原田 泰
はじめに-あまりにも違いすぎる効果の試算
TPPに参加するのは日本が自ら国を開き、世界の中で重要な国であり続けることを宣言するものである。
日本が国を開き、世界とともに歩んでいこうと決意することの経済効果を計算することは難しいが、関税撤廃による経済効果は試算することが可能である。もちろん、TPPは、その批判者も認めているように広範なものであり、関税撤廃だけに焦点を充てるでは十分でない。誤った投資や制度の障壁までをも取り除こうとしているものだ。しかし、試算の便宜から言えば、関税以外の効果を計算することは難しい。関税またはその他の貿易障壁に焦点を充てて、TPPや他の経済連携協定の効果を見たものとしては、すでにいくつかの試算がある。その主なものは、政府内でなされたものであろう。
これらの試算は、内閣官房が取りまとめ、発表している(内閣官房「EPAに関する各種試算」2010年10月27日)。取りまとめたと言っても、内閣府、農林水産省、経済産業省のそれぞれが試算したものを並行的に紹介しているだけである。これらは異なった前提により計算され、当然に異なった結果となっている。これは、政府部内のコンセンサスを重視する日本の慣行からは異例のことである。それらの主な結果は表1のようになっている。
この表を見てまず気が付くのは、府省による効果の大きさが大きく異なっていることである。この違いは、試算の前提が異なることと効果の計算方法の違いから生まれている。
農林水産省の影響試算は主要農産物の関税を直ちに撤廃し、かつ何の対策も講じなかった場合である。経済産業省の基幹産業への影響試算は、韓国が幅広くFTA協定を結び、日本がまったくFTA協定を結ばない場合を考えている。それに対して、内閣府は、TPPを含む様々なFTA協定の場合を試算している。議論の中心はTPP参加の場合を考えているのだから、なるべくTPPの場合の影響試算を比べるのが良いだろう。
すると、内閣府はTPP参加で2.4兆円から3.2兆円GDPが増大するとしているのに、農水省は農業部門で4.1兆円GDPが減少し、GDP全体では7.9兆円減少するとしている。いっぽう、経産省は、経産省の試算は、日本がTPP、日EUEPA、日中EPAいずれも締結せず、 韓国が米韓FTA、中韓FTA、EU韓FTAを締結した場合、「自動車」「電気電子」「機械産業」の3業種について、2020年に日本産品が米国・EU・中国において市場シェアを失うことによる関連産業を含めた影響は10.5兆円の損失になるとしている。
これら3つの試算の数字の違いはあまりにも大きい。この違いはどこから来るのかを検討し、妥当な影響試算の数字について考えたい。なお、これらの数字は、内閣府、経産省は2005年の実質価格、農水省は名目価格であるが、デフレにより近年、物価はほとんど変化していないので、名目と実質の違いは大きな差異の要因ではない。まず、内閣府の経済効果の考え方から説明しよう。
1.内閣府GTAPモデルによる試算の意味
内閣府の数値は、GTAPモデル(Global Trade Analysis Project)による試算結果(内閣官房を中心に関係省庁と調整したシナリオに基づき、川崎研一内閣府経済社会総合研究所客員主任研究官が分析したもの)である。GTAPモデルとは、一般均衡モデルで、関税の撤廃による価格変化によって労働と資本とが移動し、国際資本移動の活発化と、資本蓄積が促進され、より生産性の高い産業が拡大することによって得られるGDP全体の増加を経済効果としている。
一般に、より貿易額の多い地域との自由貿易協定を結べば、それだけ経済効果も大きくなる。また、日本が自由貿易協定を結ばず、他国が結べば、日本の輸出が相対的に不利に扱われ、日本のGDPが減少する。自由貿易協定によって、貿易国が変化するので、これは自由貿易協定の貿易転換効果と呼ばれる。
表で、FTAAP( Free Trade Area of Asia-Pacific、アジア太平洋自由貿易地域)参加とあるのは、アメリカ、中国、韓国、アセアン、オーストラリアなどアジア太平洋経済協力(APEC)の加盟国全域で完全な自由貿易協定を結んだ場合の経済効果である。この場合の経済効果は、実質GDPを1.36%、金額にして6.7兆円の経済効果があるという。
TPPの場合は、実質GDPが0.48%~0.65%、金額にして2.4~3.2兆円増加するという。数字に幅がついているのは交渉参加国が決定していないからである。その後、9か国に限定した試算を行ったが、それによるとTPPに参加することによって得られる利益は2.7兆円である(2011年12月25日)。
ただし、TPP参加国は11か国以上に増加する可能性がある。そこで以下では、便宜のためも含めてTPPの効果は約3兆円とする。
また日本がTPP、日EU・日中EPAいずれも締結せず、韓国が米国、EU、中国とFTAを締結(100%自由化)すれば、日本のGDPは0.13%~0.14%、0.6~0,7兆円減少するという。これは前述の貿易転換効果があるからである。実際のところ、韓国はすでに米国、EUとも自由貿易協定を結んでおり、このマイナスの効果はすでに表れているというべきである。
TPPの影響試算
ここで焦点を当てたいのは、TPPの数字である。ただし、その数字は貿易を通じた効果だけで、これをきっかけに国内産業の改革がなされるとか、海外からの投資が活発になるなどの効果を含んではいない。
TPPによって実質GDPが3兆円増加するという意味であるが、それはすべての調整が終わった後にGDPが3兆円増加しているという意味である。これが10年後3兆円増加と書かれていたために、10年間で3兆円、年にすれば3000億円でしか増加しないと誤解されてことがあったが、そうではない。10年と書かれていたのは10年たてばすべての調整が終わっているだろうと考えてのことである。イメージで書くと図1のようになる。すなわち、TPPに参加すると貿易自由化の利益が徐々に生まれ、参加しない場合よりも高い実質GDPが期待でき、徐々にその差が大きくなっていき、すべての調整が終わった時には3兆円増加し、それ以上増加することはないということである。永久に3兆円、実質GDPが増加しているというのは大きな変化である。
産業ごとの影響試算
GTAPモデルは産業区分があるので、GDP全体ではなくて産業ごとにプラスの影響とマイナスの影響があることを示せる。その数字は政府の試算としては公表されていないが、ほぼ同様のモデルの試算結果は見ることができる(Kawasaki, Kenichi, ”The Macro and Sectoral Significance of an FTAAP,” ESRI Discussion Paper Series No.244, August 2010)。
内閣官房内閣参事官・内閣府経済社会総合研究所客員主任研究官の川崎研一氏によれば、全世界での貿易自由化により、農業を中心とする一次産業部門の総生産量(中間投入部分を含む)は4.8%減少するという(前掲Kawasaki論文のAnnex Table 5)。全世界での貿易自由化とは、は表1においてTPP+日EUEPA+日中EPAを結んだことにほぼ相当する。したがって、4.8%の減少は、TPPだけよりも2倍以上の経済効果があるようなより大きな貿易自由化を行った場合の減少率である。それでも一次産業部門のGDPが4.8%しか減少しないのは不思議と思われるだろう。
その理由は、試算において使われたGTAPモデルの農林水産産業の保護率が15.1%にすぎないからである(前掲Kawasaki論文のAnnex Table 2)。これを小さすぎると思う人が多いだろうが、本欄 「TPPを契機に農産物間の差別を止めよ」(11/11/04) で示したように、日本の農業保護は産業ごとの保護の程度が極端に差別的である。そこで、日本の農業保護は、平均すれば大したことはないと解釈できる可能性がある。こんにゃくいもの関税が1700%でも、その農業に占める比重の小ささを考慮すると、平均の保護率はごくわずかになってしまうからである。