後藤直久
日本経済新聞編集局マネー報道部シニア・エディター
1.はじめに
土地の所有者がわからなくなる「所有者不明土地問題」が社会の大きな関心事になっている。
そもそも土地の持ち主がわからなくなるという事態はどういうことなのか。それは現象面から見ると、不動産登記簿に記載された所有者と現在の潜在的な所有者にズレが生じている事態を指す。潜在的な所有者とは、主に登記簿上の所有者の相続人である。その土地を購入したり、贈与を受け入れたりした場合であれば、購入者や受贈者は土地に何らかの価値を認めているはずだから、第三者に所有権を主張する不動産登記をしないわけがないからだ。
それでは相続人はなぜ、その土地の所有者名義の変更、つまり相続登記をしないのか。原因は大きく2つ考えられる。まず、相続人が遺産分割協議で揉めて、その土地の持ち主が決まらない場合。2つ目はその土地に価値が認められないため、相続人が相続登記を放置する場合である。
前者はその土地に価値を認めているからこそ、紛争になる。紛争それ自体は深刻だが、時間と相続人の努力が解決すると言えなくはない。土地の所有者不明状態もいずれは解消されるはずである。ところが、後者は時間が解決するどころか、時間の経過とともに問題の糸はより複雑に絡まっていく。相続が重なるにつれて、相続人の数が増えて、所有者を確定するための全員の合意が事実上不可能になったり、相続人がその土地と遠く離れているところに住んでいたりして、一段と土地に価値を認めなくなっていたりするからだ。
2.土地に価値を認める政策とは何か――昭和時代のそれがもたらしたもの
こう考えると、所有者不明土地問題を解決するには、政府が打ち出している相続登記の義務化や土地の所有権放棄の仕組み作りも重要だが、それは見方によっては対症療法の域を出ていないとも言える。遠回りのようだが、国民が土地、つまり国土に価値を認めるような根本的な政策を打ち出す必要があるだろう。
では、「土地に価値を認めるような政策」とは何か。筆者は土地政策や国土政策が専門ではないから、具体的な提言は能力の範囲を超える。だが、まず言えるのは土地の「交換価値」でなく「利用価値」を高めるような政策でないといけないのではないかということだ。
土地の利用価値を高める政策を考える上では戦後の昭和の時代の政策を振り返ってみる必要があるだろう。
戦後の昭和時代、つまり1940年代後半から1980年代末までの半世紀弱は人口がピークに向かって増える中で、敗戦のどん底からの経済復興、具体的には工業などの産業立地や住宅の確保が優先された時代だった。その集大成の一つが、戦後の昭和時代のちょうど中間地点で華々しく打ち出された田中角栄内閣の「日本列島改造論」であった。産業立地と住宅の確保を両立させようとした野心的な取り組みだったと言える。1974(昭和49)年の参議院議員選挙で田中角栄首相は全国をヘリコプターで飛び回り、こう演説した。「日本にはまだまだたくさんの土地がありますよ。これを新幹線で結べば、高速道路で結べば、どうってことはないじゃないですか」。独特のダミ声でまくし立てていた田中氏の政策には、「国土の均衡ある発展」と言う理念があったのは間違いない。土地の利用価値を高めていくことで戦後のいろいろな問題の解決を目指したとも言える。
だが事態は必ずしも良い方向に動かなかった。土地の交換価値の側面が頭をもたげてきて地価の異常な上昇を生んだからである。それは日本列島改造論で一つの頂点に達した。国土開発が進むにつれて地価は上昇というより狂乱状態となり、土地成金が続出した。土地はもはや産業や住まいの拠点でなく、交換価値の究極の姿である投機の対象と化した。1973(昭和48)年の石油危機前は、「登記の依頼がひっきりなしだった」とベテラン司法書士が振り返るほどだった。今も所有者不明土地の原因の一つになっている原野を売りつける「原野商法」が問題になったのもこの頃だ。
土地の狂乱状態は石油危機をきっかけとした高度経済成長の終焉でいったんは収束に向かった。しかし火種は残った。「地価は上がることはあっても下がらない」。こうした土地神話は生き残った。土地の交換価値の側面が再び頭をもたげてきたのが1980年代後半の昭和末期である。日本列島改造論のような強烈な政策の後押しはなかったが、ビルの容積率の緩和など土地の利用価値を高めるいろいろな政策がパッケージ化されて打ち出されたことがきっかけとなった。
筆者は1983(昭和58)年に今の仕事についたので、1980年代後半の土地の狂乱状態はつぶさに目撃した。筆者の専門は税務や相続の問題だが、そうなったのも、この時代に東京、大阪、名古屋など三大都市圏中心に全国的に地価が上昇し、相続税の課税対象となる人が急増、その取材に奔走したからである。
日本列島改造論が打ち出されていた頃、そして昭和末期のバブル経済の頃に、土地の相続を見送るような例は、相続人同士が揉めている場合以外はまず見たことがなかった。今振り返ると、バブル経済の頃から所有者不明化は少しずつ始まっていたのかも知れないが、当時は話題にすらなっていなかった。
3.少子高齢社会に求められる土地政策――土地神話を超えて
それにしても政府は戦後の昭和時代を通じて土地の利用価値を高めるような政策を打ち出してきたのに、結果的には土地の交換価値の側面をより強烈に呼び覚ましてしまった。なぜだろう。考えられるのは、先に触れた土地神話だ。「地価は上がることはあっても下がらない」。こうした一種の「信念」のようなものが必ず顔をのぞかせた。
だが、仮にそうだとすると、皮肉な見方もできる。筆者は所有者不明土地問題を解決するには、土地の「交換価値」でなく「利用価値」を高めるような政策でないといけないのではないかと指摘した。土地神話が日本人の心の奥底にあるとすれば、利用価値を高める政策を強力に推進すれば、やがて土地の交換価値の側面がクローズアップされ、多くの人がまた土地を持ちたがるので、所有者不明状態は氷解していくのではないか――。
だが、そうはならないだろう。確かに今、都心の一部では地価がバブル期を上回るところも見られ、このままの状態が続けば、それがさらに地方へと広がる可能性は否定できない。ただ、戦後の昭和時代と今とでは、社会条件が180度に近いくらい異なってきている。少子高齢化が急速に進む中で、人口は2008(平成20)年に達した1億2,800万人のピークから減少に転じ、今世紀いっぱいかけて8,000万人台になるとの試算もある。産業立地上の調整が必要な工業の中心は日本を離れ、住宅は空き家が増え続けるなど供給過剰になっている。こうした中で土地だけが価値を保ち続けると考えるのは難しい。このため、「利用価値」を高めるような政策を推進しても、土地の「交換価値」はせいぜい循環的に変動するだけで、どちらかというと全体に交換価値が低下する方向に動く可能性が大きい。
土地の所有権の考え方も大きく変わる可能性がある。所有権とは一般にその物を「使用、収益、処分する排他的な権利」とされる。土地の場合はそれで生活したり、事業を営んだりするのが使用や収益の側面で、売却するのが処分の主な側面である。土地の交換価値につながるのは後者の処分の側面であるが、土地の場合、特に戦後の昭和時代は「処分できる」という側面が強調され過ぎていた。
では土地所有権は使用、収益の面が中心になってくるのだろうか。そう単純でもないだろう。使用、収益の面から見ても土地の価値への疑問が膨らんできているからだ。人間は基本的に土地の上でしか暮らしていけない以上、使用、収益の側面から土地が全く価値を喪失することは有り得ない。だが、使用、収益のビジョンが明確に示されないと、土地の所有権そのものが空洞化する。その結果が土地所有権の大量放棄につながりかねない。
利用価値を高めるような政策とはどのようなものになるのであろうか。この点については専門家に考えてもらうしかないとの見方もあるが、専門家任せでなく、土地を利用して、どのような暮らしをしたいのかを国民一人ひとりが真剣に考える必要があるだろう。
冒頭に述べたように、所有者不明土地問題は、現象面では土地の交換価値ばかりか利用価値まで低下する中で、土地を取得する大きな原因の一つである相続を機に所有者名義の変更が停滞する問題である。それゆえ、現在は相続人の任意となっている相続登記を法律上の義務にしたり、やむを得ない場面では相続放棄にとどまらず、所有権そのものを放棄したりする道筋を考えるのは必要なことである。だが、そうした対応策自体、果たして問題解決に役立つか疑問が残るし、制度設計は容易でない。ここは根本に立ち返って、土地と人間の関係から見つめ直すことが重要であろう。
後藤直久(ごとう なおひさ)
日本経済新聞編集局マネー報道部シニア・エディター。1960(昭和35)年生まれ。1983(昭和58)年3月、早稲田大学政治経済学部卒業。同年4月、日本経済新聞社に入社。編集局証券部記者、日経ホーム出版社(現日経BP社)「日経マネー」副編集長、日経映像主席プロデューサー(日経CNBC担当)、編集局生活情報部編集委員、編集局経済解説部編集委員、編集局マネー報道部M&I(マネー&インベストメント)編集長などを経て現職。税務問題には入社以来一貫して取り組む。他に相続や成年後見問題なども取材。著書に、『 Q&A 日経記者に聞く 相続のすべて 』(2016年)、『 Q&A 日経記者に聞く 安心老後、危ない老後 』(2017年)(ともに日本経済新聞出版社)。
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