はじめに
日本国内ではほとんど注目されていないが、2017年5月17日の人民日報第一面に、習近平政権の外交方針を分析する上で興味深い記事が掲載された。新華社が前日に発した、中国共産党中央(以下、中央)の「中国の特色ある哲学社会科学の構築を促進することに関する意見(以下、意見)」に関する転載記事である。
その、1面とはいえ簡潔な記述からは、「意見」のもつ重要な意義を読み取るのは難しいかもしれない。「意見」はまず、「中国の特色ある社会主義の発展を堅持する」ことを掲げ、「『2つの百年』という奮闘目標と中華民族の偉大な復興という中国の夢を実現するために強大な思想理論のサポートを提供しなければならない」と強調する。さらに中国が新しい「歴史的起点」にある現在、マルクス主義を中国の哲学および社会科学領域の「指導的地位」にしっかりと据える必要性があると指摘し、中国の特色ある哲学社会科学の学科体系、学術体系、話語体系 [1] およびこれらに関わる人材育成の重要性を提起して、各レベルの党委員会(あるいは党組)にそのための政治指導と政策を強化するよう指示した。
一読した限りでは、国内のイデオロギー統制強化の側面が強く浮かび上がる。しかし筆者の見解では、この「意見」は遠大な外交戦略の礎石としての意義を有する。なぜならば「意見」は、国内だけでなく国際社会に対して自らの政治的特殊性を正当化するための理論武装をし、ひいては国際世論において中国に有利な新しいディスコースを形成することを含意しているからである。本稿では、「意見」が提示された経緯を振り返り、その背景にある習近平政権の情勢認識と、「意見」の目的を考察する。
国際社会における「話語権」問題
中国はかねてより対外的な宣伝活動を活発に行っている。だが、大国としての自信を深めるに伴い、領土問題などで既存の国際ルールや規範に則らない強硬な主張をすることが目立つようになってきた。それは、これまでのルールのもとでは強大化する国力に見合った発言権が得られない、という中国国内の不満と表裏をなしている。こうした国際社会における発言権問題は、中国では2000年代から「話語権」の在り方というトピックとして議論されてきた。本節では「話語権」の議論を軸に、中国でどのように対外的な影響力の増進について検討されてきたかを概観する。
まず、「話語権」が何を意味するかを確認しておこう。一般的な中国語で「話語」は「言葉、話(discourse)」を意味する。しかし中国の対外関係や国際問題をめぐる議論のなかで「話語権」はより積極的に、「自国の議論や言説に含まれる概念、論理、価値観、イデオロギーによって生み出される影響力」 [2] として理解されている。すなわち、「話語権」は言説の内容だけでなく、影響力(power)を含意する点に特徴がある。例えば上海国際問題研究院の元院長である楊潔勉によれば、「外交話語とは国家の文化伝承、イデオロギー、重大な利益を体現するための戦略的方向と政策的措置などの政府筋の基本的立場の表現」であるが、実際には「外交話語」(discourse)本来の意味に加えて「外交話語権利」(discourse right)や「外交話語権力」(discourse power)といった派生的意味を包摂する言葉として理解されている [3] 。
これまでの「話語権」の議論には、2つの潮流がある。1つは国内のイデオロギー問題に関するものである。2013年8月19日の全国宣伝思想工作会議において習近平が「イデオロギー政策の領導権、管理権、話語権をしっかり把握しなければない」と指示したことに表れているように、「話語権」の概念は国内のイデオロギー統制策のなかで「ディスコースをリードする力」という意味で用いられる。しかしより多くの議論は、中国の国際的な影響力を論じることに注力してきた。それは、中国は中国脅威論や人権問題といったディスコースによる批判攻撃にさらされているという現状認識と、そのために国際社会において中国はその実力に見合った「話語権」を獲得できていないという不満に基づいた議論である。さらに、中国がこうした不利な現状に置かれている根本的な原因は、現在の国際社会が西洋の思想に主導されている――これを「西方話語覇権」とも称する――ためであるという理解も共有されてきた。
この「話語権」をめぐる議論は、2013年に大きな転換点を迎えた。11月の中国共産党第18期中央委員会第3回全体会議(三中全会)の決定に「文化開放の水準を高める。政府主導、企業主体、市場の運営、社会の参与(という原則――著者注)を堅持し、対外文化交流を拡大し、国際的な発信能力と 対外話語体系建設を強化 し、中華文化が世界に向かうことを推し進める」(下線は著者)との文言が記載されたのである [4] 。「体系」はシステムを意味することから、語義としての「話語体系」は論理的な整合性のある言説枠組を意味する。実際には特定の事象に対する中国の――その政治的立場に基づいた――包括的かつ構造的な解釈を指すようである。人民日報によれば、「中国の話語体系は本質的に中国の道の理論的表現と話語の表れであり、世界に向けて中国の道がどのようにして成功できたか、およびその世界に対する意義を説明できなければならない」とされる [5] 。したがって、「話語体系」には中国型発展モデルの理論化も含まれると考えられる。
こうした政治方針のもと、2013年に中央宣伝部の主導で全国哲学社会科学話語体系建設協調会議が成立した [6] 。以降、同会議は全国哲学社会科学話語体系建設理論研究討論会を中央党校(2014年10月17日)、中国人民大学(2015年11月14日)、中国浦東幹部学院(2016年10月14日)、青島(2017年5月4日-5日)で4回に渡り開催している。この会議には当初から中央宣伝部、中国社会科学院、中央文献研究室、中央党史研究室、国家行政学院、国務院新聞弁公室、中国外文局などが関わっており、広範な問題認識の共有が図られた。また、この動きと並行して2012年頃から中央は「中国の特色ある新型シンクタンク」建設イニシアティブを実施し [7] 、多大な研究資金を投じて政策研究を推進している。
「話語体系」の検討において着目すべき点は、しばしば人権や民主主義などを含意する普遍的価値への対抗意識が示されることである。たとえば国務院新聞弁公室は「いかなる話語体系も特定のイデオロギーを表現しており、政治的立場がある。多元的な話語体系の衝突とは、実際は多元的な社会思潮の交錯であり政治的立場の衝突である。西側の『普遍的価値』が裏に含む政治的立場はマルクス主義、社会主義と共産党の領導を誹謗するものである」として [8] 、「西側」への反発を露にした。そこには、「普遍的価値」に基づく中国評価は不当に低いという不満と、新しいディスコースを積極的に提示することにより、中国自身の基準で国際世論をリードでしたいという思惑がうかがえる。
習近平の描く青写真
以上の「話語体系」建設の動きを踏まえ、「意見」を見直してみよう。2017年5月末に人民日報は「意見」に関する中国社会科学院院長の王偉光へのインタビュー記事を掲載した。王偉光は「習近平総書記の『5.17』重要講話が中国の特色ある哲学および社会科学の構築を促進するための頂層設計(トップダウンの設計)を作り出し、戦略的目標と任務を提示した。『意見』は中国の特色ある哲学および社会科学の全面的な構築の加速について、明確な要求を提示し、重要な準拠を提供する」と説明した [9] 。すなわち「意見」は、2016年5月17日に開かれた哲学社会科学工作座談会で習近平が発表した重要講話――関係者はこれを「5.17講話」と称する。以下、「5.17講話」――を踏まえて発せられたものであった [10] 。
では、「5.17講話」とはどのようなものか [11] 。哲学社会科学工作座談会は習近平自身が主催し、党と国家の関係部門、中央軍事委員会政治工作部門、各省区市と新疆生産兵団党委員会の宣伝部長、マルクス主義理論研究と建設工程諮詢委員や関連する研究者などの参加のもと、北京で開催された。「5.17講話」で習近平はまず、現代中国における哲学および社会科学の重要性を次のように強調する。「自然科学が発達していない国家は世界のトップになれず、哲学社会科学が繁栄していない国家が世界のトップになれることもない」「人類社会の重大な躍進がある時や人類文明の重大な発展がある時は、必ず哲学社会科学の知識の変革と思想の先導がある」。習近平によれば、西洋の歴史において、古代ギリシアや古代ローマ、ルネッサンス、産業革命、フランス革命、アメリカ独立戦争などの変革期には、優れた文化と思想が社会に重大な影響を与えた。そして中国は世界史的な変動の渦中にある。そのため哲学社会科学の任務は重要性を増している。習近平はそう述べて、居並ぶ関係者に発破をかけたのである。
ここで、習近平が哲学や社会科学の「学科体系、学術体系」――すなわち学校教育と研究――の拡充を唱えるのと並列して、「我が国の哲学社会科学の効果を発揮し、話語体系建設の強化に気を付けなければならない」と、「話語体系建設」を改めて指示した点に留意したい。習近平は「中国の実践を解釈し、中国の理論を構築するうえで、我々は最も発言権があるはずである。しかし実際は我が国の哲学社会科学の国際的な声はやはり比較的小さい。(中略)国際社会が理解し受け入れ易い、新しい概念と範疇と表現を作り出し、国際学術界の研究と討論の展開をリードしなければならない」と、その狙いを述べた。
つまり「5.17講話」の重要なテーマに、中国に関するディスコースを改善するという短期的な目的だけでなく、世界の学術をリードするような新しい概念を創出する、という中長期的な目標があった。それまでの「話語体系」建設の文脈からすれば、その背景には、中国発の哲学や社会科学の論理によって西側の「話語覇権」を後退させる、という戦略的な思考があったと考えられる。
おわりに
「話語体系」の検討の先に提起された「5.17講話」や「意見」の狙いが、哲学および社会科学分野での、国内における学術的な再構築にとどまらないことは自明である。習近平が古代ローマにまで言及しながら政治思想の発展を説いたことからすれば、「話語体系」建設の目的は、国際社会における価値観の新しい基準を中国が時間をかけて提供していくことにある。そして西洋の普遍的価値に代わる価値基準を世界に浸透させることが、遠大な最終目標だと考えられる。
だが、このような「話語体系」の議論に違和感を覚える人も少なくないだろう。政治性の高い「造られた言論空間」から、国際社会に資するような価値規範が本当に生まれるだろうか。既に触れたように、「話語体系」の議論は国際社会における発言権の問題と、国内のイデオロギー問題の双方に関わっている。そのため「話語体系」建設の方法論は国内の世論統制の手法に強く引きずられている。だが中国国内において見られるような、公式見解の押しつけをしたところで、国際社会に歓迎されるはずもない。
しかし、この議論を単なる絵空事と切って捨てるべきではない。現在、混迷する国際社会に対して国際関係学や政治学が新しい説明ツールを必要としていることは事実である。また中国の言動が国際社会に何らかの認識の変化をもたらす可能性もあるだろう。一方で、「話語権」が一種のソフト・パワーであることに鑑みれば、「話語体系」建設は必ずしも中国が独善的な理論武装を進めることを意味しない。なぜなら、「話語権」向上のためにはその「話語(ディスコース)」が国際社会に「受け入れられる」ことが肝要だからである。そのため、中国の「話語」が既存の価値概念の――中国的な表現を用いた――再提起にとどまる可能性もある [12] 。いずれにせよ、習近平が「話語体系」建設の号令をかけた以上、これから何らかの「中国の特色ある」理論枠組みが提示されることになるだろう。中国の「話語体系」が、果たして長い歴史の検証を経ても生き残れる価値基準や理論であるか、それとも単なる中国共産党のプロパガンダであるかを見極めつつ、共有すべき価値観とは何かを中国側と共に議論することが重要であろう。
[1] 「話語体系」とは、論説体系を意味する言葉である。しかし後述するようにディスコースの「影響力」を含意することから、本稿では原文のまま「話語体系」と表記する。
[2] 張志洲(2009)「中国国際話語権的困局与出路」『緑葉』2009年05期、81頁。
[3] 楊潔勉「中国特色大国外交話語権的使命与挑戦」『国際問題研究』2016年5期、24頁。
[4] 「中共中央関于全面深化改革若干重大問題決定(二〇一三年十一月十二日中国共産党第十八届中央委員会第三次全体会議通過)」、中国共産党新聞網、2013年11月16日(cpc.people.com.cn/n/2013/1116/c64094-23561785-11.html)。
[5] 王明初、王增智「人民日報人民要論:不断増強中国話語体系的感召力」、人民網、2016年11月18日(http://opinion.people.com.cn/n1/2016/1118/c1003-28877400.html)。
[6] 弁公室主任には中国社会科学院副院長の李培林が就任した。
[7] 深串徹(2017)「第11章 『中国の特色ある新型シンクタンク』の建設と中国の対外政策」『中国の国内情勢と対外政策』日本国際問題研究所、(http://www2.jiia.or.jp/pdf/research/H28_China/)。
[8] 国務院新聞弁公室「話語体系建構的核心要義与内在―輯」、2016年10月31日http://www.scio.gov.cn/zhzc/10/Document/1514428/1514428.htm。
[9] 「加快構建中国特色哲学社会科学――訪中国社科院院長、党組書記、学部主席団主席王偉」)『人民日報』2017年5月31日(http://paper.people.com.cn/rmrb/html/2017-05/31/nw.D110000renmrb_20170531_2-09.htm)。
[10] 2017年5月に開催された第4回全国哲学社会科学話語体系建設理論研究討論会は「国政運営の新理念新思想新戦略と中国の徳力ある哲学および社会科学話語体系建設―習近平総書記の哲学社会科学工作座談会での講話一周年記念」と銘打っており、この会議を踏まえて「意見」が発表されたと推測される。なお、2017年5月17日は中国社会科学院が創立40周年を迎えた日であった。
[11] 習近平講話の引用は「(授権発布)習近平:在哲学社会科学工作座談会上的講話(全文)」、新華網、2016年5月18日、を参照(http://news.xinhuanet.com/politics/2016-05/18/c_1118891128.htm)。
[12] 例えば習近平は2017年1月にスイスで開催された世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)や5月の「一帯一路」に関する国際会議で保護主義に反対する立場を明言し、「反保護主義」の牽引役という立場をアピールした。従来アメリカが主唱してきた自由主義的な価値を中国が唱道したことは多くの国に歓迎された。この演説により、習近平は中国の「話語権」を相対的に向上させたと評価することができる。