※本稿は、2020年9月10日に開催されたポピュリズム国際歴史比較研究会の第五回会合で報告した内容の一部である。
大串 敦(慶應義塾大学法学部教授)
・はじめに ・ポピュリズムの戦略的アプローチとロシア政治 ・ポピュリズムとクライエンテリズム ・権威主義化の逆波 ・個人支配の問題点:むすびに代えて |
はじめに
ウラジーミル・プーチンの個人支配に体現されるような現在のロシアの政治体制を、ポピュリズムということは可能だろうか。可能だとすればどのような意味でポピュリズムといえるのだろうか。また、その政治体制はどのように形成されてきたのか。その脆弱性はどこにあるのか。本稿では、こうした一連の問いを今後より詳細に考察するための準備として、理論的な諸問題を提出することを目的としている。なお、そうした準備稿である性格を反映して、事実関係に関する注記は最小限にとどめている。
ポピュリズムの戦略的アプローチとロシア政治
近年多用されてきた「ポピュリズム」は、数多くの政治学の概念の中でも、とりわけ多義的である[1]。とはいえ、ロシア政治を考察する目的から、この複雑な概念的考察に立ち入ることなく、ロシア政治をよく説明できそうな定義を採用し、分析道具として用いることは許されるだろう。その観点からすると、ロシアの政治の分析には、ポピュリズムの戦略的アプローチを採用することが適している。戦略的アプローチとは、政治家の戦略としてポピュリズムをとらえるアプローチである。ウェイランドは「個人主義的なリーダーが、大多数のおおよそ組織されていない追随者からの、直接的、非媒介的、非制度的な支持に基づいて、政府の権力を求めたり、行使したりする政治戦略」とまとめている[2]。
この意味では、現在のプーチンの政治スタイルもポピュリスト的といえる要素を多く含んでいる。確かに2000年に大統領に就任してから、プーチンは与党統一ロシアの建設をはじめ、支配の組織化を試みてきた。しかし、2011年の下院選挙での統一ロシアの事実上の敗北とその後の選挙不正に対する抗議デモは、この組織化には限界があることを示した。統一ロシアのような政党や議会などよりもはるかに広範な支持基盤をプーチン体制は作り上げる必要があったといえよう。全ロシア人民戦線の創設もそうした試みの一つであったと考えられる。もっとも、2012年の大統領再選後も支持はなかなか拡大せず、支持拡大の大きなきっかけを与えたのは2014年のウクライナ危機、とりわけクリミア併合であった。これを機にプーチンは組織化された支持を超えて、全人民的な支持を得るに至った。
ポピュリズムとクライエンテリズム
なぜ統一ロシアによって組織化された支持は限界に直面したのだろうか。アジアの比較政治を専門とするケニーは、インドの観察に基づいて、中央エリートと地方エリートの間の恩顧主義的互恵関係が崩壊したときに、中央の政治指導者はポピュリズム戦略に訴える、という興味深い観察をしている[3]。
ロシアでも中央エリートと地方エリートの間の恩顧主義的互恵関係が動揺したとみられる多くの証拠がある。統一ロシア党の建設は、中央エリートと地方エリートの恩顧主義的互恵関係と密接に関係している。ソ連崩壊期から多くの地方エリート、特に連邦構成主体首長(地方知事)は、地方行政府の影響下にある企業などを中心に自己の動員組織(アメリカのマシーン政治との類推で、しばしば政治マシーンと呼ばれる)を作り上げた。その結果、1990年代には封建領主のような自律性を獲得し、中央の政策は空回りする状況が生まれた。2000年に大統領に就任したプーチン大統領は、この中央―地方関係の混乱に終止符を打つために、中央集権化策を打ち出した。その最たるものは2004年12月に導入された地方知事の事実上の任命制であった。一連の中央集権化策によって地方知事は統一ロシア党の下に糾合された。それゆえ、統一ロシアは中央執行権力の指導の下、地方知事が結集した組織である。ここに中央エリートと地方エリートの恩顧主義的互恵関係が生まれる。事実上の地方知事任命制にもかかわらず、プーチンは独自の資源を持つ有力な地方知事を多く再任用し続けた。そうすることで、地方知事の身分を保障し、その代償として選挙の際に統一ロシアとプーチンへの動員を求めた。地方知事はプーチンへの忠誠を示すために、自己の地方の選挙民の動員に血道をあげることになる。
しかし、ドミトリー・メドヴェージェフが大統領に就任した2008年以降、大物地方知事の解任がなされるようになった。こうした政策は地方の反発を招き、選挙の際に、中央の動員力の低下を招いた。地方選挙でも統一ロシアの集票の低下がみられ始め、2011年の議会選挙では、統一ロシアは議席数でかろうじて過半数を維持できたにすぎなくなった。この結果でさえ、不正な結果であるとして、大規模な反政府デモが繰り広げられた。中央と地方の恩顧主義的互恵関係が動揺したのである。こうして、プーチンは統一ロシアに限定されない、広範な社会層に支持を求めるポピュリスト戦略を採用する必要性が生じた[4]。
権威主義化の逆波
このポピュリスト戦略を採用するにあたって大きな機会を与えたのは、先述の通りウクライナ危機とクリミア併合である。対外的な脅威感がポピュリズム戦略に大きな機会を与えたといえる。そこで、権威主義化の国際的側面を考察する必要がある。体制変動の国際的な波及に関しては、従来、欧米などの民主制の国と関係が深い国は民主化しやすいという単純化された関係が想定されてきた[5]。こうした議論に対し、権威主義化の逆波を理論化したのがウェイランドである。ウェイランドは、1970年代のラテンアメリカ諸国における軍事政権成立の波を、キューバ革命の波及に脅威感を覚えた既存エリートの国内秩序維持に起源を求めた[6]。
ここで、キューバ革命を民主化革命と置き換えた場合、ロシアが旧ソ連諸国における「民主化革命」に覚える脅威感がロシア国内政治に与える影響を理解できる[7]。2000年代のいわゆる「色の革命」や2011-12年の「アラブの春」、2011年末から12年にかけてのロシアでの抗議運動、さらに2014年のウクライナ危機に至るまで、プーチンをはじめとする政権エリートは「すべてアメリカの策謀によって生じた」という認識を持つに至った。この認識が真実であるかどうかはここでは問題ではない。政権エリートが、その認識に基づいて行動した点が重要である。例えば、「色の革命」に対抗して、2005年に愛国主義的若者組織の「ナーシ」を組織した[8]。また、2012年には外国から資金を受けて政治活動をしているNGOを「外国のエージェント」として登録する法整備がなされた。その後も抗議活動の規制強化などが行われた。こうして、民主化促進に脅威を覚えた政権エリートが権威主義を強化する傾向がみられた。
民主化促進がロシアでは権威主義化を招いた側面の背景として、ロシアのおかれた安全保障環境の変化も考慮に入れる必要があろう。特に1999年のNATO(北大西洋条約機構)によるコソヴォ空爆はロシアのNATO認識に大きな影響を与え、1999年と2004年のNATOの東方拡大、特に第二次拡大は、ロシアに大きな脅威感を植え付けた。「色の革命」を経験したジョージア(グルジア/サカルトヴェロ)とウクライナがNATO加盟を目標としたことは、西側による民主化促進をロシアに対する安全保障上の脅威としても認識する傾向に拍車をかけた。
一般に、ポピュリストが体制を構築する際、組織されざる多くの人々へのアピールをする必要から、権威主義体制の中でも個人支配体制に近づくが、これらの対外脅威に対抗できる指導者として、プーチンへの支持が高まったことは、彼の個人支配の様相を強めた。ロシア国民がプーチンの功績として最もあげてきた点は、「ロシアを大国として復活させた」ことである。クリミア併合を機に、大国としてのロシアの譲れない一線を示したとして、国民の多くはプーチンを強く支持した。そしてプーチンは組織されざる人々へもアピールし、「全人民の指導者」として立ち現れることとなった[9]。
個人支配の問題点:むすびに代えて
国内における中央エリートと地方エリートの恩顧主義的互恵関係の動揺と、対外的な脅威感の上昇が相まって、ロシアにおいてポピュリスト的な個人支配が成立した。もっとも、この個人支配体制はいくつかの点で問題を抱えている。第一に、プーチンの個人支配の度合いが高まれば、それだけプーチンに代わるものを見出すことが困難になる。2020年に憲法を修正して、2024年以降もプーチンが大統領にとどまることを可能した一つの理由は、内外政ともにプーチンに依存しすぎており、プーチンがいなくなった時にどうなるか、現在の政権エリートにもわからないという不安感があったものと考えられる。
第二に、プーチン個人に多くを依存する体制では、社会・経済のもろもろの問題がプーチン自身の責任に直結することを意味している。2018年の年金制度改革に際しては、政府への責任転嫁をはかったが、プーチンの支持は漸減してきたし、2020年からのコロナ禍でも、地方知事への責任転嫁をはかったが、これも困難であった。こうした不満の蓄積が、2021年のアレクセイ・ナヴァリヌィ逮捕と、ナヴァリヌィ側が暴露したプーチンの「宮殿」建設疑惑に対する抗議活動として噴出したとみることができる。一般にポピュリスト的な支持は維持することが容易ではない。プーチンはこのポピュリスト的な個人支配の問題から逃れることができるだろうか。
[1] 整理の試みとして、板橋拓巳「ポピュリズム研究の動向」(https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=3673)。なお、近年のポピュリズム研究で有力な潮流である理念的アプローチは、プーチンの政治スタイルを理解するうえで問題を抱えている。もっとも大きな問題は、プーチンは自身を人民と一体化するような言説をめったに用いない、という点にある。
[2] Kurt Weyland, “Clarifying a Contested Concept: Populism in the Study of Latin American Politics,” Comparative Politics, Vol. 34, No. 1 (October 2001), pp. 1-22.
[3] Paul D. Kenny, Populism and Patronage: Why Populists Win Elections in India, Asia, and Beyond (Oxford: Oxford University Press, 2017).
[4] 詳しくは、大串敦「重層的マシーン政治からポピュリスト体制への変容か:ロシアにおける権威主義体制の成立と変容」川中豪編『後退する民主主義、強化される権威主義:最良の政治制度とは何か』ミネルヴァ書房、2018年、159-188頁: 大串敦「全人民の指導者:プーチン政権下のロシア選挙権威主義」『国際問題』2018年11月号(676巻)、5-14頁。
[5] Steven Levitsky and Lucan A. Way, Competitive Authoritarianism: Hybrid Regimes After the Cold War (New York: Cambridge University Press, 2010); Valerie J. Bunce and Sharon L. Wolchik, Defeating Authoritarian Leaders in Postcommunist Countries (New York: Cambridge University Press, 2012).
[6] Kurt Weyland, “Patterns of Diffusion: Comparing Democratic and Autocratic Waves,” Global Policy, Vol. 7, No. 4 (November 2016), pp. 557-562.
[7] アメリカの民主化促進をはじめとした対外的脅威感がロシアの権威主義化を促したと主張する論文として、Keith Darden, “Russian Revanche: External Threats & Regime Reactions,“ Daedalus, Vol. 146, No. 2 (Spring 2017), pp. 128-141.
[8] 西山美久『ロシアの愛国主義:プーチンが進める国民統合』法政大学出版局、2018年。
[9] 大串、前掲、2018年。