中山俊宏 慶応義塾大学総合政策学部教授
これまで毎年リアルタイムで見てきたオバマ大統領の一般教書演説だが、最後のそれはそうすることができず、帰宅途中の電車の中でヘッドホンを耳にあて、iPadで見た。一般教書演説は、「達成事項」と「課題事項」を列挙するような演説になる場合が多く、あまり印象に残ることはない。例外的に記憶に残っているのは2002年のブッシュ大統領による一般教書演説くらいだろうか。この演説は「悪の枢軸」演説として、国際政治史上にも刻印を残すことになる稀な例だ。
各省庁は「重要アジェンダ」を少しでも長く言及してもらおうと奔走する。それゆえ「項目リスト」演説のようになってしまうわけだが、そうであるがゆえに演説は「デリバー」されたその瞬間に人々の記憶から消えていく。
一般教書演説がそもそもそういう性質の演説であること、さらにオバマ大統領にとっては最後の演説であることもあり、期待値が高いとは決していえなかった。来年は、新たに選出された大統領が一般教書演説というかたちではなく、上下両院合同演説というかたちで、事実上の一般教書演説を行うことになる。もう時代は、感覚的には「オバマ後」の時代に移行し始めている。そんなこともあり、テレビやパソコンの前で、ペンを片手にメモをとりながら見るという気にはならなかった。
しかし、帰宅途中のiPadの小さなスクリーンでみた下院本会議場のオバマは、予想外に強い印象を残した。それは、改めてオバマが演説の名手であることを思い起こさせる演説でもあった。具体的な中味があったというわけではない。おそらく「名演説」として記憶されることもないだろう。もう、アメリカの政治的文脈が「オバマ時代」の終焉に向けて動いているなかで、人々の記憶に残る演説を行うことは難しい。
しかし、ヘッドホンを介して耳に入ってくるオバマの声は、2004年夏の民主党全国大会におけるオバマの事実上の「デビュー演説」、あの「ザ・スピーチ」と評される演説を思い起こさせるものだった。抑制が効きつつも、力強く方向性を示すようなあのオバマの声は、帰宅途中の電車の中の空間を、一気に下院本会議場に変えてしまった。オバマ支持者の多くは、自分が8年前になぜこの人を支持したのかを思い返していたことだろう。そうでない人たちは、なぜこの人から、いまさらアメリカン・デモクラシーについての講義を受けなければいけないのかと不満を感じたに違いない。
それはまったく非典型的な一般教書演説だった。それは「政策リスト」演説ではまったくなく、あたかも選挙演説のようだったともいえる。一般教書演説(ステート・オブ・ザ・ユニオン・スピーチ)にはお決まりのパターンがある。この演説は、「国の状態(ステート・オブ・ザ・ユニオン)」を、国民の代表者たる政治家たちを介して、国民に報告することがそもそもの目的の演説である(かつては演説ではなく、文書で行われていた)。であるからして、演説の前半部分で、自らの政策的成果を列挙しながら、「いま合衆国の状態は極めて力強い(”the state of the union is strong”)」と語ることが、お決まりのパターンになっている。このフレーズを聞いて、人々ははじめて「あー、一般教書演説だな」と実感することができる。
しかし、今回の演説でオバマ大統領はなかなかこのフレーズを口にしなかった。演説途中から、明らかにいつものパターンではないなと多くの人は気がついていたことだろう。演説も明らかに終盤にさしかかり、小さな日々の努力を積み重ねていくアメリカ国民一人一人の姿や生活を、小さな物語を語るように並べていくなかで、オバマ大統領は次第に語気を強めていった。そして、そういうアメリカ国民一人一人を信頼しているがゆえに、「私はいまだかつてないほど自信をもって報告することができる、いま合衆国の状態は極めて力強いと」と語り、演説を締め括った。
なぜ、オバマ大統領は、こうしたカタチをとったのか。今回の一般教書演説は、なんらかの危機が発生した場合を除けば、アメリカ国民がオバマ大統領の声に集合的に耳を傾ける最後の機会になるだろう。それもあって、ある種の締めくくり的な意味合い込めたのかもしれない。オバマ大統領は、アメリカ政治を強く拘束している政治的分断を自身が乗り越えることができなかったことを率直に認め、それをアメリカが引き続き取り組んでいかなければならない重い課題として提示した。オバマ大統領が、アメリカを統合することを最大の政治的な野心として掲げた人物だったことを思い起こせば、それはある種の「敗北宣言」でもあった。
しかし、この演説の背景には、はっきりといま進行中の大統領選挙がつくりだしている雰囲気、もっと端的にいえば、ドナルド・トランプ候補が挑発し、刺激し、煽りつづける、アメリカ社会の根底で蠢いているあらゆる種類の「負のエネルギー」、あの「トランプ現象」を成り立たせている「異質な者への違和感と不信感」、「変化することへの恐怖感」をこれ以上、蔓延させてはならないという意識がはっきりと見てとれた。
共和党側では、「没落の管理人」たるオバマ大統領の下で、アメリカはその地位を自ら放棄し、衰退の一途を辿っていることが挑発的に語られる。さらに、その弱さゆえにアメリカはもはや畏れられる存在ではなく、軽んじられ、アメリカ国民を脅かす脅威に対しても立ち向かうことができなくなっている。そして、「異質なものへの過剰な配慮」ゆえに、本来、糾弾すべきものを糾弾できていない。さらに、国内的には、オバマ政権のもとで連邦政府が肥大化し、アメリカは次第に「社会主義的な」方向に向かいつつあると告発される。こういうものを全て取っ払おうというのが、いわば「トランプ主義(Trumpism)」だ。トランプ主義は、トランプ以外の候補者にも明らかに伝染しはじめている。
今回の一般教書演説で、「トランプ」という名前そのものは一度も登場はしなかった。しかし、演説の後半部分は、明らかにトランプ主義を退けようとするものだった。トランプ主義が、アメリカ社会に漂う「黒い不信感」をエネルギーにしている現象だとすると、どうにかそれを「希望」と「楽観主義」の言葉で押し返さなければならない。今回の一般教書演説が、あたかも「選挙演説」のように聞こえ、これまでとはかなり違う構成の演説だったのは、こうした問題意識があったからだろう。
ただし、「選挙演説」とはいっても、単純に民主党の側を応援するような演説でなかったのも事実だ(オバマ大統領自身は、民主党の候補の中で誰を支持するかは明らかにしていない)。それは、特定の候補や政党を応援するというよりかは、アメリカ自身の「よき部分」を応援する演説だった。実際にこの演説でトランプ現象を封印できるかといえば、それはとても無理だろう。ただ、この演説を小さなiPadの画面で見ていて、印象に残ったもう一つの点は、演説が行われている最中、ほとんど微動だにしなかった共和党のポール・ライアン下院議長が、オバマ大統領が事実上のトランプ批判をした箇所で、手を叩いたことだ。演説が行われている最中、下院議長は上院議長を兼務する副大統領とともに、大統領のすぐ後ろに座っている。その一挙一動が、大統領の姿とともに、画面に映し出されている。ライアン議長の小さな動きは、かなりはっきりした意思表明であったと見るべきだろう。
また大統領の演説が終わった後、非政権党が反論を行うことが慣例になっているが、今回共和党がメッセージの担い手として選んだのはインド系アメリカ人のニッキー・ヘイリー・サウスカロライナ州知事だった。誰が最終的に共和党の大統領候補になるかにもよるが、副大統領候補の一人と目されているライジング・スターの一人だ。「共和党のオバマ」と評されることもある。このヘイリーもかなり明示的に「トランプ的なるもの」への批判を行った。
いま共和党は、トランプ支持者を疎外することなくトランプを退ける方法があるかを模索している。人によっては、トランプの背後に控え、トランプの失速の間隙を縫って台頭を目論んでいるテッド・クルーズ・テキサス州上院議員の方が危険なトランプ主義者だという批判もある。トランプはイデオロギー的信念などまったくない単なる機会主義者だが、クルーズはイデオロギー的確信者だというのが論拠だ。クルーズは、アイオワ州の世論調査ではかなり善戦している(最新の調査ではトランプに次いで二位だが、ここひと月ばかりは一位だった)。
いずれにせよ、共和党内において、トランプ主義者が数多くいる候補の中の一人である限りにおいては、批判を行うことはできるだろう。しかし、そうではなくなった時、共和党の側からトランプ主義に対する批判の声があげられるのか。共和党に残された時間はそう多くはない。