1.注目され始めた高齢者就業の促進策
政府は、年金受給の繰下げを70歳以降も可能にすることの検討に入ったようである(内閣府の「高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会報告書」、10月2日)。この方針は、自由民主党のプロジェクト・チームもすでに提案している。政府の「働き方改革」の議論の中で必ずしも積極的に取り上げられなかった高齢者就業の促進策が、ここに来て急速に脚光を浴びつつある。60歳を過ぎると、男女ともに就業率は急速に低下する(図)。高齢者就業の促進は、社会全体の「支え手」を増し、経済全体の「扶養力」を高めるうえで極めて重要な政策課題である。
高齢者就業をどう促進するかという問題は、公的年金の支給開始年齢の引き上げという政治的にセンシティブなテーマに直結するため、政府もこれまで慎重に扱ってきた。高齢者就業の引き上げのためには、公的年金の支給開始年齢の引上げのほうがはるかに有効である。年金をもらえないのなら、もらえるまで働くしかないからだ。しかし、この身も蓋もない(?)改革案には極めて強い反発が予想され、諸外国でもかなり長い時間をかけてようやく国民的な合意に至っている。政府が繰下げ支給の対象年齢の引き上げというソフトなイメージの改革案を打ち出しているのも、その辺の配慮があるのだろう。以下では、この繰下げ支給の問題を取っ掛かりにして、どうすれば高齢者就業を促進できるかを考えてみよう。
2.なぜ繰下げ受給は不人気なのか
公的年金の受給額は、1年繰下げる毎に8.4%引き上げられる。70歳まで繰り下げると実に42%だ。一見するとかなり「お得」のように思えるが、厚生年金を繰り下げ受給している人は、2015年度で新規受給者のわずか0.2%にとどまる(厚生労働省「国民年金・厚生年金事業年報」)。どうしてだろうか。そもそも繰上げ・繰下げ支給の仕組みは、どの年齢で年金を受給し始めても生涯にわたって受け取る年金受給総額にあまり変化がないように設計されており、それほど得にも損にもならない、つまり「保険数理的に公正」な仕組みになっている。しかし、そうだとしても、繰下げはもう少し利用する人がいてもおかしくない。年金が手元に当面入ってこなくなることへの不安感のほか、在職老齢年金(在老)の仕組みも影響していると考えられる。
繰下げ受給を検討している人の中に、定年後まったく働かずに、繰下げ受給で引上げられる年金を受給するまでひたすら我慢しようと思う人はあまりいないだろう。定年後も働き続き、年金受給のタイミングを少しずらしたら、得になるのかなと考える人がほとんどだと思われる。ところが、現行の繰下げ受給の仕組みは、仮に年金を受給しながら働き続けたときに、在老によってどれだけ減額されるかを仮定計算し、その減額分を除いた分だけを繰下げ受給の対象にしている(囲みの具体例参照)。この仕組みは、在老が適用されている人たちとの公平性を保つためには合理的な面もあるのだが、意図せざる効果が働く。
つまり、この仕組みのために、とりわけ定年後も比較的高めの給料を得て働き続けたいと思うサラリーマンにとっては、繰下げ受給の増額率がかなり削減されてしまう。もともとの増額率が保険数理的に公正な形で設定されているとすれば、それを下回る増額率しか得られないと繰下げに二の足を踏むのは合理的な判断である。さらに、ただでさえ年金は当分支給されなくなるところに、年下の配偶者がいる場合は、配偶者が65歳まで受給できる加給年金も繰上げ受給を選択すれば放棄せざるを得なくなる。現金の受け取りがかなり少なくなるのはやはり痛い。
このように考えると、年金の支給開始年齢はかなりの程度、年金受給開始年齢の上限に等しくなってしまう。在老の仕組みが、その背景にある。さらに、支給開始年齢以降も働き続けるかどうか、フル・タイムとパート・タイムのどちらで働くかという選択も、在老による年金削減に大きく左右される。働かずに年金受給を先送りする、という選択は実際にはほとんどない。だとすれば、繰上げ受給の対象年齢を引き上げるだけでは、効果はほとんど期待できない。高齢者の就業行動を左右するのは、やはり支給開始年齢と在老の仕組みなのである。
3.ブレーキをアクセルに
日本では、高齢層の就業率が景気循環の影響を受けながらも、緩やかな上昇傾向を見せている。その背景に、公的年金の「税率」が全体として低下したことがある。日本の年金政策は1985年改正を契機にして、それまでの給付拡充から給付削減に路線変更した。少子高齢化を想定すれば、この路線変更はやむを得ないものと考えられる。それに基づく年金改革が、定年延長を中心とする高齢者向けの雇用政策と相俟って高齢者就業の向上に寄与してきたことは否定できない事実である。
問題は、この路線をどのように加速させるかである。65歳台前半層までの政策はほぼ出揃っている。次の課題は60歳台後半層である。就業促進には公的年金の支給開始年齢の引き上げが最も効果的なのだが、それが当面難しいということであれば、60歳台後半の在老の大幅削減ないし撤廃の検討にまず着手すべきである(在老の抱える問題は60歳台前半層においても基本的に同じだが、支給開始年齢が65歳に徐々に引き上げられていくので、同年齢層においては制度自体が消滅していく)。
在老がなくなれば、繰下げ受給もその影響を受けなくなるので、制度自らに本来期待されていた、年金受給開始年齢の選択の拡大も現実のものとなる。同時に、支給開始年齢の引き上げという、政治的にかなりの抵抗が予想される改革を肩代わりする効果もある程度期待できる。高齢者から見ても、年金減額を気にしない形で、長い年月をかけて身に着けた技能やノウハウを生かして第一線で活躍し続けるという選択に、年金制度面からの支援があってよい。しかもそれは、年金をはじめとする社会保障あるは社会全体の「支え手」の増加、社会の「扶養力」強化につながる。高齢者就業を促進するためには、高齢者就業に掛かっているさまざまなブレーキをできるだけ弱め、アクセルに転じていくしかない。