3.労働者と専門家の大量流入で労働条件や専門サービスの質が低下するのではないか
自由貿易協定のサービス分野においては、外国企業に対して差別してはならないということが原則で 11 、国によって異なる基準のあることを除外するものではない。TPPによって単純労働者が大量に流入するという議論があるが、米国を含めどの先進工業国も単純労働者の受け入れに反対であり、そのようなことが生じることはない。大量の労働者が流入することは受け入れ国の労働条件が低下することである。米国の一般国民も、米国民主党政権に強い影響力を持っている労働組合も反対である。
看護師、介護福祉士、医師、弁護士などの専門職に対し、専門職資格を相互承認し、海外での資格を日本でも認められるようになるとの議論があるが、それも考えられない。日本では、もっぱら米国の専門家が日本に進出するという文脈で考えられているが、他国の資格を自国と同等に扱うということは、海外の専門家が米国に進出するということでもある。米国を含む先進国は、全般的に他国の資格基準に対して懐疑的であり、そのようなことが広範に議論されるとは考えられない。
現状において、日本は、これらの専門職についてそもそも国籍条項を設けていないので、日本の資格試験に合格すれば、外国人も資格を得ることができる。
弁護士の場合、外国での資格を持つ弁護士も、日本において、外国法に関する訴訟業務を行うことができるが、日本の裁判所での訴訟代理人になることはできない。日本企業の海外進出とともに、外国での訴訟が増えていることから、外国法での訴訟業務は当然に必要とされている業務であるが、それができる日本の弁護士が極めて少ない以上、日本人の仕事を奪うという状況にはならない。
なお、看護師・介護福祉士の候補者を受け入れ、日本での資格試験に合格すれば、日本での労働を認めるという制度があるが、これは多くの専門職について国籍条項を持っていないという既存の制度の延長で考えるべきことである。日本語での試験において難解な専門用語を日常語で言いかえるなどの便宜を払っているが、大量の合格者が生まれるという状況にはない。看護師・介護福祉士の候補者を受け入れ、日本での労働と研修を認めているのは、対フィリピンなどとの二国間EPA協定 12 に基づく日本独自の制度であり、TPP交渉で要求されるとは考えられない。また、この制度が仮にTPP参加国に広げられたとしても、日本語での資格試験に合格することが求められる以上、大量の専門家の流入は考えられない。
また、看護師・介護福祉士の候補者を受け入れは、二国間EPA(経済連携協定)でフィリピンなど農産品輸出国に対して、農業保護に拘る日本が他国の利益となる関税低減策を提供できなかったことへの代償という意味があった。1.で述べたように、農産物での市場開放を進めれば、このような代償措置も求められなくなる可能性がある。
4.医療保険制度は壊滅するのではないか
健康保険制度の変更が求められ、外資系病院が進出し、混合診療も推進されて、健康保険制度が壊滅してしまうという議論がある。しかし、TPPに参加することによって、このようなことが起きるとは考えられない。
多くのTPP参加国が公営の医療保険制度を持ち、持っていなかった米国もオバマ政権によって公的医療保険制度を導入した。米国が公的医療保険制度を導入した以上、他国の公的医療保険制度を崩壊させることがあり得るはずがない。
日本は現に医療サービスへの外資規制をしていないが、営利目的の病院の開設は原則として認めていない。しかし、海外にも非営利組織の病院は多く、これらの病院が日本に進出することは現在でも可能である。しかし、現実に進出している例がほとんどない。それは、日本の規制や診療報酬制度の下では、独自のサービスを十分に提供できないと考えているからだろう。各国それぞれの独自の医療保険制度を持っているので、TPPにおいて統一した制度が議論されることはない。現状の日本の医療制度に多くの問題があり、海外からの参入は現状の制度に刺激を与え、その改善に有効であるが、それはTPPでというよりも、日本の中で議論すべき制度改正の問題である。
TPPによって混合診療が促進されるという議論も理解に苦しむ。まず、混合診療の禁止とは、保険診療と保険外診療(自由診療)を併用することを禁止することである。これによって、保険で認められている診療を行い、さらに保険外の診療を行う場合、保険外診療分に加えて、保険から給付される分を含めた医療費支払い全額が患者の負担となる。ところが、混合診療の解禁に反対する立場からは、政府が効果を認めていない診療が拡大し、そこにも保険適用が求められることによって際限なく医療費が膨らみ、保険制度を危機に陥らせると批判される。一方、解禁論者は、保険適用対象外の診療は自己負担であり、保険診療対象が広がらなければ保険制度が崩壊することはないとする。
結局のところ、保険適用対象をどこに置くかという国内制度問題であり、TPPとも外国病院の参入とも関係のない話である。
5.食品の安全が守られなくなるのではないか
国民のために安全な食品を確保することはTPP参加国全ての関心事であるから、食品安全基準を緩和するように求められることはない。求められるのは、安全基準の科学性、客観性、透明性である 13 。米国の消費者団体も食の安全の確保に熱心であり、当然、米国政府もこれに影響される。
遺伝子組み換え食品については、どの国も安全だと認められた組み換え食品しか販売されない。違いは、安全な組み換え食品について、そのことを表示するかしないかだけである。日本、EU、オーストラリア、ニュージーランドは表示を求めているが、米国は求めていない。オーストラリア、ニュージーランドも日本と同様に表示を求めている以上、米国の意向で組み換え食品の表示が求められなくなるとは考えられない。むしろ交渉への早期参加によって、表示を求める声を強化することもできる。
輸入牛肉の月齢制限緩和は、TPP交渉では議論されておらず、あくまで米国との二国間協議で提示されたものだ。厚生労働省は食品安全委員会の評価に基づき、輸入できる対象を現在の生後20カ月以下から30カ月以下に広げることになったが、これは科学的基準によってなされたことである。
6.金融サービスや政府調達で混乱が起きるのではないか
日本はすでに金融の自由化を達成しており、これ以上の自由化をTPPで求められることはない。そもそもTPPで米国が意図したことは、途上国の金融サービス市場を開放することである。海外進出の可能性が高まることは、長期停滞と過剰な銀行の存在で利鞘の低下に悩む日本の金融業にとっては大きな利益である。
TPPにおいて、郵政という国営の金融機関の存在が問題になることはありうるが、それは民営化すればすむ話である。郵政民営化が日本の損失であるとは考えられない。そもそも、郵政民営化は、2005年の衆議院選挙において日本国民が圧倒的な多数で承認したことである。民営化は、ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険にとっても利益になることである。現状のように、政府がサービス提供の範囲を決めるということでは、自由な経営ができず、これらの企業の発展を妨げている。
日本郵政グループという金融業が郵便事業という配送事業をしていることが問題になることがありうるとしても、それはすべての金融業に配送事業の兼営を認めればすむことである。配送事業に参入する金融業者があるとは考えられないので、何の問題にもならないだろう。
一方、政府調達について地方の小さな自治体まで国際調達を求められ、外国企業に仕事を取られるのではないかという議論がある。
まず、日本はすでに、全都道府県、政令指定都市で外国企業にも開放している。一方、米国は、全50州のうち37州で開放しているだけである。したがって、TPPでこれ以上の政府調達の拡大が求められるとは考えられない。また、仮に求められるとしても、内外の企業に無差別にしなければならないというだけである。もし、外国企業がこのハンディを乗り越えて調達できるとすると、特に効率的な技術を持っているはずであり、そのような企業を活用することは日本の利益である。
7.「毒素条項」によって日本が日本でいられなくなるのではないか
TPP参加によって国内の制度・規制の改悪を強いられ、国内の雇用、医療、食の安全等々に関して多大な悪影響が及ぶというのがTPP反対・消極派の議論である。それらの証拠としてしばしば挙げられるのが、今年3月に発効した米韓FTAの規定である。米韓両政府がFTAに署名したのは2007年のことだが、両国ともにその批准のタイミングは政治的な事情から2011年にずれ込んでいた。その際に韓国国内では反対論が高まり、米韓FTAは「毒素条項」を含む、21世紀の不平等条約であるとの解説が流布したのである。日本と経済構造も似通った韓国が米国との間で締結したFTAということで、TPP参加も同様の悪影響を日本に及ぼす、として韓国内の議論が日本に輸入されたのである 14 。TPPにまつわる誤解を指摘し、バランスのある理解を促すための情報はさまざまな形で提供されているが 15 、この「毒素条項」という表現自体の毒気の強さからか、これが日本の国柄を根本から覆すとの誤った認識がいまだに絶えない。
いわゆる「毒素条項」にはISDS条項、非違反提訴、ラチェット条項など12種類 16 の条項があるとのことだが、TPPは不平等条約で日本社会の存立そのものを脅かすという主張を支えるとしている主要なものについて説明する。
(1)ISDS条項
ISDS条項 17 とは、外国投資家が投資先国家の協定違反によって損害を被った場合の紛争処理の手続きを定めたものである。この条項に基づいて、投資家は国際仲裁機関を通じて解決できることになっており、TPP参加の暁には日本は米国企業の濫訴に圧倒される、というのが反対・消極派の懸念である。しかし、すでに日本が締結してきた経済連携協定、投資協定は基本的にISDS条項を含んだものとなっているが 18 、今まで日本政府が海外企業により仲裁を提起された事例はない。
TPP反対・消極論がいうように、米豪FTA(2005年発効)ではオーストラリア側の主張に基づき、ISDS条項が含まれていないため、紛争時には、投資受け入れ国の国内裁判所に提訴することになる 19 。しかし、これは先進国同士の協定であるがゆえに可能なのであり、TPPでのISDSは日本企業の海外投資を保護するための有益な条項となるととらえるべきである。現に、対米ISDS条項には反対したオーストラリアも、ASEAN、ニュージーランドとの間で締結したFTAではISDS条項を盛り込んでいる。
また国際仲裁機関の一つである投資紛争解決国際センター(ICSID) 20 は米国政府の影響下にあり、中立的なプロセスを担保できないとの主張もある。同機構は世界銀行グループの一つだが、世界銀行は仲裁裁判には加わらず、その実績は決して米国企業に一方的に有利ではない。またICSID以外の国際仲裁手続きも選択可能である。
(2)非違反提訴
ISDS条項は投資に関連して協定上の義務に違反した場合を想定した紛争解決手続きだが、協定に違反していなくても、協定上、期待した利益を得られなかった場合は投資先国政府を提訴できる「毒素条項」が米韓FTAには盛り込まれており、一国の公共政策の自主性を損なうものだとの指摘がある。
協定自体には違反していなくても、協定上の利益が侵害されるならば相手国を提訴できる仕組みは、現行WTO体制下で実際に整備されており、これは「非違反申立て」と呼ばれる。米韓FTAには確かに非違反申立てのプロセスが盛り込まれているが、これは投資家と国家間の紛争処理ではなく、また物品・サービス貿易を対象とした、あくまで国家間の紛争解決プロセスであり、投資家がこれを利用することはできない。従って、TPP反対・消極派が主張するような、外国企業が自らの経営責任を投資受け入れ国に転嫁し、国際提訴を行うことで国家の公共政策の自律性を妨げる、といった事態は生じない。また、非違反申立てを行うに際しての立証責任の基準は高いといわれ、現に日本はWTO体制下で「日米フィルム事件」と呼ばれる非違反申立てを受けたが、米国の申し立ては退けられている。なお、これまでのTPP交渉の中で非違反申立てを認めるか否かは、参加国間で意見の対立があり、まだ決着をみていない。
(3)ラチェット条項
ラチェット(ratchet)とは歯車が逆回転することを止める装置のことであり、それになぞらえて、一度確約した自由化措置を逆行させることを許さない規定をラチェット条項と呼ぶ。これによって、牛肉や遺伝子操作作物の自由化を認めてしまうと、事後、健康被害が明らかになってもそれらの輸入を止めることはできない、と主張し、TPP反対の理由に挙げる向きがある。
しかし、すでに広く指摘されている通り、ラチェット条項はサービス貿易(金融サービスを含む)や投資の自由化のみに適用される条項である。従って、物品の輸入、とりわけ狂牛病など食の安全に関わる規定とは無関係であるし、ましてや国内制度・規制全般を包括的にカバーする条項でもない。そして、サービス貿易等において必要な分野については、留保表に記載することによって、現行の措置を留保することができる。
以上、3つの「毒素条項」の例を取り上げたが、いずれも誤解や他条項との混同に基づく非難である。米国との間に交わす国際合意は不平等条約だ、との主張は反論をかきたてるためには安易な方法かもしれないが、それは不正確であるし、日本やアジアの国際的な立場や影響力に関して不健全なイメージを擦り込むことにもつながることを認識すべきである。
11 WTO協定の基本原則の一つである「内国民待遇原則」(GATT第3条)。その他に最恵国待遇原則(GATT第1条)、数量制限の一般的廃止の原則(GATT第11条)、合法的な国内産業保護手段としての関税に係る原則(GATT第2条・第28条)がある。
12 日フィリピン経済連携協定(2008年12月発効)、日インドネシア経済連携協定(2008年7月発効)において看護師・介護福祉士候補者の受け入れを認めている。なお、日ベトナム経済連携協定(2009年10月発効)の下でも、再協議が行われ、2011年、看護師・介護福祉士の日本への受け入れが決定した。
13 WTOにおいては衛生植物検疫措置(SPS)として詳細なルールが定められており、人・動物・植物の生命や健康を保持するための動植物検疫措置をとる権利を各国に認める一方で、国際基準への準拠、科学的証拠に基づく保護水準の決定、透明性の確保などが定められている。日本のEPAでは基本的にはWTOのSPS協定の権利義務を再確認するものとなっている。TPP交渉においては、手続きの透明性向上や多国間協力について新たな規定などが提示されている模様。
日本政府資料(2012年3月)「TPP協定交渉の分野別状況:4.SPS(衛生植物検疫)」参照。
14 米韓FTAに関しては、以下参照。
日本貿易振興機構(2008)『韓米FTAを読む』、日本貿易振興機構
高安雄一(2012)『米韓FTAの真実』、学文社
高安(2012)は米韓FTAにおける「毒素条項」について解説を行っている。
15 馬田啓一・浦田秀次郎・木村福成編著(2012)『日本のTPP戦略:課題と展望』、文眞堂
渡邊頼純(2011)『TPP参加という決断』、ウェッジ など
16 高安(2012)、8~10ページ
17 Investor-State Dispute Settlement、投資家・国家間の紛争解決手続き
18 日本は18の投資協定と10の二国間EPA投資章が署名され、発効している。対フィリピン投資協定のみ、ISDSに関する規定が全く含まれていない。
19 また必要に応じて、米豪は紛争解決手続きについて改めて交渉することも可能になっている。
20 International Centre for Settlement of Investment Disputes。