評者:千葉 功(学習院大学文学部史学科教授)
内容の要約
本書は、そのタイトルにあるように、「強いアメリカ」と「弱いアメリカ」という、一見するとたいへんユニークな切り口から分析を行うものである。タイトルに込められた含意は後述するとして、まずは本書の内容を簡単に要約しておこう。
イントロダクション
第一次世界大戦後の東アジア秩序とそれへの日本外交の対応に関しては、1965年という同年に、入江昭の After Imperialism と三谷太一郎の「『転換期』(1918-1921年)の外交指導」という古典的研究が公表された。入江は第一次世界大戦後に成立した国際秩序として「ワシントン体制」の概念上の骨格を設定し、また三谷は国際秩序の変容に照応する日本外交の政策転換を主導した主体として原敬を見出した。この入江・三谷説に対して、2001年に出版された服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交1918-1931』がそれぞれを否定して、「ワシントン体制旧秩序説」と「勢力圏外交連続説」を展開した。本書は服部説を再批判して日本外交と国際秩序の転換・変化をともに認める立場に立つが、それは単に(入江昭・三谷太一郎・細谷千博・麻田貞雄による)先行研究を擁護することが目的ではないという。著者自身の言葉を借りれば、「本書の議論は、先行研究の問題意識を最終的には逆転させ、日本外交の転換が大戦前から東アジアの大国間関係を規定してきた「旧秩序」を、最終的に解体したこと、それと同時に、ワシントン会議が新秩序形成の「頂点」ではなかったことを示す」(p.25)ものである。
第Ⅰ部第1章 対華21か条要求の後
外務省内の政策構想に注目すべき変化が現れるのは寺内正毅内閣発足(1916年10月)前後である。課長中心主義である外務省内部では、小村欣一(政務局第一課長)を中心に政策転換がはかられたが、それは中国政策をおこなうにあたって対米関係を重視する一方、同盟国イギリスへの配慮は低下させていた。よって、石井・ランシング協定の交渉時において、石井菊次郎がランシングの提案を勢力範囲の撤廃論として理解して、賛同案を作成して外務省の回訓を求めると、日本政府はまったく否定的な反応を示したのに対して、第一課はウィルソン政権に対する政治的な協調策として高く評価した。1917年7月、寺内内閣は援段政策の実施を閣議決定し、西原借款が進められていくと、外務省内部では内閣に対する不満が蓄積されていったが、大国間協調と日支親善のバランスを重視する寺内正毅内閣の統制と調整によって、林権助(駐華公使)と西原亀三の対立はひとまず表面化することはなかった。しかし、ロシア10月革命と露独の単独講和は日支提携策を早急に進めることになり、その結果、西原と林の関係は本国政府による調整や統制が不可能なほど悪化した。そして、今まで「技術屋」の地位に甘んじていた外務省(特に政務局第一課)も内閣の政策を公然と批判しはじめ、日中の「感情融和」策として日本による治外法権撤廃を提唱するにいたった。
第Ⅰ部第2章 転換をめぐる政策論争
ウィルソンの講和構想に対して小村・第一課は敏感に反応し、勢力範囲や治外法権の撤廃などを積極的に提唱した。こうしたなか誕生した原内閣が対米協調の重視と中国政策の転換を課題としたことは、小村・第一課の政策構想が実際の対外政策に反映される余地を大きくした。ただし、中国政策に関する見解が原と外務省で、また小村・第一課と、伝統的な大国間協調策を唱える外務省首脳との間で完全に一致していたわけではなく、外務省の講和会議方針は「新外交」への具体的対応を欠く大勢順応主義であった。また、「新外交」問題で外交調査会の議論をリードしたのは、対外政策が勢力圏外交への回帰としても説明可能であった原ではなく、牧野伸顕であった。牧野は小村の覚書を採用して、「新外交」呼応論を主張した。外交調査会での議論は、意見の不一致の結果、外務省の消極的な大勢順応主義にかわる講和会議方針を提示することはできず、山東問題についても原の対米協調主義と、伊東巳代治らの大国間協調主義の混合物とならざるを得なかった。かたや、アメリカ国務省や代表団の対日姿勢はきわめて厳しく、日本への強固な不信を背景に、日本に大戦中の侵略政策の成果を放棄させ、同地域にもウィルソンの「新外交」の原則を適用しようとした。
第Ⅰ部第3章 ウィルソンと牧野伸顕
山東の旧ドイツ権益を無条件譲渡させるという日本側の方針は、ウィルソンをはじめとするアメリカ側の対日不信と、それをあおる中国側の宣伝を前に、実行不能が明らかとなった。牧野ら全権に対する、伊東ら外交調査会委員の影響力も明らかに薄れつつあり、牧野ら日本全権団が「新外交」呼応論にもとづいて対米交渉をおこなう余地は大きく拡大したが、日米対立の最大要因である山東に対する要求では、日本政府は何ら変わるところがなかった。しかし、外務省が断続的に行った独自指令と、全権の裁量権拡大を認めた政府の追加訓令は本国政府内政治の確かな潮流変化を牧野にしらせる貴重なシグナルとなり、牧野は講和会議からの脱退を示唆しつつも、勢力範囲の撤廃に言及、このことがウィルソンの交渉姿勢を大きく変えることになった。ウィルソンは、アメリカ代表団の反対を押し切って、最終的には日本に対する譲歩を決断する。このようにパリ講和会議で妥結に達したウィルソンと日本全権であったが、その後の国内承認では明暗を分け、ウィルソンが代表団の離反もあって上院でのヴェルサイユ条約の批准承認に失敗したのに対し、牧野には原首相と外務省の強力な支持が存在したのである。
第Ⅱ部第4章 アメリカ国務省の再挑戦
国務省は、パリ講和会議とアメリカ国内政治におけるウィルソンの敗北、あるいは「変節」を目の当たりにして、東アジア国際政治への「新外交」原則の適用をウィルソンに代わってふたたび試みるようになるが、その主たる舞台が新国際借款団の設立交渉であった。大戦前における国務省の政策構想は、巨大な自国の経済力を利用できる余地が限られていたため、日本との協調を意識したものであったが、国務省の対日協調の姿勢は、シベリア出兵によって動揺し、パリ講和会議の日米「妥結」によって大幅に後退する。かたや日本では、小村・第一課の政策構想を軸に、勢力範囲の撤廃を意味する実業借款の共同化への賛同が、外務省案として正式に閣議で承認された。ただし、小村・第一課ら「新外交」呼応論の重要な根拠の一つである満蒙特殊権益論は、大戦の終結によって動揺・後退した。外務省でも当初は、アメリカ案への積極的な呼応を説く主張と、対英協調を中心とした伝統的な大国間協調策で問題の拡大を抑制しようとする意見とが拮抗したが、中国鉄道の国際管理問題を契機に、前者の対米協調を重視する立場に傾いていく。そして、勢力圏外交の秩序の解体を目ざすアメリカとの関係調整と、満蒙除外とを両立させるため、対英権益を主眼とした欧米大国の鉄道政策を緩和するとの方針案を採用した。一方、満蒙特殊権益論は動揺し続けたが、それが勢力圏外交への回帰に結びつくことはなかった。
第Ⅱ部第5章 勢力圏外交秩序の溶解
カーゾンやイギリス外務省は、アメリカと打ち合わせて日本の満蒙除外要求を拒否したと、日本の政策決定者には認識された。同盟国イギリスの変節を理由に、大国間協調を説く伊東の主張が政策決定過程で否定された瞬間、勢力圏外交からの日本外交の転換は事実上確定した。さらに、早くから満蒙除外に不安を持ち、今回も列挙主義を推していた外務省は、政府訓令の概括留保要求を、満蒙を対象とする新借款団の活動に対する拒否権の留保に読みかえて行った。ここでアメリカ政府は、対日圧力を明白なかたちで増強するために、日本を除いた三国借款団案の「利用」を真剣に推進しはじめるが、アメリカ外交のコミットメントに対する根深い不安感から、イギリス側が煮えきらない政策態度を示したため、失敗した。日本の満蒙留保問題に進展が見られないため、見通しの立たなかった新借款団を設立させるため、アメリカ政府はラモントを派遣して日本との直接交渉に入った。途中、交渉が紛糾したが、最終的には除外される権益のみを列挙した内容で合意した。
第2部第6章 日英同盟の終焉
本章は、主にイギリスと日本の政策過程の検討を通じて、大戦が大西洋地域と太平洋地域を連結するかたちで引き起こしたシステムレベルの変化が、いかにして、なぜあのタイミングで日英同盟の廃棄に結びついたのかを明らかにする。1920年2月にイギリス外務省が作成した覚書では、アメリカ外交のコミットメントに対する根深い不信感や日本の大陸政策への警戒感などから、同盟の存続を支持した。この後、イギリス外務省は同盟の廃棄に舵を切ったが、同じ見解が政策決定者に共有されることはなかった。しかし、ヒューズ国務長官の賛同を契機に、ロイド=ジョージ首相とカーゾン外相は、同盟と英米了解の両立から、多国間協定(三国協定)が成立した場合の同盟消滅に立場をスライドさせた。他方、日本外交の基本原則は、1919年の講和会議と1920年の新四国借款団交渉を経て、中国における大国間の勢力圏外交から、勢力範囲の撤廃と経済的自由競争を主張するアメリカ外交の理念に賛同する「新外交」呼応策へと変化を遂げており、同盟喪失の代償は政策過程でまったく問題にならなかった。こうして、日英同盟は終焉し、同盟を代替する四国条約が成立した。
終章 「強いアメリカ」と「弱いアメリカ」の狭間で
日本は、パリ講和会議と新四国借款団の結成交渉における激しい日米対立を経て、アメリカの「新外交」の意義をすくなくとも東アジアの国際政治の文脈では極めて正確に理解し、旧秩序の復活は不可能であると観念するにいたった。なかでも、こうした「新外交」への呼応を説いたのは、当初は外務省の実務担当レベルの外交官にすぎなかったが、徐々に実際の日本の対外政策に反映されていき、1921年のワシントン会議の招請を待たずに日本は、大戦前の旧秩序を再建することを、自らの対外政策の方針として完全に放棄した。こうして、日本外交は「強いアメリカ」を念頭に、ワシントン会議に臨んだ。かたや、イギリスは勢力圏外交の時代が終わったとの観念を抱いていたが、ウィルソンのイニシアティブが断絶するとアメリカ外交の弱いコミットメント(=「弱いアメリカ」)に対する問題意識を抱き続けた。結局、アメリカの「国際関与の自己拘束」が回復しはじめてようやく、東アジアの旧秩序の象徴であった日英同盟と勢力範囲の終焉を意味するということを共通理解に、イギリス代表団はワシントンへ向かった。このように、日米英の3国間には、ウィルソンの「新外交」理念を引照基準として、大戦後の来るべき東アジアの国際秩序観の大幅な収斂が見られた。ただし、ワシントン体制の特質や限界を特徴付けるのに決定的だったのは、パリ講和会議とワシントン会議の狭間で起こった、ウィルソンのイニシアティブの断絶だったのであり、ワシントン会議があたえたインパクトはアメリカ外交のコミットメントがどの程度回復されたのかで測られるべきである。
本書の意義
次に評者が関心を抱いた点に引き寄せて、本書の意義を述べていきたい。
前述したように、本書はタイトルが象徴するごとく、「強いアメリカ」と「弱いアメリカ」という、一見するとユニークな視角から分析する。この「強いアメリカ」と「弱いアメリカ」とは、第Ⅱ部冒頭の言葉を借りると、「アメリカ外交の強力なイニシアティブが基本的には日本外交を通じて、対して弱いコミットメントがイギリス外交を通じて、最終的に大戦後の東アジアの新しい国際秩序(ワシントン体制)を規定する、二つのセンターピースとなった」(p.173)ことを意味する。
確かにアメリカのコミットメントが東アジアの国際政治を左右する重要なファクターであったことはまちがいない。特に、ウィルソンが新外交を掲げてその秩序の現実化のために世界政治へのコミットメントを強めつつも、孤立主義的なアメリカ国内における抵抗感も未だ強いなか、アメリカのコミットメントの程度が東アジアなり、国際政治なりにとって決定的な意味を持ったことは推測にかたくない。また、1920年代から30年代にかけて、アメリカをオブザーバーとして連盟に参加させるという構想が持続低音のごとく存在することを考えると、ますますそうであるといえるだろう。
このような、アメリカのコミットメントの程度を変数(独立変数)とした際、その関数(従属変数)として日米英の3国間関係ないし東アジアの国際政治を捉える視角は、トランプ政権下のアメリカの、日米安保ないしNATOへのコミットメントの消極性が国際政治の不安定要素となっている現状を考えると、興味深いだけにとどまらず、きわめて現代的で切実な意義があると思われる。
もちろん、本書の視角は、第一義的には著者の指導教員(麻田貞雄氏)を含む先行研究を乗りこえるために導入された。特に、ウィルソンの世界秩序構想の中核である連盟を拒絶した共和党政権が、東アジア政策ではその理念・計画を継承し、ワシントン諸条約として結実させた事実を強調する日米関係史と、ワシントン体制の存在をそもそも認めない、あるいはワシントン会議のインパクトを積極的に評価しない日英関係史の、ワシントン体制評価の違い、ないし〝棲み分け〟を克服し、日米英の多国間関係の枠組みでワシントン会議の意義を再検討しようという野心的な試みのためである(pp.288-295)。
本書は、日本が実態以上に「強いアメリカ」を念頭においたため、ワシントン会議までには「新外交」に呼応して勢力圏外交を放棄するにいたったことや、かたや旧秩序を代表すると思われがちなイギリスも旧秩序が終わったとの観念を抱きながら、アメリカのコミットメントへの不信感(「弱いアメリカ」)から、保険として日英同盟の継続をぎりぎりまで考えていたことなど、非常に斬新で興味深い事実を明らかにする。これら成果の結果、例えば、ワシントン会議の際、幣原喜重郎ら日本の外交官があっさり日英同盟の廃棄に同意して、四国条約に賛成した理由がよくわかるなど、先行研究では説明のつきづらい個所に対して説得的な説明を可能にしたと思う。
以上のことは、史料的裏打ちがそれを可能にした。すなわち、外交史料館所蔵の外務省記録のうち、「支那政見雑纂」第3巻から、小村欣一ら政務局第一課が積極的に「新外交」に呼応しようとしていったという最初の「発見」ももちろんすばらしいものだが、さらに著者はそれにとどまらず最初の「発見」を大事にふくらませ、あわせてアメリカとイギリスの両方の一次史料を組み合わせる(とても膨大な労力を必要とする!!)ことによって、複眼的な視座を獲得したことが本書成功の要因であろう。
このように斬新的・刺激的な内容ながら、説得的でもある本書に対しては疑問点も浮かばないのであるが、あえて考えてみたい。それは、著者のユニークな分析視角の時期的有効性の問題である。ウィルソンが新外交というまったく新しい秩序を唱え、かつパリ講和会議に見られるごとく強いリーダーシップを発揮したような時期、もしくは連盟参加が上院によって拒絶され、ウィルソン本人も病気のためアメリカのコミットメントが途絶したような時期―すなわち本書の扱う時期においては、著者の分析視角はきわめて有効なものであり、それが本書の成功につながっているのであろう。それでは、日米英なりの関係国間において秩序観が固定され、かつアメリカのリーダーシップの程度が一定であるとき、本書の分析視角では国際政治はきわめて安定的で、かつ静態的なものになると思われるが、そのような見立てでよいのだろうか。もちろん、どのようなときの、どのような状況にもあてはまる分析視角ないし理論を想定することこそ幻想なのかもしれない。とまれ、非常に刺激的な本書を抜きにしては、これから当該期の研究を語れなくなることは必定である。