評者:武田知己(大東文化大学法学部政治学科准教授)
目次
第一章 日仏修好通商条約 1858-1859
第二章 条約不履行 1859-1862
第三章 攘夷論猖獗と開港・開市延期交渉 1862-1863
第四章 イギリスの最後通牒と外国人退去令 1863
第五章 小笠原「挙兵上京」と横浜鎖港 1863-1864
はじめに
本書の主人公であるギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール(1817-1881)は、1817年2月にパリで生れ、1842年に外務省に入り、コペンハーゲンやフランクフルトに駐在したのち、1857年に清国への駐在を命じられ、天津条約締結時の使節団に参加した。これが伏線となり、1859年9月に初代の駐日公使となった。今からちょうど150年前のことである。
しかし、彼の後継者となった二代目公使、レオン・ロッシュ(1809-1900。1864-1868まで日本駐在)の方が衆目を集めてきた感は否めない。率直に言って、ベルクールの言動に関しては、良く分からないことが多い。その経歴についてさえ、西堀昭氏の論文(西堀昭「初代フランス特命全権公使 ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールについて(1)(2・完)」『横浜経営研究』XIII 第四号、五号、1993年)が書かれるまで詳細が分からないという状態だったのである。
本書の意義は、編訳者の矢田部厚彦氏の言にもあるように、第一に、昨年150周年を迎えた日仏交流の歴史における一つの隙間を埋めるという点にある。フランスは、アメリカ・イギリスに続く三番目の外交使節を日本に送った。その地位は相対的に高く、幕末外交史に於いて無視できない影響力を持った。19世紀半ばに一時期存在したイギリスとフランスの良好な関係を背景に、『大君の都』の著者であるイギリスの初代駐日公使オールコックとベルクールが度々共同歩調をとったことも幕末外交史に於いて見のがせない点である。第二に、本書に付されたフランス語の外交書簡の翻訳は、幕末外交史に一つの新しい史料を付け加えるとともに、いくつかの新しい知見をもたらすだろう。更に、第三に、幕末日本の政治外交を外国人の外交実務家がどのように捉えたのか、外交団の内部がどのような提携・対立の構図を見せていたのかと言う点に関しても、本書は興味深い材料を提供するだろう。
一 幕末維新の政治史におけるベルクール時代
ところで、幕末から維新にかけての日本が大きな変動期にあったことは言うまでもない。日本が「鎖国」政策から「開国」政策へと直線的な歴史をたどったとは言えないが、ひとまず、この時代を、「外圧」により対外関係の変化を余儀なくされた日本が、紆余曲折を経て外交政策の根本を変更すると同時に、これも紆余曲折を経ながら国内の政体改革を行った時代であったと定義することはできるだろう。
この幕末維新史は数期に区分される重層的で複雑な変化をたどった巨大な変化の時代であった。三谷博氏によればこの時期は三つに区分される(『明治維新とナショナリズム』山川出版社、1997年)。
幕末維新史の第一期はペリー来航から安政の五カ国条約に至る間に相当する「技術的対応の時代」(1853-1858)と呼ばれる時代である。この時代には、「表面上は内政の変動は発生せず、外圧に対抗するための技術的努力、すなわち軍事組織の賦活化や西洋の学術・情報の導入・普及が流行」した。通信と通商を区別し、外国船の往来をうけても可能な限り祖法たる鎖国政策を守ろうとした幕府は、この時期、いわゆる「ぶらかし」外交を続けながら、国内面に於いては変化を避け、自己の権威を保持しつつ、「挙国一致」で西洋諸国に対応しようとした。
しかし、幕府の支配下では、さまざまな「歪み」が生まれていた。その大きな圧力となったのは、開国か攘夷かの激論を交わしつつ、危機の時代に於いて政権参加を求める「有志大名」の強い願望であった。それは、徳川慶喜擁立運動とそれに伴う譜代大名の権力独占から家門・外様の大大名連合への権力移行構想に結実していく。
それに続く第二期を、三谷氏は「政治秩序崩壊の時代」(1858-1863)と呼ぶ。ベルクールの駐在期間(1859.9-1864.5)は、まさにこの時期に相当するものである。
第二期は、安政の五カ国条約で第一期に蓄積した歪みが一気に爆発することで始った。この年の修好通商条約の問題(井伊直弼が調停の勅許を得ずにアメリカと、次いでオランダ、ロシア、イギリス、フランスの計五カ国と修好通商条約及び貿易章程を結んだ問題。また、これにより幕府は薪炭条約・「通信」から「通商」に踏み込み、本格的な「開国」を決断した)は、本来これとは無関係な将軍継嗣問題と結びつき(徳川慶喜を擁立する有志大名の一部は「一橋派」と呼ばれ、徳川慶福を推すグループは「南紀派」と呼ばれた)、更に知識人層を巻き込みながら、それまで基本的には政治の埒外にあった「朝廷」を舞台に複合した。外交権を持つ幕府がわざわざ朝廷に勅許を求め、一橋派が朝廷を党与に巻き込もうとしたため、期せずして朝廷が政治化したのである。結果、条約は違勅調印とされ、一橋派の政界追放、朝廷関係者、一橋派、攘夷派知識人の大量処分となった。安政五年のこの政変は「近世に於ける最初の政界横断的な大政変」(三谷)であり、井伊の圧政と相俟つて、条約と開国が不等であるとの不信感や反感が世上に行きわたる結果となった。国内では攘夷論者のテロや暴動が相次いだ。
これ以後、日本の政治秩序は急速に崩壊してゆく。幕府は「強兵軍政改革運動」と和宮降嫁により、権威と権力実態の回復を求め、旧一橋派は「公議」運動により権力回復を策し、知識人らは「攘夷」更には「王政復古」を主張する。薩摩は幕府の動きを「幕私」否定・「公武一和」の主張により挫折させ、旧一橋派と越前を幕府の中枢に送り込み、幕府の主張を最低限に押さえ込みながら、「公議」運動を一部実現させる。しかし、攘夷派の主張である「不正の条約」の破棄という理屈は誰にも否定しようがなく、攘夷運動はイギリスとの対外戦争の危機を高唱しつつ勢力を保った。また、権力の座に座った旧一橋派も、安政五年の政変を清算させつつも公武周旋には失敗し、結局幕政からも引退せざるを得なくなった。1863年には政局は完全に尊皇攘夷派の手に落ちた。下関で攘夷戦争を勃発させた攘夷派は、遂には幕府をも倒そうとするが、彼等はそれに失敗する。なぜなら朝廷上層や在京大名は、政治秩序の完全な崩壊を望まなかったからである。
この機会を狙い、薩英戦争(1863年8月)を戦っている薩摩は、宮中クーデターにより主導権を奪った。1863年のいわゆる「八月十八日の政変」と呼ばれるものがそれである。薩摩は新しい政治秩序を作り上げることを喫緊の課題とし、尊攘派の去った京都で、越前とともに「公議」体制の構築を図った。
しかし、幕府も簡単には倒壊しない。幕府は、昔日の栄光を取り戻すべく、攘夷論に未練のある朝廷に横浜港の閉鎖を申し出る。西洋諸国から違約批判を浴びることは充分に予想されたが、あえて朝廷にこれを申し出た幕府は、遂に朝廷の「名賢候」への支持をやめさせ、1864年4月、朝廷から政権委譲の確認を得ることに成功する。こうして実現した「公武合体」体制は、第二期における政治秩序の崩壊を食い止めたが、この体制は、幕府を一方で維持しながら、他方で新しい時代を築こうとしていた「名賢候」を排除する形で成立した体制であった。
明治維新までには更に波乱と躍動を見せる幕末政治史であるが、ベルクールのいた時代とは以上の様な時代であった。権力闘争と政策論が複雑に重なり合い、社会が不安に満ちあふれ、それらを統御する「政治の中心」が不在であった時代の外交交渉や外交官の生活が複雑を極めたことは容易に想像がつく。本書で描かれる駐日公使としてのベルクールは、西洋との接触を始めて本格的に開始した幕府との文化の差に戸惑っている。また、当時の流動化する政局に度々翻弄されつつも、外交使節として国益と考えるものを実現すべく地道に努力している。しかし、それから透けて見えてくるのは、実は幕府の「攘夷論と言う輿論」を背景にした巧みな外交交渉の有様かもしれない。その様子を、編訳者によって加筆された注記を参考にしつつ、概観して見たい。
二 中心の不在と「悪意のメカニズム」
さて、安政の五カ国条約に基づき来日したベルクールの最初の仕事は、日仏修好通商条約の批准書の交換であった。ベルクールは、通商問題に関する若干の、しかし重要な字句の修正と解釈の確認を行っている(西堀論文)。そこで、ベルクールは奇妙な発見をする。
条約のフランス文によれば、フランス皇帝(ナポレオン三世)と「日本皇帝陛下」が条約締結の当事者とされている。しかし、オランダ文では日本の当事者は「日本国将軍」となっている。また、フランス語文の議事録では、「ミカドの帝国たる日本の将軍」とフランス皇帝双方の全権委員の間で条約が署名されたとされるが、日本側から提示された文書には、「老中」たちの署名があり、そして「将軍」の署名に「日本国国璽」が押されている。
一体、条約の日本側当事者はだれなのか。ベルクールは、赴任後の1860年2月にハリス公使と意見交換を行い、日本の政治の中心の不在が外国使節共通の悩みであることを確認する。ベルクールはこれが「種種の機関相互間の堂々巡りの為せる業」であると当時の政治の混乱に一定の理解を示しているものの、「日本政治がその義務の履行に対して発揮する消極的抵抗」がこのあいまいさの中からにじみ出ていると判断する(11p)。日本の政治体制の曖昧さは、一面に於いては文明の差であった。例えば西洋の外交システムに於ける「公使」と言う立場が、果たして政府を代表するのか、それとも皇帝を代表するのか、幕府は理解できていなかった。また、逆に、ベルクールは、畳三畳以内に将軍に近づけないのが日本の習慣であることを認めようとしなかった。しかし、これはただの文化の違いだけの問題であるとは言えない。信任状奉呈の儀式の際にベルクールを将軍の「畳三畳以内」に近づけなかったのは、老中の安藤信正によれば「民心定まらない日本では、謁見式のあり方を変えれば、攘夷感情をさらに刺激することになる」ことを恐れていたからであったし、ベルクールが将軍に直接意見を述べられず、老中にしかそれが許されなかったのは、将軍を取り巻く大名たちの政治に関わりたいという欲求の現われでもあった。それを、ベルクールは、「それぞれ同等に強力且つ無力、なかんずく捉えどころのない三つの権力、すなわち将軍、天皇、大名」の間で、「問題の必要に応じて」外交活動の中心が揺れ動く、「悪意のメカニズム」と呼んでいるが、ベルクールは第二期に於ける複雑微妙な幕末の政治力学に気がついていたはずである(16p)。
また、ベルクールは、攘夷論が巷に満ちている社会状況にも着任早々に直面した。外国人は頻繁に侮辱・脅迫・暴行を蒙った。その余波として1860年には桜田門外の変で井伊直弼が水戸浪士に殺害される。ベルクールの言葉を用いれば、外国人は、精神的にだけではなく物理的にも「隔離」されているような状況であったが、それは、幕末日本が持っていた彼らに対する強い警戒心・武力侵略に対する恐怖心の現れであると同時に、彼らを保護する現実的な方法の一つでもあった。しかし、一連の尊攘派の行動は、一旦諸外国と約束した開国政策を、なるべく祖法たる鎖国政策と変わらぬ形で運用したいとする幕府の「消極的な抵抗」の弁明ともなった。
フランスも、フランス公使館(三田済海寺におかれた)のイタリア人警備官ナタールの襲撃事件、狙撃事件(1860-1861)に遭遇する。ベルクールは、その対応をめぐって、外国人の安全の確保と損害賠償を幕府に強く要求した。また、米国公使館員ヒュースケン殺害事件(1861年)の与えた衝撃も大きかった。この前後、プロシャ、イギリス、フランス、ロシアの軍艦が次々と江戸湾に集結している。江戸では、1861年にオールコックを議長とする外交団の間で「武力は使わないが、この際断固たる意思表示を行う」ことが合意された。ベルクールはこの会議の原案を提供する(38p)。尊攘派の狼藉に対する取締りや警備強化に困難を感じ、言を左右にする幕府に対し、怒りをあらわにしていたベルクールは、このころ幕府に対し、職務を海軍の提督に譲ろうとまで言っている(田辺太一『幕末外交談』)。相互の不信感・認識の差は埋めようがないほどであった。
しかし、外交団の足並みが揃っていたわけでもなかった。ハリスは幕府との関係が良好で、外交団の会合にも二回目以降は欠席している。結局、オールコックとベルクールの主導で、幕府への抗議の意味をこめて外交団の横浜への退去が決定されるが(1861年)、アメリカはこれに同調しなかった。江戸では英仏の江戸攻撃がうわさされたが、ベルクールはその風説の流布にはアメリカが一枚噛んでいると見ている(40p)。しかし、そもそも幕府は外交団の横浜常駐を主張していたのだから、ハリスは、英仏らが自ら幕府の意のままに横浜に退去することを嘲笑していたかもしれない。結局、三月になり、幕府は英仏らの外交団への経緯ある態度、監視の廃止、防備のためのより厳重な措置を約束させ、江戸に帰還することとなった。
また、幕末日本はロシアに対する強い警戒心を持っていた。ロシア艦の対馬来航は日本に不信感と恐怖心を与えた。この際には、オールコックとベルクールは、寧ろ幕府にロシアの意図の推測や対処に関して相談を持ちかけられる立場となっている(42-46p)。当時の極東における国際関係を背景に、各国の利害が錯綜する中、双方の立場も案件ごとに微妙に変化していたことが見て取れる。
三 政局と諸外国の経済的利害との錯綜
ところで、ベルクールらが尊攘派の狼藉、幕府の不作意に対し、武力行使の強い意図を持っていたわけでは勿論なかった。ベルクールは赴任直後から、条約の履行によるフランスの利害確保に最大の関心を持っていた。西堀論文によれば、安政6(1859)年には幕府の銀貨交換の遅れを非難、万延元(1860)年には牛100頭の購入、酒類の関税引き上げを幕府が拒否している。ベルクールが経済的利害の確保に熱心だった理由の一つは、フランスの関税がアメリカ・イギリスとくらべて相対的に高かったことが理由であった(36p、129p)。本来ならば、ベルクールの仕事は、この日仏経済関係の強化におかれるべきだったのだろう。しかし、幕府は新潟・兵庫開港、江戸・大坂開市の五年延期問題を外交団に提起する(33-37p、及び第三章)。これはベルクールが言うように、「ヨーロッパ貿易と言う大局的利害」にとって重要な意味を持った。攘夷論が渦巻く中、通商条約の履行を可能な限り抑えようとする幕府は、外交団との交渉を繰り返す。そこには、貿易開始による更なる物価騰貴を抑えようとする幕府の意図も働いていた(「第三章」の諸資料参照)。
これと平行して、激しいテロがベルクールらを襲うことになる。英国公使館襲撃事件(第一次、第二次東善寺事件。1861,1862年)がそれであり、安藤信正襲撃事件(1862年)もその余波である。その頂点に位置するのが生麦事件(1862年)である。更に建設中であった英国公使館の焼き討ち事件(1863年)も起きる。幕府はこれらを開港・開市延期の弁明に利用する。ベルクールの不信感は強まる一方であった。
面白いのは、このころ、オールコックとベルクールは、江戸での幕府との交渉ではなく、幕府の使節団と本国政府との交渉により、事態を打開する方向に傾いたことである(75-89p)。また、幕府内部のさまざまな政治的対立を観察しつつ(ベルクールは、和宮降嫁問題にもさまざまな推測をしている)、ベルクールは一旦は統治能力を喪失したかにみえる幕府を相手とした外交交渉は意味のないことだと考える。ベルクールは権力が幕府内部の守旧派に移行していること、更に諸大名が自律性を高めていること、幕府はそれらの諸大名と外国との独自の接触を押さえ込もうとしていること、そして、1862年の開明派の粛清により、幕府が守旧派の牙城となっていること、政治の中心は次第に朝廷に移行しているのではないかと、外国奉行らとの会談から判断している(90-93p)。
四 日英戦争の危機
さて、このころ、ベルクールは外交団長に就任する。この前後から、幕府はベルクールに「覆面の一部を自分自身で剥いだ」と言う印象を与えはじめるが(56p)、生麦事件(1862年)をめぐる一連の危機のなかで、外交団長となったベルクールは、幕府とより緊密な交渉を繰り返すこととなる。本書で最も興味深いのは、第三章以降、攘夷論が頂点に達するプロセスに於けるベルクールの言動であろう。
薩摩の家臣がリチャードソン殺害の犯人となった生麦事件は、その後、幕閣の屋台骨を揺るがしかねない危機に発展する。日英戦争勃発の予感の中で、幕府は、自らの家臣の裁判権を有するのは藩主だけであるとする意見を主張し、交渉は長引くが、ベルクールは一旦は激情に駆られるものの、その後は、日英間のみならず、全条約締結国との関係に危機をもたらしかねなかったこの事件を冷静に処理しようとする(94-116p)。特に1862年9月25日付で老中に対し差し出された意見書は、一読に値する(108-112p)。
しかし、ベルクールは、攘夷論が対外戦争に結びつくかもしれないという予感の中、他方では開港・開市延期交渉を進めねばならなかった。第三章には(一部第一章にも関係資料有)ベルクールと幕府、或いは本国政府との間の外交書簡が資料として掲載されており、興味深い(142-156p)。久世や安藤が、尊攘派を幕府の内外に抱える窮状を訴え、その最善の策として開港・開市延期を訴える文面もさることながら、フランス本国で交渉した使節団の様子を伺うことの出来る史料もある。結局、国内での交渉をあきらめ、オールコックとベルクールの斡旋で旅立った使節団は、1862年6-10月にかけて、各国から5年の開港延期を勝ち取ることに成功する(幕府の希望は7年であった)。しかし、それにより国内の尊攘派を慰撫しようとする目論見は果たせなかった。攘夷論は益々高まり、使節団の交渉と平行して進行する攘夷派の諸事件は、使節団を不安にさせるだけであった。
ベルクールの幕府への不信感はこのころに頂点に達する。尊攘派の慰撫を目的としたとされる慶喜上洛の意図にベルクールは疑問を抱き始める。ベルクールは、尊攘派と幕府との裏面での結託を疑い、幕府は我々に横浜を断念させ、長崎に我々を隔離しようとしているのではないかと思い始める。また、そのころ、天皇と将軍との間で、攘夷論に原則同意しているような書簡が多分に意図的に英仏両公使館に出回った(158-170p)。ベルクールは、(恐らくは攘夷論の破壊的な台頭に苦悩する幕府の内情を理解しつつも)やはり外交交渉の相手として信頼し得る「政治の中心」を幕府に見出すことができずに、苦汁を嘗めていた。ベルクールは、幕府を交渉相手としつつも、朝廷が最終的な決定権をもつことにも気がついていたが、何故幕府が朝廷に進言する尊攘派の大名を実力で排除できないのかを理解できずにいる(162-170p)。ベルクールは、「正統政府」たる幕府を相手とした交渉以外の道を探ろうとはしていない。
ベルクールは、生麦事件の処理をめぐりイギリスが対日報復をも辞さぬ構えを見せる中、万一の場合にはイギリスとの共同出兵をすると通告し(ベルクールは中国からの増兵も要請していた)、横浜は断固として自衛する姿勢を崩さなかった。しかし、他方で、安政五年の条約体制そのものを破壊することは避けようとした。苦悩する調停者・外交官としてのベルクール像と、それでも攘夷論に未練を持ち、松平慶永を解雇する幕府との間の温度差は、掲載されている資料から鮮やかに浮かび上がる。
しかし、この1863年6月に一つの頂点に達するこの混乱が、小笠原長行の虚構の外国人追放令と賠償金支払いの奇策によって収拾する。小笠原は追放令を出しながらも、実行はせず、独断で賠償金を支払うという案を提示したのである。これは外交団長としてのベルクールの生涯に於いて最も重要な瞬間の一つであるが、策略家・小笠原のこの「腹芸」をもベルクールは信じられずにいた。ベルクールの不信感はそれほど強かったのである(第四章)。もっとも、この過程で、ベルクールは、ハリスの後任となったプルーイン公使が幕府から特別待遇を受けていることに対する疑惑を持っていた。ベルクールの外交書簡には、プルーインが「自分は幕府のものである150万ドルの財産の代理人だから、日本人の刺客に狙われる惧れは全くないのだ」と語った旨が記されている(179p)。真相は分からないが、日本側もアメリカの支援を得つつ、戦争準備を始めていたのかもしれない。本書の史料からは少なくともベルクールがその可能性を考慮していた形跡が伺われなくはない。そうであれば、幕府は、外交団をも巻き込んだ「夷以夷制」政策をとっているかのようである。幕府に対するベルクールの根強い疑いも、理由のないことではなかったのかもしれない。
五 「抗うべからざる革命」への「大胆きわまる策略」
さて、虚実ない交ぜの交渉で一触即発の危機を脱した小笠原長行は、同月下旬、英艦を借りて幕府歩兵・騎兵を合わせて約千数百名を率いて乗船し、海路大坂へ向かう。その目的には諸説あるが、少なくともベルクールは、神奈川奉行から、攘夷論に凝り固まっている天皇の「疑心暗鬼」を払拭し、「現実に目を開かせる」ためであると伝えられている(263p)。幕府側の意見開陳はかなり率直であった。幕府は、イギリスとの関係悪化の中で、フランス人であるベルクールに様々な斡旋を願い出ている様子が、掲載されている史料からも伺える。幕府は薩摩に対する警戒心も隠していない。それに応えるようにベルクールも神奈川奉行に「悪意の連中」「将軍の敵」とは一体何者なのかと率直に質問している。ベルクールに明確な答えは与えられなかったが、少なくとも「大坂、兵庫の開市・開港」を小笠原上京に協力する条件とすることに同意させることには成功している(266-280p)。
しかし、イギリスから汽船二隻を借りて大坂入りし、そのまま京都に攻め入り反幕府・攘夷派を一掃しようとした小笠原軍は、結局自壊する。これに続いて、下関事件(1863年7月)が勃発する。攘夷派は遂に諸外国に発砲した。フランスもその砲火を浴びた。しかし、ベルクールにとってより切迫していたのは、腹芸を見せた小笠原長行の罷免問題であった。小笠原が罷免されることにより、外国人追放令の裏にあった「腹芸」の効力が失われてしまう可能性があったからである。1863年7月31日付で老中宛に出された書簡で、ベルクールは四項目の要求を出す。その内容は、従来通りの外交慣行を遵守することと同時に、小笠原書簡の撤回(腹芸の効果がないのであるから、撤回が唯一の安全策である)をもとめるものであった。その文面は怒りというよりも理解に満ちたものであった。
しかし、ベルクールがここでも遭遇したのは、政治の中心の不在という問題であった。長州藩は既に幕府の統制下にない。権限上幕府は長州藩を統制出来たとしても、現実には統治の中心は幕府を離れはじめている(286-291p)。そんな折、薩英戦争が勃発する。ベルクールは自分は結局幕府にだまされていたのではないかと自問する。幕府は条約履行と攘夷政策の二面外交をおこなっているのではないか。だが、ベルクールは最後まで幕府を相手とする交渉をやめることはなかった。本書には触れられていないが、このころ、イギリスとの戦争で攘夷論の非現実性を悟った薩摩は、8月18日の政変によって、朝廷に於ける尊攘派の影響力を排除した。ベルクールが「1864年1月に入り、条約締結国に有利ないくつかの徴候が現れた」と報告しているのはその影響もあろう(311p)。
そして、ベルクールは離任直前に、幕府からの横浜甲閉鎖の申し出に理解を見せ、遣欧使節団の斡旋まで行うことになる(第五章)。ベルクールは、「いつかは抗うべからざる革命が世界の他の国民との融合を欲するよう日本国民を導くに違いないが、この国の支配階級は、この革命を必死に押しとどめようと、想像を絶する執拗さをもって、大胆極まる策略を弄し続けている」と振り返ったことがある(260p)。しかし、それから9ヵ月後の離任まで、ベルクールは飽く迄幕府支持の態度を変えなかった。寧ろ、このころ、ベルクールの幕府への信頼感は、それ以前よりも増している観がある。そうでなければ、彼が横浜鎖港交渉の使節団の斡旋を引き受けることはなかっただろう。その幕府支持の姿勢は、1864年に来日する次代のロッシュ公使に引き継がれていくことになる。
おわりに
ベルクールは、西洋との接触を始めて本格的に開始した幕府との文化の差に戸惑いつつ、また、当時の流動化する政局に度々翻弄されつつも、外交使節として国益と考えるものを実現すべく地道に努力した。この時期の外交に関しては、芳賀徹『大君の使節』や佐野真由子『オールコックの江戸』など、手軽に読める好著もあり、また萩原延壽氏の大作『遠い崖』も文庫化された。今まで知られてこなかったフランス外交官の立場からこの時期を検証出来る本書は、幕末維新史研究に一定の価値を持つだろう。ベルクールの幕末日本の政治的観察も、必ずしも的外れのものばかりだったとは言えない。オールコックの認識とも大きく重なる部分があるが、イギリス公使であったオールコックなどの見方とはやや異なる視点からの幕末政治・外交史を、ベルクールの視点から描くこともできよう。
しかし、そこから透けて見えてくるのは、実は「攘夷論と言う輿論」を背景にした巧みな幕府の外交交渉の有様でもあろう。この時期までの幕府が、安政の五カ国条約以降も、可能な限り祖法たる鎖国政策の実質を保つことを外交目標とし、権力者としての自己防衛のための諸改革(その改革の内容も紆余曲折するが)を行おうとしていたのであれば(オールコックもベルクールもその様に感じていた)、ベルクールの時期まで、幕府は安政条約の効果を遅らせることに一定程度成功し、事実、倒壊の危機も免れたのであった。
そして、ベルクールは、そのような幕府支援の姿勢を、結局は崩さなかった。その後の変化は、ベルクールの予測できることではなかった。しかし、ここまでの過程で、あれほど幕府への不信感を募らせていたベルクールが遂には幕府支援をやめなかったことは、これも忘れられつつある幕府の「外交交渉」の功績だとは言えないだろうか。勿論、ベルクールは、「正統政府」たる幕府を飽く迄交渉相手とする外交の常識に従ったのだとも言えるだろう。ベルクールにはやはり変化を見通す政治的「勘」のようなものが不足していたと考えることもできる。しかし、それ以上に江戸や横浜で繰り広げられた幕府の「外交」が、結果的には「したたか」だったのだ、と言うのが本書を読んだ評者の感想である。
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