論考:「明治150年と国家という生き物―多様なストーリーラインを求めて―」
村井 哲也(政治外交検証研究会メンバー/明治大学非常勤講師)
1.戦前戦後の連続説と断絶説
明治150年を展望するには、2つの国家の存在を抜きに語れない。
1945年のポツダム宣言受諾を境に分け隔てられた、戦前国家と戦後国家のことである。前者は齢77にして後者は齢73。2つの国家はほぼ同年齢に差しかかっている。したがって、憲法体制や国際秩序が大きく変化した両者を比較することは、明治150年を展望するうえで極めて有益であり、政治史・外交史の王道である。
ただし、多様な歴史像を導き出すには、戦前と戦後という2つの国家を分け隔てるだけでは限界もある。ここで想起されるのは、戦前と戦後が断絶しているか連続しているかという古典的な論争であろう。
明治維新と戦前国家の性格づけをめぐる1920-30年代の「日本資本主義論争」は、GHQ改革と戦後国家の性格づけに波及し、すぐさま連続説と断続説を生み出している。戦前から戦後への連続性を唱える労農派と断続性を唱える講座派との論争は、経済史の争点のみならず、時に左翼陣営のイデオロギー争点であった。
戦後国家における政官関係をめぐっては、まず1950年代、戦前以来の官僚制は温存強化されたとの連続性を強調する「官僚優位論」が唱えられた。これに対し、自民党の長期政権化が明瞭となった1980年代、その断続性を強調する「政党優位論」が唱えられた。政治史・行政史における重要な争点であった。
さらに経済史や社会史では、1990年代から論争が進化している。戦時経済の構築が戦後の高度経済成長まで連続して影響を与えたとする「1940年体制論」、これに社会史の文脈を加え、戦時の国民総動員システムが戦後社会にまで連続して影響を与えたとする「総力戦体制論」などである。
ただし、これら論争の多くは、視点の違いによるところが大きい。近年の研究蓄積によって確認されるように、視点によって断絶性が浮き彫りになることもあれば、連続性が浮き彫りになることもあるからである。
断絶か連続かの二尺択一を迫る歴史像は、あまり建設的ではない。
この陥穽を避けつつ、戦前と戦後という2つの国家をどのように統一的に描けばよいのであろうか。本連載では、明治150年の歴史を循環的に描く「サイクル論」も提起されている。これも極めて有益であり、例えば外交史では過去の国際関係を、メディア史では過去のポピュリズムのメカニズムを、大胆に解明することに役立つであろう。
しかし、この「サイクル論」とても万能でない。理論研究やデータ分析が陥りがちな罠のように、ひとたび手段と目的を履き違えれば、変転する歴史事象を無理やり定期的なサイクルに当てはめてしまうことになりかねない。
2.明治150年を通した「一本の線」
重要なことは、それぞれ一長一短の多様な視点を重層的に積み重ねることで、明治150年の歴史像を立体的に浮き彫りにしていくことである。そのためには、現在の研究蓄積から欠けがちな歴史像のピースを埋めていくことが必要となる。
これまで欠けてきた歴史像の一つは、明治150年を「一本の線」で繋ぎ、その軌跡の全体像と現在の立ち位置までを描いていく試みではないであろうか。それぞれの時代に断絶や連続がありながら、それらが一体となって連綿と次の時代へと繋がっていく。このシンプルな捉え方が、明治150年の歴史像のなかで欠けてきたように思われる。
戦前国家と戦後国家は、それぞれ別個のものとして描かれることが多い。当然ながら、両者のストーリーラインは断絶してしまう。佐藤栄作政権の明治100年記念事業も安倍晋三政権の明治150年記念事業も、その関心が明治維新や戦前国家の評価に偏り、戦後国家の評価と断絶しがちなのはよく指摘されるところである。
それでは、戦前と戦後の連続説ならばストーリーラインが「一本の線」で描かれているのかといえば、そう単純な話でもない。
「官僚優位論」と「政党優位論」とは決着がついた訳でなく、現在に至るまで「党高政低」「政高党低」、「党高官低」「官高党低」などと目まぐるしく評価を変えてきた。結局、主に自民党長期政権のもと、政と官がどう機能や役割を分担してきたかに論争は収斂している。
「1940年体制論」や「総力戦体制論」は、戦時の遺産が戦後の高度経済成長をもたらした要因とされる。それが1990年代からは負の遺産に一転して、バブル経済崩壊の構造的な要因となったという歴史像へと繋がっていく。
そこでは、1940年以前との連続性は不明な一方で、戦後改革が及ぼした影響は不自然に飛ばされる。高度経済成長が及ぼした影響も大雑把な評価である。高度経済成長こそが、政治・経済・社会にわたる多様な領域で、時に戦時体制や戦後改革より大きなインパクトと断絶をもたらしたと経済史で指摘されてきたにもかかわらず、である。
1990年代以降の政治改革から政権交代を求める時代、そしてバブル経済崩壊とそれに続く「失われた20年」への教訓を得るための、本連載でも指摘されたご都合主義的な「さかのぼり歴史認識」の限界であろう。断絶か連続かに関係なく、時の政治状況や経済状況によってストーリーラインが飛び飛びとなってきたのである。
このように、明治150年を「一本の線」で繋ぐストーリーラインは意外にも少ない。
3.戦前国家という半生
さて、イギリスの哲学者T・ホッブズは、旧約聖書の巨獣・リヴァイアサンたる近代の国家を生き物になぞらえている。国民との社会契約のもと運命共同体となった国家は、この人工人体を自動機械のごとく作動しはじめていく、という概念である。
あるいは、ドイツの哲学者G・W・F・ヘーゲルは、国家を君主や国民が一体の有機体となりそれぞれの機能を分担していく人体であるとして、やはり生き物になぞらえている。欧米への憲法調査に赴いた伊藤博文は、ドイツの法学者L・V・シュタインからこの概念を学び取り、戦前国家における憲法体制の礎として日本化していった。
これらの概念は様々な解釈論争を巻き起こしたが、どのような国家であれ、生き物のように時代の変化に晒されることに変わりはない。この変化に対応すべく国家の人格を代表する政治家たちは、数多の国民を結集して国家の人体を動かしていこうとする。
そうして国家は、絶えず意思決定を繰り返して生き続けなければならない。例えばこのようなストーリーラインから、明治150年を「一本の線」として描くことも可能であろう。
明治維新から誕生した戦前国家は、とにもかくにも天皇主権を前面に打ち出した統一的な近代国家を形成し、時に恐怖心と自尊心を交錯させながら帝国主義の国際環境を生き抜かなければならなかった。
明治維新から間もない1872年、戦前国家の人体は3481万人の国民で形成されていた。一方で、人格を代表する政治家は藩閥勢力による独占状態であった。それが明治憲法の制定で国会が開設された1890年には、人口3990万人の1.1%にあたる45万人の国民=有権者が国家の意思決定に加わりはじめた。
人口の3.0%にあたる151万人が有権者となった1912年には、大衆社会が明白となった。これを原動力に、本格的に台頭したのが政党勢力である。男子普通選挙制が導入されて初めての1928年の総選挙では、有権者は人口の19.8%にあたる1241万人。もはや、政党政治が時代の趨勢である。
ところが、国際環境の変化のみならず震災や恐慌が相次ぐと、国家の意思決定は急速に動揺をきたしていく。藩閥(元老)勢力と政党勢力がともに衰退すると、置き去りにされた大衆社会が不安定なポピュリズムやナショナリズムの震源地となったからである。
翼賛選挙が行われた1942年の人口は7288万人、有権者はその20.0%にあたる1459万人。幼少期から人体は2倍以上、成人期から意思決定に加わる国民は30倍以上に膨れあがっていた。あまりに急激な成長を遂げた人体に、合理的な意思決定をなすべき人格形成が追いつかない。結果的に、絶望的な開戦決定という自殺行為に及んでしまった。
やがて、瀕死の重傷を負いつつも戦後国家として再生の道がはじまっていく。
4.戦後国家という半生
アメリカを中心とした占領体制のもと、日本は領土を45.3%も失ったばかりか広範な市場・資源・貿易の機会も失ってしまった。国民主権に基づく新憲法が制定されたことで、議院内閣制による政党政治へと意思決定ルールが根本的に変えられた。
そのなかでも変わらないものがある。国土が荒廃し経済活動が破壊され、戦時以上の食糧難のなか、戦争を生きながらえた7215万人が立ち尽くしていた。そこに、海外に散らばっていた600万人以上もの復員兵と居留民が加わろうとしていた。これら国民を食わせて、生き続けなければならない。
この国家生存の危機に、戦前も戦後もなかった。
それでも、戦後国家による再生の道は若々しさに満ちていた。新憲法の施行を控えた1947年の総選挙では、男女普通選挙制のもと、人口7810万人の52.4%にあたる4091万人の有権者が国家の意思決定に加わった。つまり、戦後国家の人体は5割弱が20才未満で占められ、それに伴い人格形成も大幅に若返るチャンスを得たのである。
復興と独立に向けた再生の道が、躍動感に満ちていたゆえんである。ここから、自民党政権が誕生した1955年には人口8928万人の55.1%にあたる4924万人が、高度経済成長のピーク期であった1967年には人口1億20万人の62.9%にあたる6299万人が、急速に訪れた豊かさを享受しつつ意思決定の長期安定化に寄与していった。
しかし、高度成長の果実をもって不断の若返りも可能なはずだった戦後国家は、想像以上の速さで老いていく。米ソ冷戦の終焉により環境が激変し、自民党長期政権に終止符が打たれ、バブル経済崩壊に端を発した「失われた20年」に突入していく1990年代、世界でも類を見ない少子高齢化の病にかかってしまう。
政治改革の波により小選挙区制が導入されて初めての1996年の総選挙では、人口1憶2586万人の77.6%にあたる9768万人が有権者となっていた。これが民主党への政権交代が実現した2009年の総選挙では、人口1憶2751万人の81.5%にあたる1億395万人にも達している。
この趨勢は、選挙権が20才から18才に拡大された2017年の総選挙でも大勢に変わりない。気づけば、新憲法の施行から70年で20才未満の若者は5割弱から2割弱に激減し、それに伴い国家の意思決定は高齢化していた。さらに近年の投票率を見れば、無力感に苛まされる若者を中心に、意思決定に加わらない有権者は5割弱にも上る。
高齢者の政治パワーは、躍動感の代わりに硬直性をもたらしつつ、人体と人格の中枢を侵しつつあったのである。同時に少子高齢化の局面は、世界でも類を見ないスピードで人口減少の色彩を濃くしている。戦後国家の人体は急速に縮小に向かいはじめた。
5.生き続けていく国家
国家生存の危機をもたらしかねない老化と縮小に向かっていく人体を抱えながら、どのように人格を再形成して将来を生き続けていけばよいのか。明治150年のストーリーラインから辿りつく、現在の情景である。
国家は、生き続けていくため意思決定の模索と苦悩を半永久的に繰り返していく。そのような「一本の線」で明治150年を振り返ってみると、それぞれの時代の多様な意味が立体的に浮き上がってくる。同時に、憲法体制、国際環境、経済情勢など、また別のストーリーラインで繋いでいくことのイマジネーションも広がってくる。
著者に関して言えば、現在、意思決定システムというストーリーラインに沿って明治150年を描く試みを行っている最中である。
もちろん、「一本の線」で繋ぐことの限界もある。それぞれの時代で事細かに意味を見出し繋いでいくことに拘れば、かえって全体像が見えにくい教科書的な羅列となりかねない。あるいは、ストーリーラインありきの創作かになってしまうかもしれない。あくまで歴史像の一つと捉えるべきであろう。
それでも、明治150年の人生を特定のテーマに絞った「一本の線」で繋ぐことの意味は大きい。全体を見渡す鳥瞰的な歴史像がもたらされ、将来を見据えた現在の立ち位置が確認できるからである。
そして何より、ここから膨らんでいく多様な歴史のストーリーラインは、明治150年後の国家が生き続けていくために、ますます必要不可欠なものとなっていくに違いない。
★関連論考はこちらから⇒ 論考 「ポスト明治100年の答え合わせ」