異例と言われる50%系属校という位置づけの学校で、早稲田大学からはこの学校に大学の命運をかけているとも言っていただいており、大変ありがたく思っております。
企業誘致も大事ですが、学校の誘致は人を増やしてくれます。中高一貫校は早稲田大学がなくならないかぎり、撤退もないでしょう。大学との協定や誘致に成功した早稲田の中高一貫校を今後の唐津のまちづくりの新しい核としていきたいと思っています。
子どもが描く都市計画マスタープラン「ティーンズ2030」
(坂井市長)
それから、ちょうど今年度が、20年後の唐津の都市ビジョンを示した都市計画マスタープランをつくる時期にあたっておりまして、今、マスタープランの作成に向けて作業を進めているところです。事務方がまとめてくれた冊子を見たら、内容的には見事にできているんですが、専門用語が多くて全然分からない。これは駄目だなと思いました。それで、子どもたちにも分かるような都市計画マスタープランの解説版のようなものをつくってはどうかと提案し、やってみようということになったんです。公募してみると、夏休みに10代の中学生から高校生までの年代の子どもたち27人が集まってくれました。早稲田大学社会科学総合学術院・社会科学部教授でまちづくりの専門家の卯月盛夫先生に相談したところ、「おもしろいからやってみよう、協力するよ」と言って、大学の先生も含めて5人ぐらいの方に入ってもらって、子どもたちと一緒に『10代が描く唐津のみらい。Teens KARATSU Project 2030』というタイトルの本にして取りまとめたんです。子どもたちが、商店街や唐津港などに出かけて、地元の関係者の方から話を聞いて、自分達でこれからの街のイメージし、それをイラストレーターの方に伝えて絵にしてもらったりしたんです。そのもととなるのは都市マスタープランというプロがつくったものがあるけれども、これを分かりやすく、行政用語を使わないで、自分たちの街は20年後こうなればいいなという思い、あるいは自分たちの夢もそえて、子どもたちが書いてくれたものを集大成したものです。インタビューでお世話になった方も全部載せているんですよ。いい思い出にもなる。市民が集まる場所に置き、多くの方に読んでいただきたいと考えます。子どもたちも自信がつくと思いますし、自分の暮らすまちの未来に子どもたちがかかわりを持つということです。市民参画とは、物質的なものだけじゃなくて、将来に関しても参画をして、モノを言っていけるということではないかと思っています。