評者:村井良太(駒澤大学法学部准教授)
政治標語の政治学 ― 近代日本における「憲政常道」論の終わりなき旅路
本書は著者の博士論文を元にした専門書で、「憲政の常道」という政治標語への考察を手掛かりに、「近代日本における二大政党制の形成と崩壊」を論じる。対象とする時期は1900年から1932年までの30年以上に及び、現在で言えば、大平正芳首相の死去からの時間にほぼ匹敵する。著者はまず、政党政治や二大政党制、二大政党間での政権交代などの同義語として扱われることの多い「憲政の常道」が、実は「きわめて多義的な言葉」であり、「近代日本において理想的な政治像を示すキーワード」であったと指摘する。そして、「憲政の常道」がおおむね「二大政党による政党政治」を示すことを踏まえつつ言葉の意味の変遷を「実証的に解明」することで近代日本における政治的変化を照射する。
本書は三つの課題に対応した三部七章からなる。まず、近代日本における二大政党制の導入が何を目的にどのように論じられたのかを問う第一部「大正政変期における二大政党論の構築」では、非政友会派の政治戦略としての二大政党論に注目して、(1)憲政本党と桂新党(政治家)、(2)憲政促進記者団(新聞記者)、(3)吉野作造(政治学者)の二大政党論を検討する。政治エリートが戦略以上には消極的であったのに対して、第二次西園寺公望内閣の外交政策を批判する対外硬論がジャーナリズムから二大政党論を導いたとの指摘は興味深い。両者の果てに吉野の二大政党論があるが、選挙腐敗問題と社会主義運動の台頭に、遅すぎた春というべきか、「吉野の失望をよそに、戦前日本の政治は二大政党を中心とする議会政治へと転換していく」。
次に、二大政党制の導入過程とその成立が政党政治に及ぼした影響を問う第二部「憲政常道論の形成と展開」は、(4)政友会と憲政会の政治戦略に注目して「憲政常道」論が政界の支配的言説となる過程と、(5)政党政治定着後の憲政常道論(知識人・西園寺)に注目する。評者が興味深く感じたのは第一に、近代日本におけるもう一つの政治標語「挙国一致」への洞察で、「憲政常道」論は「挙国一致論に対抗するためのスローガンであった」というように相互排他的な意味があった。第二に、著者は両党迭立型の憲政常道論が現実化したことが、二大政党間の競合を昂進させ、政党政治の発展に困難をもたらす一因となったとの理解を示す。そして第三に政党の戦略として「憲政常道(両党迭立型)」論の現実化は、他方で馬場恒吾の総選挙による政権交代論など新たな「憲政常道(多数党政権)」論を社会で生み出していく。こうした中で、満州事変の勃発前には政党政治への要請を政界から失わせつつあったと述べる。
そして、戦前政党政治がなぜ崩壊し、政党政治の挫折が「憲政の常道」といかなる関係にあったのかを問う第三部「憲政常道と二大政党政治の崩壊」は、「首相奏薦の重責を担った元老西園寺公望」に着目して、(6)満州事変後の「協力内閣運動」と犬養内閣の成立、(7)五・一五事件後の斎藤内閣成立による「政党政治の終焉」を論じる。「憲政の常道(両党迭立)」論に修正を迫るのが協力内閣論であり、単純な政権交代に固執する元老西園寺と協力内閣を支持する牧野内大臣という通説に対して、両者の相違を宮中の政治介入の是非に求め、宮中官僚が政党内閣を放棄していなかったこと、さらに西園寺については「必ずしも『憲政常道』方式に固執していたわけではなく、政党両首脳が自発的に連立するのであれば、『協力内閣』に異論はなかった」と述べる。そして本書のハイライトである五・一五事件後の非政党内閣の成立であるが、本書ではここに至るまでにすでに二つの布石が打たれている。それは政党が自ら墓穴を掘ったといういわば政党自滅説と両党迭立型政権交代の隘路である。その上で「自らの意思で『憲政の常道』を中断するに至った」西園寺の判断基準に迫る。政党政治への支持を基本姿勢としながらも「指導者層全体の『輿論』を重んじる」西園寺の判断に決定的であったのは、「右翼」的と見られた平沼騏一郎枢密院副議長のみならず、党派的人事を問題視された鈴木喜三郎政友会総裁の首相就任も拒否する昭和天皇の希望であったと結論づける。
本書は三つの課題に対応した三部七章からなる。まず、近代日本における二大政党制の導入が何を目的にどのように論じられたのかを問う第一部「大正政変期における二大政党論の構築」では、非政友会派の政治戦略としての二大政党論に注目して、(1)憲政本党と桂新党(政治家)、(2)憲政促進記者団(新聞記者)、(3)吉野作造(政治学者)の二大政党論を検討する。政治エリートが戦略以上には消極的であったのに対して、第二次西園寺公望内閣の外交政策を批判する対外硬論がジャーナリズムから二大政党論を導いたとの指摘は興味深い。両者の果てに吉野の二大政党論があるが、選挙腐敗問題と社会主義運動の台頭に、遅すぎた春というべきか、「吉野の失望をよそに、戦前日本の政治は二大政党を中心とする議会政治へと転換していく」。
次に、二大政党制の導入過程とその成立が政党政治に及ぼした影響を問う第二部「憲政常道論の形成と展開」は、(4)政友会と憲政会の政治戦略に注目して「憲政常道」論が政界の支配的言説となる過程と、(5)政党政治定着後の憲政常道論(知識人・西園寺)に注目する。評者が興味深く感じたのは第一に、近代日本におけるもう一つの政治標語「挙国一致」への洞察で、「憲政常道」論は「挙国一致論に対抗するためのスローガンであった」というように相互排他的な意味があった。第二に、著者は両党迭立型の憲政常道論が現実化したことが、二大政党間の競合を昂進させ、政党政治の発展に困難をもたらす一因となったとの理解を示す。そして第三に政党の戦略として「憲政常道(両党迭立型)」論の現実化は、他方で馬場恒吾の総選挙による政権交代論など新たな「憲政常道(多数党政権)」論を社会で生み出していく。こうした中で、満州事変の勃発前には政党政治への要請を政界から失わせつつあったと述べる。
そして、戦前政党政治がなぜ崩壊し、政党政治の挫折が「憲政の常道」といかなる関係にあったのかを問う第三部「憲政常道と二大政党政治の崩壊」は、「首相奏薦の重責を担った元老西園寺公望」に着目して、(6)満州事変後の「協力内閣運動」と犬養内閣の成立、(7)五・一五事件後の斎藤内閣成立による「政党政治の終焉」を論じる。「憲政の常道(両党迭立)」論に修正を迫るのが協力内閣論であり、単純な政権交代に固執する元老西園寺と協力内閣を支持する牧野内大臣という通説に対して、両者の相違を宮中の政治介入の是非に求め、宮中官僚が政党内閣を放棄していなかったこと、さらに西園寺については「必ずしも『憲政常道』方式に固執していたわけではなく、政党両首脳が自発的に連立するのであれば、『協力内閣』に異論はなかった」と述べる。そして本書のハイライトである五・一五事件後の非政党内閣の成立であるが、本書ではここに至るまでにすでに二つの布石が打たれている。それは政党が自ら墓穴を掘ったといういわば政党自滅説と両党迭立型政権交代の隘路である。その上で「自らの意思で『憲政の常道』を中断するに至った」西園寺の判断基準に迫る。政党政治への支持を基本姿勢としながらも「指導者層全体の『輿論』を重んじる」西園寺の判断に決定的であったのは、「右翼」的と見られた平沼騏一郎枢密院副議長のみならず、党派的人事を問題視された鈴木喜三郎政友会総裁の首相就任も拒否する昭和天皇の希望であったと結論づける。
丁寧さと大胆さ ― 本書の特徴と意義
本書の特徴として、第一に、議論の丁寧さと大胆さを挙げておきたい。本書の対象期には厚い研究蓄積があり、新しい研究は史料との対話と同時に先行研究との対話を求められる。本書は三つの先行研究の系譜上に位置する。第一の系譜は「憲政常道」論の考察である。この点で坂野潤治が先駆者であるが、北岡伸一は「憲政常道」を野党の論理と見る戦略性を強調した。「憲政常道」への考察はより広く「大正デモクラシー」体制をめぐる再検討の一環でもある。第二の系譜は第二保守党研究であり、優越的な政友会に対抗する中で、その外延には知識人・官僚分析の蓄積がある。そして第三の系譜は、宮中研究、立憲君主制研究である。その中で著者は先行研究との関係を丁寧に整理する一方、大胆に他の研究者と史料解釈の技能を競っているかのようである。
第二の特徴として、本書の現代的関心についても指摘しておきたい。著者は「戦前日本政治の歴史的経験から二大政党政治を考察する一助となることを願う」と述べる。歴史研究がすぐさま何かの問題に答えを与えるわけではない。しかし、現代の課題と取り組む中でともすれば狭まってしまう視野に刺激を与え、大きな見取り図を考えさせる意義は大きい。現在、両大戦間期の政党政治については関心が高まっており、一般書が相次いで世に問われている。このような流行の中で、着実かつ厳密な専門書の意義は大きい。
そして第三の特徴として、現在への教訓として著者によって引き出されるのが二大政党制に対する基本的な懐疑であり、「最大の問題は『憲政の常道』が政党の行動原理を克服できなかったことにある」と結論づけられる。しかし他方で、戦前政党政治の失敗という政党自滅説であるとしても単純な自滅説ではなく、森恪への評価でも分かるように、竹中治堅が『戦前日本における民主化の挫折』(木鐸社)で論じた政党政治家の準忠誠の態度、すなわち政党政治家自身が民主的な制度から逸脱する行動をとる問題というよりは、二大政党迭立型ルールの未発達というメカニズムの問題として提示されていることは興味深い。それはデモクラシーの不在の問題ではなく、形態の問題であって、先の馬場の政権交代論にも見られるように、さらなる展開が視野に入っていた戦前日本における政党政治の「到達点」があらためて問われている。
第二の特徴として、本書の現代的関心についても指摘しておきたい。著者は「戦前日本政治の歴史的経験から二大政党政治を考察する一助となることを願う」と述べる。歴史研究がすぐさま何かの問題に答えを与えるわけではない。しかし、現代の課題と取り組む中でともすれば狭まってしまう視野に刺激を与え、大きな見取り図を考えさせる意義は大きい。現在、両大戦間期の政党政治については関心が高まっており、一般書が相次いで世に問われている。このような流行の中で、着実かつ厳密な専門書の意義は大きい。
そして第三の特徴として、現在への教訓として著者によって引き出されるのが二大政党制に対する基本的な懐疑であり、「最大の問題は『憲政の常道』が政党の行動原理を克服できなかったことにある」と結論づけられる。しかし他方で、戦前政党政治の失敗という政党自滅説であるとしても単純な自滅説ではなく、森恪への評価でも分かるように、竹中治堅が『戦前日本における民主化の挫折』(木鐸社)で論じた政党政治家の準忠誠の態度、すなわち政党政治家自身が民主的な制度から逸脱する行動をとる問題というよりは、二大政党迭立型ルールの未発達というメカニズムの問題として提示されていることは興味深い。それはデモクラシーの不在の問題ではなく、形態の問題であって、先の馬場の政権交代論にも見られるように、さらなる展開が視野に入っていた戦前日本における政党政治の「到達点」があらためて問われている。
いくつかの論点について ― 日本デモクラシーの経路と現在
その上でいくつかの論点を提起しておきたい。第一に、「憲政常道」論の起源について、本書は政治戦略の観点から加藤高明と非政友会系ジャーナリズムを重視しており、意義深い。他方で、評者はかつて第三次桂太郎内閣が出来る前に政友会内で多数党型の憲政常道論が唱えられることに注目したが、政友会のエリートの憲政論とは異なる陣笠議員の憲政論、すなわち政友会のもう一つの立憲的伝統や戦略に還元できない民意の中の「憲政常道」論をどのように考えるだろうか。第二に、西園寺の「協力内閣」像について、本書は「憲政常道」と「協力内閣」を地位にも絡んだ正面衝突として描いた坂野説に対して、政党政治家が自発的に協力内閣を組もうとしたら西園寺はそれを許容したであろうと述べて説得的である。その上で、西園寺に二つの選択肢への選好の相違はなかっただろうか。薩長の対立まで持ち出して論じていることから異論はなくとも固執はあったように感じられる。その背景として強い内閣とは何かという理解があり、多数党に支えられた単独内閣が強い内閣であるというかつての「常道」が当時の現実から否定されていく過程を象徴しているかのようである。そして第三に、五・一五事件後の政党内閣からの離脱要因として、最終的に昭和天皇の「希望」に答えを求める点である。これは史料実証で結論を確定することが難しい問題である。一つは、昭和天皇が政治システムとしての政党政治を否定していたのかという点だが、もとより鈴木を否定したに過ぎないとはいえ、「希望」には政党内閣を前提とするような項目があり、選挙で多数を占めた第一党の新総裁を排除するというのはずいぶんと強い行動である。また、最後まで政党内閣を考えていた西園寺の最後の判断については、国際連盟からの脱退過程も含めると、天皇の希望に左右される以上のより深刻な判断ではないかと思われる。その意味で二大政党制の挫折を論じる時に五・一五事件後で分析を終わって良いかという論点もあるのではないだろうか。
以上はいわば説得力を競う楽しい解釈合戦の部分である。その上で本質的な議論として、当時の政治構造をどう理解するか、例えば元老の存在意義自体をどのように考えるかという問題がある。さらに、そのような理解は「戦後民主主義」とどのように結びつくのであろうか。三谷太一郎は、丸山眞男が批判した「重臣イデオロギー」(重臣リベラリズム)について、1920年代と1930年代で「ヴェクトルの方向に変化が生ずる」と「前期段階」と「後期段階」に分けた上で、「丸山の旧体制批判は、『重臣イデオロギー』に向けられただけでなく、旧体制の一部であった『民主主義』にも向けられていたのである」と述べる(三谷『学問は現実にいかに関わるか』東京大学出版会)。本書の主題はまさに丸山が一部同時代人として、また、多くは振り返って考えたこの「重臣リベラリズム」(中でも「前期段階」)について、その実像を問うものであろう。著者が論じた約30年間の物語は、対外路線や政軍関係においてどのような意味をもったのか。そして歴史は戦争で終わらない。著者が最後に触れているように、戦後日本に、さらには現代の日本にとって対比を超えた経路としてどのような意味を残しているのかにも注目したい。
もとより本書の魅力はここで紹介したにつきない。本書は自画像の中から日本のデモクラシーを問う試みであり、西欧文明の中に育まれたデモクラシーが世界に広がる時にどのような広がり方をするのかという点で世界史、中でも20世紀史の重要な一部をなす。政治史は一見古めかしい学問であるとも言われるが、権力を云々することから本質的に、不可避的に権力批判の学となる。それは担い手にとっては少なからず慎重さと勇気とが求められるべき学問であり、社会にとって必要不可欠な学問である。新たな智の結晶とともに、丁寧で大胆な新たな担い手のデビューを喜びたい。
以上はいわば説得力を競う楽しい解釈合戦の部分である。その上で本質的な議論として、当時の政治構造をどう理解するか、例えば元老の存在意義自体をどのように考えるかという問題がある。さらに、そのような理解は「戦後民主主義」とどのように結びつくのであろうか。三谷太一郎は、丸山眞男が批判した「重臣イデオロギー」(重臣リベラリズム)について、1920年代と1930年代で「ヴェクトルの方向に変化が生ずる」と「前期段階」と「後期段階」に分けた上で、「丸山の旧体制批判は、『重臣イデオロギー』に向けられただけでなく、旧体制の一部であった『民主主義』にも向けられていたのである」と述べる(三谷『学問は現実にいかに関わるか』東京大学出版会)。本書の主題はまさに丸山が一部同時代人として、また、多くは振り返って考えたこの「重臣リベラリズム」(中でも「前期段階」)について、その実像を問うものであろう。著者が論じた約30年間の物語は、対外路線や政軍関係においてどのような意味をもったのか。そして歴史は戦争で終わらない。著者が最後に触れているように、戦後日本に、さらには現代の日本にとって対比を超えた経路としてどのような意味を残しているのかにも注目したい。
もとより本書の魅力はここで紹介したにつきない。本書は自画像の中から日本のデモクラシーを問う試みであり、西欧文明の中に育まれたデモクラシーが世界に広がる時にどのような広がり方をするのかという点で世界史、中でも20世紀史の重要な一部をなす。政治史は一見古めかしい学問であるとも言われるが、権力を云々することから本質的に、不可避的に権力批判の学となる。それは担い手にとっては少なからず慎重さと勇気とが求められるべき学問であり、社会にとって必要不可欠な学問である。新たな智の結晶とともに、丁寧で大胆な新たな担い手のデビューを喜びたい。
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