戦後70年という節目の2015年は、安倍首相の「70年談話」も話題となり、歴史認識について改めて考えさせられる年となりました。
そもそも「歴史認識問題」とは、これまでどのように捉えられ、語られてきたのか。また、それらに関わる国内外の状況の変化を、我々はどのように理解すればよいのか。
政治外交検証研究会は、戦後日本の歩みを振り返り、改めて歴史認識問題について考察していきます。
第1回「吉田茂の時代~自主的総括の可能性と限界」
武田 知己(東京財団政治外交検証研究会メンバー/大東文化大学法学部政治学科教授)
はじめに
近隣諸国に対する侵略戦争や植民地支配の責任をどう認識し、どう果たすのか。いわゆる「歴史認識問題」は、1980年代以降に先鋭化し、現在に至っている。これを解きほぐすことは、21世紀の日本政治に突きつけられている重要な課題である。
ところで、本稿が対象とする敗戦前後から1950年代までの時期は、一般に「歴史認識問題」の空白期とされている。だが、この時期は、歴史認識問題の空白期などではなかった。この時期は、その問題が形作られる上で、二つの意味で重要な時期だったのである。
東京裁判史観とサンフランシスコ講和体制
一つ目は、言う迄もなく、東京裁判が行われるのがこの時期だからである。つまり、俗に「東京裁判史観」とも言われる歴史認識の形成期としての重要性である。
しかし、興味深いのは、「東京裁判史観」とそうでない史観との対決が鮮明になるのは、1980年代以降であることだ(大沼保昭『歴史認識とは何か』)。では、占領期において、東京裁判はどのように考えられてきたのか。実は、それは、当時の日本に課せられた「義務」にほかならないのであった。しかも、その義務の誠実な遂行こそ、敗戦国日本にとっての数少ない国際復帰の方法とも見なされていた(例えば、田岡良一「戦犯裁判について」『新生』1946年6月)。東京裁判に、勝者としての連合国が正義を独占しなければならないとする論理が働いた感は否めないが、逆に言えば、日本指導者の責任とはなにか、それを法的にどう裁くのかという点をめぐる論争は、日本の全く関知できないものだったのである。
二つ目は、波多野澄雄のいう「サンフランシスコ講和体制」が確立していく時期としての重要性である。サンフランシスコ講和体制は、1951年に締結されたサンフランシスコ講和から日韓基本条約、日中国交正常化までの間に積み上げられた法的枠組みを意味する。その説明と検証は、本稿の対象とする時期を越えるが、この法的枠組みは、日本のあの戦争の歴史に対する認識を直接間接に反映してできあがったものだが、法体系を通じてそれを表現し、さらに政府間での解決を図ったものがこの体制である(波多野澄雄編『日本の外交 戦後編』、波多野澄雄『国家と歴史』)。この体制の形成にも、当時の冷戦の影響や中国、韓国など各国の国内政治の影響、そして日本の国内事情などの要因が働いた。しかし、日本は基本的にはその枠組みを重視し、一定の責任を認め、この問題の国家的な解決を図ってきた。
ところで、こうした二つの潮流が形成される中、外相としてあるいは宰相として権力をふるったのは吉田茂であった。その吉田は、サンフランシスコ講和条約締結五周年を迎えた一九五六年、「平和条約締結五周年を迎えて」と題する一文を公表した。そこで吉田は、自らが作り上げた外交作品と言えるサンフランシスコ条約には「戦争の後始末として未解決の問題が幾多あること」を自ら指摘した。そして、そうした問題として、「ソ連との関係」「賠償の計画」「通商条約」「ガットとの関係」に加えて、韓国との国交正常化、中国とのそれ、さら に、吉田が何よりも捨て置き難き問題としてあげているのは、「抑留者の問題」「裏南洋や小笠原の邦人復帰問題」であった。(『回想十年』第四巻)。しかし、それを歴史認識問題と関連させることはなかった。占領独立期の吉田は、憲法改正が要求され、食糧問題が切迫し、そして国内外での冷戦構造が顕在化する中で、如何にして国家再建の筋道をつけるかに忙殺され、歴史認識問題は視野に入らなかったかのようであった。
第三の道?
しかし、戦後70年を経た現在に至っても、しばしば繰り返されるのは、日本が自らの手で戦争を総括していないという自主的総括の欠如に対する批判である。こうした批判に鑑み、また以上みてきた経緯を踏まえれば、敗戦後から1950年代に生まれたこの二つの政治的文脈以外に、日本には、あの歴史を総括する道はなかったのだろうかという問いかけにも一定の意味があるかもしれない。それは、日本は、自らの手で、歴史認識問題を総括することができなかったのだろうか、という問いかけ と言い換えることが出来よう。
実は、敗戦前後から、敗戦国としての日本への政治的圧力が強まる一方、内発的に、あの戦争の経緯と実像を理解しようとする試みがあった。本稿で描きたいのは、そうした可能性が発露し、そして消えていく筋道である。
以下、短い紙幅の中で本稿が注目しているのは、戦後に「オールド・リベラリスト」と命名される戦前戦時の自由主義者たちの軌跡である。軍部には反対するものの、保守的(例えば天皇制を否定しない点など)とされる彼らの政治的立場から生まれる歴史認識には、当然ある種のバイアスがあるだろう。しかし、彼ら「オールド・リベラリスト」こそが、戦後初期の日本政治や思想界を主導した。そして、彼らが、少なくとも、外部からの強制に寄らない、内発的な歴史への関心を育んだ勢力の一つを形作っていたのである。彼らが可能性として提示した日本独自の総括とはどのようなものたりえたのか。多様な「オールド・リベラリスト」たちの議論から、共通するものを取り出して、整理してみたい。
清沢洌と日本外交史研究
いまだ戦時中であった昭和19年。石橋湛山が主催する東洋経済新報社内で「日本外交史研究所」という小さな研究団体が産声を上げた。その主催者は、清沢洌。彼は、昭和戦前期に活躍したジャーナリスト・言論人である。
研究所の設立に至る関係記述は、残された彼の戦時日記にある。昭和18年12月28日には「日本外交史研究会の設立趣意書を書く。けだし年来の希望を出現し、かねて生活的にも備えんとするもの」との記述がある。翌29日にはその趣意書を東洋経済に提出し、資金集めに奔走しはじめる。発足には一年ほどかかった。翌19年12月5日の日記によれば、発足式の参会者は23名。「たまたま小野塚博士[喜平次]の告別式あり。穂積〔重遠〕博士、蝋山〔政道〕君等はそのため欠席」したという。おそらくは、25人程度の会員で発足したのだろう。発足式の場所についての記述はないが、参会した芦田均の日記によれば、東洋経済新報社であったことが確認できる。
こうして外交史研究所の設立と運営の主導者となった清沢であるが、彼は、戦争前には、日米関係の維持を主張し、対米戦争や開戦に至るプロセスを主導する主戦派や右派に批判的な人物であった。開戦後に始められた戦時日記においても、清沢は日本の排外主義的な言論を煽った人物を批判して倦むところがなかった。清沢は、こうした右派批判を大っぴらにしなかった。批判が度を超えると、取り締まりの対象になりえたからである。そうした鬱憤をはらすかのように、戦時期の清沢が没頭したのが歴史研究だった。近代以降の最初の近代日本外交(清沢にとって見れば現代日本外交史)の通史というべき『日本外交史』(1942年)や後の『日本外交年表竝主要文書』上下(1953年)の基礎となる外交年表や資料の類を整理したのも、この時期の研究成果だった(北岡伸一『増補版 清沢洌』)。この研究所は、こうした彼の歴史研究への関心の延長線上にあった。
しかし、この研究所が特に興味深いのは、ここに、昭和戦時期に逼塞していた戦前の自由主義者が勢ぞろいした観があることである。会の発足時の日記から参会者を列挙してみると、元外交官の幣原喜重郎、柳沢健、ジャーナリストの石橋湛山、鈴木文史朗、伊藤正徳、馬場恒吾、政治家の植原悦二郎、芦田均などである(昭和19年12月5日の条)。多様な職種をそろえているが、彼らは皆、戦前戦時に軍国主義や国粋主義からは距離をとり、自由主義的な立場を貫こうとした人物であった。日本外交史研究所は、他方では、戦前戦時に逼塞していた彼ら「オールド・リベラリスト」の結集体だったのである。
幣原喜重郎と満州問題
残念なことに、その後のこの会の活動期は長くなく、実質的には大きな成果を出さずして終わっている。清沢自身が肺炎をこじらせまもなく急逝したことは、戦前戦時の日本の自由主義そのものにとっても打撃であったが、それは、研究所にとってもそうであったかもしれなかった。
わずかな手がかりとして残されているのは、研究所の発足式に参集した幣原から聴取した談話記録である。
日米関係に最も強い関心を有していた清沢は、幣原からの談話聴取のトピックとして、幣原の外交官人生のハイライトとも言えるワシントン会議や日中関係に関するものを選んでいるが、さらにもう一つ、幣原と清沢の関心が、満州事変前後の満州問題に据えられていることが興味深い。幣原が語る次のような挿話には、多くの読者が関心を惹かれるだろう。
「昭和6年の頃のことであった。陳友仁君が日本にきて、いろいろ話し合いをしたことがある[注 陳は王兆銘を首班とする広東政権の外交部長]。・・・・同君の意見は満州を特別のステタスに置きたいと云ふにあつた。張学良はその歳入の八割を軍備に使つてゐる。しかし左様に軍備を拡張しても、事件が起これば直ちに日本軍のために圧迫されつくすのである。これは愚だ。そこで満州では総督制度をやめてハイ・コンミツシヨナー組織にする。ハイ・コンミツシヨナーには兵馬の権がなく、巡督を置いて治安を維持するのである・・・支那が単に領主権を持ち、ハイ・コンミツシヨナー[ High Commissioner ]はノミナル[ nominal ]な支那の承認の下に日本が任命するような仕組みにしたらどうだろう。これが大体陳君の処分案の要領だった」(「日支問題の想出 幣原喜重郎男爵口述 清沢洌筆記」日時不詳)
日米開戦に続く道が果たしていつから始まったのかについては諸説あるが、満州問題あるいは満蒙権益こそが、戦前の日本外交の死活的利益であったことは間違いない 。そして、一九三一年九月に起きた満州事変が日本外交の曲がり角に位置することを知る我々は、中国の一部の勢力からもたらされたこの提案に、大きな「歴史のイフ」を感じるだろう。
しかも、幣原 この案が満州事変直後に再び日本に持ち込まれたことを強調していることも興味深い。さらに、 幣原は「陳君がこの時〔満州事変後のこと〕持参した案の中には、右の満州処分案の外に日支同盟案といふのがあつた」ともいっている 。もちろん、我々は、1930年代において、「満州ハイコミッショナー制度」も「日中同盟案」も、ともに実現しなかったことを知っている。現実に起きたのは、満州国建国の強行であり、それをめぐる国際連盟との軋轢であり、中国華北部への進攻、そして中国との全面戦争の勃発である。それがやがて世界戦争への道を舗装して行った。しかし、こうした談話を語る戦争末期の幣原と清沢は、満州事変以降の現実への痛烈な「仮想現実」を提示していた。ここに示唆されているのは、二人の「オールド・リベラリスト」に体現されている30年代日本外交への痛切な違和感にほかならなかった。そして、その違和感は吉田も強く感じていた違和感だったのである(『回想十年』第一巻)。
重光葵と幣原外交との距離
現在、我々は1920年代と30年代の日本外交の質的な相違を前提にあの戦争の歴史を学んでいる。こうした論理は、たとえば安倍総理の談話にも端的に述べられ、広く国民に行き渡っているように思われる。つまり、世界恐慌あるいは満州事変の衝撃を強調し、それ以前の国際協調外交をそれ以後のブロック化や国際的孤立化、あるいは独伊への接近外交と対比させる歴史観である。
だが、実は、国際協調論者として知られる幣原も、いわゆる満蒙権益を絶対視していた。満州事変時には関東軍や朝鮮軍にきりきり舞いさせられた若槻礼次郎内閣の外相だった幣原は、それにもかかわらず、満蒙権益の擁護においては人後におちなかった(『幣原喜重郎』第13章)。
逆に、幣原にかわり、30年代、そして戦時の日本外交を担った人物はどう考えていたのだろうか。そうした人物の一人に重光葵がいる。彼は、30年代に外務次官、駐ソ大使、駐英大使をへて外務大臣となるが、満州事変以降、日本がアジアの覇者たるべきというアジアモンロー主義的な政策を遂行した一人として知られる。
その重光は、実は、清沢の強烈な批判対象でもあった。清沢は、「重光はソ連にいても、ロンドンにいても、強力勢力のテーストに向くようなことばかりいって来たものであって若い官吏たちはこれに心服しなかった」(昭和19年12月9日の条)と書く。重光は戦争主導者だといわんばかりの口吻である。
しかし、30年代の外務省を支えた重光と、清沢が尊敬してやまない幣原との間には、20年代半ばから満州事変期までに大臣とチャイナハンズとして仕えた親しい関係があった。重光も幣原外交の限界は意識しながらも、二〇年代の対中政策を支えあった同志的感情までは失っていなかった。そうした二人は、戦争末期、戦後構想を巡って意見交換をしている(「幣原男爵と大東亜戦争和平観」清沢洌手記)。重光が幣原よりも遙かに強気な攻勢的外交方針を持っていたことは確かであるものの、両者が完全に対立しているわけでもなかったのである。
しかも、国際協調主義者であった清沢も、他方ではこんなことも日記に書いている。「いわゆる強硬外交は成功する。それが一定のところで止まればだ。日本が満州事変で、イタリーがエチオピアで、ドイツがミュンヘン会議で止まればそれは成功する。……問題は、そうした諸国はそこで止まれるかどうかである」(昭和18年12月30日の条)。こうしたエピソードも、1920代と1930年代の日本外交の距離が意外と近かったことを示している。つまり、「オールド・リベラリスト」たちは、死活的な利益とは何かを明確にしており、そのことについては彼らの間に広汎な共通理解があった、そしてそれを擁護することに関しては極めて現実的な態度を取っていたのである。
反共主義と対中政策の過誤
オールド・リベラリストに共通するといわれるもう一つの特徴に、反共産主義がある。清沢は、右翼よりは左翼を評価した感があるが、それでも、戦時日本の反知性的な傾向を、封建制とコミュニズムの結合(昭和18年12月20日の条)と呼んで忌み嫌っている。
反共主義に関しては、昭和20年2月に書かれたいわゆる「近衛上奏文」が、独特の陰謀史観を遺憾なく発揮していることが知られている(『木戸幸一関係文書』)。この上奏文において、満州事変以来の歴史は、陸軍の統制派に多いとされた隠れ共産主義者の陰謀により起こされたとされるが、この上奏文執筆の中心にいた人物の一人が吉田だった。
吉田は、30年代以降も、清沢や幣原との交流があり、戦時下までその交流を続けたが、吉田の反共主義は突出していた。重光はどうか。重光自身のソ連嫌いは、吉田を上回ることはあっても下回ることはなかったろう。それでも実は重光はソ連と一貫してかかわりを持っている。戦前には駐ソ大使となっていたし、敗戦直前の対ソ 和平工作にもかかわった。戦後にも鳩山一郎内閣下で日ソ国交回復の担当者となった。また、重光は、日本社会の平準化や社会主義の影響力について一定の理解を持つ「進歩性」を示した(拙著『重光葵と戦後政治』)。しかし、吉田は、重光とは異なり、戦前戦時を一貫して親英米派として過ごし、戦後もソ連と妥協しかねない重光に疑念の目を向けた。吉田は、鳩山内閣下で重光が進める日ソ交渉を「従来の奇怪なる交渉」と呼び、ソ連との交渉を「国辱」と言って憚らなかったのである(『回想十年』第四巻)。
もう一つ、これは従来指摘されてこなかった感が強いが、日本の対中国政策の過誤をどう認識しているかという点をめぐる差異も興味深い。
まず、幣原であるが、1930年代の幣原は、時代の裏面でしばしば外務省の対中政策をサポートしていた。幣原は、特に第一次近衛文麿内閣時代の対中政策に批判的で、昵懇の石射猪太郎東亜局長に「つくづく外交を知らぬ者にかかつてはしかたのないものだと痛嘆」したという(『幣原喜重郎』第13章)。こうした幣原の日中関係への強い関心は、日米関係へのそれに勝るとも劣らないものであり、それは戦後まで続いた。1946年3月、幣原は「私は霞が関にをつた頃から、実はその前から、日支両国の関係に就いては、親善提携理解することの必要性を強く信じてをつたのであります。その当時でもさうであつたが、今日でもその信念は変らぬのである」(「私の支那観」昭和21年3月25日)と語っている。
重光は、幣原よりもさらに踏み込んでいる。1945年9月の降伏文書調印式前、重光は、新聞記者を前に次のように語っている 。
「今日は明治時代とは世界情勢を繞り日本の地位も変わつてゐる、吾々は明治時代の努力をすると共に明治時代の過ちを犯してはならぬ。明治時代の三大欠点[としてあげられるのは]、言葉は困るが「チャンコロ」政策であった。日清戦争は已むを得すやつたのたか、日清戦争終結してからも「チャンコロチャンコロ」と呼んで、明治時代が如何に規模のちいさいものでたつたのかか判る」(『終戦史録』第一巻)
実は、こういった対中(アジア)政策への強い反省 の念は、敗戦直後の一般世論の中にも探し出すことが できる。 敗戦の年の11月には、戦前を代表する言論人の一人であり、憲法研究会に参加して民間の憲法草案を書いた室伏高信が「われわれが戦争の責任を糾明すべしといふのは、一つには世界に対するわれわれの義務をはたすことであるが――とりわけ中国四億の平和な国民について我々が国家の名において何をなしたかを想起せよ」と激烈な対中政策批判を繰り広げていることは注目に値しよう(室伏高信「新たなる日のために」『新生』創刊号)。
つまり、敗戦前後、突出して近代日本の対中政策の過ちを主張しているのは、幣原、そしてそれ以上に重光であった。しかし、こういった過誤に関する認識は、やがて宰相への道を歩み出す吉田 には見られないものだった。吉田に、自らも関わった戦前の対中積極政策に対する感慨がなかったわけではないだろう。しかし、吉田はあくまで敗戦状況の中で思考し、「出来ることをやる」という「状況思考型」の政治家だったのである(渡邊昭夫編『戦後日本の宰相たち』中公文庫)。
おわりに
以上、本稿で述べてきたのは「オールド・リベラリスト」たちの、戦前日本の植民地支配と対外侵略に対する「反省」の一端にすぎない。しかし、そこからも、東京裁判ともサンフランシスコ講和体制とも異なる道として、日本人が自主的にあの戦争を総括し、自らの誤りを糺せた可能性のようなものは垣間見られるのではないだろうか。
しかも、こうした試みは、幣原喜重郎内閣下で「制度化」されている 。1945年11月に内閣に設置された戦争調査会がそれである。この調査会の総裁には、幣原の要望で、吉田茂の岳父であり、昭和天皇を内大臣として支えたこともある牧野伸顕の就任が予定されていた。しかし、紆余曲折を経て幣原が総裁を兼務したかたちでこの調査会は活動を本格化させる。それは、実は、敗戦直後に自主的に戦争の原因と経過を超すべきだと考えた幣原の執念の産物でもあった。そして、その委員には、清沢の名は当然見られないものの、芦田、馬場ら、日本外交史研究所に関わった「オールド・リベラリスト」も名を連ねたのである。
しかし、そのころから、敗戦後の日本の世論は、帝国時代の日本政治に潜在化していた以上のような「豊饒さ」を全否定していく。また、政府にも「第三の道」を選択する余裕などなかったのだろう。それどころか、戦争調査会自体が、日本は次の戦争を準備しているのではないかというソ連の懸念で廃止のやむなきに至ったのであった(「朝海浩一郎報告」『戦争調査会事務局書類』)。
結局のところ、新生日本は粛々と東京裁判を受け入れ、サンフランシスコ講和を締結した。この道へと新生日本を率いた吉田は、「戦争は、勝ちっぷりもよくなくてはいけないが、負けっぷりも良くないといけない。鯉は俎板の上にのせられてからは、包丁をあてられてもびくともしない。あの調子で負けっぷりをよくやってもらいたい」との鈴木貫太郎の忠言を忘れなかった (『回想十年』第一巻)。日本を国際社会に復帰させ、世界に誇るべき豊かな国へと導いた吉田外交は、歴史認識問題に関しては、禍根を残したとも言えるかもしれない。しかし、我々は、そうした状況を受け入れることで、日本がようやく国際社会に復帰できたことを知っている。「吉田茂の時代」とは、結果的にではあれ、歴史認識問題を巡って、自主的総括を回避するという選択を行った時代だったのである 。
◆続きはこちら→第2回:「佐藤栄作の時代――高度経済成長期の歴史認識問題」村井良太