第3回:メディアと政治と民主主義
国民に寄り添うメディアの失敗
細谷 五百旗頭さんには、戦前と戦後を大胆に比較することで、現在を考えるうえで役に立つところが見出せるとして、基本条約と憲法の観点から150年を振り返っていただきました。
つづいて、小宮さんお願いします。
小宮 私はメディアと政治の関わりから150年の歴史を振り返ります。
明治政府の基本方針ともいうべき五箇条の御誓文(1868[慶応4]年)の冒頭に掲げられた「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という条文は、その後、政府の思惑を超え、国会開設を求める自由民権運動の根拠となりました。自由党、改進党は国会という公論空間の開設を目指し、これに共鳴する新聞メディア、とりわけ「郵便報知新聞」や「横浜毎日新聞」などの改進党系メディアは自由民権運動を支援しました。
伊藤博文が中心となって制定された明治憲法では、議会での立法権が保障され、政党内閣の規定はなかったものの、否定はされていませんでした。そのため、自由党や改進党、メディアは、「専制政府」がつくったにもかかわらず、予想以上に良い憲法ができたと及第点をつけました。内容面で不満はあるものの、憲法ができ、国会が開設されたということは、政党やメディアにとっては悲願が叶ったことにほかならなかったのです。
国会が開設されると、新聞メディアは自由党、改進党といった民党勢力を院外から支援する役割を果たしていきます。政治的民主化の担い手であったメディアは、対外強硬論を拡散させる存在でもありました。国民という「弱者」に寄り添うメディアは、対外戦争の勝利にともなう対価が十分に獲得できない場合、日本の国力や国際情勢を鑑み、現実的な政策をとらざるをえない政府を「国民の敵」として糾弾しました。日清戦争後の三国干渉受諾(1895年)に対する批判や日露戦争後、ロシアから賠償金を獲得できなかったポーツマス講和条約(1905年)に対する批判などがその代表例です。それゆえ、立憲政治を発展させ、政党政治への道を切り開いていった伊藤博文、原敬(1856~1921年)、西園寺公望(1849~1940年)らは、対外強硬的な世論をつくり出す存在としてメディアに対し厳しい目を向けつづけたのです。
しかし、第一次世界大戦(1914~18年)後、メディアは男子普通選挙と二大政党による政党内閣制の実現を掲げ、これを世論とすることに成功します。1920年代後半に両者が実現したのは、大隈重信(1838~1922年)系政党の系譜をひく憲政会ら政党の尽力のみに帰することはできません。メディアの議題設定とメディアがその実現に向けて報道で後押ししたことが大きかったのです。
1920年代後半に男子普通選挙と二大政党による政党内閣制が実現したことは、明治以来のメディアの悲願の達成でした。それゆえ、それらが実現すると、国民の関心を引き付け、牽引する新たな国家的課題を見出すことができませんでした。日本では、大衆社会を迎えつつあるなかで、政党内閣制が実現します。そのため、政党は野党時に金銭問題等のスキャンダルや「軟弱外交」批判というわかりやすい争点で政府・与党を攻撃する傾向にありました。メディアは、こうした傾向を抑制するどころか、拍車をかけるような報道をしてしまいます。
そして、昭和恐慌と中国の排日ナショナリズムが激化するなか、1931年9月、満洲事変が起こります。国民に拠って立つメディアは、世論は満洲事変を支持していると見なし、満州事変を擁護する報道を展開し、「不拡大方針」の第二次若槻礼次郎内閣(1931年4~12月)を追い詰めます。
戦前期日本の民主化の担い手であったメディアは、国民に寄り添う姿勢が強すぎたがために、国民のナショナリズムを健全化することに成功しなかった。その結果が満洲事変以降の対外強硬の噴出であり、それは政府や政治の主導権を握るようになっていく軍部の外交を拘束する要因ともなったのです。
ポピュリズムの功罪
細谷 そうした戦前のパターンは戦後、どう現れますか。
小宮 第二次世界大戦(1939~45年)後、「敗戦国」日本はアメリカを中心とする連合国の占領下で再出発します。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の認識では、政党やメディアの戦争責任は免れることはできませんでした。政党人のみならず、言論人も公職追放の憂き目を見たものが多数いたことがこれを物語っています。
世論の指導者たらんとするメディアは、戦後民主主義の担い手のみならず、その守護者たらんとします。それゆえ、憲法改正による再軍備を目指す「逆コース」路線や岸信介らによる日米安保条約改定に厳しい目を向けました。1960年の安保騒擾の後、池田勇人内閣(1960年7月~64年11月)以降、自民党政権は憲法改正を争点化せず、次第に封印していきます。
明治憲法下、憲法の柔軟な運用によって立憲政治が発達し、ついには政党内閣が実現したことを評価したように、メディアは、憲法の柔軟な解釈によって自衛隊と日米安保条約を合憲とする解釈を評価し、支持します。
戦後、メディアの対外論は抑制的な議論が主流となり、国民もそれをよしとしました。その結果、冷戦終結後まで国連平和維持活動(PKO)をはじめとする平和構築のための人的貢献に対する国民の理解を遅らせることとなったのは否めないと思います。
一方で、日本国憲法下では、民主主義、平和主義といった憲法の規範が国民に受容されました。これには、メディアによる啓蒙が学校教育とともに大きな役割を果たしていると思われます。戦後民主主義の定着に果たしたメディアの役割は、政党の果たした役割よりもむしろ大きいかもしれません。
メディアの果たした政治的役割が最も大きかったのは、1990年代前半の政治改革とこれに連動して非自民連立政権が誕生した頃だと思います。非自民連立の細川護煕内閣(1993年8月~94年4月)のもとでその後の日本政治を変容させる規定要因となる政治改革が成し遂げられたのは、メディアの後押しがあってのことです。
戦後、メディアの対外論は抑制的な議論が主流でした。しかし、冷戦終結後、経済的貢献は当然のことながら、人的貢献が国際社会から強く求められ、日本はそれを拒めなくなります。
近年、先進国ではポピュリズムが台頭し、既成政党とともにメディアに対して厳しい批判を浴びせています。ポピュリズムには民主主義を補完する役割があるという議論もありますが、私はこうした議論には懐疑的です。「排除」の論理を特質とするポピュリズムの台頭は、多様性を認める寛容な自由社会を足元から揺るがしかねないものだからです。
国民に寄り添うメディアが昭和戦前期の失敗を繰り返すことなく、民主主義の担い手としてその責を果たすことがいまこそ求められているのだと思います。
★続きはこちらから⇒ 第4回: 「明治150年」のなかの「平成30年」