評者:小谷賢(防衛省防衛研究所教官)
本書評は、インテリジェンスの良書について紹介していくものである。日本ではインテリジェンス分野に対する馴染みが薄いため、多くの読者にとってスパイ小説と学術的なインテリジェンスの著作を区別するのが困難かもしれない。このコーナーでは、インテリジェンスの初学者用で、読みやすいものをチョイスしながら紹介していく。
Sherman Kent, Strategic Intelligence for American World Policy (Princeton UP 1951)
「インテリジェンスは知識である(Intelligence means knowledge)」の書き出しで始まるシャーマン・ケントのStrategic Intelligence for American World Policy は、執筆から半世紀以上経た今もなお示唆に富むインテリジェンスのテキストである。ケントがこのテキストを執筆した目的は、アメリカが冷戦を戦い抜くための智慧を得ること、更に言えば、インテリジェンスによってアメリカが直面する災禍を未然に防ぎ、効果的な外交、安全保障政策を遂行することにあった。
1941年、イェール大学歴史学部准教授であったケントは、政府に請われて情報部の分析に携わることとなった。真珠湾攻撃を事前に予測できなかったことに衝撃を受けたケントは、情報分析によって将来の出来事を予測することに情熱を注いだ。ちなみに戦争中、アメリカの情報分析を担ったOSS(戦略事務局)には多数の民間研究者が雇われており、歴史学者に限定しても、外交史家のジェームズ・バクスターやウィリアム・ランガー、エドワード・アールなど米東部の著名な学者たちが政府のために働いていたのである。
ところで冷戦が始まるまでアメリカの情報機関は戦争のための組織であり、平時には必要ないと考えられていた。しかしケントはソ連との冷戦を戦い抜く上で、平時にもインテリジェンスが不可欠であることを強調し、そのためのテキストとして同書を上梓したのである。ちょうど1947年にNSC(国家安全保障会議)、並びにCIA(中央情報局)が設置され、対ソ戦略とインテリジェンスの重要性が声高に叫ばれていた時代であり、ケントの著作はそのような要望に応えたものであった。
ケントはそれまで漠然とした概念であったインテリジェンスを「知識」、「組織」、「活動」に明確に分類し、それぞれについて議論している。ちなみに当時のアメリカでは「インテリジェンス」という言葉は主に「知性」を意味しており、「情報」の意味で用いられることは少なかった。そのため「インテリジェンス」という言葉が、「(国家の生存のための)知識」と関連付けられているのである。知識としてのインテリジェンスとは、相手の奇襲や陰謀を未然に防ぐために未来を予測するものと、戦略や外交に寄与できるようなものに区別される。ケントは当時、ソ連を仮想敵国として想定していたため、相手国の意図と能力を読み解くような分析能力が必要であることを説いているのである。
そしてそのような「知識」を生み出すためには、インテリジェンスを生産する「組織」と「(情報収集・分析)活動」が不可欠となってくる。逆に言えば、この3要素が国家の「インテリジェンス」として備わっていれば、相手の企図を事前に読み取り、効果的な外交戦略を期待できるということなのである。従って冷戦期のアメリカの核抑止戦略も、インテリジェンスを欠いては機能しなかったかもしれない。
このようにケントは冷戦下では、インテリジェンスこそが自国の生存にとって不可欠であるとの信念から同書を執筆したわけであるが、実際の冷戦史を紐解けば、CIAを始めとするアメリカのインテリジェンス・コミュニティーは必ずしもケントの予測したようには行動できなかった。そこには組織間政治や謀略、工作などにのめり込み、その結果、朝鮮戦争などの予測に失敗する情報機関の姿が見え隠れするのである。
ただしケントの功績により、アメリカが平時のインテリジェンスを重視するようになったのは確かである。また現在のような非対称戦争の時代においても、自国がテロの攻撃に晒される可能性は十分残っており、洗練された知識によって敵の奇襲を未然に防ごうとしたケントの思想は、現代の我々にとっても学ぶ所が大きい。ケントの著作を紐解けば、冷戦初期のアメリカが対外脅威に対していかにナーバスであったのかを理解することができよう。
Mark Lowenthal, Intelligence: From Secret to Policy, Third Edition (Washington D.C.: CQ Press 2006)
数多くのインテリジェンスの著作の中で、ケントの著作は既に古典といえる。従って現代的な視点からインテリジェンスを学ぼうとするものは、Mark Lowenthal, Intelligence: From Secret to Policy, Third Edition (Washington D.C.: CQ Press 2006) を紐解くことになるだろう。著者のローエンソルは、アメリカのインテリジェンス・コミュニティーに27年間勤務した実績を持つ実務家である。著作の主張は首尾一貫しており、それは副題にもある通り、「秘密から政策へ」、すなわちインテリジェンスを政策に反映することを主眼に置いている。そのためローエンソルは、それ以外の秘密工作などについては「違法で無駄である」と断じているのである。
ローエンソルはケントの分類に基づき、インテリジェンスを、①データなどの生情報から情報(インテリジェンス)を生み出すプロセス、②そうして生産され、政策に寄与できるような情報、③情報収集、分析などを一手に引き受ける組織、であると定義している。そして国家にとってのインテリジェンスの必要性を、①(真珠湾攻撃や9・11のような)戦略的奇襲を予防すること、②長期的な専門家、専門知識の供給、③政策決定の指針、④情報の秘匿化、のためであるとしている。
ローエンソルの議論が説得的なのは、自らの経験を活かし、それぞれの過程についてケース・スタディーズを通じて検証していることである。例えば情報収集においては、1998年5月のインドによる核実験を事前に察知できなかったことは、インドにおける情報収集の困難さがあったことなどを挙げており、衛星からの画像も万能ではなかったことを吐露している。さらに最近の事象として、9・11同時多発テロはインテリジェンス・コミュニティー内の情報共有が不十分であったこと、また2003年のイラクの大量破壊兵器開発に関わる問題は、情報組織がイラクの能力を過大評価しすぎたことなどを原因として挙げているのである。
また情報分析者の必要な才能として、「独創的である」、「良い文章を書ける」などといった要素を取り上げているのも面白い。これは学者の素養にも近いと思われるが、情報分析者と国際情勢研究者の違いは、常に結果が求められることである。国際情勢の分析には、時として近い未来を予測することが求められるが、そのような予測は複雑多岐にわたる。それは例えば「北朝鮮の核開発についての予測」、「米国大統領選挙の予測とその影響」など、明確な回答を提示できるものではなく、情報分析者は回答が複数あるといった情勢判断に常に直面しているのである。そして分析者にできることはせいぜい将来のリスクを減じさせるような予測であるが、ローエンソルによれば、少なくとも真珠湾や9・11のように、ある程度のデータが収集されていながら予測に失敗する、といった状況だけは回避しなければならないのである。
ローエンソルの考察は、政策サイドにも及んでいる。その指摘によると、「政策決定者はインテリジェンスの過程すべてにおいて指導的役割を果たすことができる」というものであり、これは著者の実務家としての経験から導き出された金言であろう。古今東西のインテリジェンスで常に課題となるのが情報と政策の関係であり、ローエンソルによるとこの問題を解決するには、政策サイドと情報サイドがお互いの意思を確認し、協業することが必要であると説いている。政策サイドが情報要求を発するためには政策決定者も常に国益に対して正面から向き合い、どのような情報が必要なのかを検討し続けなければならない。そしてインテリジェンスがそのような政策サイドの検討に寄与する情報を提供できなければ、国家の両輪としての政策と情報は機能しなくなるのである。
有能な政策決定者ほど最後まで政策の選択の幅を残しておこうとしがちであるが、インテリジェンスはそのような選択の幅を狭めてしまうことが多い。ここに政策サイドと情報サイド間の軋轢が生じるのである。またインテリジェンスも万能ではなく、当然限界がある。政策決定者はこれらの点に留意しながらインテリジェンスを利用していかなくてはならないのである。例えば、1987年のINF全廃条約締結の際、アメリカの3つの情報機関がソ連の保有するミサイル数についてばらばらの見解を提出することになった。そしてそれぞれの情報機関の代表が話し合った結果、3つの数字を大統領に提出した上で、判断を大統領に任せることにしたのである。その際、情報機関の代表者は大統領に対して、「情報機関は常に確実なインテリジェンスを提供できるとは限りません」と語ったそうである。
日本においてローエンソルの著作が広く読まれているというわけではない。それはこの著作が実務のインテリジェンス・オフィサー向きであると見られているからであろう。しかしこの著作は、単なるインテリジェンスのテキストではない。既述したように、ローエンソルのテーマは政策と情報の関係である。従ってローエンソルの著作を一読すれば、アメリカの対外政策決定が政策と情報との不可分の関係から生じていることを理解できるため、どちらかの視点を欠いた政策決定論は無意味ですら思えてくる。これは特に政策決定過程における情報の役割を軽視する我々にとっては示唆に富んでおり、アメリカの政策決定過程を知る上でも必読の書であると言えよう。
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