罠シナリオと踏み石シナリオ
就業状態によって雇用者のメンタルヘルスが大きく異なるとは広く知られている。任期のない、正規雇用者に比べると一時雇用や任期付きの非正規雇用者のほうが、仕事満足度が低く、メンタルヘルスもよくない傾向がある。非正規雇用者の場合、将来の雇用や所得の見通しが不透明であり、外的なショックに対するメンタルヘルスの脆弱性も高めになる。
しかし、就業状態とメンタルヘルスとの関係は国や時代環境によって大きく異なる。非正規雇用がメンタルヘルスにとって一般的に望ましくないとしても、非正規雇用から正規雇用への転化が比較的容易に行われたり、あるいは待遇や福利厚生面で差別が小さかったり、さらには社会保障制度の適用面での格差が目立たなかったりすれば、就業状態によってメンタルヘルスに大きな違いが出てこない可能性は十分にある。
この点に関連して大きな注目点となっているのが、労働市場に初めて参入する時点の状況、すなわち「初職」の違いがその後の就業状態をどこまで左右するかという問題である。この問題は、労働市場の参入形態が日本とは異なり、期間の定めのない雇用が珍しくないヨーロッパでしばしば取り上げられてきた。
一つの仮説は、初職が正規雇用以外であれば、正規雇用への転化は容易ではなく、非正規雇用にとどまる可能性が高いという仮説であり、「罠(わな)シナリオ」と呼ばれる。それに対して、「踏み石シナリオ」は、非正規雇用という形で労働市場に参入することは、自分に合った仕事や働き方を模索する重要なステップであり、その経験を活かして正規雇用者化するといったキャリア・アップの展開を想定する。
ヨーロッパの場合、罠シナリオよりも踏み石シナリオのほうが現実をうまく説明すると評価する実証研究がいくつかある。これに対して、日本のデータを用いた実証研究は罠シナリオを支持する傾向がある。日本の場合、初職が正規雇用以外であれば正規雇用に転化することは難しい。さらに、正規雇用に比べると非正規雇用では待遇や福利厚生面で不利な立場に立たされるので、初職が正規雇用以外であれば、その後の就業生活はさまざまな面でかなり不利なものとなる。雇用が不安定で、所得も低ければ、「婚活」も不利になりかねない。
初職の長期的影響を調べる
初職の違いはその後の就業状態だけでなく、所得や婚姻状態、雇用者のメンタルヘルスにも長期的な影響を及ぼすと推察してもおかしくない。筆者と国際医療福祉大学の稲垣誠一教授は、2011年11月に実施した「くらしと仕事に関する調査」(英語の略称:LOSEF)から集めたデ一タを用いて、こうした点に関する分析を行ったことがある。分析に用いたサンプルは、30代、40代、50代の5,935人(男性3,117人,女性2,818人)である。
表がその結果を男女別にまとめたものである。このサンプルでは、初職が正規以外だった人は男性で14.6%、女性で18.5%いる。最初に、現在の就業状態を調べると、男女ともに初職が正規以外であれば現職も同様に正規以外になる確率が有意に高くなることがわかる。とりわけ、その差は男性において顕著である。女性の場合は、初職が正規であっても現職が非正規という人も少なからずいる。結婚や子育てを契機に正規の仕事を辞め、パート・タイマーとして働いたり、家事に専念したりするケースも多いからであろう。
世帯所得については、世帯所得(世帯人員数で調整した等価所得ベース)の水準のほか、厚生労働省が「国民生活基礎調査」に基づいて設定した貧困線(等価所得の中央値の50%。この調査の実施時点に近い2012年時点では122万円)を下回るかどうかに注目している。
男性の場合、初職が不安定であれば年収は100万円以上低くなるとともに、それに連動して所得が貧困線を下回る確率も2倍ほど高くなる。しかし、女性の場合は、世帯所得の差は有意ではない。初職が正規以外でも、配偶者がある程度の所得を得ているというケースがあるからだろう。もっとも、世帯所得が貧困線を下回る確率は、男性の場合ほどはないものの、女性でも初職が正規以外であれば高くなる。
初職の違いは、婚姻関係にも有意な影響を及ぼす。初婚が不安定であれば、未婚の確率が高まる。その傾向は男性において特に顕著である。不安定な就業状態や低い所得が婚活に不利に作用している状況が推察される。
初職の違いは現在のメンタルヘルスの違いとも対応する。表にあるK6スコアは抑鬱の度合いを示す指標であり、0から24の値をとる(高いほど望ましくない)。日本人の場合、この値が5以上になると心理的ストレスを抱えていると評価される。初職が不安定であれば、男女ともにK6スコアが高くなり、心理的ストレスを抱える確率も高くなる。
非正規初職は「スティグマ」か?
このように、初職の違いはその後の人生やメンタルヘルスに大きな影響を及ぼす。筆者らはさらに、初職がメンタルヘルスに及ぼす影響は、その後の就業状態や所得、婚姻状態によって完全には媒介されず、かなり直接的に作用していることも明らかにした。つまり、初職の違いはそれ自体がその後のメンタルヘルスを大きく決定する要因になっている。
こうした結果に対する自然な解釈は、正規雇用でない初職は就業生活にとって一種の「スティグマ」になるというものである。初職が正規雇用でなければ、その後、正規雇用に転じることが難しく、所得も低くなり、配偶者も見つけなくなるという傾向がすでに世の中で明確であるほど、正規雇用でない初職はスティグマ的な性格をもつことになる。初職でつまずくことは、それ自体が人生の失敗として受け止められ、心の傷としてその後のメンタルヘルスを大きく左右し続けるということかもしれない。
ただし、こうした解釈に問題がないわけではない。実際、海外での研究の中には、子供期にメンタルヘルス面の問題を抱えていると、正規雇用に就きにくくなる傾向があることを指摘するものがある。こうした関係が成立しているとすれば、初職の違いがその後のメンタルヘルスを規定すると考えるのは正しくないことになる。日本の就職活動の場合、時として担当者によって人間性を否定されるような面接を、何十社も受けさせられる。就職氷河期のように就職活動が厳しく、正規雇用に就くことが難しい場合ほど、初職は個人が抱えていたメンタルヘルスの問題を浮き彫りにする、という解釈もできないわけでない。しかし、仮にそうだとしても、初職が正規以外だった人たちを、その後も不利な就業状態にとどまらせる仕組みを是認することはけっしてできない。
ここで紹介した研究は、正規・非正規問題に新たな視点を投げかけるものである。日本の雇用システムが、いったん非正規になっても容易に正規に転じることができ、また、非正規でも処遇や賃金、セーフティ・ネットの面で不利にならなければ、初職がここまでその後の人生やメンタルヘルスを左右することはなかったであろう。非正規雇用者が正規雇用者に比べて、メンタルヘルス面で多くの問題を抱えていることは広く知られている。非正規雇用者の比率が4割近くになり、しかも、いったん非正規になるとそこから抜け出せない状況は、世の中全体が陰鬱になってしまうことを意味する。新卒採用を含めた雇用システムの見直しが必要だし、政策面でも、どのような就業形態でも不利にならないようなセーフティ・ネットの改革が最低限求められる。
(注)本稿の内容は、以下の論文に依拠している。Takashi Oshio and Seiichi Inagaki, “The direct and indirect effects of initial job status on midlife psychological distress in Japan: Evidence from a mediation analysis,” Industrial Health, 2015, 53(4), 311-321.