※本稿は、2021年1月20日に開催されたポピュリズム国際歴史比較研究会の第八回会合で報告した内容の一部である。
岩坂将充(北海学園大学)
・はじめに ・「民主化」の進展 ・民主主義の後退 ・権力集中への反発 ・おわりに |
はじめに
トルコでは、2002年11月議会選挙での勝利以降2021年2月現在にいたるまで、エルドアン(Recep Tayyip Erdoğan)の強いリーダーシップのもと公正発展党(AKP)が政権を担当し続けている。エルドアンは2003年3月から2014年8月まで首相、2014年8月以降は大統領を務めており、この約20年間トルコ政治にさまざまな変化をもたらしてきた。エルドアン・AKP政権は、初期には「民主化」を推進し2005年にはEU加盟交渉を開始するなど、民主主義の進展に大きく貢献をした。しかし、2010年代から少しずつこの傾向に変化が見られはじめ、2013年6月頃に生じた大規模な反政府抗議運動とそれへの対応を機に、民主主義の後退や権威主義化が指摘されるようになった。そして、2016年7月のクーデタ未遂事件以降は、クーデタ関係者とみられる人物らの追放をはじめ、市民に対しても抑圧的な状況が継続しており、2018年6月からは議院内閣制から大統領制に移行するなどエルドアンへの権力集中も生じている。こうした状況は、フリーダム・ハウス(Freedom House)では「自由ではない(Not Free)」に分類され、事実上権威主義体制とみなされるに至っている[1]。
そこで本稿では、エルドアン・AKP政権期の民主主義の進展と後退、そして今後について、政権の提示する対立軸の変化から考察していきたい。
「民主化」の進展
AKPは、1996年に親イスラーム政党として初めて議会第一党となり翌年に連立政権の首班となった福祉党(RP)の系譜にある。RPは、軍をはじめとした「国是」世俗主義を擁護する勢力(「世俗主義体制」)にその親イスラーム的な言動が問題視され、1997年2月に連立政権の総辞職を強いられたうえ憲法裁判所の命令で解党されたが、その後継政党である美徳党(FP)が同様に解党閉鎖された際に「改革派」の若手が中心となって結党されたのがAKPである。そしてそこに結党メンバーとして参加した一人が、1994年からイスタンブル広域市長を務めたエルドアンである[2]。
エルドアンら「改革派」が設立したAKPは、従来の親イスラーム政党とは異なり、「保守民主」を掲げ中道右派政党としてふるまった。また、RPやFPのような直接的な親イスラーム的な言動・主張はおこなわず、EU加盟にも賛成した。こうした現実主義的なAKPの路線や、既存政党の汚職といった問題もあり、初参加となった2002年11月議会選挙でAKPは圧勝(550議席中363議席)、単独政権を樹立した。
エルドアン・AKP政権は、前政権がEU加盟のため着手した「民主化」改革を受け継ぎこれを推進したが、それは、軍を中心とした非民選の「世俗主義体制」に支配されている「国家」を「国民」の手に取り戻していく過程でもあった。具体的には、軍の政治的影響力の減退を制度面・思想面から実現し、政治の文民化(civilianization)を達成したのである。2007年4月にはAKP大統領候補(当時は議会選出)をめぐって軍が介入警告を発したが、軍と同じく世俗主義を掲げる有力市民団体がAKP大統領候補への反対と同時に軍の介入にも反対姿勢を鮮明に打ち出すなど、世論も政治の文民化を後押しした。結局、同年にはAKP候補であったギュル(Abdullah Gül)が大統領に選出され、その後国民投票によって、次期大統領選挙より大統領は国民選出となった[3]。
このように、エルドアン・AKP政権の初期には、「世俗主義体制(国家)」対「国民」という対立軸が提示され、こうした構図によって「民主化」が進められていったのである。
民主主義の後退
2007年7月・2011年6月議会選挙でもAKPは過半数を獲得し、単独政権を維持した。しかしこの頃から、エルドアンへの権力集中が制度内外でみられるようになった。
2013年の反政府抗議運動では、ギュル大統領を含むAKP幹部が対話路線を進めようとしたのに対し、外遊から帰国したエルドアンは妥協の余地なしとして抗議運動の鎮圧に乗り出した。ここでは、エルドアンから選挙結果のみにもとづく政治、すなわち選挙至上主義的・多数派主義的発言がみられ、同時にAKP党内でもエルドアンに意見することが難しい状況が出来上がっていった[4]。同年末の政権およびその関係者への汚職捜査では、エルドアンらは、宗教・社会運動である「ギュレン運動」が捜査を通じて政権を攻撃していると非難、「ギュレン運動」をテロ組織とみなして対決するとともに司法(「世俗主義体制」の一部とみなされていた)の改革の必要性を訴え、「テロ」対「国民」という対立軸をあらたに重ねるようになった。エルドアンのこうした姿勢は、強いリーダーとしての印象をさらに強化し、2014年8月大統領選挙でエルドアンはトルコで初めての国民選出による大統領への当選を果たした。しかし、トルコの執政制度は依然として議院内閣制であったため、国民選出という正統性を得たもののエルドアンの権限は制限されており、政権としては早期の大統領制への移行が最大の政治目標となっていった。
ところが、2015年6月議会選挙ではAKPは議会第一党の座は維持したものの初の過半数割れを喫し、大統領制移行のための改憲が望めない状況となった。改憲のためにさらなる議席の獲得が必須であったエルドアン・AKP政権は、連立交渉の不調を受けて決まった同年11月議会選挙でトルコ民族主義に接近する戦略をとったことで過半数を再獲得することに成功したが、それでも改憲のためには他党との協力が不可欠な議席数にとどまった。
ここで見られたエルドアン・AKP政権のトルコ民族主義への傾斜は、国内少数民族であるクルド人の勢力との対決姿勢を強めていくこととなった。クルド系政党である人民民主党(HDP)はもとより、長年クルド人地域の分離独立(のちに自治)を要求し武装闘争を続けていた「テロ組織」クルディスタン労働者党(PKK)に対しては、この頃から圧力を強めていった。
さらに、2016年7月に生じたクーデタ未遂事件は、このような「テロ」対「国民」の対立軸をより強化することとなった。このクーデタ未遂事件は政権によって「テロ組織」である「ギュレン運動」が背後にあったと断定されたが、運動に関係していたと「思われる」さまざまな人々が追放・失職・逮捕の対象となり、トルコ社会全体に抑圧的な状況が発生した。そしてその過程で、トルコ民族主義を掲げる民族主義者行動党(MHP)が、治安回復や社会安定のためという名目で大統領制移行に向けてAKPと協調するようになった。これによってエルドアン・AKP政権はMHPと合同で改憲に向けた動きを進めることができるようになり、2017年4月には国民投票を実施、過半数の賛成によって次期大統領選挙・議会選挙(同時開催)から大統領制に移行することが決定した。
権力集中への反発
2017年4月改憲国民投票の頃から、大統領制移行の賛否は、大統領になる可能性がもっとも高いエルドアンへの権力集中の賛否と重なるようになっていった。そのため、対立軸は野党の提示する「反エルドアン」対「親エルドアン」へと次第に推移したが、これは必ずしも「反AKP」対「親AKP」と一致するものではなかった。つまり、政治的リーダーとしてのエルドアンへの支持と政党であるAKPへの支持とのあいだに、乖離が生じはじめたのである。
2018年6月大統領選挙・議会選挙では、まず大統領選挙でエルドアンが当選を果たし、大統領制のもとでの最初の大統領となった。一方の議会選挙では、またしてもAKPは過半数を獲得できず(議会第一党は維持)、MHPの協力関係が継続することとなった。大統領制のもとで、エルドアンは大統領令の発布や予算案の提出など大きな権限を手にすることになったが、議会運営は必ずしも盤石であるとはいえない状況になった。
こうしたなか、2019年3月統一地方選挙では、最大都市・イスタンブルと首都・アンカラで野党第一党・共和人民党(CHP)の候補が広域市長に当選した。とくに、元首相であるユルドゥルム(Binali Yıldırım)がAKP候補として出馬していたイスタンブルでは、CHP候補が僅差で勝利したのちにAKPの異議申し立てによって再選挙がおこなわれたが、再選挙ではCHP候補がさらに差を広げて勝利するなど、AKPの政党としての人気の陰りが顕著なものとなった。
また2020年になると、首相や外相経験者といったAKPの元幹部が結成した新党が、現在のエルドアン・AKP政権の在り方に痛烈に批判をくわえるようになった。これらの新党は、CHPなど野党と連携し議院内閣制への回帰を訴えており、政治的リーダーとしてのエルドアンの力を認めつつも現状に不満を持つ有権者のあいだで支持を拡大しつつある。こうした点において、エルドアンとAKP(あるいは執政制度)への支持の乖離は、「エルドアン後」をにらみつつ、今後のトルコ政治を左右するものであるといえるだろう。
おわりに
2002年11月議会選挙からトルコ政治を率いてきたエルドアン・AKP政権は、当初「世俗主義体制(国家)」対「国民」、そして「テロ」対「国民」といった対立軸を掲げ、常に「国民の側」であることを主張し支持を獲得してきた。ここでは、「国民の敵」が想定された政権運営がおこなわれていたといえる[5]。しかし、近年みられる民主主義の後退状況、とりわけ大統領制への移行をめぐる状況において、「反エルドアン」対「親エルドアン」といった対立軸が野党側から提示されるにいたり、政権は「国民の側」としての立場を思うように強調できていない。
このような状況においては、「国民の側」を容易に演出できるものとして、テロに対する旗下集結効果とともに、トルコ民族主義のアピールが挙げられる。MHPとの協力関係はこの点においても有益であるが、AKPが過半数を得られていない現状では野党など反対勢力に抑圧的な態度でのぞむことが今後増加すると予想される。
事実上、エルドアン以外の政治的リーダーが選択肢にないなか、エルドアン・AKP政権が有権者(国民)とのあいだにどのような関係を築いていくのか、そして新党をふくめ野党がエルドアンとAKPとのあいだの支持の「乖離」をどのように利用するのか、トルコの民主主義の進展と後退を考察するには今後も対立軸への注目が必要である。
[1] Freedom House, Freedom in the World Comparative and Historical Data: Country and Territory Ratings and Statuses, 1973-2020 (2020).
[2] RP連立政権や結党期のAKPについては、澤江史子『現代トルコの民主政治とイスラーム』、ナカニシヤ出版、2005年、を参照。
[3] 岩坂将充「EU加盟プロセスにおけるトルコの政軍関係―軍による民主化改革の受容とアタテュルク主義」『上智ヨーロッパ研究』第1号、2008年。
[4] 岩坂将充「トルコ政治の現状と『民主化』の行方―2013年反政府抗議運動の分析から」『中東研究』第518号、2013年。
[5] エルドアンが演説等で使用する語句が、「国民の側」「国民の敵」の創出に果たす役割は大きい。間寧「トルコ―エルドアンのネオポピュリズム」、村上勇介編『「ポピュリズム」の政治学―深まる政治社会の亀裂と権威主義化』国際書院、2018年。