新政府の行政組織改編と科学政策のスローガン
去る2月25日、韓国で李明博大統領が率いる新政権がスタートした。実用主義を掲げ、先進国入りを目指す新政府の誕生は、大韓民国樹立(1948年)以来、政権存立の正当性を左右してきた政治理念が色褪せていることを明らかにした。一般市民の関心は、政治理念の対立より、日常生活の収入の確保や質の向上に注がれている。
新政府は、前政権によって拡張した行政組織を大幅に縮小改編した。18部(省)4処(庁)あった中央政府組織を、当初は13部2処にする予定であったが、改編に対する強い反対もあり、結局15部2処となった。
生命科学・医学と生命倫理に関する政策を主管してきた部処も改編の対象となった。科学技術部は教育人的資源部と統合され「教育科学技術部」となった。保健福祉部は旧女性家族部の家族福祉の部門を統合し「保健福祉家族部」となった。
当初廃止の予定だった女性家族部は、女性関連の政策のみを所管する女性部として存続することになった。その背景には、女性家族部が韓国社会における女性の地位向上に貢献したという評価がある。今年1月1日から施行された民法改正により戸主制が廃止され、その代替として家族関係登録制度が導入されたことはその最たる例である。それでもまだ両性の地位均衡は十分でないという世論が、新政権に女性部の存在意義を再認識させたのである。
このような改編によって小さい政府を目指す新政権は、「国際ビジネスベルト」建設という科学政策を打ち出している。大統領府の発表によると国際ビジネスベルト計画とは、科学分野における知識や基礎技術を商品化・産業化し、科学技術の消費市場を持続可能なインフラとして整備するとともに、国際的なネットワークを形成することである。まだ具体的な計画案は発表されていないものの、「世界1位のみ競争力をもつ!」というキャッチフレーズを掲げて先進国入りを目標としている。産業化と国際競争力を強調する科学政策の下で、今後生命倫理政策はどのような方向付けを与えられていくだろうか。
生命倫理政策のキーパーソン、朴宰完・元国会議員の活動
韓国の生命倫理政策の方向付けに影響を与えてきたキーパーソンの一人に、朴宰完(パク・ジェワン)元国会議員がいる。
朴氏は官僚出身で、行政学大学教員を経て、当時野党であったハンナラ党から比例代表で第17会期国会議員(2004年~2008年)に初当選し、国会保健福祉委員会の委員として活動してきた。今回の政権交代で、彼は大統領職引継ぎ委員会において上記の政府組織改編作業を主導した。その功績に加え、特定の派閥に属さない中立の立場が評価され、新政権では政務首席秘書官に抜擢された。
朴氏は、4年の国会議員生活の間に76件の法案を代表発議している。生命倫理関連では、胎盤の商業的使用禁止、体外受精や代理出産の規制、生命倫理安全法の一部改正案など、対応が求められる懸案課題に積極的に取り組んできた。とりわけ、インターネットを介した卵子売買、代理母契約、臓器売買ツアー、偽装薬販売などの実態を調査しマスコミに告発し、規制を求めてきた。
朴氏の生命倫理問題に対する基本姿勢は、保守派の政治家でありながら、生殖補助医療や生命操作研究に反対するのではなく、売買禁止や公的管理の強化などを通じて倫理性を確保しながら推進しようとする立場をとっている。
生殖補助医療に対する朴氏の立法案
生殖補助医療について朴氏は、2006年4月28日に発議された「体外受精等に関する法律案」において、次のような提案をしている:
*法律婚の不妊夫婦に限り第三者からの生殖細胞(精子、卵子)の授受を認める
・生殖細胞の提供者の年間および生涯における提供数や頻度を制限する
・生殖細胞の提供には、提供者本人に加え配偶者の同意も必要とする
・6親等以内の血族、4親等以内の姻族からの生殖細胞の提供は禁止する
*借り腹方式の代理出産を、引き受ける女性一人につき1回のみ、実費補償で許容する
・代理出産によって生まれた子は、依頼夫婦の婚姻中の実子とみなす
このように朴氏は、不妊カップル以外の第三者の関与(生殖細胞の提供や代理出産)を伴う生殖補助医療の実施を基本的に認め、受ける側の健康や安全の確保を重視している。また法律婚カップルに適用を限り、その枠内で生まれてくる子の地位を確定することで、生殖補助医療が従来の家族秩序を乱すことがないよう配慮している。そのうえで商業目的の実施の禁止や同意規定の充実により、倫理性の担保を図ろうとしている。本法律案は、2008年4月現在、国会の法案審査小委員会で審議中である。
生命倫理法改正に対する朴氏の発議案
生命科学研究について朴氏は、生命倫理安全法改正案を二本代表発議している。
一つ目の、2005年12月15日の発議案は、卵子売買に対する規制強化が主な内容となっている。朴氏は、生命倫理安全法が2005年1月1日に施行された後も、インターネットを介した卵子売買が蔓延していることを指摘し、生殖細胞の売買を斡旋した者に科される刑罰が売買した者より軽く規定されているのはバランスを欠いているとして、改めるよう求めている(現行法では生殖細胞売買は3年以下の懲役なのに対し、斡旋は2年以下の懲役または2千万ウォン以下の罰金)。
二つ目の発議案(2006年4月28日)は人クローン胚研究に関するもので、主な内容は以下のようである:
*研究用卵子を体系的に管理するため、政府保健福祉部に人胚管理本部を設置する
*人クローン胚研究用の卵子を研究機関で採取することを認める
*卵子提供者の健康診断を義務化し、提供回数を制限することで提供者の安全を確保する
*特定研究者に対する支援規定を改め、人クローン胚研究の公平な促進を図る
この改正案で注目されるのは、研究目的での卵子提供を認め、さらに現行法では卵子採取できる機関を不妊治療を行う医療機関に限定しているのに対して、研究機関での採取を容認していることである。朴氏は、生殖細胞の売買には厳しい立場をとりながらも、不妊治療だけでなく研究目的での卵子提供を許容する姿勢をとっている。2005年のES細胞研究データ捏造事件で争点となった卵子提供問題に対し、提供者の健康と安全さえ確保できれば研究目的での卵子提供は認められるべきであると彼は考えている。フレッシュな卵子のほうが人クローン胚由来幹細胞の樹立効率が上がると期待する研究者側の立場を擁護しているものとみられる。
しかし朴氏のこの改正案は、国家生命倫理審議委員会の議決に反すると審議過程で指摘され、採択されなかった。この議決(2007年3月23日)は、人クローン胚研究に用いる卵子は、不妊治療目的で採取されながら使われなくなった余剰卵に限るとしている。
生命倫理法改正審議の現状
朴宰完氏が野党議員時代に行ってきた生命倫理関連問題の調査と社会への提起は、生命科学と生命倫理に対し一般市民の関心を集める重要な役割を果たしてきた。だが、このような役割を果たしてきた政治家が、国会を離れ政府の中枢に入ったことが、今後生命科学と生命倫理の政策議論にどのような影響を及ぼすか、注目される。
国会では生命倫理法の改正について、朴氏らの二つの発議案と政府案を検討した結果、いったんそのすべてを廃案とし、保健福祉委員会で新たに代案を策定して本会議に上程することとなった(2008年2月26日)。代案では、政府案(《時評》韓国の生命倫理議論を覗く(2)で紹介)と朴氏らの議員発議案に共通する事項のうち、両者で合意を得たもののみが採択された。その主な内容は、以下のようである:
*卵子提供者の健康診断実施、実費補償、卵子採取の頻度制限を新たに規定
*生殖細胞の売買を斡旋した者への刑罰を、売買した者と同等とする
*動物の卵子に人の体細胞核を移植する行為を禁止(最近イギリスで認可、実施され話題となっている、いわゆる「ハイブリッド胚」研究を韓国は認めないとした)
*研究機関生命倫理審議委員会に調査・評価権限と所属委員に対する教育義務を加え、研究機関の自律的な規制環境を整える
*すでに樹立した幹細胞の研究・利用に対しては規制を緩め効率化を図る
現国会の会期は4月末に終了するが、ハンナラ党は4月13日に、優先的に処理すべき緊急度の高い法案を5月の臨時国会で通過させる準備をしていると発表、そのひとつにこの改正案が含まれている。
保守派多数の新国会で生命倫理論議はどう進むか
4月9日に行われた総選挙の結果、 ハンナラ党は153議席を獲得し、単独過半数を確保した。5月から新しい国会が構成される。
保守派である与党ハンナラ党は、革新派の前政権が人クローン胚などのバイオテクノロジーに重きを置いていたのとは異なり、ITのような短期間で実用化できる確実な研究のみを育成する科学政策を採ると予想されている。生命科学の比重は前政権より小さくなるかもしれない。
ただこうした保革の政策の違いは、欧米と異なり、宗教に基づく生命観の違いを背景にしたものではない。一般に韓国の政党には、宗教色はみられない。李明博大統領はプロテスタント教会の長老を務めていたが、そうした宗教的背景を彼は自らの政権の生命科学政策に打ち出そうとはしていない。
一方今後動向を注目したいのは、正統派保守を唱えている自由先進党(元ハンナラ党の総裁李会昌氏が率いる新党)の比例代表で当選した、李ヨンエ氏である。韓国で女性初の判事、裁判長となった李ヨンエ氏は、カトリックの大教区生命委員会法曹委員長、カトリック大学生命学部兼任教授を務めてきた。李氏は当選後の抱負として、生殖細胞の売買、人工妊娠中絶、安楽死、人クローン胚の作製などに反対の意向を表明し、生命倫理関連法の改正に力を注ぎたいとしている。これまで国会論議で宗教色を強く打ち出す議員はほとんどいなかったのに対し、正統派保守をアピールする自由先進党の中心にいる李ヨンエ議員が、生命倫理政策や法改正にどのように関わっていくか、たいへん興味深い。
ES細胞研究データの捏造事件で生命倫理安全法の有効性が問われてからもう2年以上が過ぎている。だが改正の方向性は未だにみえてこないまま、一般市民の関心は薄れてきている。これまで生命倫理関連法の立法化過程に積極的に関与してきた市民団体や学会も、ほとんど活動しなくなっており、新政権の方向付けを見守っているようにみえる。これまで韓国で積み重ねられてきた生命倫理の議論が、実用主義やビジネス化という名の下で押し潰されないことを願いつつ、今後の推移をさらにフォローしていきたい。
洪賢秀(ホン・ヒョンスウ)
「生命倫理の土台づくり」プロジェクトメンバー、医療科学研究所研究員