評者:君塚直隆(関東学院大学文学部教授)
「ビスマルク」という名前を聞いて、われわれ日本人は何を想像するだろうか。かつて明治の元勲である伊藤博文は「日本のビスマルク」になることを自認していたし、山県有朋はかの椿山荘の客間のマントルピースの上にビスマルク像を置いていたとされている。日本が近代化を成し遂げ、欧米列強に伍していくうえで、プロイセン主導のドイツ統一を達成し、ヨーロッパ国際政治に一時代を築いたビスマルクは、彼ら元勲たちの憧れだった。
そのビスマルクの外交政策を、数々の一次史料を博捜して鋭く探究したのが飯田洋介氏による本書である。本書は、日本で本格的にビスマルク外交を追究した、初めての研究書といっても過言ではない。特に本書で飯田氏が注目するのが、これまで内外の研究者たちのあいだでも評価が定まっていなかった、ビスマルクの対イギリス外交のあり方についてである。ロシアに対しては一貫して良好な関係を保つことを心がけていたビスマルクではあったが、ことイギリスに対しては同盟を持ちかけたり離れたりを繰り返していた。いったいなぜだったのか。
本書の内容は以下のとおりである。
【本書の構成と概要】
はじめに
序 章 ビスマルクの登場とその対英政策
第 I 部 ビスマルクとディズレーリ-1870年代後半における独英両国の模索
第1章 アプローチの背景-「目前の戦争」危機とオリエント情勢の変動
第2章 オリエント問題とビスマルクのイギリスへの接触
第3章 ビスマルクの同盟回避政策
第4章 二正面戦争の危機とビスマルクのイギリスへの再接触
第5章 ベルリン会議後の国際情勢とビスマルクの独英同盟提案
第 II 部 ビスマルクとグラッドストン-「相対的安定期」における植民地をめぐるビスマルクの駆け引き
第6章 旧来の手法の新たな可能性とその限界
第7章 方針変更?-ビスマルクにとっての反英的植民政策
第8章 ビスマルクのフランス接近政策とイギリスの孤立
第 III 部 ビスマルクとソールズベリ-「急場しのぎ」体制下のイギリスへのアプローチ
第9章 危機の勃発と「急場しのぎ」システム
第10章 独英同盟打診?
第11章 バッテンベルク、アルバート・エドワード、モリアー
第12章 「議会の承認」を得た同盟?
終 章 ビスマルクの対英政策とその基本方針
あとがき・注・参考文献一覧など
まず序章では、飯田氏がなぜビスマルクの対英外交に関心を抱いたかが提示されている。1871年1月にドイツ統一を成し遂げた後のビスマルク外交の基本は、(1)ドイツにはこれ以上の領土拡大の野心はないことを列強にアピールし、(2)普仏戦争で屈辱的な敗北を味あわせたフランスがドイツに復讐してこないために外交的に孤立させる、というものであった。そのためにもビスマルクが最も脅威を抱いていたのが東の大国ロシアの存在であり、ロシアとは一貫して友好関係を保とうと試みた。
これに対して西の大国イギリスは、プロイセンがドイツ統一を達成する際に「無力」であったことからも、ビスマルクは1870年代前半まではほとんど気を遣っていなかった。ところが、70年代後半から突如として接近を開始し、合計で五度(1876年1月、77年1月、79年9月、87年11月、89年1月)にわたって、独英間の提携を打診するのである。それにもかかわらず、最終的には独英間には同盟関係は構築されなかった。その過程を追うことは、1870~90年の20年の長きにわたってヨーロッパ国際政治に一時代を築いたビスマルク外交の実像に新たな光を与えてくれる成果につながるであろう。
以下本書では、この論点を三部構成のなかで論じていく。それはビスマルクがおよそ15年のあいだに対応した当時のイギリス政府が、ディズレーリ保守党政権(1874~80年)、グラッドストン自由党政権(1880~85年)、ソールズベリ保守党政権(1886~92年)という具合に綺麗に5年ぐらいずつに分けられるからであり、またちょうどそれぞれの政権の時期にビスマルクの対英外交にも微妙な変化が見られたからでもある。
第 I 部では、ビスマルクがヨーロッパ国際政治でそれまで軽視していたイギリスの存在
が、なぜ急に重視されるに至ったのかが指摘される。それはフランスとの間に生じた「目前の戦争」危機(1875年4月)の際に、ロシアと協力してイギリスが独仏間の仲裁に乗り出したことがきっかけであった。これ以後、ビスマルクはイギリスを侮れなくなる。
折しもドイツには領土的野心はなく、列強に「領土補償(大国間で弱小国の領土を分割し合う政策)」を行うことで、フランスを除いたすべての大国がドイツを必要とする政治状況を醸し出そうとビスマルクが奔走しているさなかであった。そこで彼は地中海を経てインドへと至る「帝国の道」(エンパイア・ルート)を死守しようとする政策に敏感なディズレーリのイギリス政府を引きつけるべく、今や弱体化していたオスマン帝国の領土を分割することで、オーストリア(ボスニア/ヘルツェゴビナ)、ロシア(ベッサラビア)に、イギリス(スエズ運河周辺)も自らの領土補償の対象に加えていこうと考えた。
しかし、1876年の最初の接近の際には、独英の提携よりは三帝協定(独墺露)を守ることを優先したビスマルクの方針と、ドイツに対して懐疑的なダービ英外相の政策も相まって、提携は立ち消えとなる。また、翌77年に再びビスマルクはイギリスに近寄るが、それはフランスとの接近が噂されていたロシアをドイツ側に引き戻すためのブラフに過ぎなかった。
ところが、独露の提携は露土戦争(1877~78年)後のベルリン会議(1878年6~7月)で、ビスマルクがイギリスやオーストリア寄りの解決策を提示したことで破綻し、それと同時に三帝協定は崩壊してしまう。
第 II 部では、その三帝協定が新たに形成され(1881年6月)、三国同盟(独墺伊)結成によりフランスの外交的孤立にも成功を収めたビスマルクにとっての「相対的安定期」とも言うべき1880年代前半の状況が解説される。この時期に、ビスマルクの領土補償政策にも新たな局面が訪れた。それまでのヨーロッパとその周辺(オスマン支配地)には限定せず、英仏露などの列強が世界規模で植民地を拡大する帝国主義が進展していった結果、領土補償の対象もグローバル化したのである。
それはイギリス(エジプト)はもとより、ドイツの宿敵フランス(チュニス・モロッコ)をも対象とする領土補償であった。ビスマルク自身はドイツの植民地獲得には消極的であったが、フィジーやアフリカをめぐって確執が続いていたグラッドストン政権下のイギリスがドイツの好意を踏みにじる態度に出たため、これに対する当てつけとして、アフリカ政策でのフランスへの接近や、ドイツ自体がアングラ・ペケーナ(現在のナミビアの南西部)に入植を開始するなど、皮肉なことにその後のドイツの帝国主義政策の端緒を切り開くことにつながっていった。それはヨーロッパ国際政治に積極的に関与せず、ヨーロッパ大陸に同盟者を持たないイギリスをドイツに引きつけるために、ビスマルクが編み出した「手の込んだ」政策であった。
第 III 部では、ブルガリアをめぐる墺露間の対立が激しくなり、三帝協定が完全に崩壊していく時期からが扱われている。三帝協定の消滅と独露間での再保障条約の締結(1887年6月)にもかかわらず、ドイツ=ロシアのあいだでは関税競争などで確執が絶えなかった。また同時期にはフランスでブーランジェ将軍の愛国主義(反ドイツ感情)が高まりを見せ、ビスマルクとしては再びフランスの孤立化に乗り出さざるを得なかった。
時あたかもイギリスでは帝国の保全に積極的なソールズベリ政権が樹立され、1887年12月には、ビスマルクの仲介により英墺伊の間で第二次地中海協定が結ばれた。この時点から、89年1月にビスマルクがイギリスに同盟締結を打診したときまでは、独英間が最も接近した時期とされている。
しかし実際には、先のブルガリア侯バッテンベルクの結婚問題、イギリス皇太子アルバート・エドワード(のちの国王エドワード7世)とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の対立、駐露イギリス大使モリアーをめぐる英独間の報道合戦など、両国の間には深刻な溝が見られていた。それゆえ89年1月にビスマルクがイギリスに提示したのは「議会の承認」を得た英独同盟というおよそイギリス政府がのめない性質のものであり、それは同盟のような拘束力を持たずに両国の関係を改善するには、英独の王室関係を良好にするべきと考えたビスマルクが巧みに編み出した同盟案だった。ソールズベリもこの考えに合致し、両者の説得で英独双方の君主同士の会見も実現し、両国は結果的に同盟を結ぶことはなかった。
終章では、これまでの経緯が再確認されるとともに、18世紀的な領土補償という伝統的な外交手法は、国民主義(ナショナリズム)や帝国主義(インペリアリズム)が台頭する19世紀後半のヨーロッパにあってはもはや通用せず、ビスマルクが生み出し続けた「急場しのぎ」の同盟や密約は、彼がドイツ帝国宰相から辞任した1890年3月以降には急速に解体し、ヨーロッパは第一次世界大戦へと突入していくことが指摘されている。
【本書の評価と今後の展望】
本書は、ベルリンの外交文書やビスマルクの私文書をはじめ、ビスマルク外交を探究する際に欠かせないドイツ側の史料はもとより、イギリス側の史料も可能な限り渉猟して、これまで国内外でも本格的に検討されてこなかったビスマルクの対英政策を骨太に追究した、第一級の研究書である。特に、現在でもソールズベリ侯爵家で管理・保管されているソールズベリ文書や、現伯爵からの許可がなければ閲覧できないダービ文書にまで丹念にあたっている点は瞠目に値する。
また、史料面からだけではなく、理論構築の面でも、ビスマルクを中核とした19世紀後半のヨーロッパ国際政治の実情を明らかにし、これまで綿密に計画されてきたかに思われていた「ビスマルク体制」というものが、意外にも「急場しのぎ」の政策によって、ある意味で綱渡り的に形成されていたことも、ビスマルクの対英外交を一貫して探究することから見事に解明している。
とはいえ、疑問点も若干残っている。本書では、19世紀後半にビスマルクが積極的に活用した領土補償を、時代遅れの「伝統的な外交手法」と見ているが、領土補償は果たして時代遅れだったのか。
昨今の西洋史学で「長い18世紀(1688~1815年)」と呼ばれている戦争の世紀としての18世紀は言うに及ばず、「短い20世紀(1914~1991年)」とも言える新たな戦争の世紀においても、戦争の後に大国間で領土を山分けする領土補償は見られたのではないか。たとえば、第一次世界大戦終了後の「ヴィルサイユ体制」下では、民族自決と委任統治の名の下に戦勝国の間で領土補償が行われたし、第二次世界大戦後の「ヤルタ体制」下でもしかりである。
ヨーロッパで領土補償が否定されたのは、パーマストンがイギリス外相としてベルギー独立やデンマーク問題をロンドン会議において解決した19世紀半ば(1830~50年)のほんの一時期に過ぎないことであった。しかも同時代のイギリスはその陰でアヘン戦争(1840~42年)、アロー戦争(1856~60年)、インド大反乱鎮圧(1857~59年)などに代表される帝国主義を進めていた。その当時はアジアで競合する大国がいなかった、ある意味でイギリスに余裕のあった時代だからこそ、イギリスにはヨーロッパでの領土補償を否定できる力が備わっていた。
しかし、ビスマルクの時代になり、やがてアジア・アフリカに列強が侵出するや、ベルリン会議(1878年)でのキプロス獲得に見られるとおり、そのイギリスも領土補償に応じていくのである。領土補償はその意味で、近現代のすべての時代に見られた「外交手法」であった。もしビスマルク流の領土補償が時代遅れであったとするならば、どのような点が時代の波について行けなかったのかをもう少し明確に提示して欲しかった。
また、「急場しのぎ」のビスマルクによる「伝統的な外交手法」に限界が見られたのであれば、なぜ彼の後継者たちは新たな外交手法に基づく平和の体制を構築できずに、ヨーロッパを未曾有の世界大戦へと誘(いざな)ってしまったのか。高坂正堯が名著『古典外交の成熟と崩壊』で述べる「地すべりの構造」は、ビスマルク失脚後にどのように形成されたのか。
2015年にはビスマルク生誕200周年を迎える。これを機にビスマルク研究も再び脚光を浴び、世界的な規模で再検討が試みられることであろう。しかしその前年(2014年)に、われわれは第一次世界大戦の勃発から100周年を迎えることになる。ビスマルク外交の研究に新たな礎石を築いた飯田氏に今後期待されることは、ビスマルク失脚後から世界大戦に至る道のりを、これまでのような豊富な一次史料に基づく重厚な研究によって、新たに読み解いてもらうことになるであろう。