評者:君塚直隆(関東学院大学文学部教授)
「日本やチベットのような遠くで起こったのであれば、たとえそれが戦争や反乱につながったとしても、イギリスの政府にも国益にも何の影響も与えないでしょう。しかし反乱はポルトガルで生じたのであります」( Hansard's Parliamentary Debates, 3rd series, vol.XCIII, c.572)。これは、1847年5月にポルトガルで生じた内乱にイギリスがフランス・スペインと共同で軍事介入した際に、当時の自由党政権の貴族院指導者で枢密院議長の第3代ランズダウン侯爵が貴族院で行った演説である。ペリー来航の6年前にあたる当時のイギリスにとって、日本はチベットと同じぐらい、地理的にも精神的にも遠い存在であった。
それから55年を経た1902年1月、その同じロンドンでひとつの条約が結ばれた。極東における安全保障のために締結された「日英同盟」である。条約に署名したのは、当時の保守党政権の外相第5代ランズダウン侯爵。先に見た、ポルトガル内乱介入時の侯爵の孫にあたる。わずか半世紀ほど、名門貴族が祖父から孫へと世代交代した程度の期間で、日本はイギリスにとってかけがえのない同盟者(パートナー)になっていた。そのような日英関係の端緒を切り開いたのが、本書の主人公オルコック(Sir Rutherford Alcock, 1809~1897)である。本書は、中国近代史の専門家であられる岡本隆司氏による、わが国でも初めての本格的なオルコックの評伝である。
本書の内容は以下のとおりである。
第1章 旅立ち(少年時代・軍医・外科医の挫折・中英関係)
第2章 廈門から上海へ(中国の領事・廈門と福州・青浦事件)
第3章 上海(租界の形成・洋関の起源・オルコックの貿易報告)
第4章 日本(広州駐在領事から駐日総領事へ・着任・「最初の授業」・攘夷の嵐・賜暇帰国・対日政策の転換)
第5章 北京(ふたたび中国へ・「協力政策」・オルコック協定・挫折)
むすび 華やかな余生
まず「はじめに」では、岡本氏が本書を執筆された動機が語られている。19世紀半ばに「七つの海を支配する大英帝国」が建設されていく過程を、東アジアをキーワードに解明する際に、この両者を切り結んだ現場に立ち会い、活動した個人に注目して論じていくことはできないだろうか。そこで岡本氏が焦点を当てたのが、清国(中国)と日本に外交官として長らく滞在したサー・ラザフォード・オルコックであった。オルコックといえば、大著『大君の都』や日本人論でも有名であるが、本書では清国での活動にも焦点を当てて、オルコックの対「東アジア」外交全般に着目している。
第1章では、オルコックの生い立ちから外交官になるまでが語られている。1809年5月にロンドン郊外に開業医の息子として生まれた彼は、早くに母を亡くし親戚に預けられるという不幸な少年時代を過ごした。やがて15歳の時に父の許に戻り、医者を志して勉学に励み、外科医となった。生来が冒険好きな彼は、1832年から軍医としてイベリア半島での内乱介入に従軍するが、このときリウマチ熱に罹ってしまう。その後遺症(両手両腕が麻痺)で帰国後に外科医の道を断念した彼は、一転、1844年3月に外務省の海外派遣に応募し、福州領事への赴任が決定する。
第2章では、清国に渡った彼の初期の頃の活躍ぶりが述べられる。1844年11月にまずは廈門(アモイ)領事に着任(福州にはまだ別人が勤務していた)した彼は、鼻持ちならない外交官(上司)の下で仕える領事として、いわゆる「シンデレラ・サービス(いじわるな継母・継姉の下女シンデレラに喩えられる)」に堪えるが、この廈門で終生の友パークス(16歳の通訳官)と出会った。1845年からは福州に転ずるが、開港したもののしたたかな清国との間には「貿易」などなかった。やがて46年10月に上海領事に転出。ここで失業水夫に襲われた英人宣教師の問題をめぐる「青浦(セイホ)事件」(48年3月)で、たまたま上海に入港した英軍艦の存在をちらつかせながら、清国側に犯人の逮捕と賠償を求める。清国側はこれを呑んで、オルコックはいよいよ外交官としての才能を開花し始めていくのである。
第3章では、上海領事時代に、オルコックが事実上の生みの親となった、上海租界の整備と、洋関(外国人税務司制度)についてが解説される。青浦事件では、19世紀半ばの欧米がアジア諸国に頻繁に示していた「砲艦外交」を実践していたオルコックであるが、軍事力による脅しだけではなく、相手国の国情を踏まえ、場合によってはそのために妥協案も示して、相互に利益が上がるような制度を築くまでに、彼の外交戦術も円熟味を増していったことが指摘されている。
第4章からは、いよいよ日本との関わりについて触れられる。1854年8月に広州領事に転任した彼は、賜暇帰国中(1855年から)に発生したアロー号事件と、その後の第二次アヘン戦争の事後処理にも追われた。1858年8月に日英修好通商条約が締結されると、同年12月には駐日総領事への転任が発令され、清国以上に「未知の国」であった日本へと赴任する。1859年12月からは「初代特命全権公使」に昇格するが、当時の日本では、開国に伴う外国人を対象としたテロが頻発していた。こうした状況を抑制できないばかりか、言を左右して条約を有効に履行できない幕府との交渉を経て、オルコックは幕府・天皇(ミカド)・雄藩という当時の日本の複雑な政治構造に目を向けるようになった。そして、1862年5月からのロンドン万博にあわせてイギリスに帰国し、幕府からの使節団を案内して、「未知の国」日本を本国に紹介すると同時に、使節団には西洋(イギリス)の偉容を知らしめることとなった。このとき「ロンドン覚書」が作成され(6月6日)、大阪開市と兵庫開港を1867年末まで延期する取り決めが結ばれたが、これはその後の幕府の外交にとっても貴重な一歩となった。駐日公使時代のオルコックは、砲艦外交期の欧米の常套手段ともいうべき、「いったん結んだ条約を絶対だとみなし、相手国の事情を考慮に入れず、その遵守をひたすら強要する」やり方を批判し、任国の国情、政治・経済・社会構造を見据えて条約内容も敢えて改変するだけの円熟した外交戦術を身につけるようになっていた。しかし、この間にも日本と西洋(イギリス)との間には軋轢が生じ、それは1864年の四国艦隊による下関攻撃につながった。
第5章では、下関攻撃事件によりイギリス本国でオルコック召還の声が高まったものの、彼の才能が買われてオルコックが駐清公使へと転進した後の活躍が語られている。エリート外交官たちにいじめられた領事経験を経て、ここに清国(さらに東アジア)で最高位の外交官としてオルコックが中国に戻ってきた。まさに「シンデレラ・ストーリー」の体現である。オルコック公使時代の中英関係は良好で、太平天国の乱、アロー戦争以後の清国は、総理衙門(そうりがもん、外務省)を置き(1861年)、1868年にはオルコックは10年前に結ばれた天津条約の改定に乗り出す(オルコック協定)。ここでは、先の条約に盛り込まれていた不平等性が減殺されていたが、皮肉なことに、本国イギリスで批准拒否に遭ってしまう。失意のうちに退官を決意したオルコックは、読書人・紳士層により煽動された民衆たちの排外運動の台頭を横目にしながら、四半世紀にわたった外交官人生に別れを告げ、本国へと戻っていく。
「むすび」では、その後26年間に及んだオルコックの退官後の人生について簡単に触れられている。元々は医師であったことから、看護学校の設立や医療財団の理事などに就任する一方、外交官時代の人脈と知識もいかして、王立地理学協会会長にも就いた。また、『大君の都』に代表される東アジアに関わる大著を次々と発表し、1897年11月2日に、オルコックはロンドンで88年の生涯を静かに閉じるのである。
「条約をつくることは、じつはほんの最初の困難にすぎず、もっとも小さな困難であるにすぎない。成功の本当の試金石は、その条約を実際に運営することにある」(『大君の都』序文より)。「列強の真の政策は、待つことだ」。これらの言葉は、とかく砲艦外交に基づく不平等条約の押しつけとその遵守とに終始していたかに思われた、19世紀半ばのイギリスの外交官の中にも、相手国の内情や時流とともにそれを改めながら外交関係を強化していくという優れた外交戦術を備えた人物がいたことを明確に示してくれる、珠玉の名言といっても過言ではない。
本書と同時期には、小林隆夫氏による『19世紀イギリス外交と東アジア』(彩流社、2012年)も刊行されたが、岡本氏の本書がイギリスと東アジアとの関係を様々な視点からさらに深く読み解くための重要な研究のひとつになることは間違いない。
ただし、中国近代史や日本政治外交史の側からの視点が強いためか、オルコックの本国であるイギリス側の政治外交史研究に対する目配りがあまりなされていない点は否めない。
まず、本書ではしばしば、オルコックが清国と日本に赴任していた時期のイギリスの外相や首相を務めていたパーマストンの外交が、そのまま砲艦外交と結びつけられるという、短絡的な表現が散見される。パーマストンが武力に訴える外交手法を展開したことは否定しないが、彼の外交方針がそれだけではなかったことは、近年評者も明らかにしたことである(たとえば、田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』有斐閣、2006年、君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交』有斐閣、2006年、などを参照)。
また、本書では「オルコック」を主人公に据えているため、イギリス本国の事情が見えてこないという難点もある。本書にも登場する、ラッセル、クラレンドン、スタンリといった歴代外相たちは「イギリス帝国全体」の利害を見据えて政策を決定しているため、オルコックに限らず「出先の外交官」の政策と衝突することもありえた。このあたりは、イギリス本国の文書館や図書館に所蔵されている彼らの私文書にあたれば、より明確な対比も可能となったことであろう。
さらに、「オルコック」を主人公に据えている割には、特に外交官になる前の人生について不明瞭な記述が多々見られた。このあたりも、現在ブリストル大学図書館が所蔵している「オルコック文書」を詳細に調べれば、ある程度は明らかになったのではないだろうか。
なお、ここでは詳細には触れないが、本書では、19世紀イギリスの国内政治のあり方についても認識が足りないため、初歩的な誤りも散見される。
とはいえ、本書が「オルコック」を媒介に、19世紀半ばのイギリス帝国と東アジアとの関係を見事に浮かび上がらせているばかりか、「外交とは何か」という本質的な問題まで示唆してくれていることに変わりはない。岡本氏からの問いかけに応えるかたちで、今後はイギリス側の史料も縦横に使い、イギリス政府内での東アジアに対する政策決定のあり方を、より詳細にかつダイナミックに描ける新たな研究者の登場も期待したい。さらに、昨今では、イギリス帝国の形成と崩壊のあり方についても、最新の研究成果を踏まえた、一般向けの優れた研究書が次々と現れている(たとえば、秋田茂『イギリス帝国の歴史』中公新書、2012年、小川浩之『英連邦』中公叢書、2012年)。
こうしたイギリス史側からの巨視的な研究も大いに参考にして、東アジア研究の側とイギリス研究の側との「対話」がさらなる発展を見せることを望んでやまないのである。
「日本やチベットのような遠くで起こったのであれば、たとえそれが戦争や反乱につながったとしても、イギリスの政府にも国益にも何の影響も与えないでしょう。しかし反乱はポルトガルで生じたのであります」( Hansard's Parliamentary Debates, 3rd series, vol.XCIII, c.572)。これは、1847年5月にポルトガルで生じた内乱にイギリスがフランス・スペインと共同で軍事介入した際に、当時の自由党政権の貴族院指導者で枢密院議長の第3代ランズダウン侯爵が貴族院で行った演説である。ペリー来航の6年前にあたる当時のイギリスにとって、日本はチベットと同じぐらい、地理的にも精神的にも遠い存在であった。
それから55年を経た1902年1月、その同じロンドンでひとつの条約が結ばれた。極東における安全保障のために締結された「日英同盟」である。条約に署名したのは、当時の保守党政権の外相第5代ランズダウン侯爵。先に見た、ポルトガル内乱介入時の侯爵の孫にあたる。わずか半世紀ほど、名門貴族が祖父から孫へと世代交代した程度の期間で、日本はイギリスにとってかけがえのない同盟者(パートナー)になっていた。そのような日英関係の端緒を切り開いたのが、本書の主人公オルコック(Sir Rutherford Alcock, 1809~1897)である。本書は、中国近代史の専門家であられる岡本隆司氏による、わが国でも初めての本格的なオルコックの評伝である。
本書の内容は以下のとおりである。
本書の構成と概要
はじめに 大英帝国・非公式帝国・オルコック第1章 旅立ち(少年時代・軍医・外科医の挫折・中英関係)
第2章 廈門から上海へ(中国の領事・廈門と福州・青浦事件)
第3章 上海(租界の形成・洋関の起源・オルコックの貿易報告)
第4章 日本(広州駐在領事から駐日総領事へ・着任・「最初の授業」・攘夷の嵐・賜暇帰国・対日政策の転換)
第5章 北京(ふたたび中国へ・「協力政策」・オルコック協定・挫折)
むすび 華やかな余生
まず「はじめに」では、岡本氏が本書を執筆された動機が語られている。19世紀半ばに「七つの海を支配する大英帝国」が建設されていく過程を、東アジアをキーワードに解明する際に、この両者を切り結んだ現場に立ち会い、活動した個人に注目して論じていくことはできないだろうか。そこで岡本氏が焦点を当てたのが、清国(中国)と日本に外交官として長らく滞在したサー・ラザフォード・オルコックであった。オルコックといえば、大著『大君の都』や日本人論でも有名であるが、本書では清国での活動にも焦点を当てて、オルコックの対「東アジア」外交全般に着目している。
第1章では、オルコックの生い立ちから外交官になるまでが語られている。1809年5月にロンドン郊外に開業医の息子として生まれた彼は、早くに母を亡くし親戚に預けられるという不幸な少年時代を過ごした。やがて15歳の時に父の許に戻り、医者を志して勉学に励み、外科医となった。生来が冒険好きな彼は、1832年から軍医としてイベリア半島での内乱介入に従軍するが、このときリウマチ熱に罹ってしまう。その後遺症(両手両腕が麻痺)で帰国後に外科医の道を断念した彼は、一転、1844年3月に外務省の海外派遣に応募し、福州領事への赴任が決定する。
第2章では、清国に渡った彼の初期の頃の活躍ぶりが述べられる。1844年11月にまずは廈門(アモイ)領事に着任(福州にはまだ別人が勤務していた)した彼は、鼻持ちならない外交官(上司)の下で仕える領事として、いわゆる「シンデレラ・サービス(いじわるな継母・継姉の下女シンデレラに喩えられる)」に堪えるが、この廈門で終生の友パークス(16歳の通訳官)と出会った。1845年からは福州に転ずるが、開港したもののしたたかな清国との間には「貿易」などなかった。やがて46年10月に上海領事に転出。ここで失業水夫に襲われた英人宣教師の問題をめぐる「青浦(セイホ)事件」(48年3月)で、たまたま上海に入港した英軍艦の存在をちらつかせながら、清国側に犯人の逮捕と賠償を求める。清国側はこれを呑んで、オルコックはいよいよ外交官としての才能を開花し始めていくのである。
第3章では、上海領事時代に、オルコックが事実上の生みの親となった、上海租界の整備と、洋関(外国人税務司制度)についてが解説される。青浦事件では、19世紀半ばの欧米がアジア諸国に頻繁に示していた「砲艦外交」を実践していたオルコックであるが、軍事力による脅しだけではなく、相手国の国情を踏まえ、場合によってはそのために妥協案も示して、相互に利益が上がるような制度を築くまでに、彼の外交戦術も円熟味を増していったことが指摘されている。
第4章からは、いよいよ日本との関わりについて触れられる。1854年8月に広州領事に転任した彼は、賜暇帰国中(1855年から)に発生したアロー号事件と、その後の第二次アヘン戦争の事後処理にも追われた。1858年8月に日英修好通商条約が締結されると、同年12月には駐日総領事への転任が発令され、清国以上に「未知の国」であった日本へと赴任する。1859年12月からは「初代特命全権公使」に昇格するが、当時の日本では、開国に伴う外国人を対象としたテロが頻発していた。こうした状況を抑制できないばかりか、言を左右して条約を有効に履行できない幕府との交渉を経て、オルコックは幕府・天皇(ミカド)・雄藩という当時の日本の複雑な政治構造に目を向けるようになった。そして、1862年5月からのロンドン万博にあわせてイギリスに帰国し、幕府からの使節団を案内して、「未知の国」日本を本国に紹介すると同時に、使節団には西洋(イギリス)の偉容を知らしめることとなった。このとき「ロンドン覚書」が作成され(6月6日)、大阪開市と兵庫開港を1867年末まで延期する取り決めが結ばれたが、これはその後の幕府の外交にとっても貴重な一歩となった。駐日公使時代のオルコックは、砲艦外交期の欧米の常套手段ともいうべき、「いったん結んだ条約を絶対だとみなし、相手国の事情を考慮に入れず、その遵守をひたすら強要する」やり方を批判し、任国の国情、政治・経済・社会構造を見据えて条約内容も敢えて改変するだけの円熟した外交戦術を身につけるようになっていた。しかし、この間にも日本と西洋(イギリス)との間には軋轢が生じ、それは1864年の四国艦隊による下関攻撃につながった。
第5章では、下関攻撃事件によりイギリス本国でオルコック召還の声が高まったものの、彼の才能が買われてオルコックが駐清公使へと転進した後の活躍が語られている。エリート外交官たちにいじめられた領事経験を経て、ここに清国(さらに東アジア)で最高位の外交官としてオルコックが中国に戻ってきた。まさに「シンデレラ・ストーリー」の体現である。オルコック公使時代の中英関係は良好で、太平天国の乱、アロー戦争以後の清国は、総理衙門(そうりがもん、外務省)を置き(1861年)、1868年にはオルコックは10年前に結ばれた天津条約の改定に乗り出す(オルコック協定)。ここでは、先の条約に盛り込まれていた不平等性が減殺されていたが、皮肉なことに、本国イギリスで批准拒否に遭ってしまう。失意のうちに退官を決意したオルコックは、読書人・紳士層により煽動された民衆たちの排外運動の台頭を横目にしながら、四半世紀にわたった外交官人生に別れを告げ、本国へと戻っていく。
「むすび」では、その後26年間に及んだオルコックの退官後の人生について簡単に触れられている。元々は医師であったことから、看護学校の設立や医療財団の理事などに就任する一方、外交官時代の人脈と知識もいかして、王立地理学協会会長にも就いた。また、『大君の都』に代表される東アジアに関わる大著を次々と発表し、1897年11月2日に、オルコックはロンドンで88年の生涯を静かに閉じるのである。
本書の評価と今後の展望
本書は、わが国とも縁の深いひとりのイギリス外交官の生涯を、平易な文章でしかも詳細に論じた、優れた評伝であるばかりではない。彼が東アジアで経験し、学んできた外交術のあり方を通じて、「外交とは何か」という大きな命題にも適確に答えてくれている。「条約をつくることは、じつはほんの最初の困難にすぎず、もっとも小さな困難であるにすぎない。成功の本当の試金石は、その条約を実際に運営することにある」(『大君の都』序文より)。「列強の真の政策は、待つことだ」。これらの言葉は、とかく砲艦外交に基づく不平等条約の押しつけとその遵守とに終始していたかに思われた、19世紀半ばのイギリスの外交官の中にも、相手国の内情や時流とともにそれを改めながら外交関係を強化していくという優れた外交戦術を備えた人物がいたことを明確に示してくれる、珠玉の名言といっても過言ではない。
本書と同時期には、小林隆夫氏による『19世紀イギリス外交と東アジア』(彩流社、2012年)も刊行されたが、岡本氏の本書がイギリスと東アジアとの関係を様々な視点からさらに深く読み解くための重要な研究のひとつになることは間違いない。
ただし、中国近代史や日本政治外交史の側からの視点が強いためか、オルコックの本国であるイギリス側の政治外交史研究に対する目配りがあまりなされていない点は否めない。
まず、本書ではしばしば、オルコックが清国と日本に赴任していた時期のイギリスの外相や首相を務めていたパーマストンの外交が、そのまま砲艦外交と結びつけられるという、短絡的な表現が散見される。パーマストンが武力に訴える外交手法を展開したことは否定しないが、彼の外交方針がそれだけではなかったことは、近年評者も明らかにしたことである(たとえば、田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』有斐閣、2006年、君塚直隆『パクス・ブリタニカのイギリス外交』有斐閣、2006年、などを参照)。
また、本書では「オルコック」を主人公に据えているため、イギリス本国の事情が見えてこないという難点もある。本書にも登場する、ラッセル、クラレンドン、スタンリといった歴代外相たちは「イギリス帝国全体」の利害を見据えて政策を決定しているため、オルコックに限らず「出先の外交官」の政策と衝突することもありえた。このあたりは、イギリス本国の文書館や図書館に所蔵されている彼らの私文書にあたれば、より明確な対比も可能となったことであろう。
さらに、「オルコック」を主人公に据えている割には、特に外交官になる前の人生について不明瞭な記述が多々見られた。このあたりも、現在ブリストル大学図書館が所蔵している「オルコック文書」を詳細に調べれば、ある程度は明らかになったのではないだろうか。
なお、ここでは詳細には触れないが、本書では、19世紀イギリスの国内政治のあり方についても認識が足りないため、初歩的な誤りも散見される。
とはいえ、本書が「オルコック」を媒介に、19世紀半ばのイギリス帝国と東アジアとの関係を見事に浮かび上がらせているばかりか、「外交とは何か」という本質的な問題まで示唆してくれていることに変わりはない。岡本氏からの問いかけに応えるかたちで、今後はイギリス側の史料も縦横に使い、イギリス政府内での東アジアに対する政策決定のあり方を、より詳細にかつダイナミックに描ける新たな研究者の登場も期待したい。さらに、昨今では、イギリス帝国の形成と崩壊のあり方についても、最新の研究成果を踏まえた、一般向けの優れた研究書が次々と現れている(たとえば、秋田茂『イギリス帝国の歴史』中公新書、2012年、小川浩之『英連邦』中公叢書、2012年)。
こうしたイギリス史側からの巨視的な研究も大いに参考にして、東アジア研究の側とイギリス研究の側との「対話」がさらなる発展を見せることを望んでやまないのである。
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