中山 俊宏
東京財団現代アメリカプロジェクト・サブリーダー
慶應義塾大学 総合政策学部 教授/日本国際問題研究所 客員研究員
それはまさに「トランプ革命」の宣言、前代未聞の就任演説だった。正直言って就任演説そのものにはあまり注目していなかった。まあ型通りのことを言うんだろうなと。しかし、いきなり初っ端から裏切られた。それは、「アメリカ・ファースト」と「経済ナショナリズム」の勝利宣言であり、革命への呼びかけのように響いた。
壇上に集まった歴代の大統領経験者に特に敬意を表することもなく、また米国の建国の理念に訴えかけることもなかった。ワシントンにも、リンカーンにも、誰にも言及することはなかった。そこには、トランプとトランプの支持者しかいなかった。
誰もが、トランプは自分がこれまで主張してきたことを本当には信じていないだろうと高を括っていたが、この演説によってどうもそうではなさそうだということが明らかになった。
演説それ自体は、トランプのツイッターをそのまま積み重ねていったような演説だった。一つひとつの文章は短く、格調高い言い回しはほぼ皆無。贅肉を削ぎ落としたというよりも、誤解しようのない剥き出しの言葉が並んだ。それは、保守でも、リベラルでもない、ポピュリズム宣言だった。演説のトーンを一言で言えば、「敵対的」という一言に尽きる。
ここで描かれたアメリカの姿は暗く、傷つき病んだアメリカだった。トランプは演説途中でこう言っている。「傷つき果てた米国の惨状(carnage)は今、ここで終わる」と。Carnageは、肉片が散らばっているような光景を想起させる言葉だ。就任演説でこのような言葉を聞くとは想像もしていなかった。
すでにこの演説はAmerican Carnage Speechと呼ばれはじめている。ある意味、歴史に残る演説として記憶されることになるだろう。まさにケネディやレーガンの就任演説の対極にあるものとして。
確かにトランプは、「惨状」からの出口を指し示しはしている。しかし、その出口は、レーガンが好んで用いた「輝ける丘の上の町」でも、ケネディが呼びかけた「国際的責務」でもなく、ただひたすら閉ざされたアメリカの姿が浮かび上がってくるにすぎない。
おそらくここで示された世界観は、スティーブン・バノン主席戦略官の世界観が色濃く反映していることは間違いないだろう。その世界観は、オルタナ右翼とも共鳴し合うところがあるといわれる。お決まりの言葉を並べた演説ではなく、あえて分断を煽る。これは明らかに「奴ら」を指差す演説だった。こういう演説をアメリカの大統領がしてしまったことの意味は大きい。
トランプ政権については、個々の政策に対する懸念も大きい。しかし、それ以上に心配なのは、トランプが大統領として示すリーダーシップのかたちだ。この演説を聞いた限りでは、懸念はさらに深まったとしか言いようがない。
いうまでもなく就任演説は、政策演説ではない。それは方向性を示す演説でしかない。これから就任演説の世界観を政策に落とし込んでいく過程で、現実との調整を図っていくことになる。多少ラディカルな世界観を持っていても、トランプ大統領が気質的に実利主義者であるならば、その世界観ばかりにとらわれていては、トランプ政権の実態は見えてこないだろう。そのあたりを冷静に見極めていく必要がある。