戦後70年という節目の2015年は、安倍首相の「70年談話」も話題となり、歴史認識について改めて考えさせられる年となりました。
そもそも「歴史認識問題」とは、これまでどのように捉えられ、語られてきたのか。また、それらに関わる国内外の状況の変化を、我々はどのように理解すればよいのか。
政治外交検証研究会は、戦後日本の歩みを振り返り、改めて歴史認識問題について考察していきます。
第2回「佐藤栄作の時代~高度経済成長期の歴史認識問題」
村井 良太(東京財団政治外交検証研究会メンバー/駒澤大学法学部教授)
はじめに
教科書問題、首相の靖国神社参拝問題、従軍慰安婦問題と、歴史認識問題は国際問題として意識されて久しい。しかし、その戦後史をひも解く時、時期による変化が重要である。歴史認識問題はその時々の日本の、世界の状況に左右される。吉田茂から佐藤栄作の時代に目覚ましい経済復興を遂げた日本は、沖縄返還の実現とほぼ時を同じくして、国際社会でどう生きるか、あらためて高度経済成長後の道行きを問われた。吉田が対日平和条約受諾演説で述べた「古い日本の残骸」から生まれた「新しい日本」はどこに向かったのか。1960年代から70年代の歴史認識問題を俯瞰する。
1. 六〇年安保後の日本と内省の進展:1960-1964
戦後処理問題への実務的対応
1960年代には現在から顧みて二つの神話がある。一つは経済大国という神話であり、もう一つは自由民主党の黄金時代という神話である。いずれも結果論で、同時代的な当事者の理解とは距離がある。日本は1958年に高度経済成長への足取りを開始したものの、1960年には安保騒動という一大騒擾によって政治的不安定を露呈した。野党社会党は労働者らの支持を背景に国民合意の一翼を担う手強い反対党であった。さらに安保騒動は新安保条約の延長が議論となる1970年に向けた保革対立の再スタートともなった。「1955年体制」と呼ばれた自社二大政党対立は池田勇人や佐藤らによって日米協調を基盤とする経済路線を辿りつつ、左右からの恒常的な不満や批判にさらされたのであった。
1960年の安保騒動後にまず進展したのは冷戦の要請による米国、西ヨーロッパ諸国との関係強化であったが、同時に池田政権は、タイ特別円問題、ガリオア・エロア問題、ビルマ賠償再検討交渉など戦後処理問題に引き続き取り組んでいた。対日平和条約は冷戦が日本に有利に働いた面はあるにせよ、第一次世界大戦後のドイツへの過大な賠償負担が次の大戦の原因となったとの反省から、日本の「存立可能な経済」を維持すべく賠償を限定した。日本はビルマ、フィリピン、インドネシア、南ベトナムと協定を結んで1955年から76年まで賠償を支払い、また同時期にラオス、カンボジア、タイをはじめ戦後処理の一環として賠償に代わる経済協力や支払い等のいわゆる準賠償を行って、問題解決に努めた。
その中で1962年に始まるシンガポール、マレーシアとの「血債」問題に触れておきたい。2月にシンガポールで日本占領期に犠牲となった大量の遺骨が発見されると、日本政府は華人殺害の事実を争うことなく、池田首相は「心からの遺憾の意」を表した。他方で英国の賠償請求権放棄によって法的な請求権は存在しないという立場をとり、両国の合併問題も絡んで日本に有利な解決を引き出そうと交渉を重ね、長期化の末、佐藤政権期の1966年、67年に無償供与と借款をあわせて問題の「完全かつ最終的」な解決に合意した。法的枠組みへのこだわりに加えて、他地域でも起こりうる均衡の問題、現地の政治情勢も起因した。賠償をめぐる与野党対立も単純ではなく、社会党は政府の贖罪意識の欠如を批判する一方で、そのような誠意があれば賠償額は少なくて済むはずだと反対した。それは日本の生まれ変わりを重視する姿勢ではあったが、相手国の考えとは距離があったと言えよう。
内省の展開と遺された共同体
他方、敗戦からの時間の経過と高度経済成長の中で内省にも変化が見られた。1962年から63年に日本国際政治学会が『太平洋戦争への道』(全7巻+別巻資料編)を刊行し、満州事変前夜から日米開戦までの経過が学術的に探求される中で侵略のメカニズムが明らかにされていった。日本は対日平和条約で東京裁判等連合国による戦犯裁判を受諾したが、自由な歴史研究は侵略の計画性や時期など時に「公的な」歴史と対立し、また補強する。この時期、多様な議論が喚起され、林房雄は「大東亜戦争肯定論」を発表し、家永三郎は次代にいかに教えるか教科書検定をめぐって1965年に訴訟を起こした。
慰霊の問題も進展した。戦前戦中に戦没者慰霊の中心施設であった別格官弊社靖国神社は占領改革で国との関係を絶たれ、宗教法人として存続を許された。遺族にとって問題はまず生活であり、次に国の協力下で靖国神社への合祀が進められた。いずれもBC級戦犯が含まれていった。海外での遺骨収集作業も行われ、千鳥ヶ淵戦没者墓苑が設立された。池田政権は1964年1月、GHQによって1947年4月に停止された戦没者叙勲を再開した。同じく独立回復後の1952年に新宿御苑で開かれた政府主催全国戦没者追悼式を1963年に日比谷公会堂で開催し、以後毎年行われる。1964年は靖国神社敷地内で開かれたが国会で問題化し、翌年から日本武道館での開催が定着した。
2. 日韓国交正常化とベトナム戦争-七〇年安保に向けて:1965-1969
日韓国交正常化
1964年10月の東京オリンピックで日本は戦災からの復興を世界に披露したが、中国は核実験を行い、ベトナムでは翌1965年2月に米軍による北爆が開始された。その中で1965年6月、佐藤政権下で日韓基本条約が調印され、国交正常化が果たされた。予備交渉から14年かかったが、最大の懸案であった請求権問題では、冷戦を意識した米国の強い後押しもあって、池田政権の大平正芳外相と金鐘泌韓国中央情報部部長との間で無償供与3億ドル、有償借款2億ドル、商業借款1億ドル以上の準賠償が合意され、最終的に商業借款が3億ドル以上に積み増しされた。額については韓国の希望に添うことに努め、他方で「完全かつ最終的」な解決が確認された。あわせて1965年2月には椎名悦三郎外相がソウル金浦空港で「両国間の長い歴史の中に不幸な期間があったことはまことに遺憾な次第でありまして、深く反省するものであります」と述べた。条約には両国内で強い反対があり、韓国では朴大統領の対日「低姿勢」外交批判が戒厳令を招き、日本では1970年を意識しながら、南北の分裂を固定化し軍事的性格を持つのではと批判された。
「平和国家」日本の国民慰霊を探して
1965年8月に沖縄を訪れ、その祖国復帰が実現しないかぎり日本の戦後は終わらないと述べた佐藤首相は、1967年8月、戦没者追悼式の感想を述べて「もう戦争の爪跡は日本のどこにもこれを見つけることはできない。ただ単にそれを強いて言うならば、全国戦没者の英霊、その霊の前に立つた時に初めて、過去の戦争の爪跡を感ずる」と述べ、民主主義政治の基盤の下で経済繁栄に邁進する「平和国家」日本を守り抜かなければならないと説いた。他方、ベトナム戦争は日本人の反戦意識を大いに刺激し、大学紛争が長期化する中で左右対立は先鋭化していた。
慰霊の問題は靖国神社の国家管理をめぐって進展した。1966年4月、靖国神社国家護持全国戦没者遺族大会が開かれ、日本遺族会の集めた靖国神社国家護持の請願署名は最終的に2347万7424人に及んだ。赤紙と言われるように、兵士は国家によって日常生活から強制的に切り離され、戦場に送られたという理解があった。海外での遺骨収集作業も1968年に再開された。しかしこうした鎮魂への思いは政教分離原則の解釈をめぐる憲法問題と衝突した。慰霊の中心施設としての靖国神社を慣習的に当然視する国民が少なくない一方、労働組合や市民運動など憲法を強く擁護し軍国主義や国家主義の復活を危惧する層があり、他に戦時中の体験から信仰の自由を重視する宗教団体など、左右対立に止まらない固い反対があった。反対派の活動の中心には司法による救済を求める裁判闘争があり、津地鎮祭訴訟をはじめ幾多の訴訟が起こされていく。靖国神社が創立百周年を迎える1969年、自民党議員から靖国神社法案が提出されたが、憲法の枠内でいかに国家護持を図るか、「靖国神社」の名前は残すも宗教団体ではなく、戦没者等の決定は政令で定める基準に従って靖国神社が申し出、首相が決定するとされていた。
3. 日中国交正常化と七〇年安保後の憲法論争:1970-1975
日中国交正常化
沖縄返還合意を実現した佐藤政権は1970年6月に安保条約の自動延長を果たし、70年安保を乗り切った。同年の大阪万博では「人類の進歩と調和」が発信され、「戦争を知らない子供たち」が歌われた。時の経過による世代の上昇や変化は顕著であった。高度経済成長を経て国力を高めた日本の「軍国主義復活」を懸念する声が内外に出る中、佐藤は日米協調による「非核専守防衛国家」を唱え、「経済大国」という前例のない挑戦を語った。
1971年秋に昭和天皇は50年ぶりに訪欧した。英王室はこれを機に異例にもガーター勲章をはじめ戦時に剥奪した名誉をすべて回復したが、馬車にコートを投げつける者もあり、政府間での法的解決では済まない問題の根深さをあらためて印象づける旅となった。
次に田中角栄内閣が成立し、1972年9月、中国との国交正常化が実現した。日本は中華人民共和国政府を中国唯一の合法政府と承認し、中国は戦時賠償の請求を放棄した。背景には劇的な米中関係改善があった。日中共同声明には「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と記された。日本では野党も輿論も中国との国交正常化を歓迎していたが、自民党内には中華民国の扱いをめぐって異論があり、また中国に与えた被害の大きさを考えれば高度経済成長後とはいえ賠償放棄は交渉の前提とも言えた。他方、中国政府はソ連との戦争の危機を深刻に受け止めており、日米両国との関係改善を必要としていた。そこで日本との和解に積極的でない自国民に対して「日本軍国主義者の中国侵略はかつて中国人民に大きな災厄をもたらし、同時に、日本人民にも大きな災禍をもたらした」と「広範な日本人民とごく少数の軍国主義分子」とを区別する説明を行った。
占領下で「大東亜戦争」の呼称が否定され、「太平洋戦争」が用いられたが、次第に東アジアでの加害責任が重視され、また被害者視された国民の加害責任が問われるようになった。本多勝一は1972年に中国戦線での日本軍の戦争犯罪を告発した『中国の旅』をまとめた。1974年1月から田中首相は東南アジア諸国を歴訪し、反日デモに迎えられている。このような国民全体の加害責任への意識は、事実の理解と大国化する中での自戒に寄与する一方、逆説的にも指導者の責任を希薄化させる論理を内包していないだろうか。
靖国神社をめぐる鎮魂と憲法意識の衝突
靖国神社法案は1969年から74年まで毎年提出されたがすべて廃案に終わった。1974年の審議過程では衆議院法制局が「靖国神社法案の合憲性」を出し、疑いなく合憲であるとする一方、二拝二拍手一拝という神道形式での拝礼にこだわらないなど徹底的な宗教性の排除を求めた。この時、自民党は単独採決によって衆議院を通したが参議院で再び廃案となった。直後の参議院議員選挙では与野党伯仲国会が生まれ、ここに遺族会や神社本庁など推進者は、将来の国営化を目標としつつも、天皇や外国使節の公式表敬など公式参拝に重点を置くことにした。
1945年8月以降も昭和天皇と歴代首相の参拝は続いてきていたが、戦後30年となる1975年、三木武夫首相は初めて8月15日に参拝した。合祀者数ではすでに圧倒的であったとはいえ、明治期以来の歴史を持つ靖国神社を先の大戦とあらためて強く結びつけた。また、三木首相は違憲の疑いを避けるために「私人」としての参拝を強調し、「公人」としての千鳥ヶ淵戦没者墓苑への参拝と区別した。このことは参拝が公的か私的かという新たな論点を生み出し、国内の論争はますます錯綜した。
同年秋、昭和天皇は米国を訪問し、「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」と言及した。帰国後の11月21日、昭和天皇は靖国神社を参拝し、私的参拝と説明された。国民の喧噪が止まぬ中で昭和天皇最後の参拝となり、以後、現在まで天皇の参拝はない。
4. 次なる時代の胎動―靖国神社A級戦犯合祀という社会反乱:1975-1980
反省をふまえた大国路線
1975年4月にベトナム戦争は終わったが、東アジアでの戦火は絶えない。78年にはベトナムがカンボジアに侵攻、79年には中国がベトナムに侵攻した。さらに12月にはソ連がアフガニスタンに侵攻し、新冷戦が始まった。揺らぐ世界の中で、1975年に西側先進国首脳会談に参加した三木首相は、「日本は如何なる困難に出会おうとも自由と民主主義を守りぬく国である」と語った。また福田赳夫政権は1977年に東南アジア政策で日本は軍事大国にはならず、心と心の関係を重視する姿勢を示し(福田ドクトリン)、翌78年には日中平和友好条約を締結した。そして続く大平政権では環太平洋連帯構想における「大東亜共栄圏の再来」といった批判に配慮してオーストラリアの主導性を促し、中国には進んで円借款を供与して改革開放路線を後押しした。
宗教法人靖国神社の独自路線
こうした政府の積み重ねの一方、1979年4月19日の新聞報道で、国民はすでに前年、靖国神社に東条英機らA級戦犯が合祀されていたことを知らされた。A級戦犯の合祀には厚生省掩護局の旧軍人グループが積極的で、1966年に全ての未合祀者の祭神名票が靖国神社に送られ、その後、BC級戦犯の合祀がほぼ終了した後の1970年に靖国神社崇敬者総代会で合祀が決議されたものの、筑波藤麿宮司の判断で時期を見合わせていた。ところが1978年に筑波宮司が急死すると、後任の松平永芳宮司は急遽合祀に踏み切った。松平宮司は「私は、就任前から、『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました」と回顧している。
靖国神社は合祀に際して異例の秘密主義を採り、一宗教法人として独自の道を歩み始めた。他方、大平首相は報道直後の春季例大祭で参拝したが、この時、内外で特に問題の構図が変化したわけではない。なお、2006年にスクープされた富田朝彦元宮内庁長官のメモで、昭和天皇がこの合祀に反対で、以後、参拝を行っていないことが明らかにされている。
おわりに
この時期、戦後処理は、賠償はもとより、日韓・日中国交正常化によって北朝鮮をのぞく法的解決に目処が立つ一方、憲法論の形で国内での論争が高まり、次の時代の国際問題化を準備することになった。日本では「戦後70年」とよく言われる。敗戦から70年、日本が次の戦争を主体的に行うことなく過ぎたことは、日本はもとより世界にとっても価値あることであった。他方でこの言葉は「戦後」がまるで平板な一つの時代であるかのような、そうあるべきかのような錯覚を招きはしないか。時代毎の環境や問題の変化は著しく、また国際社会や人々の意識も時代とともに変化する。日本の中でも地域や立場で異なる複数の「戦後」があり、同じ東アジア地域ですら戦後の時間の流れは大きく異なる。歴史認識問題を政治問題や外交問題に安易に転化することなく、また軽視することなく、慎慮に基づく和解や共助を日々積み重ねていく中で内外の相互信頼が維持伸張されていくことを願いたい。そのためには、国民の事実と文脈への理解を基礎として、国家理性と国民感情の均衡を図りつつ国民合意と内外の調和に果たす政党政治の役割が大きいと言えよう。
主要参考文献
大沼保昭・江川紹子(2015)『「歴史認識」とは何か』中央公論新社
佐藤晋(2008)「対シンガポール・マレーシア『血債』問題とその『解決』」『二松学舎大学東アジア学術総合研究所集刊』38号
東郷和彦・波多野澄雄編(2015)『歴史問題ハンドブック』岩波書店
秦郁彦(2010)『靖国神社の祭神たち』新潮社
服部龍二(2011)『日中国交正常化』中央公論新社
村井良太(2006)「戦後日本の政治と慰霊」劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識―日中対話の試み』東京大学出版会
吉田裕(2005)『日本人の戦争観―戦後史の中の変容』岩波書店
李鐘元・木宮正史・浅野豊美編(2011)『歴史としての日韓国交正常化』Ⅰ・Ⅱ、法政大学出版局
◆続きはこちら→第3回:「中曽根康弘の時代――歴史認識問題の外交問題化」佐藤晋