松尾 弘
慶應義塾大学大学院法務研究科教授
1 はじめに
所有者やその所在が容易に判明しない土地(以下、所有者不明土地という)の増加は、日本社会に多くの問題を投げかけている。民間や政府が行う事業の用地に所有者不明土地があることによる事業の阻害やコストの増加、市町村による固定資産税の徴収漏れ、地籍整備の阻害、土地の管理不全による危険状態の発生や周辺環境の悪化、土地取引詐欺の誘発などが指摘されている。
土地が所有者不明となる主な原因は、相続が生じても登記しない、あるいは転居しても住所の変更を届け出ないなど、不動産登記簿の情報が随時更新されないケースが多いことによる。その背景には、人口の減少・高齢化、経済の停滞なども加わり、買い手のない土地が増加し、土地所有やそれを確保する登記へのインセンティブが縮減している事情がある。引き取り手のない土地の所有権を放棄する制度も整備されていない。それは、土地が市場で比較的容易に取り引きできる状況下で形成された土地所有制度の仕組みと、そうした前提状況が崩れた現実とのギャップに起因する、制度の構造的な欠陥問題でもある。
その対策については、専門家のサポートや教育・啓蒙活動による相続登記の促進、マイナンバーなどを用いた所有者の異動に関する情報と登記情報との関連づけ、ランドバンクの創設なども含む利用されない土地の受け皿の拡大など、注力すべき要点はすでに相当明らかになってきた(吉原祥子『人口減少時代の土地問題』[中央公論新社、2017年]、とくに139-178頁)。今後はこれらの対策を着実に実施することが重要になる。
そのためには、所有者不明土地問題が日本の土地所有制度の形成プロセスにおいて生じてきた諸々の問題の一コマであるという、制度変化の連続性を意識した歴史認識をもって対処することが鍵になる。
2 日本における土地所有権制度の形成
(1)国家の成立に伴う土地所有制度の漸次的形成
土地所有制度はある日突如として成立したものではない。それは国家の形成とともに徐々に形づくられてきた。なぜなら、国家はそもそも国内外の危険から国民の所有の安全を保障するために構築されたものだからである(松尾弘「土地所有を考える(1)」『法学セミナー』771号[2019年]60・62頁)。日本の場合も土地所有制度は国家の形成に伴い、遅くとも公地公民制(646年)の宣明以降、漸次的に生成・発展・変容してきた。
もっとも、制度変化のペースは一様でなかった。とくに明治維新に地租の金納への転換を目的として、私人に地券を発行し、土地の「所有」を認めたことは、日本の土地所有制度を大きく転換するものであった。それは古来「国有の性質」を備えた土地を「人民の私有」に改めた「日本開闢以来の一大改革」だったからである(福沢諭吉「地租論」[『時事新報』1892年4〜5月])。しかし、それを契機に急造された土地所有権制度は、150年近く経った今も、さまざまな点で未成熟さを残している。所有者不明土地問題はその一つの帰結である。
(2)土地所有権の成立プロセス
日本における私的土地所有権の成立は、二方面から展開した。
一方では、(A)①幕府の直轄領に対する土地支配権および大名・領主に対する人的支配権を将軍から天皇に返還した大政奉還(1867年10月)、②天皇を中心とする政権の樹立である王政復古(同年12月)、③藩主から天皇への封土と領民の返上である版籍奉還(1869年6月)、④藩主権力の解体と天皇政権の集権化を強化する廃藩置県(1871年7月)、および⑤華士族の家禄・賞典禄を金禄化・公債化を経て廃止した秩禄処分(1869年6月〜1876年8月)により、将軍・藩主の土地支配権を、いったん天皇を中心とする国家(官)に吸収した。いわば公地公民制の形を変えた復活である。
他方では、(B)①貢租負担者であった土地の「所持」者に対する耕作制限を緩和して土地の利用の自由を拡大した田畑勝手作の許可(1871年9月)に続き、②同じく土地の「売買」の自由を拡大した田畑永代売買解禁(1872年2月)は「四民」に土地の所持を認めた。これは、その直前に行われた身分制から平等主義への一連の改革(平民にも苗字の使用、乗馬、華族との婚姻、穢多非人等の呼称廃止と一般民籍への編入、職業・居住の自由を認めた。1870年9月〜1871年12月)による土地所持の受け皿としての所持主体の拡大を踏まえ、「一地一主」の原則を形成し始めた制度改革であった。と同時に、③政府は東京府を皮切りに郡村地にも地券を発行し、その受領者に地租上納を命じる一方で、地券は地所の「持主」たる確証であるとした(1871年12月、1872年1月・2月)。その後、地租改正条例(1873年7月)により、全国的な土地調査に基づいて地価に従って課税する金納地租体制の確立を図った。その地券(壬申地券)の裏面には、地券は地所を「所有」する証しであるとされ、その後、地券によらない売買の買主には地所の「所有ノ権」がないとした(1874年10月)。こうして、あらゆる私人が土地を「所有」できることになった。
このように、いったん幕藩権力から天皇政権による国家が吸収した土地支配権を(前述(A))、新たに国家が私人に付与することにより(前述(B))、日本の土地所有権は徐々に成立していった。もっとも、(A)・(B)二つの側面の関わり方には問題が残された。
(3)公地思想と自由な所有権の相克
明治政府は、軍備増強資金の調達などの必要から、官林を払い下げて「私有物」とすること(1872年6月)、「官有地」と「民有地」(その第1種は「人民各自所有ノ確証アル耕地宅地山林等」)の区分(1874年11月)、いったん官有地に編入された土地の「下戻し」(「所有又ハ分収ノ権利」の取得)を認めた国有土地森林原野下戻法(1899年4月)などを通じて、徐々に私人の私的所有を具体的に認めていった。
法令上も「所有権」が次第に用いられるようになる。土地売買譲渡規則(1880年)4条、登記法(1886年)16条・19条、そして、大日本帝国憲法(1889年)27条などである。それに基づいて制定された民法(1890年)財産編2条2項第1・30条1項、民法(1896年)206条・207条などでも「所有権」の語が用いられ、定着した。そして、土地の「所有権」は、幕府・藩主による封建的土地支配や、その末端にあった村落共同体による慣行的規制が取り払われ、土地を自由に使用・収益・処分し、売買できる「権利」として純化された。土地の所有権も当事者の意思表示のみで移転できる意思主義を採用し(民法176条)、登記はこの権利移転を「第三者」に対抗するための要件(対抗要件)として、当事者の自発的登記に期待することにした(民法177条)。
しかし、土地の「所有ノ権」ないし「所有権」が土地そのものに対する私人の絶対的に自由な権利を意味するのか、国家の所有権を分有したものかは、なお曖昧であった。地券発行当初はもとより、それが一段落した頃になっても、国家が土地の所有権を保持し、私人には「土地ヨリ生ズル所ノ収穫利益ヲ売買使用スルノ権」(土地の使用・収益権)を付与したにすぎない(1882年7月、岩倉具視の三条実美宛て意見書)という見解が、政府部内には根強く残っていた。
大日本帝国憲法27条の起草者である井上毅も、臣民の「所有権」は、君主ないし国家が国土に対してもつ「原有権/オリヂナルプロパチー」(original property)に基づいて「小民ニ恵与」したものであるとする公地主義をなお支持していた(伊藤博文『大日本帝国憲法義解・皇室典範義解』[国家学会、1889年]56-58頁)。このように公地思想は1880年代になっても折に触れて繰り返し復活した。
(4)二つの土地所有観の未調整と土地所有権制度の未成熟
公地思想と自由な土地所有権の相克の結果、国家の土地所有権(前述2(2)(A))と私人の土地所有権(同(B))という二つの側面の関係を調整できないまま、日本では土地は誰のものかという根本問題について曖昧な状態が残された。この問題は本来時間をかけて解決すべきものであったが、その余裕がないまま事態は進行し、問題が複雑化した。
政府は、道路・鉄道などの都市インフラの整備のために東京市区改正条例(1888年8月)を定め、東京市区改正土地建物処分規則(1889年1月)は建築制限について定めたものの、これらの法令の適用区域外では規制がない状態が放置されたため、使うも使わぬも、何を建てるも壊すも所有者の自由という土地所有権の観念が醸成され、無秩序な都市景観が形成される契機となった。折から日清戦争(1894〜1895年)、日露戦争(1904〜1905年)を経て、産業資本の発達に伴う都市への人口集中により、乱雑な宅地化に拍車がかかった。1919年4月になって、都市計画法および市街地建築物法が制定されたが、いったん普及した土地「所有権」=使うも使わぬも自由の観念は、法令の規制がなければ自由という所有者意識を定着させてしまった。そうした偏った所有権意識に基づく濫開発は、それ自体が商品性を欠き、市場にのらない土地を大量に生み出し、後の所有者不明化の遠因にもなった。このことは、そうした偏った意識を生み出した土地所有権制度が未成熟であったことを示している。
3 未成熟な土地所有権制度と土地問題の発生
土地をできる限り自由に使用・収益し、容易に売買できる権利としての土地所有権制度は、地券制度の導入を促した商業立国論(神田孝平「農商弁」1861年12月)に立脚するものであった。それは低コストでの土地取引を可能にし、土地価格を上昇させ、土地を担保とする資金調達を拡大し、投資の増大によって経済成長をもたらす、土地本位制の形成を促した。それは、明治維新以降の経済発展の原動力となった。
反面、自由な土地所有権制度は、土地市場が機能不全を起こした場合の問題処理や、土地所有権の自由と公共の福祉とを調整するための土地市場に対する規制の発展を抑制した。その結果、日本はさまざまな土地問題に悩まされることになった。すなわち、①地券発行後の小農民の土地喪失と大地主の土地兼併による格差拡大、②小作料値上げをめぐる地主と小作人の紛争、③地代値上げをめぐる地主と借地人の紛争、④土地の濫開発と環境・景観の破壊、⑤原野商法などの詐欺的取引の横行、⑥1960年代の高度経済成長期、1970年代の日本列島改造ブーム期、1980年代後半からのバブル経済期と度重なる地価高騰、そしてバブル経済の崩壊、⑦人口の減少・高齢化と不況に伴う空き地の増加、⑧地方におけるコミュニティの過疎化や崩壊である。これらはいずれも、商品所有権を中核とする土地所有権制度が機能不全を起こした結果にほかならない。
そして、⑨相続などによる土地所有者の変更情報が登記簿に反映されないことなどを主因とする所有者不明土地問題も、土地が商品性を欠き、当事者の自発的登記が期待できないことによるものであり、そこでは自発的登記を促すための啓発や専門家によるサポートなどの制度インフラも未整備であった。これもまた容易に市場にのらない土地に対応する制度の未成熟性の帰結として、前述①〜⑧の土地問題の延長線上にあることがわかる。これらは、市場に委ねることが適切でない土地や、商品性を欠く土地の利用・管理のシステムを十分に装備しないまま急造された日本の土地所有権制度に当初から存在していた弱点である。しかし、今やこれらのシステムも包摂する持続可能な土地所有権制度の構築が求められている。
4 土地所有をめぐる国家と私人の関わり方
土地所有制度は、資本主義と社会主義とを問わず各国の歴史と現状に照らして、私人と政府の適切な役割分担を図ることにより、さまざまな土地を対象とする包括的で持続可能なものとなる。国家の形成は私人の所有の安全を保障することにあり、国家の統治権力の集権化は、所有の安全を脅かす国内のみならず外国のリスクからも、国民の所有権を保護することにあった(前述2(1))。江戸時代に安定した国内統治が完成していたにもかかわらず、明治維新が必要とされた根本理由はここにある。
しかし、日本の土地所有制度はけっして明治維新の前後で断絶したのではなく、それ以前に遡る国家形成の歴史と連続性をもっている。公地公民制(646年)に遡る公地思想は、荘園の形成と封建制の進展の中でなし崩し的に衰退したが、明治維新期に復活した。それもまた私的所有権の拡大の中で稀薄化し、折に触れて復活しては、また後背に退いて曖昧になった。それに見合う国家としての土地管理が行われてこなかったことが最大の原因であろう。その結果、土地に対して国家がもつ権限・責務と私人がもつ権利・義務との関係は依然として曖昧である。
その一例が、所有者不明土地発生の予防策の一つとして要請されている土地所有権の放棄の立法化である。これについては、(A)国家が私人の土地所有権に対しても原有権をもつとすれば、土地所有権の放棄は、あたかも地上権者が土地所有者に対する意思表示によって地上権を放棄して土地所有者に復帰させるように(民法268条1項)、国家に対する意思表示(相手方のある単独行為といわれる)によって可能なはずである。そのことを前提にした法改正が求められる。これに対し、(B)国家は私人の土地所有権に対しては主権の作用としての領土高権とそれに基づく強制収用権をもつにとどまるとすれば、私人が土地所有権を放棄し、土地を無主物にすることができるかどうか、できるとすれば誰に対してどのような形式で意思表示すべきか、その後の土地所有権の帰属(無主の不動産の国庫帰属。民法239条2項)を維持すべきか、改正すべきか、立法が求められる。
この問題について、抽象的・普遍的に正しい答えはない。各国の土地所有制度の歴史と現状に照らして、最も相応しいルールが見出されるべきである。日本の土地所有権制度の変容プロセスを改めて吟味した歴史認識が重要になるゆえんである。
松尾 弘(まつお ひろし)
1962年長野県生まれ。1985年慶應義塾大学法学部卒業。慶應義塾大学大学院法務研究科教授、慶應グローバル法研究所(KEIGLAD[http://keiglad.keio.ac.jp])所長、国際民商事法センター(ICCLC)学術参与。ラオス、ネパールの民法典制定をはじめ、国際協力機構(JICA)、法務省法務総合研究所国際協力部(ICD)が実施するベトナム、カンボジア、ミャンマー、東ティモール、インドネシア等の法整備支援に携わる。著書に『民法の体系(第6版)』(慶應義塾大学出版会、2016年)、『開発法学の基礎理論』(勁草書房、2012年)、『発展するアジアの政治・経済・法』(日本評論社、2016年)ほか。
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