ゲストスピーカー:ジャン=マルク・クワコウ(ニューヨーク国連本部 国連大学事務所長、同大教授)
・ コメンテーター:北岡伸一 (東京財団主任研究員、東京大学教授)
・ モデレーター:池村俊郎 (読売新聞東京本社調査研究本部 主任研究員)
<3人の略歴はこちらを参照>
公開シンポジウム「日本と国連-より良き未来のために」(東京財団主催、読売新聞社後援)が12月6日、日本財団ビル2F会議室で開催された。2003年のイラク戦争開戦時に露呈した安全保障理事会常任理事国間の分裂は記憶に新しい。また、日本の常任理事国入りの挑戦が頓挫した2005年の安保理改革、最近ではインド洋上における海上自衛隊の給油活動にからんだ国連決議の有効性論議など、国連自身、そしてそれを取り巻く環境は常に揺れ動いている。今回は、5月に『国連の限界/国連の未来』を出版したクワコウ国連大学教授がゲストスピーカーとして登壇。北岡主任研究員とともに、国連が直面してきた課題と将来像について議論した。
講演の中でクワコウ氏は、ブトロスガリ元国連事務総長のスピーチライターを務めた経験と政治哲学者としての見地から、欧米の主要国を中心とした国連加盟国の人権問題への取り組みについて、「狭い国益に固執するあまり、人権保護に対するコミットの仕方が言動不一致になっている」と指摘。その二面性を「ジキル博士」と「ハイド氏」に例え、厳しく非難した。
また、国際社会の現状について、アメリカの一国主義の増長などにより、国際安全保障と国際連帯の間、権力と正当性との間にそれぞれ断絶が生まれていると分析。この二重の断絶を修復しなければ世界秩序の安定はないとし、アメリカ外交政策の改善を強く求めた。
一方、国連政府代表部次席大使の経験を持つ北岡氏は、この60年間で国連が人道・人権問題で非常に大きな役割を果たしたと評価。そのうえで、国民の保護は第一義的にはその政府の責任だが、その政府に問題がある場合には国際社会は介入すべしとの考え方が加盟国間で広まってきていることを紹介した。また、紛争地や貧困の現場で困っている人々の能力を高める「人間の安全保障」の強化が、結局は平和の定着のカギになるとの認識を示した。
シンポジウムは、『国連の限界/国連の未来』の共同翻訳者である池村氏の司会で進められ、会場に集まった約120人の聴衆が熱心に耳を傾けた。
各氏の発言、質疑応答の主な内容は以下の通り。
池村氏の問題提起
「国際的連帯の構築を」・・・クワコウ氏講演から
「1990年代、ブトロスガリ国連事務総長のスピーチライターを務めていたころ、国際社会の人権保護に対するコミットの仕方が、言葉と行動にあまりのギャップがあることに驚いた。当時、人道的な危機がバルカン半島、中央アフリカ、アフリカの角と呼ばれる地域などで発生していた。国際社会の主要な大国は『紛争解決にコミットしており、何百万の人命を救おうとしている』と言っていながら、現実には行動を起こしていなかった。これがこの本(『国連の限界/国連の未来』)を書こうと思った動機だ」
「人権保護に本気で取り組もうとしているかどうかは、PKO(平和維持活動)を見ればいい。1990年初頭から50ほどのPKOが行われてきたと思うが、良くて成功と失敗の入り混じったものであって、成功事例はほとんどなく、大半は失敗だった」
「その理由は何か。一つには、国連が国際組織であるということだ。国連は、安全保障や開発、民主主義という面で国際的な責任を担っているにもかかわらず、それを実施するだけのリソースがない。PKOには1990年代初めから10年間で200億ドルしか費やされていない。アメリカの軍事予算は現在、年間4500億ドル。日本の防衛費は400億ドル、イギリス380億ドル、フランスは360億くらいだ。国連のリソースは余りに少ない」
「国際法の原則は、国家主権と人権が厳守されなくてはならない。だが、現実にはこの原則は両立するのではなく、対立してしまう。バルカン半島やルワンダ、ソマリアで見られた事態がいい例だ。西側諸国は人権保護が必要と主張するが、やはり国益が絡んでくる。人権にコミットしているといっても、やはり主権の重視ということを伝統的に考えてしまう。国益というものを非常に狭くとらえて、それを優先させる。世界市民的な形で人権に介入しようと思っても、制約を受けてしまうのだ」
「主要な民主諸国が人権に関して果たす役割のあいまいさもある。ブトロスガリ事務総長は、加盟国をスティーブソンの小説に出てくる『ジキル博士』と『ハイド氏』」のようだと言っていた。人の命を救い、地域社会のために働いている医者のジキル博士が、夜は殺人者のハイド氏に変る。加盟国も善人と悪人の二重のアイデンティティーを持っているというのだ。国際社会の一員でありながら、結局は一国の主権を選んでしまう。アメリカ、イギリス、フランスは国連を含めた国際制度に財政的、政治的な支援を与え、人道危機にも対応してきた。しかし、人権にコミットしていると言いながら、自分たちの国益を忘れることは決してない。その最たる例はアメリカだ。権利については非常に多く考えるが、自らの義務は少なくする。そして他の加盟国に対しては多くの義務を要求するのだ」
二重の断絶
「こうした状況の中で、国際社会には二重の断絶が生まれている。(国際)安全保障と(国際)連帯との間に、また権力と正当性の間にだ。国際社会の連帯をもとにした安全保障が実現化していない。また、アメリカを見れば分かるように、国際的なレベルで権力を持っている主体があっても、その正当性は低下している。反対に、国連のように一定の正当性を持っていながら、権力が非常に小さい主体もある。この二重の断絶をつなぎ、結びつける必要がある。加盟国、国際社会は行動を起こし、協調して動けるようにしなければならない。非常に重要で取り組まねばならない課題は、キーアクターであり、国際システムを支えているアメリカの外交政策の改善だ。国益と国際的な利益のバランス、見直しが必要だ。アメリカは自らの国益だけを見ている。世界秩序の安定にとってこれは大きな問題だ」
「この本には限界もある。一つは、進歩的な問題について保守的なアプローチをとったことだ。国際的な安全保障、連帯、権力、正当性という問題について、国家以外の世論やNGOなど市民社会の果たす役割も見ていく必要がある。また、西欧の世界観に基づいているという点も限界だ。今後は、問題解決のために、グローバルなレベルでの公共政策をどう進めるかに焦点を当てたい」
「国際社会には介入の義務」・・・北岡氏講演から
「戦前の国際連盟は一定の手続きを踏んで常任理事国を増やすこともでき、脱退することもできた。拒否権もなかった。仕組みとしては、国際連合(国連)よりもデモクラティックだった。だが、国際連盟は実質的に20年しかもたず、64年の平和を維持したのは国際連合のほうだ。今の国連に拒否権がなかったら、アメリカや旧ソ連は何度も脱退し、日本は常任理事国になったかもしれないが、国連自体は解体してしまった可能性もある。皮肉だが、非常に人工的な組織は意外に長持ちしている」
「主要な国々の間で60年以上平和が続いたことは恐らくない。人類史上まれに見るいい時代だ。だが、安全保障を維持したのは国連というよりは、主要国間のバランスだ。国連が大きな役割を果たしたのは、政治でも経済でもなく、人道・人権分野ではないか。60年間に人権意識は大変高まった。そのお陰で、紛争地の問題に非常に関心が高まっている。アフリカでひどいことが起きている時に、放置してはならないという意識が高まっている。しかし、そこに自国の兵士を派遣して、何十人もの犠牲が出ることを覚悟してやるかというと、なかなかそれは難しい。世界的な人権意識の高まりは、遠くへの関心を増やしたが、自らの危険に臆病になるという帰結をもたらした」
「アメリカは圧倒的に強い国だ。軍事力は世界中の他の国のそれを合計してもかなわない。アメリカは1国1票制という国連総会システムには我慢ができないでいる。拒否権を持つ強国と、一方で1国1票という原則があり、それは矛盾を含んでいるが、全体として国連は存続し、国際社会は大混乱なしに今日までやってきた。完璧を望めは、国連は無力だと考えることもできる。しかし、第二次世界大戦より前の時代を考えれば、なかなか良くやっていると考えるのも可能だ。ただし、改善が進むのならというのが条件だが」
人間の安全保障
「2005年9月に国連創設60周年を記念した首脳会談が開かれ、様々な改革が実現した。会談で合意された中で指摘したいコンセプトの一つは、R to P (Responsibility to Protect)というものだ。国民の保護は第一義的にはその政府の責任だが、その政府が無能であったり、邪悪であったりした場合は、国際社会は介入する義務があるという考え方が、さまざまな条件付きながら受け入れられた」
「もう一つは、日本が10年くらい主張しているヒューマン・セキュリティー(人間の安全保障)という概念の尊重だ。紛争や貧困の現場で困っている人をエンパワーメントし、健康で、ある程度の知識を持って働けるようにする。それによって、次第に経済発展が起こり、紛争を克服し、平和が定着する。日本はかつてそういうアプローチで発展してきた。将来的にはモデルになるべきものだ」
「安保理の中にも民主的でない国がある。R to Pはロシアや中国には適用できない。内政不干渉という原則もある。スーダンへのPKO派遣は中国の影響力のために、なかなか決まらなかった。そういうところで声をあげるのはNGOだ。NGOが声をあげ、その連携でハリウッドのスターが声を上げる。するとその国は国際的に恥ずかしいことはできないというふうになってくる。国際社会が長い目で、息の長いアプローチをしていくことだ。私は悲観していない。むしろ、良い方向に向かっているのではないか。同時に、外からの介入だけでは物事は解決しない。現地の人々が立ち上がることがカギだ。ヒューマン・セキュリティーのようなアプローチを国連の中に持ち込むことはとてもいいことだ」
「安保理分裂に関しては、一極スーパーパワーのアメリカはすばらしい国だが、やり過ぎることが頻繁にある。そういう時に、力があって民主的なパワフル・デモクラシーズが連帯して、アメリカを説得するなり、諌めるなり、あるいは必要な時にはサポートすることが必要だ。常任理事国拡大を目指す安保理改革論議の際、フランスはあたかもG4の一員のように日本をサポートしてくれたし、イギリスも公然と賛成してくれた。それは、こうした考え方が根っこにあったからだ」
質疑応答
クワコウ氏 「期待したいところだが、可能性としては近い将来にはありえないのではないか」
北岡氏 「我々は安保理改革運動をして失敗しても、失うものは何もない。差別されている、おかしいと言い続けていればいいのであって、モメンタムが起こった時に、一挙に飲み易い案にして投票にいけばいい。ただ、幸運の女神が訪れる時に、その幸運を手に入れるのは手にいれる準備をしている人だけだ」
――コソボ紛争でのNATO(北大西洋条約機構)の介入は政治的妥当性があったのか。また、ロシアや中国が力をつけてくる状況では、国連ではなく、民主主義諸国で集まって新しい国際機関をつくることこそが、政治的妥当性や民主主義、国際社会正義などにコミットした解決策ではないのか。
クワコウ氏 「民主主義国家は平和にコミットしているというが、私はそれを信じていない。民主主義国家は非常に暴力的であり、好戦的だ。コソボ紛争に関しては、(軍事介入の)手順が価値観に一致しているかを考えなければいけない」
北岡氏 「コソボのケースについては、合法性と政治的妥当性を区別すべきだ。軍事介入には十分な合法性はなかったが、政治的妥当性はあった。合法性には徐々にエボリューション(進化)がある。コソボの経験は『R to P』などの中で、その方向が国連に取り入れられつつある。デモクラシーの連帯で新たな国際機関をつくるというのは、基本的に賛成ではない。権力には常に一定の限界があるからだ。限界を超えた行動はミッショナリー(伝道)になる。危険だ」
――1990年代前半は、国連に関するあらゆる新たな問題が出現し、解決策を示さねばならなかった。ブトロスガリ事務総長は賛成と反対が半ばする人物だが、そういう時代には、彼のような反対も多い人格の事務総長が必要だったのではないか。
クワコウ氏 「ブトロスガリ氏は非常に賢く、将来のロードマップ、 何をすべきか、何ができるかということが頭に入っていた。しかし、人間となるとそうでもなかった。コフィ・アナン氏は、非常に安心感を与える人だったが、ガリ氏のようにロードマップを持っていなかった。事務総長としては、頭が切れ、柔軟性があり、知的なロードマップを持っていて、しかも人としての温かみが必要だ」
――現代では、主権を乗り越えて、介入という形で他国の様々な問題を解決するという流れが進んでいる。政治的正当性を国連が大きな使命にするという潮流は変らないだろう。だが、例えばアフガニスタンへのNATOの派兵のように、それはコストの面で非常に問題が出てくると思うが。
クワコウ氏 「コストといっても、グローバルな安全を国連を通じて確保するという重要性を考えれば、それほど大きなものだとは思わない。ただ、国連は官僚的な機能も持つ組織だから、資源の効率的な配分ということについては、どうしてもうまくいかないところはある」
北岡氏 「力の限界を自覚するのが保守主義だ。何かパッションにかられて、崇高な理想に向かって走り出して続かないというのはよくない。物事をインポーズする(押し付ける)には限界があるということを知るべきだ。国連も金集めを民間企業とか、セレブリティーを使ったりと、いろいろやっている。それは一部は健全なことだ。だが、本体予算の3倍の資金をPKOは必要としており、このまま量的拡大は続かない。国連以外のODA(政府開発援助)もあるし、いろいろな意味で先進国は支援をもっと増やすべきだ」
クワコウ氏 「国連というのは、非常にロマンチックな理想的なアイデアだ。文化も伝統も違う国、あらゆる種類の地域・国々の人たちが一堂に介すというロマンスだ。国連に対する支持というのは、結局は政治を超えて、情感、情動によるものだ。いかにこのロマンス、つまり感情面での支援を維持するかということだ」
(報告 相原清)