東京財団名誉研究員
岩井克人
「経済のかたち」プロジェクトは、現在の日本が直面するさまざまな問題に対して、これからの日本および世界の「経済のかたち」をどう考えていくかを模索することを目的にした。それは、経済学を基本的な分析手法としつつ、法学、経営学、労働問題、政治学等、その関連領域にも積極的に研究対象を拡げている研究員を主軸としていることを踏まえ、東京財団の研究員および職員を交えた議論を通して、政策研究のあり方について考えを深めつつ、政策にかんする対立点のとらえ方について一定のコンセンサスの醸成を図ろうとするものである。本論考では、プロジェクトでのこれまでの議論を基に、経済の「新しい」かたちがどのようなものになるか、あるいはなるべきかを、「日本の伝統芸能」――とくに文楽――のあり方を参考にして、論じてみることにする。
この報告の出発点は、2008 年 9 月 15 日のリーマン・ショックである。リーマン・ショックを境に全世界が突入した今回の大不況は、「100年に一度」の危機と呼ばれた。もちろん、今回は世界大恐慌時の教訓が学ばれて、各国間の協調的な財政政策・金融政策が功を奏し、GDP の減少比率から見れば30年代よりは規模が小さく終わったが、減少額の絶対水準から見れば30年代に匹敵するものであった。その意味では、たしかに100 年に一度の危機である。
ただ、前回の大恐慌と今回の大不況と比べて一つ大きな違いがある。それは、1930 年代の大恐慌の際には、資本主義に対する絶望が大きく拡がり、社会主義体制にたいする憧憬を世界中の多くの知識階層がもったと言うことだ。日本においても同様で、政権の中枢においてすら計画経済に傾斜する人が輩出し、たとえば企画院が造られた。満州進出は計画経済の実験だという説すらある。また、アメリ力という国は、歴史的には社会主義がほとんど育たなかった国だが、そのアメリ力ですら、しかもその中のハリウッドですら、大恐慌によって多くの人間が共産主義者やその同調者になった。不幸にも、彼らの多くは、第二次大戦後のマーカーシー旋風でレッド・パージにあうことになってしまう。
ところが、今回の危機の大きな特徴は、大恐慌に匹敵するほどの大きな生産の落ち込みを経験していながら、社会主義対資本主義という形で議論が展開することがほとんどなかったことである。やはり、89年のベルリンの壁の崩壊、91年のソ連の解体は大きい。重要なことは、今我々が生きている世界は“ポスト社会主義の時代”、つまり社会主義が終わった後の時代であるということだ。今回の危機が明らかにしたのは、世界中の多くの人が、好むと好まざるとにかかわらず、少なくとも当分の聞は資本主義の中で生きざるを得ないという認識を共有していることが、明らかになったことだ。チャーチルが民主主義について語った言葉を文字って言えば、「もちろん、資本主義は最悪の経済システムである。ただし、これまで存在したすべての経済システムを除けば。」世界中で“ポスト資本主義”は存在し得ないことが認識され、「資本主義はポンコツ車かもしれないが、何とか修理して走らせるよりほかない」と考えるようになったのである。
ただし、ここで一言付け加えておくと、トマス・ピケッティの『二一世紀の資本』がいま世界中でベスト・セラーになっていることは、以上のような私の認識に疑問を投げかけているかもしれない。「経済のかたち」の2014年度のプロジェクトは、このピケッティの本を批判的に読んでみることだが、その中でこの認識を再検討してみることにしたいと思っている。
だが、少なくとも本稿では、この資本主義をどうしたら少しでもよくできるか、資本主義の「新しいかたち」はどのようなものになるのか、という問題を考えてみることにした。
その上でのヒントが、私は日本の伝統芸能、より広く言えば芸術一般にあると思っている。
たとえば、歌舞伎においては、歌舞伎役者が隈取りをする。役者が顔に白 い粉を塗って、その上に赤や黒や青の太い線を描く。その描き方によって、役柄が明らかになる。 赤い線が描かれていれば、英雄を意味する。さらに目の下に青い筋が描かれていれば、この役は水も滴るいい男だと分かる。また、青い線や黒い線の隈取りが描かれると悪人で、いつか退治されるはずである。
能の場合はよりはっきりしていて、面と衣装が決まっている。男面、女面、翁の面、媼の面、さらには夜叉の面だったり鬼の面だったりと、面によって役柄が示されている。文楽は、さらに面白い。歌舞伎では役者自身の顔の隈取り、能だったら役者がつける面が、その役柄を表す。ところが、文楽の場合は、役柄と役者が人形と人間という具合に、分離されている。これが重要な示唆を与えることになる。
伝統芸能を現代劇と比べて見ると、もちろん、一方は様式美の追求、他方は写実主義という違いは当然ある。だが、私は、その表面的な違いの奥に、より根源的な差があると考えている。文楽は、役を人形が演じており、人形と生身の人間である人形遣いがペアになって初めて成立する芸術であり、しかも、声も太夫が歌うことになっている。つまり、文楽とは、役柄と役者との関係をもっとも純粋な形で示している芸術だと言うことなのである。それは、役者が役を通じて自己表現することを一つの理想とする(一部の)現代劇と対比されるべき芸術の形態であり、ある意味で、世界で最も進んだ芸術形態であると思っている。
なぜ、日本の伝統芸能の話から始めたかは、後で種明かしがあるが、この点を一応頭の中に入れておいてもらって、「この資本主義を一体どういうかたちにしたらよいのか」 という最初の問題に戻ってみよう。
“見えざる手”の思想―利益の最大化と選択の自由
これまでの資本主義のあり方にかんする中心的な思想は、アダム・スミスの“見えざる手”の思想である。“見えざる手”の思想とは、資本主義社会においては、私的な“悪”が公的な“善”につながるということである。資本主義社会では、市場さえ円滑に働いていれば、各人が自分の利益を追求することこそが社会的利益をもたらすという。アダム ・スミスはいう。
「社会の為と称して商売する輩が、社会の福祉を真に増進したという話は聞いたことがない。」
このスミスの“見えざる手”の思想は、人類の思想史上、もっとも画期的な思想の一つである。それまでの伝統的・常識的な社会思想は、「善い人たちが集まると善い社会ができる」、すなわち、善い社会を造るためには、個々人が善い行動をしなければならない、というものであった。アダム ・スミスの説が強烈なインパクトを持ったのは、この常識を完全に覆したことである。市場という制度さえきちんとしていれば、「善い社会」を作るためには「善い人間」は必要ない。自己利益を追求する悪い人間でよい。善い社会には、「倫理」は必要ない、こう主張したからである。
このアダム・スミス思想の現代におけるチャンピオンは、2006 年に亡くなったシカゴ大学の経済学者ミルトン ・フリードマンである。彼は、例えば会社の社会的責任について議論する時に、「会社には、株主のための利潤を最大化すること以外には、社会的責任はない」と断言する。この考えに従えば、 会社が社会的責任などと称して、利益の一部を社会的貢献のために使うことは、株主の利益を盗む「窃盗」だと言うことになる。
ただし、これも重要な点だが、フリードマンは、会社が利潤を株主に配当した後は、その配当などの所得を手にした株主が自分の所得をどのように使うのも自由だと主張する。消費者主権である。消費者は、自分の所得を、自分のために使っても、寄付など利他的な目的に使っても、それは「選択の自由」だということになる。それで消費者の効用が最大化されるのならば、構わないというのである。
この一方で利益最大化、他方で選択の自由という使い分けは、“見えざる手”思想の根幹である。言い換えれば、資本主義活動においては倫理性を徹底的に排除し、個人としての生き方の選択においてのみ倫理性を許容するというかたちで、資本主義と倫理を峻別することである。
面白いことに、この二本立ての思想を現代においてもっと忠実に体現しているのは投機家のジョージ・ソロスである。彼はイデオロギー的にはミルトン・フリードマンと逆のリベラル派であるが、実践していることはまさにミルトン・フリードマンの教え通りである。ソロスを有名にしたのは1992 年に、イギリスがポンド危機になった際に、ポンドの空売りをして大もうけしたことである。
「イギリスの国家を破綻寸前まで追い込み、イギリス国民に苦しみを与えるようなことをなぜするのか」と非難された時に、彼は「自分がしなければ他人が同じことをするはずだ。だから、自分がしても構わない!」と述べて、自己正当化を行ったと言われる。つまり、資本主義的な活動をするときは、その活動の倫理性をまったく考慮せず、利潤の最大化をはかったのだ。だが、ひとたび巨額の富を得ると、自らの良心に従って、その富の一部を慈善事業に投じる。ハンガリー出身のユダヤ人であり、ナチズム、さらにはソ連主導の社会主義から逃げなければならなかった経験から、まず東欧の反体制派に巨額の資金を提供し、さらに、東欧が社会主義から解放されると、今度はアメリ力で民主党的な政策を後押しするための援助活動を行っている。
ソロスの活動は、まさに資本主義と倫理とを峻別するアダム・スミスの思想のもっとも忠実な体現である。この思想は本当に強力である。はたしてこの思想に対抗できる新たな思想、いや新たな社会のかたちを構想できるか――それが、いま我々に突き付けられている問題である。
コミュニタリアニズム(共同体主義)の限界
たとえば、一世を風靡したマイケル・サンデルの『これからの『正義』の話をしよう』は、そのひとつの試みとみなすことができる。彼は、 例えば落ちこぼれの小学生に読書をさせるために一冊本を読むと2 ドルあげるプログラムから、他人の生命保険料を支払って死亡時に何百万ドルという保険金を受け取る商売まで、本来ならば倫理的に行われるべき行動を、おカネで奨励したり、おカネで買い取る活動がどんどん拡大している。これは、それが促進しようとする倫理性を逆に腐敗させてしまうのではないか、と問いかける。そして、そのようなおカネが支配する社会に取って代わる社会の構想として、“コミュニタリアニズム”(共同体主義)を提示する。それは、アリストテレス的な正義論の再生を目指し、古代ギリシャの市民のように、共同体の共通善を熟慮した自治が可能なように、政治を転換すべしと唱えることになる。
サンデルの著作がベスト・セラーになった背景には、人々がアダム・スミス的な思想、とくにその現代版であるミルトン・フリードマン的な思想から脱却を試み始めていることの表れである。だが、残念ながら“コミュニタリアニズム”(共同体主義)には超えられない限界がある。それは、ひとつの共同体の共通善は、他の共同体の共通善と齟齬を来す可能性である。共同体主義には、必ずウチとソトの論理が働き、共同体同士の対立が必然的に引き起こされる可能性をもっている。コミュニタリアニズムはまさにコミュニタリアニズムであるが故に「普遍化」できないという宿命をもっている。
実際、コミュニタリアニズムが対抗しようとする資本主義は、本質的に「普遍性」をもったシステムである。それは、まず地域や文化を越えて流通する貨幣を使い、利潤があればそこに投資し、損失があれば撤退するというもっとも単純な原理にもとづくシステムである。その目標である利潤とは、収入―費用であり、すべての人類が理解できる算術の引き算しか必要としない尺度である。その引き算がプラスであれば、利潤であり、マイナスであれば損失である。このように資本主義とは、共同体的な熟慮も討議も必要のない、普遍的な引き算だけの原理で成り立っているからこそ、個々の共同体を超えて、グローバル化することができたのである。
したがって、資本主義が生みだすさまざまな問題に対して、たんなる対症療法を超えた対抗が可能なためには、資本主義に匹敵する「普遍性」をもった原理を提示する必要がある。そうでなければ、資本主義は、ピケッティが主張するように自らの矛盾によって自殺を遂げてしまうかもしれない。
資本主義への新しい視座―信任関係
そういう普遍原理の試みの一つが “信任論”である。信任とは英米法で発達した概念で、それはこれも英米法において重要な役割を果たしている“信託”という概念を一般化したものである。信託は英語で trust であるが、信任関係はそれと似た意味を持つ古い英語であるfiduciary という単語が使われている。信任にもとづいて結ばれた人間関係のことを信任関係fiduciary relationshipsとよぶ。
私は、この信任という概念が、これからの資本主義を考える上で重要な役割を果たすと思っている。
信任とは契約(contract)と対立する概念である。自己利益の追求が公共の利益になると主張するアダム・スミスの世界においては、人間と人間の関係は基本的に契約と見なされている。事実、民法には、契約自由の原則が定められている。それは、契約は自分に不利になると考えるならば結ばなくて良いという原則である。ということは、二人の人間がお互いに契約を結んでいるのは、お互いに自分の利益になるから結んでいることになる。すなわち、契約とは、まさに自己利益追求の法的手段であり、アダム・スミスの“見えざる手”の担い手であるのである。
ここで重要なことは、契約とは原則的に二人の対等な人間を前提としていることである。それぞれが自由に相手の自己利益と交換に自分の自己利益を追求する能力を持っていることが、二人の人間のあいだに契約関係が成立するための基本条件である。
では、この契約関係に対立する信任関係とは何だろうか?救急病棟における医者とそこに無意識状態で運び込まれた患者との関係がその典型例である。救急患者と救急医との関係は信任関係である。事実、この二人の人間は絶対に契約を結べない。しかしながら、医者は患者を治療しなければならない。無意識の患者は、まさに(無意識の)信頼によって自分の命を医者に任せざるを得ない。医者は、その信頼に応えて、患者を治療しなければならない。すなわち、信頼によって仕事を任し任される関係であるという意味で、患者と医者は「信任関係」にあるという。
我々の社会の中には、救急病棟における医者と患者の関係のように、絶対に必要な関係であるが、契約には決して任せられない関係が存在するのである。
そして、この他にも、契約に任せることができない関係がある。例としては、未成年者や精神障害者や認知障害老人と彼らの後見人の関係。前者は、事実上、契約を結ぶ能力を持っておらず、契約の主体になれない。従って彼らの面倒を見る後見人との関係は、信任関係にならざるを得ない。
信託とは、信任のプロトタイプである。信託とは、受益者の利益のために、信託財産を受益者ではなく信託受託者が所有して管理する仕組みである。この場合、信託財産の所有権を持たない受益者は、契約によって、その法律上の所有権を持つ受託者の行動をコントロールすることはできない。信託の受益者と受託者との関係は信任関係にならざるを得ない。
さらに、資本主義社会には、法律上は契約の主体だが、事実上契約の主体になれない「人間」が多数存在する。「法人」である。法人とは、本来は人ではないが、法律上人として扱われる物のことである。学校法人、宗教法人、公益財団法人、公益社団法人などの非営利法人から、株式会社を中心とする営利法人まで、さまざまな種類がある。法人とは、法律上は権利と義務を持つ人として扱われるが、現実には、人の集まり(社団)や資金の集まり(財団)でしかなく、それ自体は精神も肉体ももたない。従って、法人を事実上人として機能させるためには、法人を代表する生身の人間(自然人)が絶対に不可欠となる。それが、非営利法人の場合の「理事」であり、会社の場合の「代表役員」、もっと広く言えば「経営者」である。例えば、会社の経営者は、会社が実際の経済活動を行うために、会社に代わって会社資産を管理し、契約を結び、訴訟をとりおこなう存在なのである。(経営者は、経済学のエージェンシー理論が想定しているような、株主と代理契約を結んでいる代理人ではない。)そして、理事と非営利法人、経営者と会社との関係は、決して契約関係にはなれない。なぜならば、法人を代表して契約をとりしきるのは、理事や経営者であるからである。この関係も信任関係である。
次に、再び医者と患者との関係に戻ろう。先には、無意識の患者と医者の関係を扱った。だが、例え患者が意識を持っていたとしても、医者と患者の間には専門知識に関して絶対的な非対称性がある。これは経済学で通常扱われている情報の非対称性とは異なり、医者は患者の病気のことを患者以上に知っているという意味での絶対的な非対称性である。患者は信頼によって自分の身体の治療を医者に任せざるを得ない。もちろん、医者と意識ある患者との関係のかなりの部分は契約でカバーできるが、一番コアである専門知識の部分は必然的に信任関係となるのである。
そして、一般的には、医者と患者の関係だけでなく、すべての専門家と非専門家との関係は信任関係をコアにもっている。弁護士と依頼人、教師と学生、ファンド・マネージャーと投資家、とくに年金ファンドのマネージャーと年金保有者、さらに技術者や科学者と一般市民との関係も同様である。仮に契約が結ばれていても、専門分野の知識において、定義上、専門家は非専門家を絶対的にドミネートする知識があり、その部分に関する関係は、契約関係だけでは律しきれないのである。
日本の伝統芸能「文楽」で見る信任の関係―信任受託者の義務とは何か
ここで、なぜ信任関係は契約関係に還元していけないのかを再確認するために、再び伝統芸能に戻ってみよう。歌舞伎、能、文楽である。この中で、もっとも(理論的に)面白いのは、文楽である。なぜならば、文楽においては、役者と役柄とが、浄瑠璃遣いと人形とにはっきりと分離されているからである。そして、この浄瑠璃遣いと人形との関係は、たとえば医者と患者の関係や経営者と会社の関係などの信任関係と構造的に対応している。
なぜ信任関係が契約関係に還元できないかは、文楽を考えればよく分かる。荒唐無稽であるのは承知で、浄瑠璃遣いと人形が、文楽の内容に関してあるいは浄瑠璃遣いの報酬に関しての契約をするとしたら、どうなるのか? 浄瑠璃遣い自身が人形の右手を操って、自分との契約を書くことになる。つまり、自分で自分と契約するのと同じなのである。人形遣いが悪い人間であれば、その契約書には自分の都合のよいことしか書かないはずだ。人形は必ず搾取されてしまう。
同様に、医者と患者の関係でも経営者と法人との関係でも、その関係をすべて契約で結ぶとなると、医者や経営者が悪い人間であれば、その契約を自分の都合のよいように書くことができてしまうのである。
事実、法律学の最大の原則の一つが、自己契約、あるいはそれと同等の効果をもつ契約は、契約としては無効であることである。つまり、医者と患者の関係や経営者と法人の関係を契約関係にしても、それは法律的には無効であると言うことなのだ。
ではどうすればよいか?
日本の伝統芸能における役者の使命とは、自分は透明になり、自分が演じる役そのものとして立ち現れる演技をすることである。そして、実際そうなった時に、観客は本当の芸を見たと思い、感動する。文楽はこうした芸のあり方の究極形である。なぜなら、文楽には首と右手を遣う主遣い、左手を遣う左遣い、足を遣う足遣いの三人の人形遣いによって演じられるが、そのうちの左遣いと足遣いは黒衣を被っている。それは、左遣いも足遣いも、自分の見栄を抑えて人形を人間以上に人間らしく演じさせることに全力を尽くすことを強制しているのである。人形遣いが、まさに自分を抑え、人形がその役柄に忠実な演技をすることに全身全霊を込める義務を負っていることを、具体的に表現しているのである。
自分の利益ではなく他者の目的に忠実に行動する義務を負うこと――それは、結局、「倫理」である。文楽が代表する日本の伝統芸能の真髄は、まさに役者が与えられた役柄に対して忠実に演技をするという義務を負うことにあるのである。
そして、この「倫理」――自分の利益ではなく他者の目的に忠実に仕事をすること――これこそ、信任関係において信任を受託した側の人間に要請されていることなのである。
ここに「倫理」が再登場した。アダム・スミスが“見えざる手”によって代替し、ミルトン・フリードマンがその自由放任主義によって資本主義から徹底的に排除しようとした倫理が、資本主義社会において人間が生きていくためには不可欠な原理として再登場したのである。
もちろん、いくら倫理が大切であると言っても、それがごく一部の例外的状況にしか必要でなければ、あまり意味がない。だが、例外ではない。
「よく統治された社会では、人民の最下層にまで広く富裕がゆきわたるが、そうした富裕をひきおこすのは、分業の結果として生じる、さまざまな技術による生産物の巨大な増加にほかならない。」これは『国富論』の中の文章である。資本主義的経済発展においては「分業」がもっとも重要な役割をはたすと、アダム・スミスは述べているのだ。さらに、スミスは、資本主義社会とは、「分業の発達により、誰もが交換することによって生活せざるを得なくなり、ある程度商人になる」社会であると言っている。その分業を可能にするのが、市場における交換であり、その交換を法律的に担保するのが契約である。
もちろん、このような社会のあり方をマイケル・サンデルなどは非常に嘆き、古代ギリシャのアリストテレス的な共同体道徳に戻れと主張したのである。
「分業」から「分知」へ―ポスト産業資本主義が要請する信任関係
ところで、現在、我々の生きている資本主義社会は大きく転換している。それは“産業資本主義”から“ポスト産業資本主義”への大転換である。具体的には、資本主義的な利潤の源泉が、機械制工場における大量生産から、他と違った技術、違った製品、違った市場、違った組織に転換している。それは、まさにそのような「違い」を生み出せる知識や情報の価値が急上昇している知識社会・情報社会になっていると言うことでもある。
では、この知識社会・情報社会における「分業」とはどういう形をとるのか?それは、知識や情報の分業という意味での「分知」である。社会の中で知識や情報が重要になればなるほど、その知識や情報に関して特化していく必要が高まるからである。
では、この「分知」とは、具体的にはどういう形をとるのか?それは、「専門化」の進展という形をとる。すなわち、資本主義の“ポスト産業資本化”とは、まさに専門家と非専門家との関係が拡大していく「高度専門家社会」になることを意味する。すなわち、それはまさに「信任関係」を必要とする人間関係を資本主義がますます必要とすることを意味することである。医者や経営者だけでなく、弁護士、ファンド・マネージャー、教師、技術者、科学者、といった専門家に仕事を任せないと生活できない場面が急速に拡がっているというわけである。
もちろん、契約関係がなくなるというのではない。契約関係も拡大していくことは確かである。だが、それととともに、いやそれ以上に信任関係が拡大していくのである。
ということは、ポスト産業資本主義とは、自己利益追求の原理だけでなく、それと同時にますます「倫理」性が要求されてくる社会であると言うことである。しかもここで重要なのは、このような信任関係の広がりは、その「普遍化」を促すことである。すなわち、ポスト産業資本主義においては、社会の多くの人間が何らかの分野で「専門家」になるとともに、ある分野の専門家も別の分野では「非専門家」として「専門家」に信頼によって仕事を任せざるを得ないという社会になってくると言うことである。経営者も病気になれば医者にかかり、医者も投資に関してはファンド・マネージャーに信頼によって仕事を任せ、そしてすべての人間は老齢化すると介護人や後見人に信頼によって仕事を任せざるを得なくなる。ここに、信任関係という倫理性を要求する人間関係が、自己利益追求を前提とする契約関係と並んで、資本主義社会を構成する2番目の軸を提供する可能性をもつのである。
そして、自己利益追求に基づく契約関係とこのような倫理性を要求する信任関係という二つの座標軸を手に入れることによって、私はポスト産業資本主義の時代における資本主義の「新たな形」を探し求める手がかりを得ることになると思っている。
ところで、信任関係とは、信頼を受けて仕事をする人間に、信頼を託した人間に対して倫理的に行動することを義務づけると述べておいた。ただ、私は経済学者である。だから、もちろん、信任関係がすべて個人の倫理性で解決するとは考えていない。実際、信任という概念を最初に導入した英米においては、重要な信任関係――例えば、医者と患者、弁護士と依頼人、年金マネージャーと年金受益者、信託受託者と信託受益者、未成年・精神障害者・認知障害老人と後見人、理事と非営利法人、そして経営者と会社などの関係――は、基本的に「信任法」という法律でコントロールしてきている。日本でも、少なくとも、信託関係や後見人関係や法人理事や会社経営者に関しては「信任法」が存在する(残念ながら、医者や年金マネージャーを律する信任法は存在していない)。
そして、信任法の内容は、信頼によって仕事を任された人間は任せた人間に対して、その利益にのみ忠実に行動することを要求する「忠実義務」を負うことになる。ここで、大切なのは、このうちの「忠実義務」は単なるお題目ではなく、法律的な義務であることである。それに違反すると、まさに「背任罪」として大きな罰則を受けることになるのである。
信任法には、さらに、信任受託者がその仕事を一定程度の注意をもって行うことを要求する「善管注意義務」も存在する。また、通常の契約違反などの裁判では、原告が被告の違反を立証する責任があるが、忠実義務違反に関しては、被告が違反の訴えに対して反証する責任を持つという事実認定の要件に関する大きな違いがあることや、損害賠償に関しては損失補償が基本原則であるが、忠実義務違反に関しては損失額だけでなく、不当利得は全額吐き出しを要求されるという違いもあるが、信任法の実務に関しては、これ以上の議論は省略しておく。
資本主義の「新しい形」―信任関係をめぐる倫理と法律の関係
ここで失望が起こるかも知れない。信任関係は「倫理」を要求すると言っていながら、結局、「法律」でコントロールしているだけではないか、と。経済論理を法的論理に置きかえただけでなないか、と。
だが、ここで文楽をもう一度思い起こそう。三人の浄瑠璃遣いのうち、左遣いと足遣いは黒衣を被っている。この黒衣は、信任関係における「信任法」にあたる。浄瑠璃遣いが自己利益的行動をとらないように「外部」から規制しているのである。だが、首と右手を遣う主遣いは、黒衣を被っていない。これは、どういう意味だろうか?主遣いは、外部からの強制がなくても、自らの見栄など顧みず、人形が人間以上に人間らしく振る舞うために全身全霊を打ち込むことが当然視されているのである。すなわち、自発的に「倫理」性を追求することがはじめから期待されているからである。
そして、これが信任法の基本原理である。信任受託者は基本的には自らの倫理性にもとづいて、信任受益者の利益に忠実に行動することが期待されている。ただ、もちろん、社会にはさまざまな理由で自己利益のみ追求してしまう「悪い」人間もいる。あるいは、どういう風に行動すべきか「無知であったり迷っている」人間もいる。 [1] 信任法の存在理由は、前者にたいしては外的な強制として、後者にたいしては一種の導きの手としての役割をはたすのである。その意味で、信任関係の中心はあくまでも「倫理」が置かれているのである。法律は、倫理が欠けているところを補う役割を果たすことになるのである。
かくして、日本の伝統芸能に導かれて、資本主義の「新しい形」がどのようなものであるかが輪郭にはすぎないが示せたのではないかと思う。
[1] H.L.A. Hart, The Concept of Law, 2nd ed., Oxford University Press, (1961) at 40 and 88-91.