評者:松田康博(防衛省防衛研究所主任研究官)
1.はじめに
本書は、著者である牛軍・北京大学国際関係学院教授がいう「冷戦前期」、すなわち毛沢東が中国の最高指導者であった1950-1976年の時期における中国外交の政策決定過程を分析した研究書である。著者は、もともと中国共産党史出身の中国対外関係史専門家であり、中国国内の一次資料に通じている。本書は著者が新潟大学法学部で集中講義を行った時の講義内容をもとに、訳者である真水康樹・新潟大学法学部教授が編集・翻訳の後刊行した書物である。したがって、中国で刊行された中国語の原本は存在しない。ただし、第3章の後半部分と第5章は、発表された単独の論文を日本語に翻訳し、収録したものである。
著者が「はじめに」で述べているように、「本書は、まぎれもなく筆者と真水教授の共同作業」であり、本書を作り上げる作業として、内容の不正確・不明瞭な点をめぐって北京および上海で3回意見交換を行い、数え切れないほどのメールとファクスを交換したという。また章によっては原注よりも訳注の方が多い。したがって、本書は「中国を代表する研究」であると同時に、「著者と訳者の共同研究」の成果であるととらえた方がよいのかもしれない。
訳者は、「解題」において、中国における冷戦史研究および政策決定研究の現状をわかりやすく整理しており、巻末の参考文献目録と併せ、現代中国外交史研究の格好の手引きになっている。また「訳者あとがき」において、訳者は本書において初めて明らかにされたと思われる事実に関しても整理を加えている上、「中国語資料一覧」にも解題を附しており、読書指南としても秀逸である。
本書のカバーする内容は多岐にわたり、評者が必ずしもそれら全てに精通している訳ではないが、本稿であえて紹介を試みたいと思う。本書の目次は以下の通りである。
目次
はじめに
解題
第1章 中国の外交政策決定
第2章 向ソ一辺倒政策の形成と影響
第3章 朝鮮戦争と抗米援朝
第4章 ヴェトナム独立戦争の政策決定:援越抗仏
第5章 中印国境紛争
第6章 中ソ同盟の形成と衰退
第7章 ヴェトナム戦争の政策決定:援越抗米
第8章 中ソ国境紛争と米中接近
訳者あとがき・参考文献・著者の冷戦関連業績一覧・本文で言及された文献(中国語・英語)・中国語資料一覧
2.冷戦期中国外交政策研究のヒント
著者は、中国における「冷戦前期」の具体的な対外政策決定のケース・スタディに入る前に、当時の中国の政策決定要因に関する分析を行っている。しかし、残念ながらそれは訳者も批判しているように、あまり体系的ではなく、操作性が低い。しかし、いくつかの点で、中国の外交政策を研究する上の良質なヒントをいくつか見出すことができる。
第1点は、中国共産党(以下、共産党)政権の本質に関わるが、中華人民共和国が革命政権であることの重要性である。共産党が暴力を否定せず、必要なら実力を用いることに躊躇しない政権であることが、その外交思想に強い影響を与えたと著者は指摘している。しかも「革命家は相手が強いほど闘志を燃やす」という。確かに、建国後の中国の対外関係には、外交関係の樹立や経済貿易関係・人的往来の増大のみならず、武力行使を伴ったケースが少なくない。中国人研究者が、こうした点を正面から指摘することは、それほど多くない。
第2点は、外交担当部門の組織的特質に関わるが、中国外交部が前政権の中華民国外交部の人員を一人も受け容れなかったことにより、ほぼ完全に共産党の外事部門がそのまま外交部に看板を掛け替えたことである。中華民国の外交官の多くは台湾に渡ってしまった。このため、中華民国と中華人民共和国の外交には人的資源の面で極端な断絶があり、革命時期における共産党の外交と建国後の外交にかなりの連続性が見られるという。つまり、本書では冷戦前期中国の外交に革命的・闘争的な特徴が見られるのは必然的であることが指摘されている。
第3点は、外交政策への国内政治の影響、特に毛沢東がどのような国内路線をとっているかが甚大な影響を与えていることである。著者は、中国外交を「外からの力に対する反応である」と解釈する立場をとらない国内政治重視論者である。中国外交は、国内政治のそれぞれの時期における政治的方向性に強く制約されたと見るべきだという。このことは、特に反右派闘争以降、政権内外で毛沢東に反対する有力者が不在になってしまったことが大きく関係しており、多くの政策が毛の「鶴の一声」で決定された。
第4点は、中国外交を解釈する3つの視座を紹介していることである。それは、1.中国の伝統から中国の行動を説明しようとする「伝統主義学派=歴史学派」、2.毛沢東のイデオロギーから説明しようとする「毛沢東思想学派=共産党イデオロギー学派」、3.中国が他国と同じように国益を追求していると説明しようとする「現実主義学派」であるという。著者は多くの専門家が、基本的にこうした3つの見方を使って中国外交を観察し、解釈していると指摘している。
3.向ソ一辺倒政策と朝鮮戦争との関わり
次に、本書で著者が指摘した具体的な「新事実」または「新説」について、検討を進めてみたい。本書が明らかにしたとされる「新事実」のうちの約半分が、向ソ一辺倒政策から朝鮮戦争までの記述に集中しており、本書の紙幅の半分近くが費やされている。以下、いくつかの点に整理し直し、その主要部分を紹介してみたい。
1つ目の点は、向ソ一辺倒政策の形成過程をあきらかにしたことである。1949年6月21-27日の劉少奇代表団秘密訪ソの時点で、すでに「向ソ一辺倒」の流れはできあがっていた。以前、劉少奇代表団の訪ソ時期には毛沢東が論文「人民民主主義独裁を論ず」(「向ソ一辺倒」政策の発表)を発表した7月1日の前と後という異なる説があり、事実認定の点で混乱が生じていたのである。
本書では、劉少奇がスターリンとの会談で中国の政治体制、外交政策、中ソ関係の大枠が話し合われており、劉少奇の報告をもとに「向ソ一辺倒」政策が決定され、毛沢東論文が発表されたことが明らかにされている。また、革命家集団である共産党が、バランスを重視するよりも、むしろ「一辺倒」のような「偏りのある決定」に慣れていたという指摘もまた興味深い。著者は、ほぼ同時期に進められていた米中秘密交渉は、中ソ関係の緊密化という観点から見て、成功の見込みがなかったものである、すなわち米中間には「失われた機会」などなかったという立場に立っている。
2つ目の点は、中国と朝鮮戦争に関わる政策決定過程である。第1点は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の南侵に関して、中国がどれだけ関わったのかである。著者は、スターリンが中国の朝鮮半島での役割に対してあらかじめ「釘を刺した」という。つまり、毛沢東はスターリンの圧力のため、北の南侵に反対できなかったというのである。このことは、スターリンがアジアに対してあまり関心をもたず、むしろ朝鮮半島やヴェトナムにおいて中国との間で「パワーシェアリング」をするよう決めたという説(下斗米伸夫)と矛盾する。毛沢東が、必ずしもソ連のいいなりではなく、独自路線で台頭し、政権を掌握したことを考慮に入れると、著者が強調するように、絶大な「スターリンの重圧」によって中国外交の選択肢が制限されたとの見解には、一定の説得力があるが、具体的にどのような政策決定に対してどれだけの影響があったのかについては、まだ再考の余地があるのではないだろうか。
3つ目は、毛沢東が朝鮮戦争参戦に当たって考慮した最大の要因が、「国家としての威信」であったということである。建国間もなく、台湾やチベットの「解放」もすんでいない状態で、世界最強の米軍と戦争状態に入る決断は、中国の指導者にとって極めて重いものであった。ところが、中国は国連軍が38度線を越えて北上することに対して強い警告を発していたが、米国はそれを無視したという。もしもこの状態を放置すれば、今後米国は中国の外交的警告をすべて無視することになってしまう。実際、ヴェトナム戦争の際、米国は中国が警告した17線を越えた地上軍の北上を自制せざるを得なくなった。また、台湾独立に際して、中国が全てをなげうって武力行使に踏み切るかもしれないことも、中国の朝鮮戦争参戦から類推されるのである。つまり、朝鮮戦争参戦は、中国の発する「警告」の信憑性を高め、大国としての地位を確立する作用をもたらしたという解釈であり、説得力があると言わざるを得ない。
4つ目は、中国が参戦を迷っていた時、スターリンが「金日成亡命受け入れ要請」を出したことが、中国の参戦を後押ししたという点である。国連軍の仁川上陸から38度線突破の過程で、北朝鮮軍は壊滅的打撃を受け、北朝鮮という国家の存続は困難になった。ところが中国は、金日成亡命受け入れによって、東北地方の朝鮮族地域が不安定化することをおそれ、同時に対米関係悪化が長期化することを懸念したという。中国では、一般に北朝鮮の指導者に関する記述に細心の注意が払われる。金日成をいわば「お荷物扱い」した記述をすることができるのも、日本で出版された本書の特徴なのかもしれない。
最後の点は、中国軍が38度線を越えて南進した原因もまた毛沢東の判断にあったことである。著者は、中国にはもともと38度線を越える意図がなく、あたかも国連軍の38度線北上と同じく場当たり的であったという。鍵を握ったのは毛沢東の判断であり、毛は停戦交渉を有利に運ぶために、あえて38度線を越えて南進したのだという。ロシア研究者である下斗米は、朝鮮戦争が長引いた理由を主としてスターリンの積極性に求める説に立っているが、毛沢東が意思を通して中国の朝鮮戦争参戦の決定を主導したことを合わせて考えると、当時中国の最高指導者が毛沢東でなかったならば、北朝鮮は1950年代初頭に消滅し、東北地方に亡命政権が樹立されていたかもしれないし、あるいはそうでなくとも短期間で停戦状態にこぎ着けていたかもしれない。
4.ヴェトナムとの関わりと中ソ対立
次に多く描かれている中国のヴェトナムとの関係であるが、中越関係は、中朝関係よりも複雑である。それはヴェトナム労働党とソ連共産党の間の関係よりも、その中国共産党との関係の方が深かったことと、ソ連がヴェトナム問題の処理を中国にある程度ゆだねた事とによる。さらに、著者がカリスマ的指導者として高く評価するホー・チ・ミンと毛沢東および周恩来は、中国でともに活動した経験を共有し、深い個人的交友関係にあった。こうした深い、緊密な関係のため、中国は危険を顧みずヴェトナムを支援したのであるが、その結果、逆説的ながら中越関係は悪化の一途をたどるのである。
本書が中越関係で強調する第1の焦点は、中国がホー・チ・ミン政権成立に果たした役割の決定的な重要性である。蒋介石指導下の中華民国国軍がヴェトナムから撤退した後、権力の空白を埋めたのはホー・チ・ミンと戻ってきたフランスである。フランスはホー・チ・ミンの軍隊を蹴散らし、中越国境の小さな地域に追い込んだ。中国はこれに対して、フランスとの外交関係樹立を暫時あきらめてでも、直接戦闘を除いた全面的支援を与えることを決定し、ホー・チ・ミン政権を承認した。スターリンも、毛沢東の説得を受け容れて、ホー・チ・ミン政権を承認したのである。
ヴェトナム独立戦争に対する中国の貢献は絶大であったものの、中国はジュネーブ会議による休戦を調停し、実効支配線よりも北である17度線を停戦ラインとすることを北ヴェトナムに説得したのもまた中国であった。このことは、全国統一に向けて「まだやれる」と判断していた北ヴェトナムと中国との間で少なからぬ軋轢を生んだのである。このように、中国側がヴェトナムに破格の支援を与えたにもかかわらず、結局はヴェトナムの不満を生んでしまうというパターンは、後年のヴェトナム戦争における対ヴェトナム支援(「援越抗米」)の際にも踏襲された。
ヴェトナム戦争における中国の対越支援は、直接戦闘を除く全てというほど大規模かつ重大であり、米軍の地上部隊が17度線を北上した場合は、地上部隊を投入するという秘密合意さえあった。著者は、この「援越抗米」の過程で、中国が対越援助の問題をソ連との関係にリンクさせ、ヴェトナムにソ連からの援助を受け取らないよう要望したしたことが、ヴェトナム側の激しい対中嫌悪を招いたことを紹介している。ヴェトナムをめぐって、中越関係に暗雲が差し、中ソ関係はさらに悪化していったのである。
さらに、著者は中ソ対立における「ソ連侵攻の可能性」に対する毛沢東の判断ミスが、臨戦態勢構築に伴う高い社会経済的コストを支払う一方で、米中接近をもたらすきっかけとなったと評価している。ソ連よりもはるかに切迫性をもって中国は中ソ対立を乗り切った。たとえば国境紛争において、中国側の方が計画的・積極的に攻撃をしかけたことは、ソ連側資料ですでに明らかになっているが、著者もその解釈に同意している。このように、著者は従来多かった単純な自己正当化ではなく、中国に不利な材料をも紹介しつつ、なぜこのような決定が中国でなされていったのか、という点に説明を収斂させている。こうした態度が、本書の記述に一定の説得力をもたせている。
中国は、かつて流行した「ドミノ理論」の想定を覆すように、ソ連との対立を深め、ヴェトナムとの関係を悪化させ、戦争にまでいたった。こうした社会主義陣営内部の対立は、冷戦終焉以降旧ソ連資料に基づく実証研究によって盛んになった。本書は、それに加えて中国側の資料や解釈を追加し、研究状況が豊かになっていることを日本の読者に教えてくれる。様々な資料によって裏付けされる社会主義国同士の協力と対立の歴史は、中国が援助や貿易によって強い影響力を有すると考えられている北朝鮮との関係が実際にはどうなっているのか、という現代的な課題に対しても、大きな想像空間を与えてくれているといえよう。
5.おわりに
著者が本書で紹介している事実の大部分は、「新事実」というよりも、むしろ中国およびその他でなされた研究成果を参照すれば既出であることが確認できる。したがって本書は中国における最新の研究動向を整理して紹介していると位置づける方が正確かもしれない。大学生向けの講義録という本書の性質からいって、驚くような新事実を期待するには無理がある。ところが、日本では、まだかなり高度な専門書がこうした新しい研究動向の一部を紹介しているにすぎない。本書は日本であまり知られていない事実や中国での解釈を、読者にわかりやすい形式をとって効果的に伝えることに成功していると評価することができよう。
ただし、このように示唆に富む記述が満載されている本書であるが、やはり本書の問題点もいくつか指摘しなければバランスのとれた評価を与えたことにならないであろう。
まず、本書で取り上げられた事実をどう再検証するかという問題である。著者自身も認め、訳者も指摘しているように、著者はかなり高いレベルの非公開資料に接している。そのこと自体が、著者を特権的な高みにおいている事実は否定できないであろう。さらに、中国の非公開資料をくくってそれに忠実に記述したことがすなわち「歴史の真実」ということにもならない。中国共産党の党史資料が正しいとは必ずしも限らず、各国の公文書や関係者の回想録等とつき合わされなければならない。関係国の公文書の内容に齟齬が発生するのは、よくあることであり、我々は常に相対的な正しさを追い求めることしかできないのである。特に、非公開資料を見る立場にある者が行う研究の中に中国の正当化論理が隠されているかもしれない場合は、特に注意が必要である。「中国としてやむを得ない政策決定であった」ことと、その妥当性はあくまで別問題なのである。
次は、本書で取り上げられなかった事例の重要性である。「冷戦前期」において、中国外交の政策決定に関する重要な事例として、東アジアに関わるものをいくつか取り上げるだけでも、台湾海峡危機(1954-55)、「釣魚島」(尖閣諸島)に対する領有権主張(1971)、日中国交正常化(1972)、西沙群島占領(1974)など、多岐にわたる。これらは、米国、ソ連、台湾、日本、ヴェトナムなど、中国にとって重要な国・地域との関係に重大な影響を及ぼした事例ばかりである。著者がこれらの事例にほとんどふれないのは、意図的だったのであろうか、それとも機密性が高い文書にアクセスできなかったからなのであろうか。いずれにせよ本書で語られなかった事例を、本書で取り上げられた事例とどう併せ、冷戦期中国外交を再現することが可能なのか、読者としては強い関心を持たざるを得ない。
かつて、中国では、ある国や政治勢力との対立が確定すると、対立相手に不利なありとあらゆる材料が公開されることがしばしば発生した。逆に対立相手との関係が改善されると、「実はそれほどの対立ではなかった」、「誤解に基づく対立であった」、「対立したのはおろかであった」という資料が公開され、そうした論調の研究が発表されることが多い。米国、ソ連、インド、ヴェトナム、中国国民党など、そう記述される場合が多い。そうした傾向があるのは何も中国に限られないが、やはり中国における歴史研究の政治性にはいまだに注意が必要である。こうした変化は、関係改善を図るための意図的なものなのか、あるいはもともと事実がそうであったことを知っていた研究者が、対立が深刻化した時期には発表を控えていたが、政治的対立が終結することで、発表に踏み切ったということなのか、あるいはその両方であるのか、はっきりしない。そして現在とはまるで異なる過去の論調を支えた「歴史的事実」の多くは必ずしも吟味されないことが多い。中国の外交史研究が単なる自己正当化の時代を終えつつある現在、こうした観点はより重要になっている。
中国では外交部档案が一部開示されるなど、「現存する社会主義国」としては異例な情報公開が進展しつつある。そのこと自体は大きな進歩であると評価したいが、中国の外交政策決定過程を検討する上で、共産党档案の公開は必須である。そうしてこそ中国外交史研究は、さらに発展することが可能になる。ただし、こうしたないものねだりはさておき、本書が中国国内における資料や最新の研究状況を反映した良書であることは間違いない。最後に、本書が中国におけるいっそうの資料公開を促す議論のきっかけとなることを希望して、擱筆したい。
【参考文献】
下斗米伸夫(2004)『アジア冷戦史』中公新書
朱建栄(2004)『毛沢東の朝鮮戦争―中国が鴨緑江を渡るまで―』岩波書店
朱建栄(2001)『毛沢東のベトナム戦争―中国外交の大転換と文化大革命の起源―』東京大学出版会
李丹慧編(2002)『北京與莫斯科―従聯盟走向対抗―』北京、広西師範大学出版社
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