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【書評】「アジア地域主義外交の行方:1952-1966」保城広至著

October 31, 2008

評者: 宮城大蔵(政策研究大学院大学助教授)


未完に終わった日本の試み
いわゆる「アジア共同体」をめぐる議論に代表されるように、近年、アジアにおける地域主義が世の関心を集めている。だがそれは決して新しい現象ではない。実のところ、この種の地域主義の試みは1950年代、60年代にもあったのであって、それを最も精力的に追求したのが他ならぬ日本政府であった。にもかかわらず、結局日本の試みは一つとして実を結ぶことはなく終わった。それは何故か。それがこの著作の「問い」である。

戦後日本外交といえば対米関係の研究が質量ともに突出しており、戦後日本が連綿とアジアに向けて「地域主義」を追求したということ自体、あるいは新鮮に聞こえるかもしれない。著者・保城氏が本書で扱うのは、史料公開が進み、実証的な分析と対象となり得る1950年代、60年代における日本政府のアジアを対象とした地域主義構想である。著者はその「全て」を抽出することで、恣意的に選択した事例のみで全体を語るといった歴史家が陥りがちな陥穽を回避した上で、そこに通底する特徴・傾向性を探り出し、かつ情報公開法も用いることで「従来の日本外交史研究が到達し得なかった水準の、緻密な実証分析が可能になった」としている。果たしてその試みから、これまで十分には検討されてこなかった戦後外交のどのような姿が浮かび上がってきたのであろうか。

本書の構成と概略
本書の構成は次の通りである。

序章 「戦後アジア主義」と日本の地域主義外交
第1章 アジア地域主義外交展開の背景:1945-1953
第2章 「アジア・マーシャル・プラン」の幻想:1954
第3章 アジア地域主義構想の不用意な乱発:1955―1956
第4章 「対米自主外交」という神話:1957
第5章 池田政権期のアジア地域主義外交再論:1961-1962
第6章 西太平洋友好帯構想の浮上と挫折:1963
第7章 東南アジア開発閣僚会議のイニシャティブとその限界:1965―66
終章 結論

著者は本書で扱う事例を、日本政府が外交政策として打ち出したものに限り、その枠内での「全て」を分析の対象としたという。従って具体性を欠いた構想や議論の域を出なかったもの、あるいはアジア開発銀行のように、日本政府の外交政策が発端ではなかった事例は除外される。その結果として分析の対象となるのが、鳩山政権期の「アジア決済同盟」や「地域開発基金」構想、岸政権下の「東南アジア開発基金」構想、池田政権期の「日太平洋友好帯」構想、そして佐藤政権期の東南アジア開発閣僚会議など7つの事例である。結論を先取りして言えば、それらの大半は、「開発援助枠組み」と「貿易決済枠組み」であったという。以下、各章の概略を辿ってみよう。

第1章では、地域主義構想の対象として東南アジアが浮上した背景が、説明される。すなわち、朝鮮戦争によってアジア冷戦が固定化された後、アメリカは日本に市場や資源の供給地を提供して中ソ陣営への傾斜を阻止するために日本と東南アジアを結びつけようと構想した。一方で日本は、アメリカのアジア政策は冷戦イデオロギーに傾斜しすぎており、「アジアの一員」としてアジアの特質を理解する日本こそが、橋渡し役を務める必要があると考えた。より具体的に言えば、アメリカは東南アジアと日本を結びつけるために巨額の支出を検討し、日本はそこに自国が介在しようという思惑を抱いた。それがこの後、繰り返し浮上する日本の地域主義構想の一貫した背景であった。

第2章では、1954年に吉田首相が訪米した際、対アジア援助への期待を表明したことが、従来の少なからぬ研究において戦後日本の地域主義外交の端緒だと位置づけられていることが批判され、吉田の期待表明に対応する日本側の具体案が完成したのは鳩山政権期であったことが指摘されている。

つづく第3章では鳩山政権期に打ち出された4つの構想が、いずれもアメリカの対アジア援助を期待し、そこに日本が介在することを意図した点で吉田時代と変わらぬ構図を持っていたことが指摘される。吉田=対米協調、鳩山=対米自主というよく言われる構図がここでは当てはまらないことも著者が強調する点である。

第4章は岸首相が1957年の東南アジア・大洋州歴訪時に打ち出した「東南アジア開発基金構想」についてである。著者によれば従来の研究の多くは、岸がアメリカへの打診なしに自主的に立案したこと、アジアに直接打診したことなどをもって、この構想を岸の「対米自主」の表れだと見なしてきた。だが本書での検討の結果、この構想の発端はアメリカからの打診にあったのであり、アジア諸国への歴訪に先立ったアメリカに内報していたことが明らかになった。そして何よりも、この構想も、アメリカの資金に期待し、そこに日本を介在させることを意図するという点で、吉田、鳩山期の「地域主義外交」の構図を踏襲するものであった。それが、著者が言うところの「「対米自主」という神話」である。

第5章では、これまで池田首相がアジア地域主義に関心が薄かったと位置づけられているのは、この時期のアメリカがその種の構想に熱意を持たなかったからであり、決して「対米協調」ゆえではなかったことが強調される。

第6章では、池田が1963年9月の東南アジア・大洋州歴訪を機に打ち出した「西太平洋友好帯構想」が取り上げられる。日比豪、インドネシア、ニュージーランドの五ヶ国による枠組みを創設しようというこの構想は、当時スカルノ大統領の下、急進的路線に傾きつつあった東南アジアの大国・インドネシアを自由主義陣営につなぎ止めることを意図したものであった。この構想は政治的なものであり、かつアメリカから独立して打ち出されたという点で特異なものであり、ここからも「池田=対米協調」という「通説」が妥当ではないことが確認されるというのが著者の主張である。

第7章で扱われるのは、戦後日本が主催した初めての大規模な国際会議とされる東南アジア閣僚開発会議(1966年4月)である。著者によれば従来、先行研究ではこの会議を東南アジアに対する日本の援助増大の機会となったと位置づけてきたが、実際には日本側には具体的な出資計画もなく、会議は開発に向けた「意見交換」「気運を促進」といった曖昧なものに終わった。当時、国交回復後の韓国に対する経済協力や台湾に対する借款供与、発足したアジア開発銀行に対する出資など、大規模な支出が目白押しであった日本政府には、さらなる大規模な支出の意図はなかった。さらにそもそもこの会議を日本が提唱したのは、ベトナム戦争を背景にしたアメリカの大規模な対アジア援助計画構想を受けたからであったが、アメリカの構想は実現せずに終わった。日本の地域主義構想は、アメリカの対アジア援助構想を受けて出現するという構図は、ここでも変わることがなかったのである。

以上の各章における分析を受けて、終章では以下のような結論が導き出される。当該期の日本のアジアに向けた地域主義外交は、「開発援助枠組み」と「貿易決済枠組み」を中心とするものであり、それはアメリカの支出を前提としながらもアメリカの関与を限定し、「アジアによるアジアのための経済開発」を一貫して志向するものであった。アメリカの対アジア政策はあまりに反共イデオロギーに傾斜しており、アジアのナショナリズムを理解していない。そこで「アジアの一員」たる日本が「橋渡し」を行う必要がある、そのような日本の認識を著者は「戦後アジア主義」と名付けている。

だがそれらは結局、実を結ぶことなくすべて挫折した。それらの構想がいずれもアメリカの支出を前提としており、日本自身には支出の余力がないという状況、それにもましてアジアの状況は政治情勢ひとつをとってみてもあまりに多様で「地域」としての一体感を欠いており、反日感情や各国相互の反目といった要素も色濃かった。その意味で日本の地域主義外交は、真の「アジアの主体性」を考慮したものではなかった。今後はアジアの多様性の理解と尊重が、日本がアジアに「融解」していくための鍵となるというのが、著者の結語である。

本書の評価
さて、このような内容を持つ本書をどのように評価できるであろうか。外交史的アプローチが陥りやすい「事例選択の恣意性」を意識し、一定の枠組みを構築して日本外交の特質を探り出そうという本書の意図は、これまでそのような試みが決して多くはなかったことを踏まえれば、高く評価されるべきであろう。また綿密な史料調査によって、先行研究の事実誤認などを修正していることも、この分野の研究水準の向上に少なからず寄与しているといえよう。

外交史的アプローチによる戦後外交研究も、近年では複数国の外交文書を付き合わせて立体的な歴史象を構築する「マルチ・アーカイヴァル・アプローチ」が盛んになるなど、方法論的にも進展を見せているが、それに加えて本書のような一定の枠組みを構築して分析を行うようなアプローチ、さらにはより本格的な理論を導入したアプローチ、それぞれの視角と方法論からもたらされるであろう多様な成果は、研究にとどまらず日本外交についての理解をより豊かなものとするであろう。どのような道筋であれ、その実りが豊かなものであれば大いに歓迎されるべきである。

本書において著者が力を注いでいるのは、「対米自主/対米協調」という、対米関係を基軸に戦後日本外交を性格づける「通説」を覆すことであろう。各章の叙述を見ても、「岸=対米自主」、「池田=対米協調」といった「通説」を覆すことに力が注がれており、それは大いに成功していると言うべきであろう。ただ今日の戦後外交研究の水準からすれば、「対米自主/対米協調」という切り口が、どれほど覆さねばならない「通説」の地位を占めているのか、若干の疑問がなくもない。
評者は、「対米自主/対米協調」という(名称で一般的に呼ばれる)対立軸は本来、戦後日本の国家像をめぐる吉田茂とその反対勢力との間に出現したものであり、アジア外交の性格付けにこの対立軸が用いられたこと自体が、そもそも適切ではなかったと考えるが、この点については機会を改めて論じたい。

著者によれば、「アジアによるアジアのための経済開発」を日本が仲介する地域的枠組みによって推進し、そのことでアジアのナショナリズムを超越することに、日本の地域主義外交の主眼があった。それはまた日本にとって、「アメリカか、アジアか」という二者択一のジレンマを解消する方途でもあった。それを支える「戦後アジア主義」に、1950年代の大東亜共栄圏の残映から、60年代の世界的地域主義の影響という変遷があったという指摘も、さらなる考察と実証が不可欠であろうが、興味深い指摘である。

筆者によれば、アメリカの財政支出の有無と日本自身の財政的制約、そしてアジアの側に日本の試みを受け入れる素地のなかったことの三点が、当該期の日本の地域主義外交の全てが挫折に終わった要因であった。やがて本書が扱う時期の後、1970年代に入ると、日本とアジアは一転して経済を軸に強い結びつきを持ち始め、やがて「改革・開放」に転じた中国大陸をも巻き込んで、今日のアジアは「共同体」が論じられるまでに変化を遂げた。

その過程で起きたのは、筆者が指摘した三点に対比する形で言えば、サイゴン陥落後のアメリカのプレゼンスの低下と、日本政府による援助と日本企業によるアジアへの爆発的進出、そして今日我々が想起する意味と範囲での「アジア」が形作られたことであろう。

本書で再三指摘されているように、1950年代、60年代には日本が考えるような「アジア」は存在しなかったといっても過言ではない。そこにあったのは反共諸国と非同盟諸国、共産主義諸国、そして西欧の植民地が混在する地域であり、インドなど南アジアとも明瞭には分化していなかった。日本が考えるような括りでの「アジア」が、まとまりとして実体を持つようになったのは、東南アジア一帯がときに開発体制と呼ばれる、イデオロギーや独立闘争よりも経済発展と開発の遂行に重きをおく体制で覆われるようになった1970年代のことであろう。問題はそのような実体のない時代において、なぜ日本が「アジア」という括りを自明のものと捉えたかである。

戦前の日本にとって東南アジアとは「南洋」と呼ばれる、決して馴染みの深い地域ではなかった。その東南アジアと日本が命運をともにする強固な結びつきを持つことになったのは、疑いもなく戦時中の「大東亜共栄圏」の時代であった。戦後日本が自らの考える「アジア」を自明のものとして捉えたことの無意識の底流に、この戦時中の遺産が潜在していたようにも思われるのである。

いずれにせよ、こうしたより大きな時代の流れに位置づけることで、保城氏が解き明かした日本の地域主義外交の「時代性」が明らかになるように思われる。保城氏の言う日本外交の「蹉跌」は、地域秩序の変化のダイナミズムの中に置くことで、その意味と限界がより立体的に浮上するのであろう。本書のタイトルが『アジア地域主義外交の行方』でありながら、その「行方」が展望されているというよりは、「閉じた」ものという印象が強いのは、その辺りに関係するのかもしれない。

最後に内容に関することではないが、「盗用」「資料の改竄とは言わないまでも、牽強付会」と言った本書に散見される攻撃的な表現は、やや過剰なものに感じられる。「論争」は文章表現ではなく、議論の中身で行えば十分であろう。

    • 政治外交検証研究会幹事/上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科教授
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