評者:千葉功(昭和女子大学人間文化学部准教授)
1.本書の内容
本書は、モスクワで2006年に刊行された原著の完訳である。著者であるモロジャコフ氏は1968年モスクワ生まれ、モスクワ国立大学と東京大学で博士号を取得、現在は拓殖大学日本文化研究所客員教授を務めている。
本書を書評する前に、簡単に本書の内容をまとめておこう。
第1章では、「鉄道帝国主義」の時代、満鉄総裁に就任した後藤新平が満鉄ないし日本の官営鉄道のレールをロシアの工場に発注するため、ロシアを訪問(1908年)したときのことを中心に扱っている。ロシア訪問は後藤自身のイニシアティブというよりも、ヴィレンキン(大蔵省駐日特別顧問)の鼓舞によるものだという(pp.22-24)。また、後藤は歓迎会の席上、「本当の経済関係なくして、国家間の友好的関係は存在しない時代となった」というスピーチしたという(p.36)が、この発想はいかにも後藤らしい。
第2章では、後藤が満州における経済問題の解決をてこにして、政治的な面における日露提携の深化に積極的であったことが描写される。後藤の働きかけもあって、日露が共同してアメリカの満州鉄道中立化案を拒否するとともに、第2次日露協商が結ばれる。このように、日露戦争によって日本が南満州に勢力範囲を確定したあとは、満州問題に関しては日露が利害を共有していた事実が改めて確認(pp.55,57-61)される。後藤自身は、中国問題における悪の根源は中国に政治的中核がないことにあると認識していた(p.59)という。
第3章(エドワルド・バールイシェフとの共同執筆)では、第一次世界大戦の勃発により日露はついに同盟を結ぶに至るが、それとの後藤のかかわりが叙述される。後藤は日英同盟がもたらす利益に懐疑的(p.86)であり、そのことが日露同盟締結への好意の背景にあったことが示唆される。それどころか、日露同盟の締結の先には、新しい戦後国際秩序の基盤として日露独三国同盟の可能性があったとモロジャコフ氏はみており、その根拠として後藤や山県有朋と近い関係にあったジャーナリスト茅原華山の言説を引用している(pp.95-97,101)
第4章では、「親露派」と「嫌露派」との対抗関係から、日本がシベリア出兵にふみきる過程を描いている。ロシアにたいする干渉の反対者たちは、日本のロシアとのパートナーシップや同盟によって日本にもたらされる利益に懐疑的であった。それに対して本野一郎や後藤といった「親露派」の方がロシアへの干渉に賛成した(p.108)。ただし、本野と違って後藤は状況に適応した行動を取っただけなのであり、間違いないし失敗にはあたらないという。
第5章では、ロシア革命・シベリア出兵で断絶した国交の回復のため、後藤がヨッフェ(ロシア共和国極東全権)との間で行った非公式交渉を扱う。内田康哉外務大臣が革命派との交渉に冷淡だったのに対して、革命政権と非公式折衝を行ううえで後藤がより適任であったことが、本書からもうかがえる。後藤・ヨッフェ会談は直接的には成果をあげなかったが、その後の正式交渉に続く好ましい気運の醸成には成功した(p.174)。
第6章では、後藤とゲオルギー・チチェーリン(外務人民委員)やカラハン(中国大使)との書簡のやりとりを紹介している。後藤のチチェーリン宛て書簡の中で、後藤は「イギリス、アメリカだけにおもねる国際友好関係を築くような政策は受け入れることはできない」「両国民が力を結集することにより、ベルサイユ、ワシントンなどの国際会議で生じた欠点や誤りを補うことができる」と述べている(pp.176-179)。具体的には、日ソの経済的協力関係の強化(シベリアへの移民など)がその根底にすえられていた(pp.197-204)ところが、いかにも後藤らしい。
そして、最終章である第7章では、後藤の最晩年における訪露の様子を詳細に述べる。後藤の訪問は非公式なものであったが、ロシア側からは首脳級の応対を受けた。漁業協約問題では最終段階で妥結に至る一方で、中国問題では後藤の持論である、中国東北部に関する日ソ協商ないし日ソ中の三国協商締結には至らなかった。しかし、後藤が日露両国関係の改善に格別の貢献をしたことを、カラハンの弔辞や大川周明の賛辞から浮かび上がらせて本書を終わらせている。
2.本書の意義と問題点
近代の日露関係において、後藤新平のような非公式チャンネルの存在とその重要性は先行研究において早くから指摘されていたが、それをロシア側一次史料から見たことに本書の意義があろう。本書は、ロシア帝国外交文書館(モスクワ)・ロシア連邦外交文書館(モスクワ)などの史料館に所蔵されている一次史料を利用して書かれている。そのため、レジゲル陸相や駐中国大蔵省外交顧問などがハルビン―寛城子支線の放棄・売却論を唱えていた(pp.20-21,31)といった興味深い事実が紹介される。ちなみに、著者はその一次史料の大部分を集成した史料集を2005年に刊行し、さらに邦訳を同じ藤原書店から刊行(『桂太郎、後藤新平とロシア』)する予定だという。
本書は後藤とロシアとの関係に焦点を当てるために、日露戦争やロシア革命、シベリア出兵という障害にもかかわらず、後藤が日露・日ソ関係の改善に大きく貢献した事実がクローズアップされる。このこと自体はもちろん間違いではないが、モロジャコフ氏は後藤の対外構想を日露の二国間関係の局面に限定して見るために、対立図式の設定が不自然なものになってしまった点が問題である。
そもそも伊藤博文を元老のなかでもっとも「親露派」(p.21)と規定すること自体、評者には違和感があるが、それはさておくにしても、山本権兵衛を「反露思想の持ち主として際立った人物」(p.76)とするのは妥当だろうか。
シベリア出兵の章においても、「アメリカ・ファクター」を事実上捨象(ただし、小見出しには用いている―p.118)して、対露関係のみでシベリア出兵への態度を分析したために、「親露派」がシベリア出兵に賛成して、「嫌露派」が反対するという、アクロバティックな説明となっている。そのうえで、シベリア出兵を断行した「親露派」後藤の責任を免罪するために、代わってシベリア出兵期に長い間外務大臣を務めた内田康哉(後藤の政敵であったと著者はいう)に責任を転嫁する(pp.132-134)のは無茶苦茶であろう。
この「親露派」の追概念になると、さらにおかしなものとなる。モロジャコフ氏は、「リベラル派」(pp.68,93,126)、「リベラル西欧主義者」(p.77)、「リベラル派リーダー」(p.78)、「リベラル西欧派」(p.84)、「大西洋派」(pp.93,150)、「地政学上の大西洋派」(p.122)、「大西洋主義」(p.207)という概念設定を行っているが、「親英米派で、ロシアへの親しみを持たないいわゆるリベラル派」(p.107)という表現があるように、リベラル=親英米的=嫌露的と言いたいのだと思われる。しかし、この「リベラル派」「西欧派」が具体的に指す人物として牧野伸顕・大隈重信・加藤高明・吉野作造・内田康哉・原敬・石井菊次郎・松平恒雄・出淵勝次の名前を挙げているように、明らかに「親露派」と目される後藤や本野一郎以外の人物全てを「リベラル派」「西欧派」として括るために、限りなく意味は拡散してしまい、概念設定としては意味をなさないものとなってしまったのである。
モロジャコフ氏が「親露派」と「親英米派(ないし嫌露派)」の対立といった図式を想定するのも、多数国間関係はそれを構成する各二国間関係のゼロ・サム・ゲームという理解があるからではないか。言い換えると、対露関係が協調的であればあるほど対英米関係は敵対的になるはずだとか、対露協調と対英米協調は本質的に相反するものだとかいった理解があるために、「親露派」と「西欧派」の対立と、前者への顕彰というストーリーになったと思われる。しかし、当時の日本外交の発想は、できるかぎり多くの国と同盟・協商を構築して行こうとするポジティヴ・サム・ゲーム的なものであったと考える方が歴史的に見て適合的だと評者は考えるのである。
また、本書には概念設定の問題以前に、初歩的な事実誤認が散見される点が気になる。たとえば、「日本の完全な傀儡といってよい段祺瑞の北京レジーム」(p.99)、「軍部に近く、後藤と関係の深い徳富蘇峰」(p.99)、「寺内の得票」(p.100)、「ハウス陸軍大佐」(p.106)、「外務省欧米局ロシア課の東郷茂徳」(p.181)といった個所である。バフメーチェフ(駐日公使)のイズヴォリスキー外相あての書簡(pp.21-22,24-25)も、モロジャコフ氏は1907年のものとしているが、書簡末尾に「伊藤公爵が突然この世を去った」とある以上、1909年のものではないか。さらに、ロシア革命によって日本が恐れたのは、所有者がなくなった武器が、満州の独裁者張作霖や朝鮮人の独立勢力に渡ることであったという指摘(p.105)がなされているが、それには根拠があるのだろうか。
以上、かなり厳しい指摘を行ってきたが、本書の登場によって、ロシア側一次史料を利用して後藤とロシアとの関係を分析する研究が始まったことは確かである。さらなる研究の深化に期待したい。