厚生労働省は6月27日、2016年の「国民生活基礎調査」の結果を発表した。特に注目されたのは、貧困率の動向である。ここで言う貧困率とは、厳密には相対的貧困率と言われる指標である。世帯規模の影響を調整し、税や社会保障の受払を反映させた一人当たりの所得(等価可処分所得)を計算し、その半分の値を貧困線と定義する。相対的貧困率は、所得がその貧困線を下回る人が社会全体でどれだけいるかを示した値である。
調査結果を見ると、相対的貧困率は12年の16.1%から15年は15.6%に低下している。対象を18歳未満に限定した「子供の貧困率」は16.3%から13.9%へと、より明確な低下を見せている。つまり、アベノミクスの下で貧困率は低下したことになる。長期的に見ても、貧困率は頭打ちの局面にあると判断してよさそうである。
貧困率の低下は、もちろん歓迎すべき変化である。しかし、人々の貧困は所得だけで決まるのだろうか。確かに、所得は人々の行動を大きく左右する。しかし、所得は十分高くても、健康でなければ幸せを享受できない。また、これまで受けていた教育が不十分であれば生来の能力を十分発揮できず、豊かな生活を送れないということもあろう。
貧困は本来、多元的に捉えるべき概念と言える。この発想は、ノーベル経済学者アマルティア・センによる「潜在能力アプローチ」に由来する。世の中にはさまざまな財が存在する。その財がもっている特徴を活かし、その特徴を必要に応じて自らの幸せに役立てる行為を、センは「機能」(functioning)と呼ぶ。その機能を発揮できる能力を集めたものを、センは「潜在能力」(capabilities)と名付ける。同じ財を与えられても、この潜在能力が高いほど人々はその財をより効果的に利用でき、自分の幸せの実現につなげられる。
潜在能力アプローチは、貧困という概念にも大きな意味合いを持っている。貧困とは、単に所得が低いことではない。人間が発揮すべき潜在能力が何らかの理由で「剥奪」されている状況こそ、貧困と捉えるべきだということになる。その場合、具体的な貧困の中身が問題になるが、潜在能力アプローチの概念から考えると、貧困も所得だけでなく多元的に捉える必要が出てくる。所得だけでなく、教育や生活水準など、人々を取り巻くさまざまな側面を考慮に入れなければならない。こうした発想に基づいて把えられた貧困を「多元的貧困」(multidimensional poverty)と呼ぶ。
具体的なイメージを摑んでいただくために、図では4つの次元、すなわち、所得、教育水準(学歴)、セーフティ・ネット、健康という4つの次元で貧困を捉えてみる(もちろん、次元の選択はほかにもいろいろあり得る)。それぞれの次元で貧困状況を調べるだけでなく、貧困を多元的にとらえるために次のような工夫をする。すなわち、4つの次元のうち1つ以上の次元で貧困になっているか、同様に、2つあるいは3つ以上の次元で貧困になっているか、そして、4つすべての次元で貧困になっているかを調べるわけだ。
表は、少し古いデータ(「2010年国民生活基礎調査」)に基づくものだが、筆者が多元的貧困の概念を念頭に置いて、日本の雇用者(20~59歳)の貧困の様子を調べたものである。貧困の4つの次元のうち、所得では所得が貧困線を下回る場合、教育では最高学歴が中卒である場合を貧困と定義する。セーフティ・ネットでは、公的年金に加入している(保険料を支払っている)。健康面では、「あなたは現在、健康面の問題で日常生活に何か影響がありますか」という問いに「はい」と答えた場合に、健康面で貧困だと解釈する。
雇用者全体の数字を見ると、所得面の貧困は全体では7.6%となっている。それに比べると、教育、セーフティ・ネット面での貧困はそれぞれ4.3%、2.1%とやや低めに、健康面での貧困は10.0%とやや高めになっている。問題は、貧困がどのように重なり合っているかだ。少なくとも1つ以上重なっている人は全体の21.1%に上っている。所得面の貧困が7.6%だったので、所得面では貧困でなくてもほかの面で貧困である人はかなりいる。
逆に、貧困が2つ以上重なる人は2.6%とかなり少数派になる。重なる貧困が3つ以上になると比率はさらに0.2%にまで低下し、4つ以上になると無視できるほど低い比率になる。日本の貧困は、さまざまな次元の貧困が重なり合うというより、所得や所得以外のどれか1つの次元で貧困になっているという色彩が強いようだ。
表 貧困に直面している人の比率 (%)
(注)厚生労働省「国民生活基礎調査」(2010年)に基づき、筆者推計。
雇用者を正規と非正規に分けるとどうなるか。所得面で貧困な人の比率は、非正規雇用者(13.7%)のほうが正規(4.8%)より圧倒的に高い。教育面、健康面でも差があるが、違いが特に注目されるのはセーフティ・ネット面だ。公的年金に加入していない人の比率は、正規の0.6%に対して非正規では5.5%に達する。多元的貧困の度合いも、非正規になると大きく高まる。貧困の次元が1つ以上の人の比率は、正規で17.0%であるのに対して、非正規では30.1%と大幅に高くなる。さらに、次元が2つ以上の場合でも、正規では1.5%とかなり少数派になるのに対して、非正規では5.1%もいる。
表では、雇用者のサンプルを単親世帯に限定した場合の結果も併せて示している。サンプルは202人とかなり少なくなるが、母子世帯や父子世帯の直面する貧困がさらに深刻なことはここから十分推察できる。実際、39.1%の人が所得面で貧困線を割り込む生活を余儀なくされている。そのほかの3つの次元の貧困も、全体の平均を大きく上回る。貧困の次元が1つ以上の人の比率も50%に上る。所得面の貧困が39.1%であったことを考えると、単親世帯では所得面の貧困が決定的に重要になっている。
さらに、貧困の重なり合いの度合いを2、3、4と引き上げて行っても、雇用者全体の場合に比べて、貧困率の低下の度合いが限定的になっており、単親世帯が貧困の重なり合いに苦慮している姿が浮かび上がる。こうした深刻な貧困の状況が、子供の発育や教育達成、健康にも望ましくない影響を及ぼしていることは容易に推察される。
以上の簡単な分析結果からも示唆されるように、貧困を所得面だけで捉えるのではなく、多元的に捉えることで、貧困をめぐる多くのことが明らかになる。多元的貧困に関するさらなる研究が求められるところである。