■ 研究報告書「アジア太平洋の地域安全保障アーキテクチャ ―地域安全保障の重層的構造―」(PDF:1.54MB)
「新しいアジアの安全保障構造」プロジェクト は 神保謙東京財団研究員(慶應義塾大学准教授)をリーダーに、阪田恭代(神田外語大学教授)、佐橋亮(神奈川大学准教授)、高橋杉雄(防衛研究所主任研究官)、増田雅之(防衛研究所主任研究官)、湯澤武(法政大学准教授)の6名からなる研究チームによって実施されました。
アーキテクチャは、もともと建築様式(建造物)あるいはコンピューターの基本構造を意味しますが、近年、安全保障分野で使われるようになってきました。日本ではまだなじみの薄い用語ですが、9.11テロ以降、日本を取り巻く安全保障環境が大きく変化する中で、地域安全保障の枠組みを的確に捉えるのに有効な概念として、安全保障分野でも使われるようになりました。
報告書は、各プロジェクトメンバーが担当した6つの章と、そこから得られる政策的意味合いを論じた7項目の提言から成ります。第1章(神保)では、地域安全保障アーキテクチャの概念について、その由来、定義、背景、そして本研究の革新的手法である三層分析法を紹介し、報告書全体のイントロダクションとしての役目を担っています。
戦後のアジアでは、日米、米韓、米豪など、米国との二国間同盟を軸とするハブ・スポーク体制によって地域安全保障秩序を形成してきましたが、21世紀に入ると、同盟のネットワーク化(日米韓、日米豪など)、特定の問題解決、紛争解決のための地域枠組み(六者協議や上海協力機構)、アドホックな協力(テロ対策や海賊対策など問題領域別の協力)など、新たに多様な安全保障の枠組みが出現してきました。
このように安全保障の枠組みが重層的に存在する今日のアジアにおいては、二国間同盟とこれを多国間協力の仕組みが補完するという従来のアプローチは、分析手法としても、望ましい枠組みをデザインする手段としても、有効ではなくなりました。そこで、これら安全保障の枠組みを全体として捉える新たなアプローチとして、アーキテクチャの概念が導入されるようになったのです。
第2章(佐橋)では、このアーキテクチャのアプローチをより有効に機能させるための手法として三層分析法を導入し、これを使ってアジア太平洋における地域安全保障の枠組みの変化を分析します。そこでは、なぜこの地域にこのような重層構造が出現するに至ったか、各層の特徴は何か、相互にどのように関連しているかなどを明らかにします。
三層分析法の第一層は、同盟およびそれを基礎とした安全保障協力関係で、ハブ・スポーク体制、日豪や日印の安全保障協力宣言などがその例です。第二層は必要に応じて形成される機能的協力で、?テロ対策や海賊対策など、安全保障上の能力向上のための協力と、?北朝鮮問題を協議する六者会合など、信頼醸成や問題解決のための対話の場という二つの要素があります。第三層は、東アジア首脳会議、ASEAN+3など全域的な地域制度を指します。
三層分析法から得られる政策的含意は、大量破壊兵器、テロ、感染症、大規模災害などの新たな安全保障上の脅威に対処するには地域の協働が不可欠であり、アジア太平洋地域にとって重要な課題は、台頭する中国とどのような協働の枠組みを作るかということです。中長期的には全域的かつ包括的な制度(第三層)が望ましいのですが、まず問題領域別の枠組み(第二層)を作ることが先決である、というのが現実的な政策対応と言えます。
第3章(高橋)は、アジア太平洋地域の安全保障アーキテクチャ論における同盟の役割について論じます。
同盟が重要なのは、アジア太平洋地域において烈度の高い安全保障上の事態が生じた場合、問題解決のための対処能力を持つのは米軍、すなわち米国との同盟関係だけであり、しかもアジア太平洋の全地域をカバーできるのは日米同盟だからです。そして、日本は一方の当事者として日米同盟のあり方を変えることができる立場にあり、日米同盟のあり方はアジア太平洋の地域安全保障アーキテクチャ構築に大きな影響力を与えることになるのです。
その意味で、近年増加している、テロ、海賊、民族紛争など、有事でも平時でもない中間領域における安全保障上の問題に対処する際、同盟の持つ機動性や情報機能は非常に有用ですから、そのためにも軍事協力を強化することが必要です。また、同盟国およびスポーク間の協力(第一層)と、地域レベルの機能的協力(第二層)との連携を強めていくことも、地域全体としての対処能力を高めるために重要となります。
第4章(阪田)は、アーキテクチャ概念と三層分析法を応用して、北東アジア地域における安全保障協力アーキテクチャの分析と、制度設計の課題について論じています。
北東アジアには第一層として日米、米韓の二つの同盟が存在するほか、北朝鮮問題に対処するために創られた日米韓の協力枠組みがあります。ここでは近年、中国と日米韓との戦略対話あるいは協力関係が、この第一層の同盟関係に影響を及ぼしつつある現状を指摘しています。
また、北東アジアにおける第二層は、六者協議と日中韓三ヶ国協力の枠組みがある一方、第三層にあたる制度は目下のところ存在しません。そこで、今後の制度設計の課題として、六者協議、日中韓協力、日米韓協力との連携の中から、第三層に属する北東アジア協力の制度を作っていくことを提案しています。さらには、東アジアサミット(EAS)やASEAN地域フォーラム(ARF)などと連携することも検討すべきと考えます。
第5章(湯澤)は、アジア太平洋の安全保障アーキテクチャの構成要素として、第三層に属するAPEC(アジア太平洋経済協力会議)、ASEAN地域フォーラム、ASEAN+3、東アジアサミットといった地域制度について、それぞれの目的、役割、他層との関係を論じています。
第三層の地域制度の目的を現行の秩序の維持・強化とするならば、これらの制度は一定の役割を果たしていると評価する一方、そもそも協力の枠組みを目指して創られたASEAN地域フォーラムが対話の枠組みから脱皮できない現実も指摘しています。その主な理由は、同フォーラムが合意の非拘束性や内政不干渉の原則といったASEAN方式を採用している点にあると考えられます。
他層との関係でみれば、これらの地域制度と第二層の機能的協力の間には連携関係が成立しつつある一方、ASEAN地域フォーラムと第一層の二国間同盟との間には競合関係があると指摘します。この競合関係は、中国の急速で不透明な軍事拡大に対して、米国が二国間同盟の強化で応じることから生じる米中間の相互不信に起因しており、この相互不信がASEAN地域フォーラムにおける安全保障協力を困難にしているのです。
政策的観点からみれば、この問題を前進させ、地域安全保障アーキテクチャの構築を図るには、この地域に属する諸国、とりわけ中国が米国を中心とした現行の地域秩序の理念を共有する必要があると考えます。そのためには、中国との間で実務レベルの協力関係を慣習化するとともに、大国間の首脳、閣僚(外相、防衛相)レベルの対話を促進する必要があります。
第6章(増田)は、中国の地域安全保障デザインを上海協力機構(SCO)との関連で論じます。中国にとっては、アジア太平洋地域における安全保障環境に関して、日本や米国、東南アジア諸国と十分に認識を共有しているとは言えないため、米国を中心とする安全保障協力が中国の地域安全保障デザインに盛り込まれる余地は、ほとんどないと言えます。
それは、中国の地域安全保障戦略が新安全保障観に基づいて提起されたことによります。近年、それが協調的な方向へ向いてきたことは事実としても、もともとこの新安全保障観は米国の同盟中心の安保戦略への反駁として提起されたからです。
上海協力機構については、中国がはじめてイニシャティブを取って設立した地域機構で、中国が主導的な役割を果たしています。同機構は、胡錦濤国家主席が打ち出した「和諧世界」の理念に基づき、地政学的バランスを考慮しながら多角的な地域協力と対外交流を推進する組織として構想されました。
上海協力機構は、問題領域別に国際機関との連携を図り、准加盟国としてのオブザーバーを拡大するとともに、対話パートナーの資格により、米国や日本、NATOやEUといった域外主要国との、対外関係の構築を図ろうとしています。
米国主導の枠組みと中国主導の枠組みの間に全面的な連携は望めないにしても、東アジアサミットなど中国が関心を示す第三層の地域制度において、中国主導の枠組みとの連携を図ることは可能であり、米国主導の枠組みに中国を引き込む努力だけでなく、中国が主導する上海協力機構などの枠組みにわれわれがどう関わっていくか、双方向の努力が必要であるということです。
報告書の最後は、日本の安全保障政策に対する7項目の提言です。アジア太平洋の地域安全保障アーキテクチャをデザインする際に鍵となるのは、台頭する中国に対してどのようなアプローチを取るか、ということです。増田論文が指摘するように、米国主導の枠組みに中国を取り込む努力とともに、中国主導の枠組みに日本および米国がどう対処するか、それがアーキテクチャが成功する否かの鍵を握っています。
以上、報告書の全体像を見てきましたが、このプロジェクトの真価が問われるのは、ここで提示されたアーキテクチャ概念によるアプローチが、従来のアプローチでは捉えられない現状分析を可能にするだけでなく、政策面においてどのような具体的提言を生み出せるかにかかっています。次は、この挑戦に挑みたいと考えています。
東京財団 研究員 兼 政策研究プロデューサー 片山正一
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