評者:村井 良太(駒澤大学法学部教授)
1.基本的な主張―みごとな「素人」の見本
本書は防衛庁長官としての坂田道太を振り返ることで、現代日本において防衛組織のトップがいかにあるべきかを論じている。本書は防衛大学校で長らく教鞭を執った著者が月刊誌『正論』に二〇一二年秋から翌年春にかけて連載した「防衛庁長官・坂田道太」を元にしており、その問題意識は野田佳彦内閣での一川保夫、田中直紀両防衛大臣の「素人」ぶりへの批判に根ざしている。しかし、著者は「素人だからダメ」と決めつけるのは間違いであるという。そもそも警察予備隊発足以来の六〇有余年間、防衛組織のトップについて「大半が『素人』でやり繰りしてきたお国柄」でもあり、「複数主義的民主主義国家―いわゆるウェスタン・デモクラシー国家」では国防担当の閣僚が「素人」であるのはむしろ「常識、常態」である。そこで「みごとな『素人』の見本」としての坂田防衛庁長官を遺族の元に残されていた私文書も用いて描き、「むしろ素人の方がよい」と主張するのである。
2.坂田道太にとっての「今日」
書名の「むしろ素人の方がよい」とは坂田自身の言葉でもある。「今日的現実を踏まえた対処のしかた」を考えるには「素人の見方」の方が良いと坂田は述べた(二六、五〇頁)。では、坂田防衛庁長官にとっての「今日」とはどのような時代であったのか。一九四六年に戦後初の総選挙で当選して以来の代議士で、すでに厚生大臣、文部大臣を経験していた坂田が防衛庁長官を務めたのは三木武夫政権下の一九七四(昭和四九)年一二月九日から一九七六年一二月二四日までであった。著者が「分水嶺」の時代というこの時期は、米中米ソ二重デタントが進む一方、東アジアではヴェトナム戦争が西側に不本意な形で終結し、その朝鮮半島情勢への波及が懸念されていた。他方、沖縄返還と日中国交正常化を果たした日本は、第1回サミットに参加するなど高度経済成長を経て米国の覇権後退後の多極世界の一翼を担い、周辺諸国や米国には日本の軍事大国化を懸念する空気もあった。核兵器不拡散条約を日本が批准したのは一九七六年六月のことである。この間、憲法上の疑義とともに出発した自衛隊は世論での支持を高めつつあったが、オイル・ショック後の「狂乱物価」は財政制約を強め、他方でデタント基調を疑問視する声も上がり始めていた。
3.「素人」防衛庁長官の発揮した強み
そのような時代状況の中で、坂田の「素人」としての強みが発揮された側面を著者は三つあげている。第一に、防衛問題に関する国民意識の涵養である。「素人」とともに本書のもう一つのキーワードが「教育者的」である。坂田は教育者的な防衛庁長官であり、まず自らを教育し、さらに多くの講演、対談を通して国民に理解と関心を求めた。そして、「防衛を考える会」という有識者会合を私的諮問機関として設置し、防衛の理念を形作るとともに、ひとたび中断していた『防衛白書』を刊行し、以後、年一回の刊行と英語版作成を軌道に乗せた。また、十分浸透しなかったとはいえ、ロッキード事件でも説明に努めた。
第二に、防衛政策の領域での評価である。坂田は日本防衛のための三原則として、国民一人一人の国を守る気概、日本国憲法の制約下での必要最小限の防衛力整備、大規模攻撃や核の脅威に対する対米防衛依存のための日米安保条約の堅持をあげた(五六、八六頁)。その中での日米安保条約の不可欠性を具体化するのが、政治指導下での日米調整の取り組みであり、シュレージンジャー米国防長官との協議で日米防衛協力の出発を飾り、後の「日米防衛協力のための指針」に続く道筋をつけた。そして、ポスト四次防問題の中で「所要防衛力」論をとらず「基盤的防衛力構想」を推進し、「防衛計画の大綱」をまとめた。その過程ではデュー・プロセスを重視し、国防会議を熱心に開催した。その中で問題として残ったのは防衛費の対「GNP比一%枠」をめぐる問題であったが、財政的要請による厳格な適用は坂田の本意ではなかった。
そして第三に、自衛官に好ましい「教育者的」影響を及ぼした。坂田は自衛隊に「小さくても大きな役割」を期待し、二一歳となる自衛隊を記念して新聞広告を出すなど「制服を着た市民」として開かれた自衛隊となることを求めた。比較的長く長官を務めた坂田の部隊訪問や訓示の回数は突出しており、「曹士の糧食費」問題など生活面での改善も図った。三木おろしに際しても首相の指揮系統を大切にしたことは重要な挿話である。また、本書は坂田の憲法観にも触れているが、坂田は積極的な改憲論者ではなく、「今日の憲法規範のもとで、その制約の下においても、日本及び日本人を守らなければ」という立場であったという。
4.「戦後」日本の遺産―シビリアン・コントロールとシビリアン・アウェアネス
評者はまず、私文書まで用いて知る人ぞ知る議会政治家坂田道太に光が当てられたことを喜びたい。防衛庁長官としては素人を自認した坂田は玄人議会政治家であった。こうした筋道を大切にし、キラリと光る議会政治家は近代日本はもとより現代日本でも少なくない。中選挙区制下であればこそ、また、戦時体験や戦後(焼け跡)体験があればこその坂田であったかを問えば、現在と将来を考える手がかりともなるだろう。
次に、本書が「分水嶺」と述べる一九七〇年代への関心をあらためてかき立てられた。来年二〇一五年には「戦後」七〇年を迎えるが、七〇年の中には「戦後」という一語では表されない時期的変化がある。本書との関わりでとりわけ興味深いのは坂田が文相を務めた佐藤栄作政権である。先の坂田の防衛三原則は佐藤が強調した点でもあり、最初の防衛白書も同政権で出された。それは敗戦の傷を癒し、他方で米国の覇権が後退する中で、経済大国化した日本がいかに生きるかという問題であった。三矢研究事件も坂田の日米防衛協力の進め方に影響を与えたことがうかがえる。佐藤政権は国力が昂進する中で四次防に止めることで吉田茂以来の軽武装政策の継続性を示し、三木政権では五次防ならぬ防衛計画の大綱によって逆に政策の継続性を示した点も興味深い。その意味では著者が副題で示した「政策の大転換」とは、坂田防衛庁長官期に顕著に表れているように見えて、その実一九七〇年代を通じて進んだ息の長い転換過程ではなかっただろうか。また、坂田は政策決定の新しい方法として「防衛を考える会」を重視したが、文相期にも学者、ジャーナリスト、官僚を動員して大学問題を考察しており、それは田中角栄の「都市政策大綱」に倣ったという。分水嶺後の時代を「第二戦後」と呼ぶべきか、戦後終焉後と言うべきかは別にして、このような新たな内外環境に臨む上で、日本の政党政治が持っていた人材と道具立ての豊穣さを感じさせる。
そして最後に、最も強調されるべき本書の意義は政治と軍事、軍事と国民の関係についての示唆である。日本は先に軍事をめぐってあまりに大きな失敗を経験し、そのことが「戦後」という言葉に特別な存在感を与えてきた。では活かすべき教訓は何かというと、国民の間に必ずしも意見の一致はないように思われる。軍隊の存在それ自体が問題であったのか。それとも国際協調の道筋を外れたことが問題であったのか。いずれにせよ軍事に対する政治を通した社会的統制の欠如という点では異論はないだろう。それは帝国陸海軍にとっても不幸であったが、歴史は政党指導者による統制の不在とともに軍事専門知識が職業軍人に独占されたことによって有効な批判や考察が機能し得なかったことを教えている。このことを思うとき、私たちは坂田の評伝を通して戦後日本が長い時間をかけて培ってきた努力と答え、すなわちシビリアン・コントロールとその前提となるシビリアン・アウェアネスの涵養とを再確認することができる。
現在では日米関係に止まらず広く多国間の防衛対話が行われ、先鞭を付けた坂田の時代のような「素人」以上の資質が防衛大臣には期待されよう。しかし他方で、災害の大規模化に対応する機会が世界的に増えるなど軍事組織がますます国民と身近に活動するようになる中で、坂田のように国民の理解と関心と共感を喚起し続け、有識者会合を通じて知と国際的なコミュニケーションを吸収し続ける文民防衛指導者は、民主主義社会にとっても防衛組織にとっても時を越えて不可欠であると言えよう。日米安保体制とともに「不射の射」の政策の根幹として坂田が二一歳を祝った自衛隊も、国民とともに歩んで今年で還暦を迎えた。本質的問題を扱う時宜を得た出版と言えよう。